第3話 透明な家族、濃い味の朝
週末の朝、エレベーターのモーター音が、いつもより元気に聞こえた。鉄の箱が階をまたぐたび、内部の空気が少し弾む。灯生がマンションの廊下を曲がると、該当する部屋の前に、茶色い大型の紙袋がふたつ並んでいた。取っ手は布で、側面に老舗の菓子店のロゴ。チャイムを押すより早く、内側から鍵の外れる音がした。
「おお、先生、早いね!」
扉が開く。背の高い男が紙袋を両腕に抱え、白い歯を見せた。黒いコートの襟に、出張帰りの新しい埃。目尻の皺が笑うと深くなり、笑い声は部屋の空気を押し広げた。父、迅。名刺にありそうな名前だな、と灯生は一瞬だけ思い、靴を脱いでから会釈した。
「お世話になってます。灯生です」
「迅です。ようやく週末に帰れた。これ、土産。うまいやつ」
迅は紙袋を高く持ち上げて振り、台所へ運ぶ。その背中に、麻子の柔らかい声が追いかける。
「こぼさないで。角ぶつけないでね」
「分かってる、分かってる」
言いながら、迅は一つの袋の底を軽くテーブルに当て、コトンという音で家に戻ってきたことを確認した。中身は最中とバターサンド、地方でしか見ない瓶入りのフルーツ牛乳。詠がひと目で狙いを定めてフルーツ牛乳を一旦持ち上げ、母の視線に気づいてまた元の場所に戻す。律は「ありがとう」と小さく頭を下げ、紙袋の折り目をきちんと揃えた。
「儀礼は続けているか?」
手を洗いながら、迅がふいに真顔で尋ねた。指の間に泡がたつ。蛇口の水がステンレスに当たって跳ね、音が細かく散る。
「毎朝。あなたがいない日も、いつも」
麻子は淡々と答え、タオルで手を拭いた。迅は頷き、すぐに律の首筋へ視線を滑らせる。薄手のトレーナーの襟元から覗く皮膚の色を、わずかに目を細めて確かめる。
「薄いな。足りないのかもしれん」
満足とも不安ともつかない吐息が混じる。詠はその言葉を待っていたように鋭く睨み、低く吐き捨てた。
「足りないのは家にいない時間」
空気はすぐに固くならずに、いったん浅く沈んでから、ゆるやかに硬化していく。冬の朝のゼラチンみたいな硬さ。灯生はリビングの隅でコートを脱ぎ、首元のマフラーをほどいた。布が擦れる音が耳に近い。首筋の内側に小さな輪があり、輪は寒暖に合わせて呼吸する。昨日より、それは少し早かった。
「朝ごはんの前に、今日は全員で“噛む”をしよう」
迅が宣言する。机の上に透明な器具が並ぶ。先端に小さなカップがついた軽い道具。家族それぞれの色が滲んだ同じ形。律が一つずつ点検し、消毒綿を配る。麻子は黙って頷き、詠は椅子の背に足を引っかけて座り直す。灯生は位置を取るべきかどうか迷ったが、麻子が目だけで合図をくれた。待っていて、でも逃げないで、という視線。
「順番は、麻子、律、詠、俺。最後は……先生だ」
迅の声はよく通る。仮の舞台監督のような口調。詠が露骨に顔をしかめる。
「先生は外の人間だよ。うちの舞台じゃない」
「律が望むなら、だ。律、お前は?」
律は少し考え、こちらを見た。目は揺れない。それでも、眼鏡のレンズに映る光は微かに震える。
「先生が嫌じゃなければ。先生が“立ち会う”のは、僕は、うれしい」
灯生は、昨日ノートに書いた言葉が胸の裏からたしかに浮き上がるのを感じた。観客の席は、平らで安全だ。けれど今は、平らさが逆に傾いている。立ち会う。短い言葉の中に、足で体重を移す動作が含まれている気がした。
「やってみます」
言うと、詠が舌打ちをした。音は小さいが、良く通る。麻子がさりげなく器具を一つ差し出し、迅は満足げにうなずいた。
「じゃ、始めるぞ。混ぜる、ってのはこういうことだ」
迅は自分の首筋を消毒し、器具を当て、ボタンを軽く押す。小さな吸い込む音がして、皮膚の下に淡い熱が灯る。麻子が続く。律が続く。詠はわざと肩をすくめ、器具の縁が首の産毛を巻き込まないように位置を調整して、短く終えた。順番は灯生に回ってくる。首を伸ばし、襟元を指で押さえて少し下げる。器具のカップが皮膚に触れる瞬間、毛穴が小さくすぼまり、心臓が一拍早くなる。目を閉じる。恐怖と興奮が半歩で隣り合う境目。ボタンが押され、軽い陰圧が皮膚を引く。圧はすぐに解かれ、代わりにそこへ熱が沈殿する。その熱は、痛みと呼ぶにはやわらかく、甘さと呼ぶには温度が高い。
舌の奥で、味がした。血の味ではない。トマトスープの湯気の奥にある、冬の午前中の光。トーストの縁が少し焦げた香り。フルーツ牛乳の蓋をめくったときに漂う甘い粘り。誰かの笑い声がカップの中で泡になったときの、はじけ方。記憶の味が舌に乗り、咽の手前で折り返す。灯生は驚いて、ほんの少しだけ息を漏らした。器具はもう首から離れているのに、余韻は遅れて肌に残る。残るものは、儀礼の中心なのだと理解する。
テーブルの上で、空席の椅子の前にだけ、湯気の立ち方が変わった。皿の縁から上がる白がそこだけ一筋、空中で屈折し、細い影を床に落とす。座面の布がさっきより少しだけ沈む。重さが数百グラム増した、という程度の変化。けれど、見え方は劇的だった。迅の目が濡れ、声が勝手に小さくなる。
「……いる」
麻子は微笑んだ。痛みを呼ばない微笑み。詠は視線を椅子の向こうへ滑らせ、頬の筋肉を固くした。律は呼吸の深さを整え、姿勢を変えずに目線を落とした。灯生は吸い込まれるようにその空席を見てしまい、同時に恐怖した。見えるのは誰のためなのか。誰の罪悪感がこの姿を与え、誰の優しさが輪郭を濃くしているのか。可視化は慰めであり、罰でもある。見えたとたんに、見えないままでいた時間に説明が求められる。
祈りは短く終わった。器具を片づけ、小瓶をキャビネットに戻す。迅は一息にフルーツ牛乳を開け、グラスに注ぎ、勢いよく飲んだ。口の端に白いひげ。詠が鼻で笑い、紙ナプキンを投げてよこす。律がそのナプキンを先に掴んで、父の手に渡す。運動会のバトンのように、物と手と視線が交差する。
食後、迅が急に灯生の前に立った。手には白い封筒。厚みがある。中の紙が硬い音を立てた。
「教師料とは別だ。儀礼の協力費。先生の立ち会いで、うちは助かっている」
灯生は首を振った。
「受け取れません。僕は先生で来ています。立ち会いは、授業の内側です」
言葉は用意していたわけではない。けれど、口に出した瞬間に形がはっきりした。迅の顔に刻まれていた笑いの皺が、固くなりかける。麻子がさっと間に入った。
「今のは忘れて。あなた、すぐそう。先生、気を悪くしないでね」
「してないです」
灯生は笑った。笑いの中に、ほんのわずか酸味が混じる。律がそっと近づいて、手のひらで灯生の袖を押さえ、低く囁いた。
「先生は先生のままでいて」
その言い方は、お願いというより、確認だった。灯生は頷く。頷きは、今日何度目だろう。首筋の輪は、頷くたびに位置をわずかに確かめ直す。
午後の勉強は、電気の灯りの下で始まった。英語の長文、数学の文章題、社会の用語暗記。詠はペンのキャップを指で弾いては戻し、律はノートに罫線より細い字で簡潔にまとめていく。麻子が台所で洗い物をし、迅はソファに座って仕事のメールを打つふりをしながら、何度も画面をスワイプする。雨雲レーダーのアプリが、灰色の帯をゆっくりと移動させる。
何の前触れもなく、部屋が暗くなった。蛍光灯が一度だけ点滅し、音もなく消える。テレビの赤い待機ランプも落ち、冷蔵庫の小さな唸りが静止する。窓の外の空は、曇りのまま薄く明るい。暗闇というほどではない。冬の午後の灰色が部屋に流れ込み、壁の白は冷たい。停電。迅が反射的に立ち上がった。
「ブレーカーか?」
「今、確認する」
麻子が懐中電灯を取り出し、廊下の角を曲がる。律と詠は動かない。灯生も動かない。椅子の前の空気だけが、逆に濃くなった。濃くなる、という言葉が意味を持つほど、そこに色が集まる。空席だった椅子の前に、輪郭ができた。見間違いではない。光が足りないと、見えるものがある。小さな手が、テーブルの端にふっと置かれる。手のひらは透明で、指は短い。爪の色はないのに、爪の形だけが現実的だった。置かれた瞬間、テーブルの上の紙ナプキンが風もないのにわずかに動く。
詠が息を呑んだ。音は小さい。けれど、その小ささは部屋いっぱいに広がる。
「見えた?」
灯生は低く言った。自分の声が、自分の耳に聞き慣れない。詠はゆっくりと頷き、椅子から立ち上がった。目を逸らす。逸らすのに、力がいる。
「だから嫌いなの。見えるようにしているのが、誰なのか考えたくないから」
詠は言い捨てると、部屋を出た。ドアが閉まる音は、軽く、しかしはっきりと部屋の空気に刻まれた。律は追わなかった。代わりに、椅子の前の空気に向かって小さく会釈した。灯生も、同じように頭を下げた。誰に対して、というより、今ここにある関係に対して。麻子がブレーカーの横で「復旧まで少し時間がかかるかも」と言い、迅はスマホのライトを点けた。白い光に照らされるものと、照らされないものの境目が、床に鋭い線を引く。その線は、椅子の足を一つだけ淡く飲み込んだ。
やがて、電気は戻った。蛍光灯が一度だけ明滅し、音もなく明るさが部屋に満ちる。冷蔵庫の小さな唸りが再開し、テレビの赤いランプが点いた。戻る、という行為は、何もなかったことにするふるまいを含んでいる。けれど、今の数分は何もなかったことにはならない。迅が深く息を吐き、言った。
「儀礼を強める。帰る時間が減らせないぶん、儀礼を濃くする。あの子が見えているなら、なおさらだ」
麻子は渋い顔をして、笑いに似た呼気を一つ漏らした。
「あなたの言う“濃くする”は、何を増やすこと?」
「回数。時間。参加者。温度。いろいろ」
「いろいろは危ない言葉」
麻子はそれ以上、否定しなかった。律は困った笑みを浮かべ、詠の閉じられた部屋のドアを一度だけ見た。ドアの向こうには、鍵がかかる音が遅れて落ちた。カチリ。小さな音。小さいが、はっきりとした音。灯生は帰り支度をしながら、その音を胸のどこかに置いた。観客の座席は、ここでは別の名前を持っている。距離を守ることが優しさだと思っていたが、ここではそれが別の暴力になりうる。距離の取り方で、誰かの輪郭が薄くなる。
玄関で靴を履くとき、律が追いかけてきた。
「今日はありがとう。先生、また来て」
「もちろん」
「先生が来る日は、家が少しだけ静かに揺れる」
「揺れる?」
「揺れるって、安定の反対じゃない。落ち着くために必要な揺れもある」
律は自分の言葉に自分で頷き、ドアを開けた。外は曇りのまま、風が少し湿っている。階段を降りる途中、灯生はマフラーを巻き直した。首筋の内側の輪は、昼よりも熱い。階段の踊り場で一度立ち止まり、手すりの冷たさを手のひらで確かめる。冷たいものに触れると、内側の熱は輪郭を濃くする。濃くなった輪郭は、鏡がなくても見える。
夜、帰宅した灯生は、まず洗面所で鏡をのぞいた。シャツの襟を指で押し下げ、首筋を近づける。うっすらと円い赤み。噛み跡のように見えるが、皮膚の表面は傷ついていない。触れる前から、そこは知っている。触れなくても、疼く。疼く、という言葉がやっと合う。痛みではなく、招き。招く方角が、今日から少し変わった気がした。
部屋に戻り、机に座る。スマホのメモを開く。画面の白は冷たい。指先はまだ温かい。文字を打つ。
観客をやめる準備。
句点を打つか迷って、やめた。準備、という言葉をそのままにしておきたかった。準備は、始めないための言い訳にもなるから。言い訳にしないためには、準備を準備と呼び続けることが必要だ。窓を少し開ける。冬の空気が入ってくる。遠くでまたブレーキの空気が抜ける音。抜けた空気が夜に混ざる。その混ざり方は、今日の儀礼の「混ぜる」とは違う。違いを並べて覚えておく。覚えておくことが、祈りに似ている。祈りは、あいかわらず首筋にある。眠る前、そこがひとつ脈を打った。その一拍が、次の朝の白い息の形を、ほんの少しだけ変えるだろう。




