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兄の血は、少し甘い  作者: 妙原奇天


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第6話 噛み跡の読み方

 夜、スマホが机の上で小さく震えた。通知音は鳴らないようにしてある。それでも、画面の白さが部屋の空気を一段浅くする。メッセージは短い。


〈明日の朝、話がある〉


 送り主は麻子。句点はない。ないことが、あるときは丁寧よりも真剣に見える。灯生は返信の言葉をいくつか指先に浮かべて、どれも打たずに画面を伏せた。伏せたガラスに、天井灯が丸く映る。丸は見る方向で楕円になる。楕円は落ち着きの形に似ている。首筋の内側で、小さな円が一度だけ脈打った。噛み跡の熱はもう痛みではないが、存在感は消えない。眠りの手前で、「明日」という言葉が水に落ちた硬貨みたいに沈んでいき、その輪が静かに広がるのを見た。


     *


 翌朝。曇り空の色は、路上の白線を少し青く見せる。マンションのエントランスは、朝刊のインクの匂いが薄く漂っていた。インターホンを押すと、すぐにドアのロックが外れる音。麻子が迎えに出る。髪は結わかれて、首の後ろに白いゴムが一つ。目の下の影は薄いのに、まぶたの動きが慎重だ。


「おはよう、先生。朝ごはんの前に少し、話せる?」


「はい」


 リビングに入ると、迅のコートは掛けられていない。廊下の隅に置かれた革靴の並びがいつもより広い。家は不在を配置で知らせる。台所は火が入っておらず、シンクの金属が冷たい光を返す。麻子は棚の最上段から、箱をひとつ下ろした。厚紙の蓋を開け、古いノートを取り出す。表紙は黒地に細い罫線。端が擦れて、角が丸くなっている。


「これ、見てほしい。先生に渡したいわけじゃない。けど、見て、いっしょに持ってもらいたい」


 渡されたノートは三冊。産科の記録、家計簿、そして日記。紙の重さがそれぞれ違う。産科の記録の紙は薄く、インクが裏に透ける。家計簿は方眼がきちんとしていて、数字の列が寒いほど整っている。日記は罫線が広く、文字が余白に触れそうで触れない。灯生はページをめくった。紙が擦れ合う音は、冬の朝の乾いた指先に似合う。


「二年前の冬」


 麻子の声は、ノートの紙を傷めないようにする音量だった。


「迅は出張先から帰れなかった。私は、ひとりで“いない弟”を見送った。病院のベッドの上は、匂いまで白くて、音のない音がした。お医者さんは、正しい言葉を正しい順序で言ってくれた。私が覚えているのは、ベッドの柵に手をかけたとき、手の熱が余ってしまったこと。余った熱のやり場がなくて、最初の一週間はずっと皿洗いをしていた」


 ページを指先でなぞる。産科の記録には、週数、血圧、胎児心拍、母体体重。数字はどれも、終わった後のものだ。日記には、その日の気圧や風の匂いが短く書き込まれていた。冬の始まりの午後、北風が階段の踊り場で渦を巻いたこと。病院の帰りに寄ったコンビニで、温かいおでんの湯気が涙の代わりになったこと。


「そこから、家族は少しずつほころんだ」


 麻子は続ける。


「ほころびは、最初は優しさの形をしていた。だれもが相手を思って黙るから、家は静かで、静かすぎて、食器の小さな当たり音が大げさに響いた。儀礼は、その音を整理するための道具だった。血で結び直すなんて、最初は馬鹿げていると思った。でも、誰もが痛みの在り処を言えなかったから、まず、置き場所を作ったの」


 灯生は家計簿のページを見た。レシートの貼られた月、空白の多い月。電気代が少し上がった冬。暖房の温度設定が上がったのだろうか。空席に向けて置かれる紅茶のティーバッグの数が、メモ欄に小さく刻まれている月。数字の端に、暮らしの影が付いている。


「父さんはね」


 律が、いつの間にか背後に来ていた。手には自分のノート。表紙には、観測者ノートと細い字で書いてある。


「儀礼が強ければ、帰らなくても許されると思ってる気がする。僕は、そういう儀礼は嫌いだ。強さで免罪されるものは、最初から弱い」


 詠はテーブルの角に肘をつき、顎を乗せた。背もたれに脚を引っ掛け、視線をこちらに寄越す。


「わたしはずっと、“いない弟”が来るのが怖かった。来たら、“いない”のが本当になっちゃうから。いないって言えるうちは、まだ、いないことに抵抗できるでしょ。いる、って言っちゃったら、そこに何かが住む。住むのは、こわい」


 灯生は日記を閉じた。表紙に指が触れ、紙の角の丸みが皮膚の中まで移る。首筋の熱に、そっと触れる。熱は、噛まれたという事実の痕跡ではなく、関係の位置を知らせる灯りのように感じられた。言葉は、自然に出た。


「噛み跡は、血の印じゃない。痛みの地図だと思う。だれの痛みか、どこに向けるか、読むための印字。ここからここまでが今の道ですって、教えるための赤いピン」


 麻子がうなずいた。律がペン先を動かし、詠がため息をついて、でも目は逃げなかった。


「だから、終わらせ方を作ろう。儀礼は刃にも灯にもなる。刃の使い方ばかり覚えると、いつか誰かが手を切る。灯の置き方を、段取りにする」


 麻子はメモ紙を取り出し、項目を書き始めた。


「今週は“招待のみ、噛まない”。来週は“席を減らす”。再来週は“椅子を片付ける”。そして最後に“招待状の書き方を変える”。全部、声にする。“ここにいてもいい/いなくてもいい”。紙に書いて、貼って、朝に読む」


 詠が眉を上げた。


「椅子、片付けるの?」


「片付けるというより、たたむ。見えるところから、見える別の場所へ。捨てるとは言っていない」


「たたんだ椅子、どこ置くの」


「バルコニーの物置。雨に濡れない位置」


 詠は「ふうん」と言い、目を細めた。律は、曜日と項目をきれいに整列させて書き写す。書き写す行為は、家の中の空気を整える。


 昼前、迅からメッセージが入った。〈今夜帰る〉。句点はない。短い言葉は、電話よりも速く家の中を回る。麻子は「分かった」とだけ返し、鍋に水を張った。水の表面が、一瞬で家族の顔を映して、すぐに透明に戻る。


     *


 夜。玄関の鍵が二度鳴り、迅が入ってきた。コートの襟に外の冷えが残っている。テーブルの上には、麻子の書いた計画が置かれていて、見出しに丸がついている。迅はそれを見て、顔の筋肉を上下に揺らし、言葉が出るまでに数秒かかった。


「なんだ、これは」


 低く、乾いた声。麻子は頷きも否定もせず、紙に手を添えた。


「儀礼の終わらせ方。段取りにした」


「終わらせる? 馬鹿を言うな。いなくなるのが怖いだけだ!」


 迅の声は、床板を跳ねさせた。詠がびくりとして、すぐに背すじを伸ばす。律はノートを閉じ、両手を膝に置いた。灯生は立ち上がりかけて、立たないことにした。座ったままでも届く言葉がある。


「いなくなったのは、最初から」


 麻子の声は、ドアを叩かないで入ってくる声の出し方だ。


「だからこそ、あなたは帰ってきて。いない誰かに、あなたを預けすぎないで。あなたが帰る場所を、ここでまた作る」


「帰ってきている! 週に一度は、こうして——」


「週に一度、儀礼にだけ来るのは、帰っているうちに入らない」


 詠が、椅子の背もたれから半分身を起こし、うつむいた。律は呼吸の間隔を整え直した。迅は紙を掴み、掴んだ指に力が入る。紙の角が歪む。


 灯生は、迅を見た。逃げない視線を用意して、首筋の熱が言葉に形を与えるのを待った。


「あなたが一番、招待されるべきです」


 言い切った言葉は、頼みでも命令でもない。事実を静かに置いたつもりだった。迅の肩が、言葉の重さを測るみたいに上下する。


「……招待?」


「はい。招待状は、家族の内側からだけじゃなく、外側からも出せる。先生の私から、迅さんに。明日の朝、ここに座ってください。噛まない朝でもいい。座るだけの朝でもいい」


「俺は……」


 言葉が続かない。続けると、崩れる。続けなければ、固まる。固まると、割れる。迅の膝が力を失い、椅子に座り込んだ。背もたれの木が一度だけ軋んだ。麻子が彼の肩に手を置く。置き方は、刃の側に手を伸ばすときの慎重さに似ている。


「帰る勇気がない」


 迅はようやく、床に落ちるほどの小ささで言った。灯生は頷いた。頷きは承認ではなく、通訳の合図だ。


「勇気は、噛み跡の数じゃない。席に座る回数です」


 その言葉は、自分で考えていたよりもずっと、家の空気に馴染んだ。律が息を吸い、詠が目を閉じる。麻子は「そうね」と言って、同じ強さで繰り返した。


「そう。席に座る回数」


 迅の目から、こらえ方を忘れた涙が落ちた。涙は落ちるとき、音を立てない。けれど、落ちた後の呼吸が音になる。嗚咽は誰にも上手にはできない。上手にしなくていいこともある。詠は無言でティッシュを差し出し、律は水をコップに注ぎ、灯生は静かに立って、テーブルの端に置いた赤い皿の角度を少し直した。皿の赤は、夜の照明で橙に近くなる。橙は、灯の色だ。


 家は、その夜、初めて同じ温度で泣いた。泣く温度は、こころの表面をやわらかくする。やわらかくなった表面に、言葉が沈みすぎない程度に乗る。麻子は計画の紙に、新しい行を一本書き足した。


「明日の朝、“噛まない”。全員で、座るだけ」


 迅は紙を見て、うなずいた。うなずきは、一文字ずつ書くのとは違う合意の仕方だ。詠は大きく息を吐いて、椅子の背もたれに体重を預けた。


「座るだけ、なら、わたしも賛成」


 律はノートを開き、今日の日付の欄に二行だけ書いた。


〈儀礼は刃から灯へ。席は、帰るための座標。〉


 灯生は首筋の噛み跡に触れた。熱は、言葉の温度に近い。印は印のまま、地図は地図のまま。地図を見ながら、足を運ぶ。明日の朝の座標は、動かない。座標に座るだけの勇気を、ここに集める。


     *


 翌朝。空は薄い青に戻っていた。家の中は、いつもの匂い。パンの焼ける甘さ、玉ねぎの透明、紅茶の渋み、そして少しのアルコール。器具は箱の中で眠っている。赤い皿は、座布団の上。


「始めよう」


 迅が言った。昨日の涙は、顔からは消えているが、声の中に薄く残っている。全員が席に座る。空席の前には、湯気だけの湯飲み。祈りは、言葉が少なく、呼吸が長い。


「今日の祈りは、座るだけ」


 麻子が言う。詠は脚を組み替え、律は背筋を伸ばした。灯生は赤い皿の前で、両手を膝に置く。首筋の内側の円は、静かだった。静かな円に、家族それぞれの時間が重なる。重なったところだけ少し温度が上がり、窓のガラスがわずかに曇る。


 見えない誰かの席は、沈まない。沈まないことが、今日は目印だった。湯気は真っ直ぐ上がり、途中で折れず、天井の白に溶けた。食卓は、音を取り戻す。パンのカリ、とスープのすすり音。詠がバターを取りすぎて、律が笑い、迅が「塩は控えめに」と真面目くさって言う。麻子が「そうね」と笑う。灯生は、赤い皿の前で、“座るだけ”の意味を体に記憶させた。


 食後、麻子は昨日の段取りの紙をもう一度広げ、角に小さく丸を付けた。


「一段、進んだ」


 迅は頷き、詠は赤い皿の上に小さなパンくずを集めて、そっと払い落とした。律はメモに追加する。


〈“噛まない”の朝。沈まない椅子。座る勇気の数え方。〉


 灯生は、メモ帳を取り出し、短く書いた。


〈噛み跡は、痛みの地図。地図は、行き先のためにある。〉


 窓の外で、風が一度だけ向きを変えた。向きを変えた音は聞こえない。聞こえないけれど、カーテンのわずかな揺れが見せてくれる。首筋の内側の円が、淡く打った。合図だ。合図のあとは、決めてある。次の週、椅子をたたむ。たたんだ椅子は、物置のいちばん奥ではなく、手前に。取り出せる距離に置く。招待状の文言を、表と裏で変える。表に「一緒に食べませんか」。裏に「来なくていいよ。いつでも、また」。


 家族は、もう家族ごっこではなかった。ごっこは形を先に用意する遊びで、本物は形のなかに時間を注ぐ仕事だ。注ぐ時間の味は、少し薄いほうが続く。薄い味は、次の一口を呼ぶ。呼ばれた一口が、噛み跡の読み方を、もう少しだけやさしくする。

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