7話 特別監査対象
「本日より、灰谷ユウは特別観察対象とする」
言い終えた瞬間、教室の温度が一段下がる。ざわめきは起きない。
Aクラスは感情を声にしない。
声にした時点で、評価が落ちると知っている。
それでも視線は動く。
誰も灰谷を睨まない。
誰も笑わない。
陰湿なものは、この学園にはない。英雄を育てる場所だからだ。だが、“整った優しさ”は、無意識に境界線を引く。
特別観察対象。
言葉に棘はない。
棘がないからこそ、刺さる。
担任は淡々と続けた。
「今までと同じだ。授業も演習も変わらない。余計な推測をするな。動揺するな。Aクラスとして振る舞え」
命令はいつも通りなのに、灰谷だけが“いつも通り”から切り離された。
白崎が灰谷を見た。
伊吹は視線を落とした。
空席――本来なら鷹宮が座っていた椅子だけが、やけに目立つ。
担任は黒板にチョークを走らせる。
「さて。今日の講義は“命令系統”だ」
灰谷の背中に、言葉が刺さる。
命令系統が崩れた。
結果は成功だった。
住民は守られた。
けれど鷹宮は倒れた。
正しさの結果が、教室の穴になって残っている。
担任は振り返り、生徒を見渡す。
「英雄は、勝つだけでは足りない。勝ったとしても、秩序を壊せば次は負ける。秩序とは命令だ。命令とは責任の連鎖だ。責任から外れた力は、ただの事故になる」
視線が一瞬だけ灰谷を掠める。
露骨ではない。露骨にしないのがこの場所の品位だ。
それでも灰谷には分かる。
“守られる存在”として扱われる時の目だ。
担任の声が続く。
「君たちは“守る側”だ。守る側は、勝手に判断しない。勝手に判断した瞬間、守るは崩れる」
灰谷は机の下で指を握った。
守られる側。守る側。
その分け方が正しいと、皆が知っている。皆が知っているから、誰も疑わない。疑わないから、前に出る者は迷わず踏み込む。迷わない踏み込みが、昨日、鷹宮を折った。
講義の間、灰谷の視界は一度も裂けなかった。
その代わり、現実の方が裂けていく。
休憩時間。
数人が近づいてきた。
声は柔らかい。距離感も丁寧だ。
「灰谷、気にすんなよ。先生の言い方が悪いだけだ」 「そうそう。観察って、別に悪い意味じゃないだろ」
悪意はない。
胸糞でもない。
だからこそ断れない。
灰谷は頷く。
「……分かった。ありがとう」
最後に必ず付く言葉がある。
「無理すんな」 「前に出なくていい」
守るための言葉。
線を引く言葉。
灰谷が笑わないのは、怒っているからじゃない。笑ってしまえば、その線を肯定してしまう気がした。
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教室の前で、担任が待っていた。
「灰谷」
淡々とした呼び方。
だがその呼び方が、もう“普通”じゃない。
担任は灰谷だけを廊下側に呼び出す。白崎も伊吹も足を止める。だが担任は視線だけで制す。
「二人は中へ。これは命令だ」
二人は渋々、教室へ戻る。命令系統。さっき講義した通りだ。
廊下に残ったのは、担任と灰谷だけ。
担任は低い声で言う。
「鷹宮の件で、お前を責める気はない」
灰谷は黙っている。
担任は続ける。
「だが、忘れるな。お前が前に出れば、次は別の誰かが壊れる可能性がある。お前の判断は再現性がない。再現性がない力は、英雄ではなく事故だ」
灰谷の指が握られる。
担任はそこで言い切る。
「お前は“守られる存在”としてここにいる。守られる側は、命令に従え。守る側の邪魔をするな」
救いみたいに言う。
その言い方が一番残酷だと、灰谷は知っている。
灰谷は顔を上げた。
「……守られる側って、何ですか」
担任の目が一瞬だけ細くなる。
怒りじゃない。計測だ。
「言葉通りだ。お前は刻印がない。評価の軸がない。軸がない人間を前に出せば、周りが揺れる。揺れたら壊れる。だから守る。守って管理する。それが学園の判断だ」
灰谷は息を吐く。
「……飼い殺し、ってことですか」
担任は否定しない。
「言い方を変えれば“様子を見る”だ」
その瞬間、灰谷の胸の奥が冷える。
担任は最後に言う。
「お前が選ぶな。選ぶと壊れる。学院は、お前に選ばせない」
そう言って、担任は教室へ戻った。
廊下に残った灰谷は、手のひらを見た。
この手は、守られるためにあるのか。守るためにあるのか。
答えは出ない。
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放課後。校門の前。
神代レイが通りを歩いていた。
周囲の視線は自然に集まる。
呼吸するだけで光が生まれるような人間がいる。人だかりができ、笑顔が重なり、世界が勝手に整列する。
灰谷は遠くからそれを見ていた。
神代は強い。
理解できる強さだ。
理解できる強さには、評価がつく。称賛がつく。
秩序がつく。
灰谷の“理解できない結果”には、沈黙しかつかない。
白崎が隣に並ぶ。
何も言わずに、同じ方向を見る。
伊吹が少し後ろで足を止める。
視線を逸らし、低く言った。
「まじで世界が違うよな」
白崎が小さく返す。
「でも……距離だけは、同じ場所にいるんだよね」
複雑そうな少し微笑みながら言う。
同じ学園。
同じAクラス。
同じ空の下。
なのに、光と影の濃度が違う。
灰谷は言った。
「距離だけはね」
先日の喫茶店と同じ言葉。
その声は、諦めじゃない。
悔しさでもない。
決意でもない。
ただ、事実の確認だった。
“距離が近いほど、差は残酷に見える”という事実。
白崎が一歩だけ灰谷に近づく。
距離の話を、距離で否定するみたいに。
「灰谷くん」
呼び方が短い。
対等の呼び方。
「今日、先生に何言われたの?」
灰谷は少し迷ってから答えた。
「……選ぶな、って」
白崎の眉が僅かに動く。
「選ばないと、守れないのにね」
灰谷は返さない。
返せない。
選ぶと誰かが壊れる。
選ばないと誰かが死ぬ。
その間に正解はない。
観察という名の檻。
正しさという名の檻。
沈黙という名の檻。
その檻の中で、灰谷は初めて“守りたい理由”を言葉にしないまま強く握る。
鷹宮の空いた席。
白崎のまっすぐな目。
伊吹の悔しそうな沈黙。
そして、この世界が、正しさで人を壊していく構造。
灰谷は胸の奥でだけ呟いた。
(次は、もう壊させない)
その瞬間、ほんの一瞬だけ視界が滲む。
未来視ではない。
“決めた者”の目の滲み方だった。




