表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/17

11話 完璧な英雄 完璧な兄

 弦楽器の音が、天井の高い大広間を満たしていた。


 白金の装飾が施された柱。

 磨き抜かれた床に反射するシャンデリアの光。

 香水とワインの匂いが混ざり合い、甘く澱んだ空気を作っている。


 貴族たちは笑っている。

 政治的な計算を隠しながら、祝杯を交わしている。


 その中心に――神代レイがいた。


 深い紺の礼装。

 胸元には神代家の徽章。

 立ち姿、所作、沈黙。


 すべてが完成されていた。


 ――英雄の一頁。


 誰もがそう思う光景だ。


 神代の半歩後ろ。

 常に影の位置に、側近の女が立っている。


 名はリゼル。

 神代家に仕えて十年以上。

 幼少期から神代レイの隣にいた、最も信頼された存在。Aのクラスメイトでもある。


 視線は常に低く、主より前に出ない。

 だが、主の動きはすべて把握している。


 神代が、静かに息を吐いた。


「……くだらないパーティーだ」


 音楽にも、笑い声にも届かない声。


 リゼルは即座に応じる。


「レイ様、これも英雄の務めにございます」


 柔らかく、献身的な声。


「本日は各家の顔合わせが主目的。お言葉と杯で終わる戦もございます」


「戦、ね」


 神代の口角がわずかに歪む。


「剣を抜けぬ場所は、面倒だ」


「剣を抜けぬからこそ、価値がございます」


 リゼルは淡々と言った。


「この後、アルブァ公爵家の令嬢・セレナ様とのご挨拶が控えております。正式な縁談ではございませんが……」


 神代の眉が、ほんのわずかに動く。


「断っておけ」


 即答。


「それは叶いません」


 リゼルは一切躊躇しない。


「アルブァ公爵は、王国北部の軍需と物流を握る要人。神代家にとって、無視できない存在です」


 一拍。


「今回の会合は、“顔を見せるだけ”でも意味がございます」


 神代は舌打ちを飲み込んだ。

 周囲の視線がある。

 英雄は、苛立ちすらも管理しなければならない。


「……ちっ」


 それでも、零れた。


 リゼルは、それを当然のように受け止める。

 驚かない。

 揶揄しない。


 主が主であるために必要な“息継ぎ”を、彼女は知っている。


 会話はそれ以上続かなかった。

 神代は一礼を返し、杯を交わし、短い言葉を置き、沈黙で場を締める。

 政治の場で求められる完璧を、無駄なく演じ切った。


 そして。


 役目を終えたころには、夜も更けていた。



---


  神代家の私邸に戻ると、空気が一変した。


 冷えた石の床。

 暖炉の残り火。

 人の気配を最小限に抑えた、静かな居間。


 神代が外套を脱いだ、その時だった。


「お兄様ーっ!!」


 弾んだ声とともに、白い影が走り寄ってくる。


 神代は反射的に両腕を広げた。


 小さな体温。

 勢いのある衝撃。


 神代ノアだった。


「ただいま、世界一可愛い妹よ」


 先ほどまでの冷たい表情は跡形もない。

 声は柔らかく、目尻が完全に下がっている。


 リゼルは、その変化を当然のものとして見守った。

 驚かない。

 揶揄しない。


 主が主であるために必要な“息継ぎ”を、彼女は知っている。


「今日は何をしてたんだい?」


「今日はね、学院の庭で薬草のお世話してたの! それでね……お兄様に、これ!」


 ノアが差し出したのは、小さな布袋だった。


 中には、乾燥させた薬草と不格好な護符。


 糸は歪み、縫い目も雑だ。

 左右で形も揃っていない。


 だが神代は、息を止めた。


 ゆっくり視線を落とし、両手で受け取る。

 まるで宝物を預かるように。


「……なんて素晴らしい」


 本気で、そう言った。


「私の一生の宝物にする」


「ほんと!?」


「ああ。命より大事にしよう」


 ノアは嬉しそうに笑い、再び兄に抱きつく。


 リゼルは黙って、二つの護符を視界の隅で確認する。


 片方は、今、主の掌にある。

 もう片方は、ノアの首元に揺れている。


 ――対の護符。


 子どもの手で作られた、不完全な守り。


 神代は護符を胸元に収め、ノアの頭を撫でた。


「……眠くなってきたか?」


「ううん……まだ……だいじょうぶ……」


 言葉とは裏腹に、ノアの瞼がゆっくりと落ちていく。


 神代は小さく息を吐いた。


「無理をするな」


 神代はノアを抱き上げた。


 軽い。

 あまりにも軽い。


 だからこそ、腕に込める力は慎重になる。


「起きていられるかい?」


「ううん……むり……」


「なら、部屋まで運ぼう」


「お兄様だいすき……」


 ノアの声は、もう半分夢の中だった。


 神代は彼女を抱いたまま、寝室へ向かう。


 リゼルは半歩後ろ、自然な距離で続いた。


 完璧な英雄。

 完璧な兄。



 神代は返答せず、歩みを止めなかった。


 廊下の先、柔らかな灯りが漏れる寝室の扉が見える。


 腕の中で、ノアの呼吸はすでに規則正しい。

 完全に眠っていた。


 神代は扉を静かに開け、音を立てないよう中へ入る。寝台に近づき、シーツを整え、慎重に身体を下ろした。


 小さな身体が、布の温度に溶ける。


 ノアは一度だけ身じろぎし、無意識に兄の衣服を掴んだ。


 神代は一瞬だけ動きを止め、その手をそっと外し毛布をかける。


 護符が、胸元でかすかに揺れた。


 ――対の護符。


 神代はそれを視界に入れたまま、しばし立ち尽くす。


 戦場なら、ここで立ち止まることはない。

 感情ごと切り捨てて進む。


 だが今は、そうしなかった。


 灯りを落とし、扉を閉める。


 廊下に戻るとリゼルが待っていた。


「お休みになられましたか」


「ああ」


 短い返答。


 それ以上の説明は不要だった。


 リゼルは一礼し、主の歩調に合わせる。


 英雄としての顔が、ゆっくりと戻っていく。

 それは仮面ではない。

 役割だ。


 守るものがある限り、選び続けるための形。


 神代は歩きながら、静かに言った。


「……私は、英雄である前に、兄だ」


 リゼルは答えない。

 否定も、肯定もしない。


 ただ、その言葉を受け取った。

 それで十分だった。


 完璧な英雄。

 完璧な兄。


 リゼルは知っている。


 この主は、

 これまで一度も

 “選択を誤ったことがない”。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ