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兄の血は、少し甘い  作者: 妙原奇天


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第7話 終わらせる儀式

 最後の週の朝は、冷たいのにやわらかかった。空の色が薄い灰から白へ移る境目で、街の輪郭がいっせいにピントを合わす。マンションのエントランスに入ると、ガラス越しの光が床を細長い四角に切り、それを靴底で踏むたび、今日が本当に「最後の週」なのだと身体の側から納得させられる。インターホンを押す前に、胸ポケットに入れたメモの角を指で確かめた。「招待と自由は、いつもセットで」——自分の字が紙越しにささやく。


 ドアは一度で開いた。麻子が立っていた。髪はきちんと結われ、目の周りの影は薄い。眠れていない人の硬さはなく、覚悟がある人の軽さがあった。


「おはよう、先生」


「おはようございます」


 リビングに入って最初に気づくのは、テーブルの上に赤い皿がないことだった。代わりに、白いカードが一枚。角が丸く、真ん中の文だけが黒く濃い。


 あなたがここにいるなら、一緒に食べよう。いないなら、わたしたちはそれでも食べる。


 響きはどこにも引っかからず、テーブルの木目へするりと染みこんでいく。詠が椅子の背に跨るように座り、顎を乗せてカードを覗き込んだ。律はカードの位置を五ミリ左に寄せ、光の反射が文字を邪魔しない角度を作る。迅は窓の外を見ていた。背中は分厚いのに、影は以前より短い。


「今日は噛まない」


 麻子が言った。器具は箱の中。ダイヤルは最弱のまま外され、コンセントからも抜かれている。視線が箱に集まり、すぐ離れた。視線が離れても、箱はそこにある。あるけれど、使わない。それが今日の条件だ。


 トースターの中でパンが色を変え、スープの鍋がふつふつと音を立てる。湯気は天井まで届く高さを知らないふりをして、低いところで向きを変え、薄くほどける。食卓は準備を終え、空席の椅子の前には何も置かれていない。そこに在るのは、椅子そのものと床の影、そして白いカードだけ。


「祈りの前に、言いたいことを言おう」


 灯生は椅子を引き、座った。首筋の内側に眠る輪は静かで、ただ在りかを明かすように、呼吸に合わせてごくわずかに膨らむ。視界の端に、今朝の空席が入る。沈んでもいない。膨らんでもいない。何も起きていない。その何もが、儀式の中心に座っている。


「今日は噛みません。祈りは言葉でします」


 自分の声が、思ったよりちゃんと届く。届いた声を受け取るように、詠が手を挙げた。ひらひらと、舞台袖から出る俳優のような軽さで。


「先に言う。わたしは、いてもいなくても、生きる。うちがどうであれ、学校がどうであれ、好きな服を着て、好きな靴を擦り減らして、生きる」


 言葉の端に、詠らしい棘が残っている。けれど、その棘は誰かの皮膚を傷つけるためでなく、自分の姿勢を支えるために必要な金具のようにも見えた。律が続ける。胸の前で両手を重ね、軽く息を吸ってから。


「僕は、いてくれたなら嬉しい。いないなら、それはそれで、僕の時間の中で“嬉しい”を増やす。先生が言った“置き換え”を、僕のやり方でやる」


 麻子がカードに視線を落とし、はっきりした声で言う。


「いないあなたを許す」


 わずかに震えたのは声ではなく、テーブルの脚だった。家の言葉が床へ降りる音。迅は目を落とし、こめかみの筋肉をほどいてから、言葉を探すみたいに口を開く。


「いてほしかった。けれど、いないあなたを責めてきたのは、僕だ。儀礼の濃さで安心を買おうとして、他の誰かの呼吸を薄くした。すまない」


 告白には、懺悔の形をした逃げ道が混じりやすい。今の迅の言葉には、それがなかった。責任を引き受ける肩と、これからの席に座るための足が、同じ方向に向いている。


 そのときだった。空席の椅子が、音もなく、ほんのわずかに沈んだ。沈んだ、と誰かが言う前に、椅子はすぐ元に戻った。湯気は屈折せず、真っ直ぐに昇る。カードの白は白のまま。誰も「見えた」とは言わなかった。言わないことで共有される事実がある——見えなかったことが、今朝の合図だった。


 灯生は心の中で別れを言った。口には出さない。声にしないことで、言葉が軽くならないように。首筋はうずかなかった。内側の輪は静かに、座標の位置だけを知らせている。噛み跡は、ただの薄い赤みへと近づき、皮膚の地図の上で意味を失いはじめていた。


「……食べよう」


 麻子の声で、朝食が始まる。パンの焦げ目はいつもより均一で、ナイフが通る音が乾いた。トマトスープの塩気は、昨日よりわずかに薄い。薄いのに、味は足りている。詠が「バター多め」と言いながら、自分の分にだけ厚く塗って、迅の皿にナイフを渡す。律はパンを半分に割って、片方を赤い皿のあった場所に一瞬かざし、すぐ自分の皿に戻す。その一瞬は、誰にも見えないほど短いけれど、たしかに通り過ぎた。


「先生、スープもう一杯いく?」


 詠が訊く。灯生はうなずいた。注がれるスープから立つ湯気は、真っ直ぐ。真っ直ぐは、退屈と安心の境目に立つ形だ。安心が優勢の朝は、会話がうまく転がる。学校の球技大会の話、律の音楽の課題、詠の靴の底が剥がれた話、迅の出張土産の謎のキャンディ。笑い声は、以前より音程が低い。低い笑いは、長持ちする。


 食後、テーブルの上をいっせいに片づける。誰が何をするか、もう言葉は要らない。麻子は器具の箱をいちばん下の棚に移した。目に入らない位置ではない。手に取れる位置でもない。触れようと意志したときだけ触れられる中間に置く。迅は空席の椅子に手をかけた。持ち上げる前に、布の座面を一度撫でる。撫でる手のひらに、誰かの時間の微粒子が乗っている気がして、彼はもう一度だけ撫でた。それから、打ち合わせどおりたたむ。たたむ音は小さく、しかし部屋に刻まれる。たたんだ椅子は、バルコニーの手前の物置へ。取ろうと思えばいつでも取れる。取ろうと思わない限り視界には入らない。


「そこ、空いたね」


 詠が腰に手を当てて、空間を眺める。壁紙の白が広がり、床に陽が落ちる四角が一つ分増える。詠は観葉植物を持ってきた。丸い葉のポトス。長い蔓を窓辺に沿わせ、空いた場所に鉢を置く。


「席の代わりに、光を」


 詠が笑う。律は部屋の隅からギターを持ってきた。チューニングは甘い。けれど、指は迷わずコードを押さえる。ぎこちない和音がひとつ、ふたつ。麻子は手を打って拍をとり、迅は台所でグラスを拭きながら、深く頭を下げた。


「……帰ってきます」


 それは誓いの言葉に近いが、誓いよりも生活の宣言に聞こえた。帰ってくるという動作は、勇気よりも回数で覚えるものだ。椅子に座る回数。食卓でバターを塗る回数。鍋の火を弱める回数。そういう回数で、家はできあがっていく。


 皿洗いを手伝いながら、灯生はふと自分の家の食卓を思い出す。窓辺に貼った「招待」のメモ、空いた席に置いた湯の湯気、来なくていいカード。誰も座らない椅子の前で、湯気だけが伸びたり縮んだりしていた夜。観客でいない生き方は、家の数だけ設計が違う。答えは本に載っていない。載っていないから、書き足していけばいい。自分の家のページは、自分で増やせる。


 台所の流しで、泡がゆっくりと消える。泡の跡がステンレスに花のような形を作り、すぐ消える。消え方は静かだが、消えたという事実は残る。灯生は布巾を絞り、皿の水滴を拭った。拭う手の速さは普段より遅い。遅いのに、気持ちは焦っていない。この家の時間と自分の時間が、同じ速度で並んでいる。


 帰り際。玄関で靴を履く。ドアの隙間から、冷たい外気が入ってくる。律が、いつものように靴べらを差し出した。差し出す角度は、手に覚えさせた角度だ。


「先生」


「うん」


「兄になって、って言ってたの、きっと僕だ」


 律の声は、ようやく置き場所を見つけた言葉の重さを持っていた。自分で持てる重さ。誰かに預けなくても大丈夫な重さ。


「先生に、兄でいてほしい」


 灯生は笑った。笑うと、首筋の内側の輪がふわりと少しだけあたたかくなる。あたたかさは、痕ではない。合図の灯だ。


「じゃあ、弟にしてくれ」


 言ってから、自分の言葉が律の目の奥で静かにほどけるのが分かった。詠が背後から顔を出し、「わたしの分のバターは取っておいてね、兄」と茶化す。迅が「兄が二人はややこしいな」と笑い、麻子が「兄は増えても、スープは薄め」と返す。靴紐を結びながら、灯生はドアの向こうの空を一度見上げた。雲は厚くない。空の白の中に、青の筋がほんの少し見える。


 廊下に出ると、階段の踊り場で足を止めた。今日で終わるのは、噛む儀礼だけだ。終わらせる儀式は、終わりが目的ではない。終わりに向けて、誰かの時間を少しずつ返す。その返し方を身体で覚えるために、朝はある。これからも椅子はたたまれ、時々ひらかれ、またたたまれるのだろう。カードは増え、文言は少しずつ変わるだろう。招待状の裏には、いつでも「来なくていいよ。いつでも、また」が印刷され続ける。


 自分の家に帰ったら、窓辺のメモを貼り直そう。紙を新しくして、文字を少し太くしよう。今の字は、誰かに見せるための字ではない。自分に読ませるための字だ。読み返すたびに、席はそこに用意される。


 マンションを出ると、風が顔を撫でた。冬の終わりの風。首筋の内側の輪は、何も言わず、何も求めず、ただそこにあった。触れなくても分かる。分かるから、触れないでいられる。肩まで深く息を入れ、ゆっくり吐く。呼吸は儀式じゃない。ただの生きる動作だ。けれど、繰り返した数だけ、やさしい。やさしいものは、続く。


 角を曲がる。遠くでトラックのブレーキの空気が抜ける音。音は短く、すぐ街に溶けた。灯生はその短さを、一歩分のリズムに重ねる。明日の朝、自分の食卓で湯気が真っ直ぐに昇るのを、同じ速さで見よう。自分の席を作り直す番は、もう来ている。観客でいない生き方は、格好よくも劇的でもない。皿を拭き、椅子を引き、カードを置く。そのくり返しの中に、終わらせる儀式と、続ける生活が並ぶ。


 最後に振り返ると、四階の窓辺で、ポトスの葉が小さく揺れた。風の向きは分からない。分からないけれど、確かに光の方へ伸びていた。光の方へ——それで十分だ。灯生は前を向き、ポケットのメモの角をもう一度指先で押さえた。紙の下で、自分の字が、またささやく。


 招待と自由は、いつもセットで。

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