20話 落ちた護符
神代レイが屋敷に戻ったのは、日が完全に落ちた後だった。
正門の警備は正常。
使用人の配置も変わっていない。
異常報告は――ない。
「ノアは?」
玄関で外套を脱ぎながら、短く問う。
「お部屋に戻られているはずです」
執事の即答。
声に揺れはない。
神代は頷き、屋敷の奥へ向かう。
ノアの部屋。
灯りは点いていない。
寝台は整えられたまま。
「……?」
神代は一歩、室内に入る。
靴は揃っている。
机の上の本も、昼のまま。
窓は閉まっている。
「ノア? ノアどこだ?」
呼びかける。
返事はない。
神代は、部屋を一周した。
ここで初めて、胸の奥に引っかかる。
「静かすぎる……」
争った形跡はない。
物が倒れた様子もない。
魔力反応も――残っていない。
「……異常ですね」
リゼルが言う。
「部屋が“整いすぎている”」
神代は答えない。
ただ、視線を床に走らせる。
「使用人長」
廊下に出て呼ぶ。
「ノアは、今日どこにいた?」
「午後は薬草園です。その後、夕食前に戻られたと」
「最後に見たのは?」
「……夕刻です」
薬草園。
屋敷の裏手。
夜露で湿った土。
月明かりに照らされる薬草の列。
荒らされた形跡はない。
踏み荒らされた足跡もない。
だが――
神代は、歩みを止めた。
薬草の根元。
石畳との境目。
「これは……」
落ちているものがある。
しゃがみ込み、拾い上げる。
布製。
歪な縫い目。
見覚えのある色。
護符。
――ノアのものだ。
神代の指が、わずかに止まる。
自分の胸元に手を伸ばす。
同じ形の護符が、そこにある。
対。
ここにあるはずがない。
落とす理由もない。
「……妙ですね」
リゼルが一歩、近づく。
「護符は、ノア様が肌身離さず持つもの。
落とすとすれば、本人の意思ではありません」
神代は、周囲を見回した。
「……連れ去られたな」
独り言のように呟く。
リゼルは即座に否定しない。
「はい。しかも――」
「無力化、遮断、回収。
最短手順です」
言葉が重なる。
「ノア様を“人”ではなく、
物として扱える相手」
神代の視線が鋭くなる。
「……分かっている」
立ち上がる。
夜気の中で、護符が小さく鳴った。
リゼルは、主の背中を見つめたまま静かに続ける。
「レイ様。これは偶発ではありません。狙いは、ノア様そのものです」
「全員、動くな」
神代の低い声。
「屋敷内は封鎖。警備は通常配置を維持 。外部への連絡は、私の許可なしに行うな」
「レイ様?」
使用人が戸惑う。
「まだ事件ではない」
神代は淡々と言う。
「だが、準備はする」
それ以上は説明しない。
神代は護符に視線を落とす。
――選択肢は、すでに少ない。
公に動けば、交渉になる。
時間がかかる。
その間に、ノアの価値は利用される。
ならば。
英雄としての最適解。
単身。
迅速。
正面。
神代は、剣帯に手を伸ばし――止めた。
まだだ。
まず、場所。
相手の意図。
確信。
「……待っていろ、ノア」
言葉は落ち着いている。
だが、胸の奥が冷たい。
敵が見えない。
意図も、距離も、立場も。
――だからこそ。
「リゼル」
神代は顔を上げずに言った。
「お前なら、誰だと思う」
即答はない。
リゼルは一歩、机の脇に立ち、護符を見下ろしたまま考える。
「まず、学院ではありません」
「理由は?」
「学院なら、もっと雑です。
記録が残り、痕跡も残る。
ノア様を“静かに”消す必要がない」
神代は黙って聞く。
「次に、王国直轄でもない」
「その理由は?」
「王国が動くなら、あなたを呼び出します。
妹を奪う必要がない」
「宗教勢力でもありません。
彼らは象徴を欲しがる。
連れ去り方が実務的すぎます」
神代の指が、わずかに動いた。
「……残るのは?」
「貴族です」
リゼルは迷わない。
「それも、地方有力。
軍需、物流、あるいは北部」
神代は、そこで初めて顔を上げた。
「北部……アルブァか」
「可能性は高いでしょう」
「だが、動機は?」
リゼルは、護符から視線を外さない。
「あなたです」
短く、断言。
「正確には――
あなたを“正面から動かせないため”」
神代は息を吐く。
「私を呼ばず、妹を取る」
「はい」
「私が剣を抜けば、政治が崩れる。
抜かなければ、妹が使われる」
リゼルは静かに頷いた。
「非常に、理に適っています」
沈黙。
神代は、剣帯に視線を落とし――離した。
「……なるほどな」
声は低い。
「英雄を縛るには、
英雄を殺す必要はない」
「ええ」
「守るものを奪えばいい」
リゼルは、最後に付け加える。
「確定ではありません。
ですが――」
「このやり口を選ぶ者は、限られています」
神代は、護符を強く握った。
静寂は、無慈悲な一報によって破られる。
「失礼します、レイ様!」
屋敷外周警備の責任者。
普段なら決して取り乱さない男だ。
だが今は、呼吸が浅い。
「報告があります」
神代は答えない。
視線だけで、続きを促す。
「先ほど――
アルヴァ公爵家の使者が、王都内の外務局別邸に入ったことが確認されました」
リゼルの眉が、わずかに動く。
「内容は?」
「“身柄預かり”の届け出です」
空気が、冷える。
「対象は一名。
神代ノア様」
「名目は“保護”
理由は“王都情勢悪化に伴う一時的措置”」
「……場所は?」
「王都北区。
外務局管轄の、公爵家専用応接別邸です」
遠くない。
逃げ場でもない。
だが――
剣を振るえば、即座に政治問題になる場所。
リゼルが低く言う。
「公爵家は、まだ動かしていません」
「はい。
“連行”ではなく、“移送”の形式です」
神代は、護符を握った。
船も、国境も、まだ先。
ノアは――王都にいる。
だが、守られている。
剣を抜けない場所に。
「……見事だな」
神代の声に、怒りはない。
「時間を稼ぎながら、こちらの手足を縛る」
報告役の男が、最後に言う。
「なお、別邸の警備は――
公爵家私兵と、王国形式の混成です」
つまり。
踏み込めば“反乱”になる。
沈黙。
神代は、ゆっくりと立ち上がった。
だが、猶予もない。
神代は即座に頭を回転させる。
戦場ならば、最適解は一つ。
ノアを切り捨て、公爵家を討つ。
それが「英雄」としての正しい選択だ。
多くの命を守るためには、一人の犠牲は許容される。世界の理だ。
だが――
(ノアが、いなくなる……?)
本能が、理性を否定する。
感情が、計算を狂わせる。
「愛する妹」という存在が、彼に課せられた「英雄」という呪いを内側から侵食していく。
「レイ様」
リゼルが静かに口を開く。
「今は冷静なご判断を。公爵家は北部軍需を握っております。強硬手段に出れば――」
神代はリゼルを睨みつけた。
その目には、いつもの冷徹さはなく、底知れぬ怒りが渦巻いている。
「黙れ」
神代は剣に手をかけるが、その先がない。
ここは「戦場」ではない。
「政治」と「謀略」という、彼が最も苦手とする泥沼だ。
「公爵に連絡を。私が直接――」
「不可能です」
リゼルは、遮るように言った。
「すでに公爵家は、外務局を通して“正規手続き”を完了させています」
「……何だと」
「今この瞬間、ノア様は
王国法の保護下にある“預かり対象”です」
神代の眉が、わずかに動く。
「剣を抜けば――」
リゼルは、淡々と続ける。
「レイ様が“法を破った側”になります」
「英雄が、王国の施設を襲撃した、という形です。その時点で、公爵家は被害者になります」
神代の手が、止まった。
「つまり」
「ええ」
リゼルははっきり言う。
「今、レイ様が動けば
ノア様は“交渉材料”から“責任の象徴”に変わります」
空気が、凍りつく。
「命が即座に奪われるとは限りません。
ですが――」
視線が、鋭くなる。
「生かす理由が、消えます」
神代の奥歯が、音を立てた。
「くっ……」
拳が、震える。
戦場なら、答えは一つ。
だが、ここは違う。
剣を抜けば、妹が死ぬ。
抜かなければ、妹が使われる。
どちらも、救いにならない。
神代の体が、わずかに揺らぐ。
頭の中の「最適解」が、ノアが死ぬ未来を弾き出す。英雄なら、その未来を受け入れるべきだ。だが、受け入れられない。
「くそっ………」
神代は歯を食いしばる。生まれて初めて、自分が無力だと悟った瞬間だった。
正義は彼を縛り付け、動けなくする。
悪を滅ぼすための力は、愛する妹一人を救うことすらできない。
その場に崩れ落ちそうになった神代を、リゼルがすかさず支える。
「レイ様、しっかりなさいませ」
声は献身的で、表情には主人を案じる色が浮かんでいた。
「まだ手はございます。公爵家は北部軍需を独占したいだけ。ノア様を傷つけることはないでしょう」
「だが、いつまでも交渉が続くわけがない……!」
神代は怒りを滲ませる。
「剣を抜けば、この国での神代家の立場が危うくなる。だが、抜かねばノアが……!」
「……レイ様」
リゼルが名を呼ぶ。
その声は、これまでよりも低く、抑えきれていない。
「おやめください」
神代は止まらない。
「今ここを出れば、すべてが壊れます」
リゼルは前に出て、進路を塞ぐ。
「あなたは英雄です。象徴です。
ですが、それ以前に――」
一瞬、言葉を探す。
「……生きて戻れる保証がありません」
神代の動きがわずかに止まる。
「単身。準備なし。
相手は公爵家です。私兵も、術式も、想定以上でしょう」
リゼルの声が、僅かに震える。
「ノア様を救う前に、
あなたが倒れれば――」
続けられなかった。
「私は、あなたを失う前提で
この屋敷を守ることなど、できません」
神代は、ゆっくりと視線を上げる。
「……リゼル」
「命令であっても従えません」
はっきりとした拒絶。
「私は家臣です。
ですが――あなたを見送る役ではない」
一歩、さらに近づく。
「政治がどうなろうと構いません。
神代家がどうなろうと構いません」
声が、初めて感情を帯びる。
「それでも、あなたが戻らない選択だけは
受け入れられない」
沈黙。
神代は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……お前は優しいな」
「違います」
「私は、あなたがいなければ意味がありません」
神代の表情が、わずかに揺れた。
「私は英雄だ。
だがそれは、
妹を切り捨てるための肩書きじゃない」
リゼルの拳が、強く握られる。
「……それでも、行かれるのですね」
「あぁ」
短い答え。
「止められぬと分かっていても?」
神代は一歩踏み出し、
リゼルの肩に、そっと手を置いた。
「これは命令ではない。私個人の選択だ」
視線を逸らさず、告げる。
「戻れなかった場合、
すべては私の責任になる」
リゼルの喉が、小さく鳴った。
扉に手をかける。
「だが、戻れなかったらーーー
それでも、お前は生きろ。それがお前の役目だ」
神代は屋敷を出た。
「どうか、生きて戻ってください。レイ様」




