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兄の血は、少し甘い  作者: 妙原奇天


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第5話 家族ごっこと家族

 土曜の午前は、窓ガラスの白さが一番素直だ。雲が切れると光がまっすぐ入ってきて、机の上の消しゴムカスまで輪郭を持つ。英語の長文を読み終えた律がシャープペンを置き、詠があくびをしながら伸びをする。キッチンでは麻子がカップを三つ、等間隔に並べて紅茶を注いだ。湯気は控えめ。蜂蜜はスプーンの背で一度だけカップの縁に当たり、音のしない音を残す。

「先生」

 麻子がテーブルに封筒を置いた。前に迅が差し出したときと同じ大きさ。色も同じ白。けれど、手で持ったときの紙の張りが違う。内側のものが厚みではなく温度で重さを作っている感じ。

「これを受け取ってほしいの。お金じゃないから、安心して」

 灯生は封筒を両手で受け取った。開ける前から、紙の内側でペンのインクの匂いが微かにした。角を指で押さえて、そっと口を開く。中から、便箋を三つ折りにしたものが出てきた。罫線の淡い紙に、丁寧な字。

 日曜の朝、先生を正式に招きたい。あなたを“家族”の席に。

 文字は震えていないのに、読み終えた指先がわずかに震えた。招待状。学校行事や友だちの誕生日会とは違う、食卓の招待。灯生は一度、便箋を戻し、封筒の縁をそっと撫でた。紙が呼吸しているようだと思った。

「僕は、家庭教師で」

 反射的にそう言いかけた言葉は、自分の喉の手前で止まった。役割を握りしめると、熱で紙が焦げる。麻子は首を横に振る。

「役割は増えるものよ。足すのは、壊すことじゃない。嫌なら、もちろん断って。無理強いはしない」

 詠が、からかう準備をするように笑って、言った。

「家族ごっこに先生を巻き込むの?」

 言葉は冷たく光った。けれど、目だけは期待を隠し損ねている。からかいには、期待の形を先に作っておく効果がある。叶わなくても笑えるように。叶ったら、もっと笑えるように。

「ごっこは悪くない言い方だと思う」

 灯生は言った。自分でも意外な言い方だった。詠が瞬きを一度多くして、律が息を少し長く吐いた。

「ごっこは、形を先に作る。中身は、あとから追いつく。危険もあるけど、助けにもなる。僕は……」

 続きの言葉は、律の声に軽く遮られた。

「先生が来てくれたら、僕は多分、ちゃんと泣ける」

 さらりと出てきた告白は、どこにもぶつからずにテーブルの上に置かれた。麻子は何も言わなかった。迅は新聞の影で眉を寄せ、ページをめくる音だけを増やした。反対の言葉は出なかった。出さないことで、ひとつの同意が形になることがある。

「日曜の朝、行きます」

 灯生は封筒を大事に折りたたみ、鞄の内ポケットに入れた。ジッパーを閉める音がいつもより静かに感じる。「家族」という文字が、布の中で柔らかく横になった。

 勉強が終わると、時計は十一時を回っていた。昼の手前の空は、色の名前が曖昧になる時間帯で、白とも灰とも言いにくい。帰り支度をして玄関に向かう途中、詠が小声で言った。

「先生、ほんとに来るなら、トーストは厚めにしてって迅に言っといて」

「自分で言いなよ」

「直接は言いにくいの。ごっこの準備ってやつ」

 言いにくいことの半分は、誰かに運んでもらうと軽くなる。灯生は頷いて、スニーカーの踵を踏まないように指で直した。

     *

 日曜の朝は、気温がほんの少しだけ上がった。空気の層が薄く入れ替わっただけで、息の白さは形を変える。灯生はいつもより少し早くマンションに着いた。インターホンを押すと、麻子の声がいつもより柔らかい響きで返ってきた。

「早いね。台所、手伝ってくれる?」

「もちろん」

 エプロンは薄い生成り色で、紐は短め。灯生が結ぶと、結び目が前で小さくふたつ揺れた。キッチンカウンターには、トマト、玉ねぎ、バジル。パンは厚切りが二種類、耳の色が違う。スープ鍋の中で玉ねぎが透明になりかけていて、木べらが鍋肌を擦る音が心地よい。

「器具は弱くしておく。今日は、軽く噛むだけ」

 麻子が透明な器具のダイヤルを確認する。ランプは穏やかな色に変わっていた。迅は窓辺に立ち、外の空の色を理由に沈黙しているように見えた。詠は、空席の椅子に新しい座布団を置いた。薄いグレーに小さな星の刺繍。刺繍の白は、冬の光に似合う。

「席順、どうする?」

 律が訊ねる。食卓の四辺を目で測り、動線まで考えているような顔。麻子が提案した。

「今日は、先生が赤い皿の前に座る?」

 胸の奥が、きゅっとなった。招待状の文字が、体の内側で読み直される。灯生は一度うなずき、赤い皿の前に座った。テーブルの木目に指先を置く。手が少し汗ばんでいる。緊張は、隠しても隠れない。

 スープの仕上げにトマトを加え、塩を少し、バジルを一枚。パンはオーブントースターへ。ほどなく、軽い焦げの匂いが部屋に広がった。迅が振り向き、口の端だけで微笑んだ。その笑いは言葉にならなかったが、反対でもなかった。

「始めようか」

 食卓に全員が着く。空席の前には、赤い皿と小さなパン。座布団の上の布が、今日は最初からわずかに沈んで見えた。気のせいかもしれない。気のせいなら、それでいい。気のせいではないなら、なおのこと、いい。

 祈りの前に、灯生は息を整え、言った。

「僕は、観客をやめます。今日の席は、家族にしてほしい。血を分ける儀礼は、僕の同意の上で、軽く」

 言葉は机の上に一枚の紙のように置かれ、誰もそれを破らなかった。麻子がうなずき、器具を手に取る。消毒綿の冷たさが首筋の皮膚に触れ、ひと呼吸分の間を置いて、器具のカップがそっと当たる。ボタンが押される。小さな吸い。痛みはない。熱が走り、皮膚の下に小さな灯が点る。視界の端で、空気が沈む気配。座布団の布の繊維が、ほんの少しだけ方向を変える。

 その瞬間、律の呼吸が音になった。抑えようとした嗚咽は抑えられず、肩に波が立つ。涙は出始めると止め方が分からなくなる。詠が立ち上がり、ため息をつくふりをしてコップに水を注ぎ、律の手に押しつける。押しつける力は優しかった。迅は席を立ち、窓辺で背中を外に向けた。背中で自分をしつけるやり方。麻子は、言葉を選んでから、ただ一言だけ置く。

「ありがとう」

 ありがとうは、誰に向けたか曖昧だ。曖昧でよかった。泣いている人に、言葉は一つで十分だ。灯生は律の背中を軽く撫でた。撫でる手の甲に、さっきの器具の余熱が残っているのが、自分で分かった。

「……うん、ごめん」

 律が鼻をすする。謝る必要はないが、謝ることで呼吸の形が戻るなら、それも儀礼だ。詠は席に戻り、赤い皿の上のパンを半分に割って、ひとつを皿に戻した。戻したパンの向きが揃う。向きが揃うと、気持ちが揃うわけじゃない。けれど、揃えないよりは、揃えたほうが話が始めやすい。

 祈りが短く終わり、朝食が始まる。スープは今日もやさしい。トマトの酸味は角を落とし、玉ねぎの甘みは言い訳を作らない。パンは厚く、焦げ目は均一ではない。均一ではないのは、家庭の誠実さだ。迅はトーストにバターを塗りすぎて、詠に肘で突かれる。律はまだ鼻声のまま、スープをすする音で気持ちを整えている。灯生は、赤い皿の前に座っているという事実を、噛むみたいに確かめた。噛むのはパンで、確かめるのは自分の位置。

 食後、テーブルの上にコップの輪染みがいくつか残った。布巾で拭きながら、灯生は言った。

「儀礼は、終わらせる準備をしたい。今は続ける。でも、終わらせるために。終わらせ方を、みんなで設計しよう」

 詠が目を見開く。驚きは反射的に表情に出る年齢だ。

「終わらせられるの?」

「終わらせるのは喪失じゃなくて、依存。招き続けるのは自由だけど、来ない自由も残す。招待状の裏側に、自由席の案内も印刷しておく感じ」

 喩えを言い終える前に、麻子が頷いた。迅は顔をしかめ、紙ナプキンを強く丸めた。丸める音は、紙の繊維が小さく悲鳴を上げる音に近い。

「設計会議をしよう」

 律がメモ帳を持ってきて、見出しを「儀礼の設計」と書いた。ペン先は迷わない。詠がペン立てから色ペンを三本抜き、見出しに下線を引く。

「項目、出すね。曜日、強度、参加の自由、招待の文言、拒否のサイン」

 詠は音読しながら指を折っていく。指の関節が鳴らないように気をつけるのは、彼女の小さなこだわりだ。麻子は「拒否のサイン」をいちばん上に書いて、と言った。律が紙の左上に小さく四角を作り、「今朝は参加しません」のサインをどう表示するか考える。詠は「冷蔵庫に貼る用のマグネットにする? 色は青。赤は緊張するから」と提案した。

 迅が、低い声で言った。

「そんなものは要らない」

 声音は震えた。震えは否定の熱の高さを示すときがある。灯生は迅を見る。視線は逃げない。逃げないために、肩の力を一段だけ抜いた。

「必要です。拒否が見える形で置かれている家は、同意が毎回確認できる家になる。同意が確認できると、参加の意味が強くなる。濃さは数字だけじゃなく、自由の幅でも決まる」

 言葉は、迅の前で一度跳ねて、テーブルの上に落ちた。麻子がその言葉を拾い上げるように、メモに丸をつける。「拒否のサイン」を太字にした。律はペンを止め、迅の顔を見た。詠は無言でマグネットのイラストを描き足した。四角の中に、小さな家の形と、出入り自由の矢印。

「……分かった」

 迅は紙ナプキンを広げ直し、平らにしてから丁寧に畳んだ。その動作だけで、言葉の刃の先が目に見えないところで鈍ったのがわかった。誰かが折り目を変えると、座り心地が変わる。

「曜日は、日曜と水曜だけにしよう。毎日は、家にならない」

 麻子の提案に、律が「賛成」と即答した。詠は「強度は“軽く噛む”固定。例外は、全員一致のときだけ」と書き足す。灯生は「招待の文言」に目を落とした。言葉は、宛名と同じくらい重い。

「文言は、家族であることを前提にしない。『一緒に食べませんか』でいい。『戻ってきて』や『いてください』は使わない」

 詠がペンを止め、こちらを見た。律はゆっくりうなずいた。麻子は「来ない自由」のカードについて、最初に紙を切った。小さなカード。白。角は丸く。そこに、ペンで一文。

 今日は来なくていいよ。いつでも、また。

 カードの字は、麻子の字でも迅の字でもなかった。灯生がペンを手に取り、カードの右下に小さく「より、家族」と書き添えた。署名は、名前でなくていいときがある。

 会議は一時間ほどで終わった。紙には色の違う下線がいくつも引かれ、四角と丸が並び、余白には詠の描いた座布団の落書きが踊っている。落書きは、決まったことをやわらかくする。硬い決定の上に、軽い線が乗ると、触れやすくなる。

 玄関で靴を履くとき、迅が小さな声で言った。

「先生……すまなかった。前は、濃くしようとして」

「すみませんは、いつでも取り消していい言葉です」

 灯生はそう答え、自分でも少し笑った。迅も笑った。笑うと、目の下の影が短くなる。影が短いときは、誰かの顔をまっすぐ見られる。

     *

 夕方。家に帰ると、居間の空気が少しだけ広い。父はもう出かけ、母は台所でレシピ動画を見ているところだった。灯生は食卓の上を片づけ、ランチョンマットを四枚並べた。いつもは二枚だ。四枚にすると、余白が変わる。余白に風が通る感じ。

 自分の席の向かいに、空の席を一つ。そこに、湯飲みを置く。湯は、湯のまま。何も入れない。湯気だけが立つ。隣に、小さなカードを置いた。さっき、麻子と一緒に決めた文言そのままのカード。

 来なくていいよ。いつでも、また。

 カードの角は丸い。丸い角は、優しいだけじゃない。ぶつかったときに、ぶつかったことを教えてくれる丸さだ。窓辺に、もう一枚。今度は短い紙切れに「招待」と書いて貼った。自分の字は、他人に見せるときより少し崩れる。崩れた字のほうが、食卓には似合う。

 ふざけている。やっている自分でそう思う。けれど、やってみなければ分からないことは、食卓に多い。甘さと塩気の境目、パンの焼き色の好み、湯飲みの高さ、椅子の軋む音。どれも、手触りでしか覚えられない。観客をやめる準備は、宣言より先に手触りから始めるのがいい。

 スマホのメモを開く。今日の会議の項目を転記し、最後に一行だけ、別の色で書いた。

 招待と自由は、いつもセットで。

 指でその文をなぞる。画面のガラスは冷たい。指の腹は温かい。ガラスと皮膚の温度差の上で、言葉は少しだけ強くなる。窓の外で、最終の回収トラックが角を曲がる。ブレーキの空気が抜ける音は、あいかわらず長く、あいかわらず短い。

 首筋の内側で、円が一つ、静かに脈を打った。痛みではない。呼び鈴でもない。合図。合図のあとの動作は、もう決めてある。明日の朝、赤い皿をそっとテーブルに置く。置いたあと、手を離す。離すことで、そこに「来ない自由」も置かれる。来てもいい。来なくてもいい。どちらでも、家は家でいられるように。

 家族ごっこと家族の境目は、厚紙一枚ぶんくらいの差しかない。差があるから、両側に座れる。灯生はベッドに入り、目を閉じた。夢は来なかった。かわりに、廊下の時計が一定の間隔で時を刻む音が聞こえた。一定は、安心のかたちに似ている。安心は、明日の席順をまっすぐにする。明日の朝、座布団の刺繍の星が何個見えるか、指で数える余裕があるだろう。それで十分だと思えた。


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