12話 正しさの配置
朝の鐘が鳴る。
王立学院の中庭には、いつも通りの光景が広がっていた。
整えられた石畳。
規則正しく配置された植え込み。
行き交う生徒たちの制服。
灰谷ユウは、その光景を少し教室から眺めていた。
「くぁっ……」
大きなあくびが出る。
椅子にに腰を下ろし、特に意味もなく外を見ている。 雲の流れは遅く、穏やかだった。
「平和だ…」
独り言のように呟く。
その背後から、足音が近づいた。
「灰谷、朝から何考えてるんだ?」
聞き慣れた声。
伊吹ソーマ。
腕を組み、いつもの調子で立っているが、視線は周囲を警戒するように走っている。どんな時でも危険を怠らない。英雄の基本だ。
「別に」
灰谷は肩をすくめる。
「平和だなって思っただけ」
「お前の口から“平和”って言葉が出ると、逆に不安になるんだが」
「失礼だな」
伊吹が隣の椅子に腰を下ろす。
「Aクラスの特級は、今日も朝から訓練だぞ。英雄候補様は忙しい」
「へぇ」
灰谷は興味なさそうに返した。
「俺らは?」
「俺らは同じAクラスでも座学。安全だ」
「ありがたい話だ」
そのやり取りを、少し離れた場所から白崎ユイが見ていた。
彼女は二人のもとへ歩み寄る。
「……灰谷くん、今日の講義、全部出るよね?」
「一応」
「“一応”って言い方やめて」
白崎は小さくため息をついた。
彼女の視線の先。
中庭の中央には、自然と人だかりができている。
神代レイ。
誰が呼んだわけでもない。
だが、人が集まる。
姿勢。
声。
距離感。
全てが「正しい」。
神代は数人の特級生徒と短い会話を交わし、要点だけを伝えている。
無駄がない。
感情の揺れもない。
「……やっぱ、すげぇな」
伊吹が呟く。
「完璧だよな。英雄って感じ」
白崎は少し考えてから言った。
「……私は、少し苦手かな」
「え?」
「神代くん、いつも“正しい”でしょ。でも……」
言葉を探す。
「正しすぎて、間違えられなさそう」
伊吹は首を傾げた。
「間違えないなら、それで良くないか?」
白崎は答えなかった。
代わりに、灰谷が口を開いた。
「どうなんだろ」
二人が灰谷を見る。
伊吹は眉をひそめた。
「お前、神代のこと嫌いなのか?」
「嫌いじゃない」
即答だった。
「むしろ、尊敬してる」
「じゃあ――」
「だからこそだよ」
灰谷は立ち上がった。
視線の先。
神代と視線が合う。
一瞬だけ。
神代は何も言わず背を向けた。
無視したわけではない。
ただ、自然に目を逸らした。
「英雄って」
灰谷は言う。
「“正しい選択をし続ける存在”だよね?」
「そうだな」
伊吹が答える。
「でも、正しい選択ってのは、たいてい誰かを犠牲にする……鷹宮くんのように」
白崎が、はっとする。
「それを“仕方ない”って言い始めたら、終わりだ」
伊吹は言葉を失う。
灰谷は神代の背中を静かに見ていた。
英雄の視点から見れば、灰谷の言葉は非合理だ。
感情論だ。
最適解ではない。
中庭に、鐘の音が響く。
始業の合図。
生徒たちは急いで教室へゆく。
日常が始まる。
その中で――
神代は、一瞬だけ立ち止まった。
そして何事もなかったかのように、
再び歩き出した。
午前の講義は、淡々と進んだ。
魔法理論。
戦術史。
英雄制度の基礎。
どれも、王立学院では“必修”とされる内容だ。
教壇に立つ講師は、淡い光の魔法陣を展開しながら語る。
「英雄とは、国家に認められた“実行装置”である」
書き写す生徒たち。
頷く者。
当然のように受け止める空気。
「個人の感情や事情は考慮されない。
英雄が優先すべきは、常に“最大多数の利益”だ」
伊吹ソーマは、前の席で腕を組んだまま聞いていた。表情は真剣だ。
白崎ユイは、ペンを走らせながら、時折顔を上げる。どこか落ち着かない。
灰谷ユウは――
ノートを取っていなかった。
ペンは鼻の下。机に肘をつき、講師の言葉をただ聞いている。 否定も、肯定もせず。
「……英雄制度が成立したのは、百二十年前」
講師が続ける。
「それ以前は、個人の判断による英雄行為が主流でした。
しかし、それは多くの“無駄な犠牲”を生みました」
魔法陣が切り替わり、過去の戦史が映し出される。焼け落ちた街。瓦礫。名も残らなかった人々。
「だからこそ、英雄は“正しい判断”をする存在でなければならない」
その言葉に、教室の視線が自然と一か所に集まる。
神代レイ。
彼は背筋を伸ばし、講義を聞いていた。 視線は前。一切の無駄がない。
講師は一瞬だけ神代を見て、満足そうに頷いた。
「神代くん。君はどう思う?」
唐突な指名。
教室が静まる。
神代は立ち上がった。
「英雄は、感情で動く存在ではありません」
声は低く、落ち着いている。
「個人の幸福より、社会全体の安定を優先する。
それが制度としての英雄の役割です」
――模範解答。
即答だった。
講師は満足そうに笑う。
「その通り。
それが“正しさ”だ」
席に座る神代。
「流石です」
リゼルが小声で言う。
誰も異論を挟まない。
伊吹は小さく息を吐いた。
白崎は、ペンを止めたまま、何も言わない。
灰谷だけが、神代を見ていた。
表情は変わらない。
だが、視線は静かだった。
「それと、来週からはじまるクラス個人戦のことだが」
講師のその一言で、
教室の空気がわずかに変わる。
ーー?!
「本戦の様子は、英雄テレビによって中継される」
「Aクラスたる者、全員が“勝利”を飾れるように」
どよ、と小さなどよめきが走る。
「テレビ中継だってよ」
「見せ場じゃん」
「家の連中も見るな、これ」
誰かが、軽い調子で笑った。
「余裕だろ」
「あの時のクラス割り演習を見る限り、実力差は歴然だったしな」
同意する声が、いくつも重なる。
「相手、どこだっけ」
「毎年同じだろ?」
講師は、その様子を一瞬だけ黙って見ていた。
「静かに」
声は大きくない。
だが、空気を一刀で断ち切るような低さだった。
教室が、ぴたりと静まる。
「今年、Aクラスが当たる相手は――」
「Dクラスだ」
「……まじかよ」
「ラッキーじゃん」
思わず漏れた声。
油断。
安堵。
見下し。
そのすべてを含んだ反応だった。
講師は、視線を教室全体に巡らせる。
「いいか」
淡々と、しかし重く言う。
「戦場ではな、
相手を舐めた者から死んでいく」
その言葉で、
空気が一段、沈んだ。
「相手の階位が低い?
訓練歴が浅い?
だから勝てる?」
講師は首を振る。
「それを考えた瞬間、
お前たちは“英雄候補”から一歩後退する」
誰も、声を出さない。
「この個人戦は、
勝つことだけが目的ではない」
「戦場では、都合よく相手を選べない」
「強い者は弱い者と、
弱い者は強い者と――
必ず、向き合わされる」
教室の空気が、
最初とは別物になっていた。
「英雄とは、
“勝てる相手”を探す存在ではない」
一拍。
「“戦うべき相手”を、
間違えない存在だ」
講師は、淡々と締めくくる。
「その覚悟がある者だけが、
この学院に残れる」
「しっかり備えておくように。
以上」
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昼休み。
中庭は、午前よりも賑やかだった。
石畳の上に腰を下ろす生徒。
ベンチで弁当を広げる者。
売店で買ったパンを頬張りながら、笑い合う声。
さっきまでの重たい講義が嘘のような、
いつも通りの光景。
――だからこそ、
どこか浮いていた。
「なあ、灰谷」
伊吹が、紙袋を片手に声をかける。
袋の中には、まだ温かいパン。
香ばしい匂いが漂う。
「さっきのクラス個人戦の話、どう思った?」
灰谷は、ベンチに腰を下ろしたまま、
一拍置いてから答えた。
「どうって?」
伊吹は肩をすくめる。
「お前なら余裕だろ」
半分は本気。
半分は、確認だった。
灰谷はパンを一口かじる。
噛む速度は、少し遅い。
「それはないと思う」
「は?」
伊吹が思わず声を上げる。
「魔人倒したじゃねーか。
あれ見てたら、余裕も余裕だろ」
灰谷は、返事をせずに手を差し出した。
掌。
伊吹が見ていると、
微かに――震えている。
「……あの日からさ」
灰谷は視線を手に落としたまま言う。
「手の震えが、止まらない」
「それだけじゃない。
めまいも、頭痛も増えた」
風が吹き抜ける。
木々の葉が、さわりと鳴る。
「まじかよ……」
伊吹は、冗談を挟む余地を失っていた。
「あの力さ」
灰谷は、指を握り込む。
「制御してるっていうより、
流れ込んでくる、って感覚なんだ」
「自分の意思で使ってる感じがしない」
白崎が、少し遅れて口を開いた。
「……だから、試合では使えない?」
「うん」
灰谷は頷く。
「少なくとも、
ああいう場じゃ無理だと思う」
白崎が、笑顔で言う。
「先生が言ってたよね」
「勝ち負けだけが目的じゃない、って」
灰谷は、ふっと笑った。
力の抜けた、いつもの笑い。
「うん」
「だから、やるなら全力でやるだけだよ」
それは、
強がりにも、
達観にも聞こえた。
少し離れた場所。
神代レイは、数人の生徒と立ったまま話していた。
演習の配置。
個人戦の組み合わせ。
想定される戦術。
声は低く、無駄がない。
「やっぱ神代がいると安心だな」
「勝ち筋が見える」
神代は否定もしない。
肯定もしない。
ただ、必要な言葉だけを返す。
灰谷は、その背中を一瞬だけ見た。
英雄。
正解。
模範。
中庭の喧騒の中で、
その存在だけが、少し遠くにあるように見えた。
パンを食べ終え、
灰谷は立ち上がる。
「行こうか」
伊吹も、白崎も頷く。
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午後。
学院の執務棟。
神代は呼び出されていた。
相手は学院上層部の一人。
形式ばった部屋。余計な装飾はない。
「神代レイ君」
「はい」
「君には、近く“対外的な役割”が増える予定だ」
神代は表情を変えない。
「具体的には?」
「貴族家との折衝。
特に、北部方面だ」
その言葉に、神代は一瞬だけ瞬きをした。
「アルブァ公爵家、ですね」
「話が早い」
上層部は頷く。
「君は“英雄”だ。
君が顔を出すだけで、場は収まる」
神代は理解した。
これは命令ではない。
だが、断れない要請だ。
「承知しました」
それ以外の答えは、用意されていなかった。




