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兄の血は、少し甘い  作者: 妙原奇天


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第4話 朝の台所には刃がある

 平日の朝は、曜日の匂いがする。月曜は乾いた紙の匂い、水曜は茹でたブロッコリーの湯気、金曜はフライパンの油の温度。今朝は火曜で、冷たい水の上に薄く油を垂らしたときの、表面張力の光だけが早起きしているような気配だった。灯生がマンションの階段を上がると、扉の向こうで椅子の脚が床を擦る短い音がした。金属ではない。木の脚。角の立ち方で、空気の緊張が分かる。


 インターホンを押すより先に、内側からノブが回った。麻子が顔を出す。目の下のクマは薄いのに、目の奥の眠気が抜けていない。


「おはよう、先生。ごめんね、少し、騒がしいかもしれない」


「大丈夫です」


 靴を脱いで上がると、台所の空気が張りつめているのが一瞬で分かった。匂いの層がいつもより厚い。コーヒー、トマト、アルコール消毒液、そしてプラスチックの新しい匂い。テーブルの端に透明な器具がまとめて置かれ、ひとつだけ表示ランプがいつもと違う色で点いている。迅の指がその器具の側面に触れ、設定ダイヤルを回していた。


「濃度を上げたほうがいい。昨日は反応が薄かった。せめて週の始まりぐらい、はっきりと混ぜないと」


「勝手にいじらないで」


 麻子は鍋の前に立ちながら、振り返らずに言った。火は弱く、スープはまだ沸かない。鍋の縁から逃げる湯気は、まっすぐ上がらず、光の筋に沿って斜めに折れる。詠は椅子に斜めに腰を掛け、足をぶらぶらさせ、律はテーブルの角で器具の箱に貼られた注意書きを読み返していた。


「これは痛みを分けるためのものじゃないの」


 麻子の声は、湯の表面と同じ静けさで、しかし縁には熱があった。


「痛みを共有しなければ癒えない」


 迅の言い方は、標語に近い。標語は便利だが、長く置いておくと紙の角で指を切る。詠が椅子の脚を蹴った。短い音。床の木目がその衝撃を吸う。


「痛いだけの共有なら、ただの暴力でしょ」


 空気の向こう側に、細い刃が立った。台所の刃は包丁だけじゃない。言葉の角、鍋の縁、冷蔵庫の扉の磁力、引き出しのレールの止まり方。どれも、気をつけていないと、皮膚の奥にまで入ってくる。


 迅は器具の表示を見た。数字はいつもの二倍に上がっている。灯生は一歩近づいて、詠の視線とぶつかった。詠の瞳は、怒るとすっきりするタイプの黒だった。怒りが混濁を洗い流して、黒が黒のまま透明になる。


「先生はどう思う」


 迅が急にこちらを振り向いた。問いというより、判決を求める言い方。外の裁判官。灯生は口内の温度を測るように、舌で歯の裏を押した。外の、という言葉は相手が言わなくても、先に自分の耳に届く。


「今日は、儀礼を休みにしませんか」


 声は思っていたよりも平らに出た。驚くほど揺れが少なかった。鍋の湯気が一瞬だけ強くなり、すぐ落ち着く。沈黙が、テーブルの上に四角く置かれる。麻子がほっとした顔でうなずき、律が「そうしよう」と言った。その「そうしよう」は、決定の言葉ではなく、台に布をかける動作に似ていた。布さえ掛かれば、硬い角は一時的に隠れる。


 迅は苛立ちを隠さなかった。隠さないことで正しさが増えると信じる類いの人は、隠し方を忘れがちだ。


「外の子どもが何を」


 外の、という音が刃のように床に落ちた。灯生は拾わなかった。拾うと、手が切れる。詠が椅子の上で体勢を変え、木の背もたれに肩を預ける。律は器具のふたを閉め、箱に戻した。


「朝食にしましょう」


 麻子はスープをよそい、トーストを皿に置き、サラダの上に粉チーズをふった。朝食はぎこちなく進んだ。いつもは空席の前に薄く沈む気配が、今日は沈まない。誰も招かれていないのだ。招待状が出ていない家の朝は、窓の鍵を閉め忘れたみたいに、わずかに風が穴を探している。


 灯生は引き出しの場所を覚えていた。木の持ち手を引いて、一番奥の赤い皿を取り出す。細い縁に金の線が一本。クリスマスの残りのような、季節外れの華やぎ。ルール違反だと思いながら、空席の前にそっと置いた。皿がテーブルに触れる音は、湯気の温度を壊さなかった。


「僕が勝手にするのはルール違反かもしれない。でも、招待状はここに」


 言い終えると、詠が小さく笑った。笑いは短く、視線の隅でだけ光る。律は泣きそうな顔で礼を言う。迅は黙った。黙ると、言葉より先に肩が固くなる。麻子は皿の端を指で一度だけ撫で、トマトスープの器をその赤い皿に重ね直した。重ねた瞬間、湯気がいつもの高さより三センチ高く上がる。三センチは誤差と呼ばれて良い。けれど、今朝の誤差は、食卓に残った。


 授業は、キッチンタイマーの音で切り替えた。英語の並び替え。詠は単語カードの角を整え、律は例文を三通りに作り変える。迅は電話に出て、バルコニーで短く話し、戻ってきてソファに座った。麻子は台所の片づけをして、灯生の入れた薄い紅茶を一口——それから、振り返った。


「先生」


「はい」


「儀礼の意味を、あなたにもちゃんと渡したい。外側から“見る”だけでは、いつか誤解に変わるでしょう。今日は休みにしてくれてありがとう。でも、その代わり、あとで台所で少しだけ話せる?」


「お願いします。ぼくにも、教えてほしい。家族の外側からじゃなく、内側から見て言葉にしたい」


 律がこちらを見る。詠は顔をそむけ、しかし耳はこっちへ向いた。迅は新聞のページをめくるふりをして、めくったページを読まない。タイマーが鳴り、詠が最初の問題を解き始めた。


 午前の最後のページが終わる頃、台所に湯が沸いた。電気ポットの沸騰音は、家の心拍数だ。麻子はマグを二つ出し、ティーバッグを入れ、湯を注ぐ。湯気の白が薄くなるまで待ち、蜂蜜をスプーン一杯。木のスプーンから落ちる蜂蜜の筋は、夜より朝のほうが細い。


「儀礼は、やりなおしの道具」


 麻子は言った。言葉をポットの外側で温めるみたいに、ゆっくり。


「血で結び直すためではなく、血を“手放す”ためにある。血は親切に見えて、しばしば残酷な名札を作る。『誰のものか』を先に決めてしまうから。私たちは喪失を受け取るとき、たいてい、名前にしがみつく。名前のために痛みが増える。だから、まず名前をつけない。次に、血を薄くする。薄くするための反復が、朝の儀礼。痛みを分けるためではなく、痛みを“淡くする”ために。反復は、淡さに向かうための階段」


 灯生は黙って聞いた。紅茶の表面に、窓の光が長方形で映る。そこに指を入れたくなるほど、言葉は熱かった。


「でも、薄くすることに耐えられない人がいる。濃くして確かめたい人が。濃くすれば輪郭が見えるから、安心する。迅は、そういうところがある」


「濃くするのは、暴走だと思いました」


「ええ。だから、止める。止めるのは家庭の力で、先生の役ではない。でも、先生が今朝、休みにしませんかと言ってくれたことで、彼の刃は少しだけ鞘に入った。ありがとう」


 麻子は湯気の向こうで微笑んだ。微笑みは、刃の側面に光を走らせて、刃先を鈍らせる。


「先生は、家族じゃない。でも、家族の内側に足の指先くらいは置いていい。濡れた床で滑らないように、片足だけ。そして、いつでも引き上げられる位置で」


「はい」


「先生の家は——」


「静かです」


「静かさは、儀礼の一種。音の儀礼。静けさで混ざるものもある。静けさで分かれるものも」


 麻子は言葉をそこで止め、鍋の蓋を持ち上げた。スープはちょうど良い香りで、泡は小さく、塩はきっと足り過ぎない。台所には刃がある。刃は野菜を切り、パンを分け、袋を開け、封筒を切り裂く。使い方を誤れば、人の心にまで入ってくる。誤らないための手順が、家庭のやり方。


 その日の勉強は、穏やかに終わった。帰り際、迅は何も言わず、封筒も出さなかった。詠は玄関で、灯生のマフラーの端を指で引っ張って結び目をきれいに整えた。


「先生、明日も来る?」


「来るよ」


「じゃあ、朝のスープ、薄めで頼む」


 詠の冗談に、律が笑い、麻子が「塩分は控えめにね」と言った。灯生はうなずき、外に出た。外気が首に当たる。冷たいのに、首筋の内側で何かがやわらかく膨らむ。冷たいものは輪郭を濃くし、温かいものは輪郭を曖昧にする。今は、曖昧さが必要だと思えた。


 夜、灯生は早めにベッドに入った。夢は来なかった。代わりに、現実で“いない弟”の気配が、自室の椅子に座る。視界のどこにも姿はないのに、机の上のノートのページが一枚だけ、ゆっくりとめくられる。風はない。窓は閉まっている。ページの端が、だれかの指で持ち上げられるように、ほんの少しだけ反って落ちた。真ん中の行に、細い字で「家族の定義」というタイトルが勝手に現れていた。震えてはいない。自分の字に似ているが、似ていない。似ているところと、似ていないところの間に、見えない在りかがある。


 灯生はペンを取り、「誰かの痛みを自分の時間に置き換えること」と書いた。血でも儀礼でもなく、時間。時間は誰でも持っているが、同じ瞬間は誰も持っていない。自分の一分を相手の一分に差し出す。それは物のやり取りより曖昧で、だからこそ続けられる。


 翌朝、灯生は自分の家の食卓を整えた。父はもう出ていて、母は鏡台の前でマスカラを塗っている時間。誰もいない席に、湯気の立つ湯飲みを一つ置く。わざと何も入れないお椀も一つ。メモ帳を破り、「招待」と書いて窓辺に貼った。馬鹿みたいだ、と自分でも笑う。けれど、やってみなければ分からない。台所の刃は、うちにもある。包丁の刃だけ見ていたら、他の刃に切られる。気配の刃は、招く側に回らないと鈍らせ方が覚えられない。


 学校へ向かう道で、白い息がゆっくりほどける。ほどけた白は、朝の冷気に混ざって消えるのではなく、薄く姿を変えて残る。昨日のページの余白に書いた「時間」という言葉が、喉の奥に丸く残っていた。観客をやめる準備は、劇的な宣言では始まらない。台所の引き出しを静かに閉めること、赤い皿をそっと置くこと、塩をひとつまみ減らすこと、そのくらいの手触りから始まる。


 マンションに着くと、玄関の脇に生協の箱が届いていた。豆腐、牛乳、薄切りベーコン。蓋の紙に黒いペンで「いつもありがとう」と手書きの文字。迅の字ではない。麻子の字とも違う。律の字だ。箱を家の中に運び入れるとき、灯生は重さを片方の手に寄せて、もう片方の手を空けた。空けた手で、赤い皿のことを思い出す。箱の重さは実数で、皿の重さは比喩だ。比喩を持ち歩くには、片手を空けておく必要がある。


 その朝の台所には刃がある。だが、刃は使い方で意味を変える。迅の顔にはまだ尖りが残っていたが、器具は元の濃度に戻され、コンセントから外されていた。麻子が台の上に置いた布巾は、水を含んで重く、その重みが台の平らさを確かめてくれる。詠は食卓の端で赤い皿を指で軽く叩き、律は鍋の蓋の湯気の濃さを目で測る。


「先生、今日の議題は?」


 詠がいつもの調子で聞いた。議題、という単語は家庭に似合わないのに、彼女が言うと似合う。


「比較級の例文——と、招待状の書き方」


「招待状?」


「招くにも、境界線がいる。どこからここまでを“うち”と呼ぶか、言葉で確かめたい」


 詠はにやっと笑い、律は真面目に頷いた。迅は新聞に目を落としながら、耳はこっちに向いていた。麻子は静かにスープをかき混ぜ、塩をひとつまみ減らした。


 朝食の席で、空席は今日は沈まなかった。けれど、赤い皿の上で湯気だけが、他の皿より長く立った。長さは誤差。誤差を拾うのは、観客ではなく、立ち会う者の役目だ。灯生は首筋の内側で、小さな輪がひとつ呼吸するのを感じた。それは傷ではなく、合図。刃に触れないように、柄を握るための合図だった。

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