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深淵の印  作者: らっすん
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第二章 勝利の王子

 朝になった。

 ハルメアスは将校室で報告書を読んでいた。


 将校室とは名ばかりだ。

 土の天井に木の壁を組んだ横穴。小さなランプが書類の上で揺れている。


 ハルメアスの姿勢は真っ直ぐだ。

 泥まみれの椅子の上でも、疲れを見せない。身体の動きに訓練の痕跡がある。王族としての年数の分だけ。


 この狭い泥の穴と、訓練された動き。

 その不和が、戦場にいる王族という存在の歪みを示していた。


「フリードリヒ・ヘルツ」


 フリードリヒが呼ばれて入った。

 王子は視線を上げた。


 制服の袖に雨の痕跡が残っている。昨夜の雨だ。

 袖の下の腕は、今朝、手袋に覆われていた。


 印を隠している。

 帝国軍では印の存在は非公式だ。印持ちは印を見せないよう訓練される。


 だが今朝の手袋には、それ以上の何かがある気がした。

 隠すことには二つの方向がある。他者に見せないこと。自分に見せないこと。

 王子の手袋がどちらなのか、フリードリヒには分からなかった。


「昨夜の巡回の報告を」

「はい。敵の動きは——」

「敵の動きではない」


 ハルメアスは遮った。

 声は穏やかだが、命令がある。


「今日の補給の状況を報告しろ」

「……はい」


 フリードリヒは淡々と報告した。


「補給は三日遅れています」

「理由は」

「昨週の爆撃で主要補給路が断たれました」

「開通の見込みは」

「最低でも二日かかります」

「食糧の残りは」

「四日分です」

「水は」

「三日分」


 ハルメアスは何も言わなかった。

 ただ黙って聞いていた。


 すべて既に司令にも報告されている。

 だが副官の仕事は、王子の前でもう一度述べることだ。王子が判断するための再確認。


「……以上です」


 報告が終わると、王子は視線を書類に戻した。


 去れとは言わない。

 ただ視線を落とす。


 フリードリヒは自分の存在が消されたことを理解した。

 将校の注意がある時とない時。その差が身体に伝わる。


 フリードリヒは静かに部屋を出た。


ーーー


 その日の午後、第一王子が到着した。


 ジュリアノス・フォン・アルデンハイム。二十八歳。

 塹壕の入り口に立った姿は、弟とは異なる威圧を放っていた。


 身長はハルメアスと同じ。だが肩幅がある。

 戦場で鍛えられた身体。制服が身体に密着している。

 制服には複数の勲章。その中にハルメアスと同じ印の戦功勲章がある。


 兄と弟、両方が同じ勲章を持っている。

 それは印持ちの王族という、帝国の中にある別の支配を示していた。


 フリードリヒが第一王子を見るのは初めてだった。

 噂の「勝利の王子」と実物の間には、奇妙な落差がある。


 顔立ちは整っている。端正で、若い。

 だが目の色が冷たい。


 灰色の目。弟と同じ色。

 だが光の質が違う。


 ハルメアスの目には遠い焦点がある。

 ジュリアノスの目は近い。近くて、鋭い。


 見る目だ。

 対象を見ることに遠慮がない。


 その視線がフリードリヒに向けられた。


「お前が副官か」


 低い声だった。


「……はい」

「名は」

「フリードリヒ・ヘルツ。一等上等兵です」

「一等上等兵が副官を」

「……はい」

「ハルメアスの指名か」

「……分かりません」


 見られている。

 対象になっている。

 身体に何かが変わる感覚がある。


 ジュリアノスは何も言わなかった。

 視線がフリードリヒを通り過ぎ、塹壕の奥へ向かった。


「案内しろ」

「……はい」


 フリードリヒは将校室へ案内した。


 ジュリアノスは中に入った。

 ハルメアスは座ったままだった。立ち上がらない。


「よく来られました」


 ハルメアスは静かに言った。


「問題はないか」

「問題はありません」

「補給は三日遅れていると聞いた」

「開通すれば問題ありません」

「開通しなければ」

「……その時は考えます」


 ジュリアノスは弟の報告書を手に取った。

 ざっと目を通す。


「印の力は使っているか」


 短い沈黙。


「……必要に応じて」

「隠しているのか」

「隠してはいません」

「手袋をしている」

「……戦場では、そう訓練されています」


 ジュリアノスは報告書を置いた。


「良い」


 その一言だけ。


 良い。

 許可なのか。確認なのか。評価なのか。


 フリードリヒには分からなかった。

 この戦場で、分かる能力は減っていた。


「では、私は見回りに出ます」


 ハルメアスは立ち上がった。


「一人でか」

「はい」

「……そうか」


 ジュリアノスは何も言わなかった。

 ただ視線を弟に向けたまま、動かなかった。


 その夜から、塹壕の奥の将校室に、二人の王子が同じ空間で過ごすことになった。


 戦争の日常は続く。


 だがその日常の中に、何かが変わり始めていた。

 フリードリヒにはそれが何なのか、まだ分からなかった。


 ただ、塹壕の泥の壁から突き出た腕が、今夕、指の根元まではっきり見えていた。

 アルファンス国の兵士の腕。

 雨が少しずつ洗っている。


 明日には手首まで見えるだろう。



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