10話 世界の最適解
夜。
医務棟の廊下は消灯され、非常灯だけが床を照らしている。
白い壁に伸びた影が、ゆっくりと揺れていた。
足音が一つ。
迷いのない歩調。
規則的で、無駄がない。
神代レイは、ある病室の前で止まる。
ネームプレート。
《灰谷ユウ》
神代は、ノックをしない。
引き戸を、静かに開けた。
室内には、三人いた。
ベッドに腰を下ろす灰谷ユウ。
その脇の椅子に、白崎ユイ。
壁際に寄りかかるように立つ、伊吹ソーマ。
会話は止まる。
空気だけが、残る。
神代は、室内に入らない。
敷居の手前で、立ち止まったまま視線を巡らせる。
白崎と伊吹を、一瞬だけ見る。
評価でも警戒でもない。
配置確認だ。
そして、灰谷を見る。
「……灰谷」
低く、平坦な声。
灰谷が視線を上げる。
「……神代くん」
白崎が、息を呑む。
伊吹は、表情を動かさない。
神代は前置きをしない。
「少し時間をもらう」
命令でも依頼でもない。
決定事項だった。
白崎が、思わず言いかける。
「え……灰谷くんは」
だが、伊吹が小さく手で制した。
口を出す場面じゃないと、理解している。
神代は続ける。
「その前に、一つ確認する」
室内の空気が、目に見えて張り詰める。
「入学式の模擬戦」
白崎の肩が、わずかに揺れる。
伊吹の視線が、神代に移る。
「殴っても倒れなかった」
「潰しても、立っていた」
神代は、事実だけを並べる。
「異常な耐久力はあった」
「だが判断も動きも荒かった」
一拍。
「――理解できる範囲だった」
灰谷は黙っている。
神代は、視線を外さず続ける。
「だが、今日の君は違う」
「成長じゃない」
「積み上げでもない」
「説明がつかない」
神代の声が、わずかに低くなる。
「……だから聞く」
室内にいる全員が、
これが核心だと分かる。
神代は、はっきりと言った。
「君は――あの時の君か?」
沈黙。
白崎は息を止め、
伊吹は灰谷を見た。
「……変わってない」
灰谷は短く返す。
「だろうな」
「だからこそ、今の君は異常だ」
断定。
神代は、白崎と伊吹を再び見る。
「この話は、ここでする内容じゃない」
灰谷に向き直る。
「屋上だ」
振り返る直前、言い捨てるように続ける。
「……勘違いするな。これは評価でも、詰問でもない」
一拍。
「選別だ」
神代は、扉を閉めずに背を向けた。
夜風が、医務室に流れ込む。
白崎が、灰谷を見る。
伊吹も、同じ方向を見る。
灰谷は、ゆっくり立ち上がった。
「っっ……」
痛みはある。
だが、それを理由にはしない。
神代は振り返らない。
二人は並ばない。
ただ、同じ方向へ歩き出す。
白崎は、何も言えなかった。
伊吹も、止めなかった。
ここから先は――
二人の世界だと、分かっていたからだ。
【部屋】
部屋では、伊吹と白崎が残された。
灯りは落ち、壁に投げられた影だけが揺れていた。
「灰谷くん……大丈夫かな」
白崎の声は低い。
心配というより、確認だった。
「大丈夫だろ」
伊吹は即答する。
迷いはない。
「神代は悪い奴じゃない。むしろ、良い奴だ。ただ……」
「……ただ?」
伊吹は天井を見る。
そこには何もない。
「灰谷とは、根っこが合わない」
白崎は黙って聞いている。
「神代は本物の英雄だ。“正しい側”に立つ人間。自分が立っている場所を疑わない」
白崎は、視線を落としたまま聞いている。
「積み上げてきたものがまるで違う」
「訓練も、経験も、犠牲も――全部だ」
一拍。
「だから、神代は英雄なんだ」
白崎が、小さく息を吸う。
「……灰谷くんは?」
伊吹は、即答しなかった。
天井を見たまま、ゆっくり言う。
「壊れてる……」
白崎の指が、わずかに動く。
「いや、ぶっ壊れてる……」
「最初からじゃない」
「多分……途中で、どこかを色々踏み外してる……」
伊吹は言葉を選ばない。
「灰谷は俺たちとは明らかに違う。正しさの外に出た人間だ…、もう戻る気もない」
白崎が、静かに言う。
「……でも」
伊吹は、頷く。
「そうだ、あいつだけが、誰も死なない未来を見てる」
少しだけ声が低くなる。
「神代は“救える数”を見る」
「灰谷は“死ぬ一人”を見る」
白崎は、目を閉じる。
「……だから、神代くんは灰谷くんを怖いんだね」
伊吹は短く答える。
一拍。
伊吹は、天井から視線を戻さずに言う。
「怖いんじゃない」
白崎が目を開ける。
「……違うの?」
「違う」
即答。
「神代が恐れてるのは、灰谷が“唯一自分を否定できる存在”だからだ」
白崎の喉が、小さく鳴る。
「英雄ってのはさ」
伊吹は続ける。
「世界に“許されてる”存在なんだ」
一拍。
「でも灰谷は違う」
声が、さらに落ちる。
「“死なせない選択肢”を知ってる」
「しかも、それを現実にしちまった」
白崎は、膝の上で手を握る。
「……それって」
「禁じ手だ」
伊吹は、感情を挟まない。
「誰もが薄々思ってる『もしかしたら、全員助けられるんじゃないか』って」
「でも、それをやらない」
「出来ないことにしてる」
「出来たら、今まで死んだ奴らの意味が壊れるからだ」
白崎の肩が、わずかに震える。
「灰谷は、その“出来ないこと”を壊した」
一拍。
「だから神代は、灰谷を危険だって言う。管理できないからじゃない」
伊吹は、静かに断じる。
「“正しさが揺らぐ”からだ」
白崎は、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「……それでも」
伊吹は、続きを待つ。
「それでも灰谷くんは、間違ってないと思う」
伊吹は、初めて白崎を見る。
「知ってる」
短く。
「だから俺は、あいつの味方だ」
一拍。
「英雄じゃなくてもいい」
「正義じゃなくてもいい」
声が、少しだけ強くなる。
「誰も死ななかった」
「それだけで、十分だ」
白崎は、小さく頷いた。
「……うん。私もそう思う」
部屋の灯りが、微かに揺れる。
二人は、もうそれ以上話さない。
これ以上言葉を足せば、覚悟が“宣言”になってしまうからだ。
【屋上】
風が強い。
フェンスが鳴る音だけが、規則的に夜を刻んでいる。
神代レイは、灰谷と距離を取って立っている。
近づかない。
背後にも回らない。
対話に必要な距離だけを正確に測っている。
「……君は危険だ、灰谷」
前置きはない。
声にも揺れがない。
灰谷は何も言わない。
「能力がどうこうじゃない」
「結果が良かったかどうかでもない」
神代は、街の灯りを見下ろす。
「君は“再現できない行動”を取った」
「それを、成功例として残した」
一拍。
「それが、どれほど致命的か――分かっているか?」
灰谷は答えない。
「私が指揮する戦場で、君の行動を真似した者が出た場合」
神代は淡々と続ける。
「九割は死ぬ」
「一割は運良く生き残る」
「だが――その一割が、次も同じことをする」
視線が、灰谷に向く。
「英雄の失敗は一度で済む」
「例外の成功は、世界を壊す」
灰谷が、静かに言う。
「……それでも、全員生きてた」
「それも事実だ」
即答。
「だが、それは君が正しかった証明じゃない」
神代は一歩踏み出す。
「それは“たまたま壊れなかった”だけだ」
声が、さらに冷える。
「私は、戦場を仕組みで管理する」
「犠牲は計算に入れる」
「切り捨てる命も、最初から含めて判断する」
一切の感情がない。
「それが出来ない者は、指揮官失格だ」
灰谷は、視線を逸らさない。
「……じゃあ、死んだ方が正しかった?」
神代は、間を置かない。
「“死ぬべき局面”は存在する」
断言。
「全員を救えない状況で」
「全員を救おうとする判断は、最悪だ」
風が強くなる。
「君の行動は」
「一度きりなら奇跡だ」
「二度目は、虐殺になる」
灰谷は、黙って聞いている。
「だから言う」
神代は、完全に向き合う。
「私は君を評価しない」
「尊敬もしない」
「戦友にも、仲間にも数えない」
一拍。
「――次に同じ状況が来たら」
低く、鋭く。
「私は、君の判断を排除する」
沈黙。
灰谷は、しばらくして言う。
「……それでも、俺はやる」
神代は、微かに口角を下げる。
「だろうな」
それは理解でも共感でもない。
「だから君は――危険なんだ」
風がフェンスを叩く。
「覚えておくんだな、灰谷」
背を向ける。
「あの戦場では、君は正しかった」
「だが――次は、君を排除する」
一拍。
「それが、この世界の最適解だ」
振り返らないまま。
その言葉だけを残し、神代は屋上を去った。




