第十二章 見る者の目
エリーゼ・ヴァルナーは報告書を書いていた。
言葉は正確だ。
だが書かれた言葉の中に空虚がある。
事実を言葉にする動作の中で、事実の重みが言葉の重みと一致しなかった。
見る者の何かが変わっていた。
報告書の正確さと、エリーゼという人間の間には差があった。
正確に書く動作は訓練された動作。
訓練された動作は人間の変化に影響を受けない。
だがエリーゼという人間は変わっていた。
変化の根源は、スパイ嫌疑者への即時処刑にあった。
潜入先で、敵の協力者と疑った民間人を、尋問なしで射殺または毒殺した。
尋問なし。
確認する動作を省略した。
その省略は、帝国の正義のために必要だという自己正当化によって行われた。
省略という言葉。
ジュリアノスの行った省略と同じ言葉。
帝国の補給路爆撃における省略と、エリーゼのスパイ嫌疑者処刑における省略。
別の組織で、同じ言葉によって正当化されている。
それが正義の空虚の共通性だった。
疑惑者として見た人物の顔は、エリーゼの記憶の中に残っていた。
顔がある。
名前がある。年齢がある。声がある。
人間としての具体的な存在が、疑惑者という記号の中にいた。
その人間を、記号のまま殺した。
確認しなかった。
省略した。
記号の中にいる人間を見るという動作を省略した。
見る者が見ることを省略した結果、見る者自身の人間性が省略された。
組織のためにやった。
夜明けの剣の目的が、行為の正義になっていた。
国際世論をゲルマニアに向けるための偽旗作戦。
味方側の民間人を巻き込んだ爆破テロ。
犠牲は組織の同僚だった。
同僚の顔を見て、国際世論のためにやった。
それがエリーゼの正義の空虚を形作っていた。
名前があり、声があり、人間としての具体的な存在である味方を、記号として使った。
爆破による数十人の死亡。
味方側の民間人と同僚の身体が、組織の目的のために使われた。
エリーゼの正義と、ジュリアノスの正義。
別の組織、別の目的。
だが同じ空虚を持っていた。
人間の具体的な存在を記号にして使う。
この戦争には、その構造があった。
記号にして使うこと。
省略すること。
見る動作を省略すること。
それが正義の共通の根源になっていた。
エリーゼは帰還後、夜に眠れなかった。
睡眠の中に現れる夢が、眠るという動作を拒絶する。
記憶の中にある顔が、夢の中で見える。
心的外傷後ストレス障害。
疑惑者の顔、同僚の顔。
見える顔の数が増えるほど、眠る方法は減っていった。
省略した見る動作、省略した顔、省略した人間。
それが夢の中では省略されていない顔として現れていた。
省略した見る動作が、夢の中で逆転する。
省略されなかった動作として現れる。
省略されたはずの顔が、省略されていない者として見える。
それがエリーゼの心的外傷後ストレス障害だった。
「……眠れない」
エリーゼは呟いた。
夜の塹壕で。
一人で。
「顔が、見える」
ハルメアスは印の読みでエリーゼを見た。
印の開口の周囲に、別のものが入っていた痕跡がある。
空虚の中に、罪悪感という別のものが入っていた。
「あなたも、見ているのか」
ハルメアスは訊いた。
「……何を」
エリーゼは答えた。
「顔を」
「……見ている」
「夢の中で」
「……はい」
知っていて、見て、何もしなかった。
エリーゼとジュリアノスの共罪。
印持ちによる大量殺害と、印持ちによる儀式の事実を知っていながら、何もしなかった。
エリーゼの「何もしなかった」は組織の目的のため。
ジュリアノスの「何もしなかった」は印の進行の燃料のため。
異なる理由で、同じ「何もしなかった」が重なる。
それが共罪の構造だった。
何もしなかった者が複数存在する。
別の組織、別の理由で、同じ不作為が積み重なっている。
そこに、正義の空虚の根源があった。
「知っていて何もしなかった」
ハルメアスは静かに言った。
「……はい」
エリーゼは答えた。
「それが私たちの罪です」
「私たちの」
「あなたも。私も。第一王子も」
「……そうだな」
共罪の構造。
知っていて何もしなかった者が複数いる。
それは個人の悪ではなく、組織の悪。
戦争の構造の中に存在する悪だった。
これが、この戦争の真の形だった。
ハルメアスの印の進行では、印レベル二に到達したことで、印の中にある他の存在の声が強くなっていた。
印の中の存在の命令が、印持ちの行動に影響を与える。
それが明確になっていた。
印レベル二以上では、印持ちの自己の意志と、印の中の存在の意志が混じり合う。
印の進行は、印の中の存在の意志の方向へと向かっていた。
印持ちの人間性が薄れていく方向。
それが印の進行の真の意味だった。
印の中の存在が、印持ちの身体を入れ物として使用する。
人間性が置き換えられていく過程。
ハルメアスは印の読みで自分の印の中を見ることで、印の深い場所にある他の存在の声が近づいている事実を自覚していた。
自覚。
人間性が薄れていく事実を、見ることができる段階に到達した。
見る能力が開いた。
印の進行の中で、印の中の存在の意志と自己の意志が混じる事実を見る者になった。
見る者であることが、印の進行の中にある、唯一の希望だった。
塹壕の泥の壁には、もうアルファンス国の兵士の腕はなかった。
別の爆撃で壁が再び崩れた。
腕は埋まっていた。
埋まった腕の事実と、印の中の声。
その二つが同時に見えるようになっていく。
それが今夜の見る者の目にあった。
見る者の目。
印の中を見る目。
戦場を見る目。
正義の空虚を見る目。
見ること自体が、印の進行の必然になっていた。
今夜、見る者にはすべてが見えていた。
印の中の存在の意志。
自己の意志。
正義の空虚。
共罪の構造。
埋まった腕と、印の中の声。
そのすべてが、見る者の目にあった。
今夜の印持ちは、完全に見る者になっていた。
「……すべてが見える」
ハルメアスは呟いた。
「見えすぎる」
見ることの重み。
見る者の孤独。
それが今夜のハルメアスにあった。




