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深淵の印  作者: らっすん
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第三章 印の使用


 戦闘は八日後に来た。


 敵の前進が報告された。

 塹壕の縁で戦闘が開始される。


 フリードリヒの部隊は第一塹壕の防衛を担当した。

 射撃と爆発の中で敵の接近を阻む。


 雨が続いている。視界が狭い。

 泥と硝煙で、味方と敵の区別がつかない。見えるのは敵の制服の色だけ。その色も泥に覆われている。


 見ることそのものがコストになる。

 見るのに見えない戦場。それが塹壕戦だった。


 爆発の音が続く。


 フリードリヒは塹壕の縁で射撃を続けた。

 敵の接近速度を音と視界の変化で判断する。


 判断とは反応を決めること。

 撃つか、伏せるか、撤退するか。

 その反応が正しかったかどうかは、生き延びた後に分かる。


「敵、右翼から接近!」


 カルナーの声が飛んだ。


「距離は!」

「五十メートル!」

「撃て!」


 一斉射撃。

 だが敵は止まらない。


「くそ、近すぎる!」

「第二波が来るぞ!」


 その時、戦闘の中にハルメアスが出た。


 副官として、第一線の塹壕に。

 王子が前線に出ることは危険だ。

 だが部隊の全員が理解している。必要だと。


 印の力で戦闘を変えるために。


「殿下!」


 バウマンが叫んだ。


「下がってください!」

「問題ない」


 ハルメアスは静かに言った。


 王子は塹壕の縁に立った。


 フリードリヒはその瞬間を見た。


 王子の身体から、青白い光が放たれる。

 光ではない。視線のような何かだ。


 見えない視線が敵の方向に伸びる。

 その先にある敵兵の身体に、何かが入る。


 印の力。

 ハルメアスの意識が相手の精神に流し込まれる。


 人間の精神には印が入る空間がある。

 印を持たない者にも、その空間は存在する。

 印持ちはそこに自分の精神を流し込み、相手の精神を変える。


 変えるとは、発狂させることだ。


 最初の一人が動きを止めた。


 小銃を持ったまま、突然動かなくなる。

 次の瞬間、その小銃を自分の頭に向けた。


 引き金を引いた。


 自殺。

 自分の精神に自分の存在が見えるようになる。見えるものが自己消滅を促す。


「何だ、あれは……」


 カルナーが呟いた。


 二人目が走り始めた。

 敵の方向ではなく、味方の方向へ。


 小銃を捨て、両腕を頭に抱えて走る。

 印の力で見えるものが無限になった。

 無限の中を生き延びるのは不可能だ。

 逃げるしかない。


 走る先には別の敵兵がいた。

 その敵兵は混乱した。動作がおかしくなる。


 印の波が伝わっていく。

 印の力は一人に入るだけでなく、周囲に伝染する。


 三人目が声を出した。


 人間の声ではなかった。

 喉から出る音に言葉の構造がない。

 ただ絶望という質の音が出ている。


 その声を聞いた周囲の敵兵も、動作がおかしくなった。

 印の波がさらに伝わる。


 絶望が周囲に伝染する。

 印の暴走が一つの身体から複数の身体へ拡散する。


「……百名以上だ」


 バウマンが低く言った。


「百名が、発狂している」


 印の力で、百名の敵兵が無効化された。

 味方の損失はゼロ。

 戦線の防衛は完了した。


 無効化。

 人間が戦闘の障害物になる。

 それが戦果だった。


 戦闘が終わった後、塹壕の縁に立ったままのハルメアスを、フリードリヒは見た。


 王子の顔には何もない。


 喜びもない。疲れもない。戦闘の興奮もない。

 印の力を使った後、身体に微かな発光の痕跡が残っている。

 だがそれは次の瞬間には消えた。


 ハルメアスの印はレベル一。

 印の段階の最初の段階。

 この段階では身体への負担は最小限だ。


 印が身体の一部になっている。


「殿下」


 フリードリヒは声をかけた。


「……報告書を書く」


 ハルメアスは静かに言った。


「塹壕に戻れ」


 王子は塹壕の中に戻った。


 百名を無効化した。

 その事実が報告書になる。数字になる。戦果になる。


 その夜、ハルメアスは悪夢を見た。


 フリードリヒには直接は分からない。

 だが翌朝、王子の目に何か変わった色があった。


 昨日と同じ青灰色。

 だがその中に、遠い焦点のさらに遠くに何かが入っている。

 遠いものが二重になった目の色。見るものが多いことを示している。


 印の使用後に遠い声が来る。

 それは印持ちの中で「印の覚醒の兆候」と呼ばれる。


 印の中にある他の存在の声。

 「あなたこそ選ばれし者」という意味を、言葉ではなく直接伝える声。


 他の存在とは、印の深い場所にある何かだ。

 それが何なのか、印持ちの中でも分かっていない。


 分かっていないものと共に生きている。

 それが印持ちの最も冷たい真実だった。


 ハルメアスは今夜、初めて明確にその声を聞いた。


 印を刻まれた十六歳の夜にも遠くから聞いていた。

 しかし今夜は近い。

 印の使用で印が深くなった。

 印が深くなるほど、声も近くなる。


 声を封じた。


 朝になると報告書を書く。

 副官としての仕事を続ける。

 兄の命令に従う。


 しかし封じたものは消えていない。

 塹壕の泥の中にある腕のように。

 少しずつ洗われて、少しずつ見える形になっていく。

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