第十一章 決別
兄の身体は倒れたままだった。
印の暴走で重傷。
印の中にある他の存在が身体の組織を破壊した。
印レベル二以上の印持ちには、傷ついた組織を印の力で回復する能力がある。
兄の印はその段階にあった。
だが印の暴走は続いていた。
別の印の力が印の中に入ったことが原因だった。
ハルメアスは兄の身体を見た。
印の読みで見ると、兄の印の中にある存在が混乱していた。
兄の印の中の存在とハルメアスの印の力が衝突している。
印持ち同士の戦闘の後の状態だった。
「もう二度と、誰にも支配されない」
ハルメアスは言った。
言葉が出ること自体に、今夜の別の質があった。
八年間、何も言わなかった事実の反転。
自己の意志が印の中の存在の意志に勝った。
その強さが、今夜の言葉の質にあった。
支配されない。
印の構造で決まる支配の方向を変える。
今夜の反撃で、印の中に別の事実が起きた。
印持ちの自己の意志が印の中の存在の意志に勝ったという事実。
印の中に、勝つ方向が存在する。
それが可能性だった。
脱走は、決別の翌日に起きた。
塹壕を別の方向に移動する。
印の力で敵の巡回路を見る能力を使った。
逃げる路が見えた。
帝国軍の塹壕の裏側にある補給路。
そのさらに別の方向。
アルハ国側の捨て地。
戦争の中で誰もいない場所。
印の読みで印の波を感じる。
波がない。
印持ちがいない場所だと分かった。
逃げる路が見つかった。
フリードリヒは、別の方向に移動する王子の姿を見た。
塹壕の縁の巡回の中で。
王子が塹壕の内側から外側へ移動する。
印の光の青白い色と共に。
王子の姿は逃げる動作の質を持っていた。
今夜、別の場所へ向かっていく。
フリードリヒの目に、王子の姿と印の光は、記憶に刻まれた。
塹壕の縁で見た別の夜の印象として。
印を持たない者の、ただ見るという行為の記憶だった。
アントワーヌとの同盟は、脱走の後、深淵教団の紹介によって形になった。
印持ち同士が別の共通の目的を持った。
印の中にある他の存在を、別の種類の対応策で理解すること。
アントワーヌは印の中の声と対話している。
理性を保つ印持ち。
その存在は、ハルメアスが唯一の対応策としてきた「封じる」とは別の可能性を示していた。
封じるの反対。
対話する。
印の中の存在と共にありながら人間性を維持する。
それが別の方法だった。
「対話、か」
ハルメアスは呟いた。
「そうだ」
アントワーヌは答えた。
「封じるのではなく、共にある」
「……共に」
「印の中の存在を敵にしない。対話の相手にする」
それは希望の種だった。
別の印持ちによる別の対応策が存在する。
まだ実現していないが、確かに存在している。
同盟の後に、孤独があった。
脱走した事実によって、塹壕の中にあった日常が消えた。
毎日の巡回。
爆撃への警戒。
フリードリヒの姿。
塹壕の泥の壁。
アルファンス国の兵士の腕。
印の光が見える夜。
それらすべてが、現在のハルメアスの場所の外側に移動していた。
外側にある。
今いる場所には存在しない。
それが孤独だった。
印の中の声と、印の中の存在の意志と、印の進行だけが残った。
塹壕の中にあった日常が失われた。
孤独の中で、印の声だけが存在していた。
それは印レベル二の事実だった。
アントワーヌとの肉体関係は、その孤独の中で起きた。
印持ち同士の印の接続。
印を通じて別の印持ちの印の中を感じること。
別の印持ちの印の中にある他の存在の声を共に感じる。
それは孤独の反対だった。
それは支配の方向ではなかった。
対等の接続。
勝ち負けのない印の接続。
戦闘とは異なる、印持ち同士の別のつながり。
性行為の中で、印の接続は別の種類になっていた。
支配ではなく、対等。
印の読みで、見ることと見られることが同時に起きていた。
戦闘ではない。
勝ち負けのない印の接続。
「これが人間のつながりか」
ハルメアスは言った。
支配の方向がない印の接続。
初めて支配されていない接続だった。
それは一時的な救いだった。
印の進行の中で人間性が薄れる方向とは反対に、今夜だけ向かった出来事。
印の進行は続いている。
印の中の存在の意志が行動に影響を与え続ける。
救いとは反対の方向もまた存在している。
印の中には、二つの方向が同時に存在していた。
行為の後、ハルメアスは悪夢を見た。
悪夢の場所は、印の中にあった。
印の深い場所。
印の中にある他の存在が存在する場所。
現実とは異なる種類の場所。
見る、感じる、体験するという動作とは別の形で体験される場所。
印レベル二の開口によって、印の中の存在の声が近づいていた。
その近さが、夢の中で最も明確な対話として体験されていた。
旧き者どもの声が聞こえた。
「お前の愛など塵芥だ」
その意味が、印の中で伝わった。
愛とは、今夜、アントワーヌとの印の接続で感じた人間のつながり。
塵芥とは、印の中の存在による評価。
人間の愛が無意味であるという陳述。
印の進行の目的の中に、人間の愛は含まれていない。
印の中の存在は、印の進行のみを目的としている。
人間の感情はその燃料に過ぎなかった。
今夜に感じた救いも、人間のつながりも、印の中の存在にとっては進行のためのエネルギー。
その評価が、今夜、明確になっていた。
「……塵芥、か」
ハルメアスは呟いた。
夢の中で。
印の深い場所で。
「ならば、塵芥として生きる」
その言葉が、今夜の抵抗だった。
人間の愛が塵芥なら、塵芥として生きる。
印の中の存在の評価に屈しない。
だが声は冷たく響いた。
「お前はすでに器だ」
その意味が、印の中で伝わった。
器。
選ばれし器。
人間から入れ物へ。
印の進行が続いている事実が、夢の中で明確になっていた。




