3話 正しい選択
Aクラスの朝は静かだ。
規律があるからではない。全員が「正解」を知っているからだ。
前に出る者。
支える者。
守られる者。
英雄を育てる機関として、ここには陰湿さがない。
誰かを笑いものにする必要がないほど、皆が真剣だからだ。
だからこそ、決めつけは善意として浸透する。
「灰谷は後ろでいい」
誰かが言い、誰も否定しない。
灰谷は頷く。声を出す必要すらない。
――正しい。
この学園では、それが正しい。
刻印のない人間を前に出さない。
それは配慮であり、合理であり、優しさだ。
優しさは、枠を作る。
枠は、守る。
守るほど、外へ出られなくなる。
灰谷はその仕組みを理解していた。
理解しているから、言えなかった。
自分が後ろにいることで、誰かが安心する。
安心があるから、前に出る者が迷いなく踏み込む。
その迷いのなさが、怖い。
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午前の実技演習は小隊行動。
地形は単純で、見通しが利く。遮蔽物は瓦礫が点在する程度。
教官の合図が落ちた。
「開始」
鷹宮が前に出る。
「俺が行く。Aクラスだろ」
刻印が淡く光る。
自信は光に似ている。味方の足元を照らし、踏み込みを後押しする。
伊吹は反対側へ。
白崎は一歩引いた位置に立ち、全体を見渡している。
灰谷は最後方。
――守られる位置。
模擬敵が現れた。
単純な動き。数も多くない。
鷹宮が一体目を弾き、二体目を処理する。
綺麗な動きだ。無駄がない。
「いいぞ!」
声が上がる。
正しさが、さらに正しさを呼ぶ。
その瞬間――
灰谷の視界が裂けた。
音が消えた。
光が細くなり、空気が重くなる。
次の刹那。
自分の身体が地面に叩きつけられる。
骨が鳴る。
肺が潰れ、息が抜ける。
――死ぬ。
「……っ」
現実に戻る。
砂、汗、騒音。
心臓が遅れて跳ね上がる。
まだ生きている。
身体は無傷なのに、痛みだけが残る。
脳が、死んだ記憶を「現実」として抱えたまま離さない。
灰谷は声を絞った。
「……右」
喉が震える。
「右、来る……!」
瓦礫の影から模擬敵が飛び出した。
伊吹が反応し、白崎が援護する。
間に合った。
鷹宮は前を向いたまま処理を続ける。
前線の人間は、後ろの声を「情報」ではなく「騒音」として処理しがちだ。
それでも灰谷は叫ぶしかない。
叫ばないと、終わる。
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次。
視界が、また裂ける。
今度は背中から刃が入る感触。
熱い。温かい。
視界が暗くなる。
――二度目。
現実。
灰谷は歯を噛み、声を押し出す。
「……後ろ!」
伊吹が振り向き、白崎が間合いを詰める。
模擬敵が弾かれる。
間に合った。
だが、鷹宮は振り返らない。
前に出続ける。
それが自分の役割だと信じている。
役割は正しい。
正しいからこそ、止められない。
灰谷の掌が冷たく汗ばむ。
視界の端が、じわりと暗い。
死の感覚は現実に戻っても残る。
肺がまだ潰れている気がする。
骨が折れている気がする。
――生きているのに、死に続けている。
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数分の反復。
配置は崩れない。連携も整っている。
なのに灰谷の中だけが、少しずつ壊れていく。
裂ける視界の回数が増える。
未来の断片が長くなる。
戻ってきた瞬間、距離感がずれる。
――今度は伊吹が倒れる。
――今度は白崎が間に合わない。
――今度は鷹宮が、踏み込みの途中で折れる。
起きていない未来が、起きた記憶として積み重なる。
灰谷は息を吸う。
吸ったはずなのに、酸素が足りない。
叫ぶ。
間に合わせる。
守る。
守るたびに、心のどこかが摩耗する。
これが役に立つことだと言うなら、
その言葉が嫌だった。
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訓練終了。
教官は淡々と結ぶ。
「無理をする必要はない。英雄は長く立っていなければ意味がない」
正論。
誰も反論しない。反論できる者もいない。
鷹宮は笑って頷いた。
「はい」
その声が、少し明るすぎた。
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休憩。
鷹宮は足首を押さえ、軽く回してみせる。
「平気。これくらい」
痛みを認めない言い方だ。
認めないほど、次が危ない。
伊吹は何も言わない。
黙っているのは無関心じゃない。言葉が「刃」になるのを知っている沈黙だ。
白崎が灰谷を見る。
「……大丈夫?」
灰谷は頷いた。
「うん」
嘘ではない。
もう二度、死んだだけだ。
白崎はそれ以上聞かない。
聞けば答えが出てしまう。答えが出たら、灰谷は戻れない気がした。
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校門を出ると、風が強かった。
昼より、確実に冷えている。
白崎がマフラーを引き上げる。
「寒くなったよね」
灰谷は頷く。
「……そうだね」
それだけの会話。
それだけで、歩く速度が自然に揃う。
しばらく、靴音だけが続く。
白崎は前を見たまま、ぽつりと言った。
「今日……」
言いかけて、間を置く。
「今日、灰谷くんずっと苦しそうだったよ」
灰谷は、すぐに答えなかった。
否定もできた。
笑って流すこともできた。
でも、どれも違う気がした。
「……」
白崎は、それ以上踏み込まない。
振り向かない。
理由を聞かない。
ただ、歩幅を変えずに歩く。
灰谷の視界に、街灯が滲む。
裂ける感覚とは違う。
もっと現実的で、逃げ場のない滲み方だ。
「無理しろ、って言いたいわけじゃないよ」
白崎は、少しだけ声を落とす。
「でも……一人で耐える顔じゃなかった」
灰谷は足を止めそうになり、踏みとどまる。
言葉が、喉の奥で詰まる。
説明したら、楽になる。
言葉にしたら、軽くなる。
だから、言わなかった。
「……大丈夫」
それだけを、絞り出す。
白崎は、初めて灰谷を見る。
「うん」
それ以上、何も言わない。
家の灯りが見えてくる。
分かれ道が近い。
白崎が立ち止まる。
「また明日」
灰谷は頷く。
「また」
白崎は振り返らずに歩き出した。




