第2話 祈りは首筋に
次の訪問は、空の色が昨日より少し薄い朝だった。雲は綿の中に灰をひとつまみ落としたみたいな色で、建物の輪郭は柔らかい。マンションの前で息を吐くと、白が縦に伸び、風で斜めに切られた。インターホンに指を伸ばす前に、灯生は手袋を外した。ボタンの小さな出っ張りの冷たさを、直接確かめたかった。
押す。応答はすぐ来た。麻子の声は昨日と同じ高さで、しかし言葉の最初の息だけが少し長い。
「おはようございます。先生、今日、お願いがあって」
お願い。その言葉は玄関の内側の温度と同じくらい、柔らかく聞こえた。柔らかさの中心に芯があるのが分かる。扉が開く。詠が顔を出し、顎で上を示す。
「入って。今日は準備がいろいろあるんだって」
スリッパの位置は、前回と同じではなかった。右より左が一センチほど前に出ていて、人の歩幅がそのまま残ったように見える。リビングに入ると、テーブルに白い紙が一枚置かれていた。プリンターのインクの匂い。紙は一度だけ端をつままれて、指の跡のようなわずかな曲がり癖がついている。
「儀礼の説明書、みたいなものです」
麻子が椅子を勧め、紙をこちらへ滑らせる。文は整っていた。医療安全の注意。器具の使用手順。消毒の方法。同意の確認の項目には、空欄があって、氏名と日付を書くようになっている。文字の間は広めで、読みやすく、言い訳の余地を与えない優しさがあった。箇条書きの下の方に、小さな字で一行、こうあった。
観察者でなく当事者になること。
灯生の目は、自然とそこに止まった。昨夜、ノートに引いた二重線が、紙の上で別の線として現れたように見える。観客でいる、と自分が決めたばかりの距離が、紙一枚の上で揺れた。揺れが身体の中心まで届く。届いた揺れは、すぐに痛みにはならない。ただ、少し姿勢を正す。
「先生が嫌なら、もちろん結構です。今日は説明だけでも。律が……あなたを、兄だと思っていて」
麻子は言葉の終わりで視線を少し下げた。断られたときの退路を、先に自分で確保する仕草。断られても崩れない準備。灯生は首を振る。断るための言葉を並べるより、今は紙を読む速度の方が速かった。
「安全のための道具は全部こちらにあります。医療廃棄の回収ボックスも。血は一滴だけ。パッチは新品。開けるのは本人の手で。採る前に甘いものを少し口にしてもらうこともあります。今日のは、準備として」
説明は、冷たい水を少しずつ飲むみたいに頭に入った。テーブルの向こうで律がうなずき、キャビネットから透明なケースを持ってくる。中の器具が光を跳ね返す。小さな霧状のアルコールが、空気の中でほどける音はしない。ほどけた匂いだけが、時間の輪郭をくっきりさせる。
「先生、無理しないでね」
詠が言う。言葉の角はやっぱり少し尖っている。尖りは、刃物ではなく鉛筆の先の尖りに近い。書くための尖り。ひっかき傷にはなりにくい。灯生は笑ってみせた。笑顔は自分でも分かるくらいぎこちなかったけれど、ぎこちなさが必要な場面もある。
「先生、座って」
律が椅子を引く。灯生は上着を脱ぎ、袖を少しまくった。薬指の腹を差し出す。皮膚の表面は薄い紙を一枚のせたような繊細な冷たさで、指の腹に自分の鼓動が微かに触れているのが分かる。麻子は消毒綿を取り、指先をやさしくなぞった。アルコールの冷たさが一拍遅れて皮膚に届く。届いた冷たさに、血のぬくもりが反応して、小さな輪が広がる。
「いきますね」
パッチの円い面が指に触れ、軽い圧がかかる。ぱちん、と音がしたかどうか、耳は迷った。音の代わりに、皮膚の内側で小さな灯がついたような感覚があった。痛みは思っていたよりもずっと小さく、痛みだと判断する前に終わった。一滴の赤が、透明な小瓶の口に吸い込まれる。落ちる音はない。けれど、落ちた瞬間だけ、部屋の温度がわずかに変わった気がした。温度計なら針が動くほどではない。空気がほんの少し密になる。毛布を一枚薄くかけられたような感覚。
律が安堵の息を漏らした。吐く息の短さは、緊張の長さと逆比例する。詠は腕を組み、視線は窓の外に向けたまま言う。
「見せ物にするなよ」
言葉は家族の内と外の境界線に置く標識みたいだった。誰に向けたというより、ことば自体の置き場所を決めるための音。麻子は「分かってる」とだけ答え、小瓶の口にキャップをつけた。キャップがかちりとはまる音は、台所の引き出しを閉める音に似ている。生活の音。
「今日は、もうひとつ」
麻子はケースの別の段から、透明な細い器具を取り出した。先端に小さなカップのような部分があり、側面に陰圧を作るための小さなボタンがついている。玩具のようにも、医療機器のようにも見える。器具は軽く、光を受けると端だけ淡く青い。
「噛む、というより、皮膚を軽く吸うだけ。血は出ません。続けることに意味がある儀礼で、ただ、今日は初回だから無理はしないで」
麻子は一瞬、灯生の首筋に視線を落とし、すぐに視線を上げた。
「初回でこれは、重いわね」
ためらいが空気に小さなくぼみを作った。そのくぼみに、律の声がふわりと落ちる。
「僕でいい。いつも家族で回してるから。今日の番を僕がする」
律は自分のシャツの襟を指で広げ、首筋を少し露わにした。皮膚の色は健康的で、かすかな産毛が光を受けてきらきらしている。麻子は消毒綿で律の首筋を拭き、器具の小さなカップをそっと当てた。ボタンを押す。短い吸い込みの音がかすかに鳴る。器具の透明な縁に皮膚がふわりと持ち上がり、その下に淡い色が集まっていく。血は出ない。ただ、皮下にじんわり熱が広がる。律は目を閉じ、すぐに目を開けた。表情は変わらない。痛みではなく、合図に近い感覚なのだと分かる。
「これで、今日も家族でいられる」
麻子が言った。言葉は軽くも重くもない。重さは、受け取る側の手の温度で変わる。詠がすばやく言葉を重ねる。
「家族って、血で決まるの? わたし、痛いのは嫌い」
灯生は口を開きかけ、閉じた。詠の皮肉は攻撃ではなく、防壁だ。防壁は向こう側がどんなだか分からないほどよくできていて、しかも出入り口がちゃんとある。律は詠に目を向け、言い過ぎたときの合図で眉を小さく下げた。詠はため息をつき、椅子の背の角で額を軽く押した。痛みを作らない程度の圧で、頭の中の針の向きを整えるみたいに。
「先生、ごめん」
律がこちらに向かって言う。謝られる必要はない。謝るべき何かは起きていない。けれど、謝るという行為が今の律の中で一番正確な言葉なのだと思えた。
「謝ることじゃないよ」
灯生は笑って、空気の抵抗が少ない声を選んだ。その声はテーブルの上を滑り、器具の透明な影を越えて、窓際の観葉植物の葉の縁に吸い込まれていく。光合成の代わりに声合成があるなら、こういう音が栄養になるのかもしれないと、くだらないことを一瞬だけ考えた。
勉強は、いつも通り始まった。英語の比較表現。数学の連立方程式。詠は文章題の人名を勝手に自分たちの名前に置き換えて読み上げ、途中で笑い、律にたしなめられ、また笑う。笑いは緊張をほどくのに効果があるが、ときどき、笑いそのものを抱きしめないと逃げてしまう。灯生は、笑いを抱き止める役を少しだけ引き受けた。
休憩時間、律がベランダに出ようと合図した。二人で窓を開けると、冬の空気が平らな皿みたいに部屋に流れ込んだ。ベランダの床は冷えていて、スリッパ越しにも硬さが分かる。目の前の道路を車が通り、その風が数秒後にここまで届く。届いた風は薄い排気の匂いがして、すぐに消える。
「先生の家はどんな?」
律は手すりに手を置いた。金属の冷たさの上で、指先だけが赤くなる。
「静か」
灯生は考えて、短く答える。長く話すと、正確さが逃げることがある。静か、は今のところ、一番近い。両親は夜遅くまで働いていて、食卓は別々の時間に広がる。朝食の皿は当番制で食器棚に戻され、誰の湯気も同じ高さに上らない。沈黙は嫌いではないが、沈黙が時間の層を分ける役目を担っていると、すこし疲れる。
「同じ時間に同じものを食べるって、どうしてこんなに難しいんだろう」
律はつぶやく。独り言とも、こちらへの問いともつかない声。灯生は、ベランダの向かいのマンションで干されているバスタオルの揺れを見た。風の強さがそのままタオルの傾きになっている。規則と偶然の境目は、布の縁のほつれくらい曖昧だ。
「うちも、午前と午後がずれてる。儀礼をすると、同じ温度に近づく。近づきすぎると、息苦しくなるから、少し開ける。窓みたいに」
「窓、か」
「先生は、窓を開けるのが上手そうだ」
律の言い方は、本当にそう思っているときのゆっくりだ。灯生は肩をすくめて見せる。上手かどうかは分からない。ただ、閉めっぱなしにすると、音が濁る。濁った音は、言葉を歪ませる。
教室に戻ると、詠が口元にココアの粉を少しつけていた。いつの間にか、マグカップが増えている。湯気に甘い匂い。詠は半分こちらを見て、半分見ていない。
「言っとくけど、先生だけ特別とか、そういうの嫌い。うちは全員に同じだけ甘くして、同じだけほろ苦いの」
「じゃあ、先生のは少し薄めで」
律が笑うと、詠は小さく舌打ちをした。舌打ちに怒りはない。音で気配を区切るための小さな記号。麻子が台所から顔を出し、甘すぎたら牛乳を足して、と言った。牛乳は温度を中和する。中和という言葉は、数学の解法よりも生活の中で先に覚えるべきだと、灯生は思った。
授業は滞りなく進み、約束の時間が来た。帰り支度のとき、詠が玄関までついてきて、冬の外気が階段の踊り場からのぼってくるのを、あえて深く吸い込んだ。
「先生」
「うん」
「夢、また見たら、教えて。わたし、夢のほうが正直なときあるから」
灯生は頷いた。頷くと、首筋の皮膚が服にこすれて、ほんのわずかに熱を思い出す。靴紐を結び直し、ドアを開ける。外は雲が薄くなりかけていて、光の輪郭が街路樹の影をわずかに太くした。
帰り道、コンビニで立ち止まった。ホットココアを二つ買う。レジ袋は要りませんと断り、両手に一つずつ持つ。一つは自分の手のため。もう一つは、誰かのため。誰かは誰だ。家に着くまでに答えが出なければ、冷める。冷めたものは別の価値になる。価値の変化を引き受けるのが、誰かのための条件かもしれない。
部屋に戻る前に階段で立ち止まる。空になった椅子の気配を思い出し、笑う。無意味だ。無意味なことは時々、あたたかい。ココアの片方を机に置き、片方をベランダに出して、冷たい風をほんの少し混ぜた。温度差は、待つための道具だ。スマホのメモを開く。観客の下線の隣に、当事者、と書き、二重線を引いた。線は紙の上で平行に並び、どちらかを選ぶというより、両方を保つための間隔を示した。
夜は、昨日より早く来た。眠りは、昨日より遅く来た。目を閉じたとき、耳の奥に薄い声が置かれた。
「兄になって」
はっきりと聞こえた。語尾が少し上がり、お願いというより、招待に近い。灯生は目を開けた。暗闇は静かに広がっている。首筋が、今度ははっきり熱い。指で触れると、体の内側のほうが熱い。外側は、冬の空気をまとって少しひんやりする。その差が、痕のように感じられた。洗面所に行き、鏡に顔を近づける。何も見えない。肌の色はいつも通り。見えないのに、指先だけが知っている。指は証人だ。証人は、証拠がなくても覚えている。
水を流し、コップに一口だけ注いで飲む。冷たい水は、熱の周りを一周して戻ってくる。戻ってきたとき、熱は形を変えていた。痛みではない。合図。合図は次の動作を決めやすくする。
翌朝、陽は遅れて顔を出した。カーテンの隙間から入る光が、机の上のメモの文字をなぞる。観客、当事者。二重線の間に、さらに小さく書き足す。
立ち会う。
学校での時間は、いつも通りだった。黒板のチョークが粉を上げ、その粉が日差しの中で踊る。粉は軽い。教室の空気は、それを受け止めるくらいの重さは持っている。昼休み、クラスメイトがゲームの話で盛り上がる。協力プレイは面白いが、誰かが欠けると難易度が上がる、と笑う声。灯生は弁当の海苔をうまく切れず、端がほつれるのを見ていた。ほつれの形は、昨夜の言葉の端に似ている。兄になって。短い言葉は、余白が広い。そのぶん、受け取る側の想像力で重さが変わる。
放課後、再びマンションへ。インターホンを押すと、今回は詠が出た。
「早かったね。今日の祈りは短いよ」
扉が開き、温かい空気が頬に触れる。キッチンで湯気が立ち、テーブルには昨日の説明書がファイルに挟まれていた。律が小さな声で、新しい器具のパッケージを破く。ぴりっとプラスチックの音。麻子は消毒綿を準備し、視線は灯生に向いていないようで、しっかり見ている。
「先生、今日も無理しないで。段階を踏んで、少しずつ」
灯生はうなずいた。首筋の熱は昨夜より静かだが、完全には消えていない。皮膚の裏で、小さな円が呼吸している感じがする。麻子は視線で確認し、器具を律の首筋に当てた。昨日より短い時間で終わる。同じ手順。同じ合図。詠はテーブルに肘をつき、こちらを見ているようで見ていない。見ないふりと見せるふりの間には、薄い差がある。灯生は、薄い差を責めるより、薄い差を尊重することにした。差があるから、近づける。差がないふりをすると、すぐ遠くなる。
勉強の合間、詠が地図帳を開き、行ったことのない国に付箋を貼っていく。貼るたびに、付箋の角が少し浮く。浮いた角は、風があればめくれる。風がなければ、指でめくるしかない。
「先生、うちの儀礼、いつまで続くと思う?」
詠は突然言った。問いは詩的でも難解でもなく、単純に未来の形を尋ねる声だった。
「続けたいと思うあいだは、続く。続けなくていいと思える日が来たら、少しずつ形を変える。形を変えることは、終わりと同じじゃない」
言いながら、言葉が自分の口の中で温度を持っていくのを感じた。詠は舌打ちをしなかった。カーテンの隙間の光を指でつまむふりをして、笑った。
「先生、そういうとこ、ずるい」
「ずるい?」
「ずるく優しい。嫌いじゃない」
律は笑いをこらえきれず、咳払いで誤魔化した。麻子は台所でカップを置く音をひとつ立て、何も言わないまま湯を少し注ぎ足した。注ぎ足された分だけ、湯気が濃くなる。濃くなった湯気は、空いた席の方へ伸びる癖を見せた。癖は、しつけより早く身につく。
帰り際、麻子が玄関で言った。
「先生。首のこと、気をつけて。冷やしすぎないように」
灯生は首に手を当て、薄いマフラーをもう一度巻き直した。布の細い繊維が傷つかないように指を動かす。階段を降り、外の空気に触れる。冬の匂いは、昨日より少しだけ春に近づいている。近づいているだけで、まだ遠い。遠いものは、目を細めると少しだけ近づく。目を細めすぎると、足元を踏み外す。灯生は目を普通に開いた。
その夜は、夢を待たなかった。待つと来ない。来ないと分かると、来る。灯生は机の前でノートを開き、今日の単語を並べた。観客。当事者。立ち会う。儀礼。窓。温度。合図。兄。
最後の単語を書いたとき、首筋の内側の円が、ゆっくりひとつ、脈を打った。合図だ。合図の意味は一つではない。合図のあとに何をするかで、意味が決まる。灯生はペンを置き、窓を数センチ開け、外の音をひとつ拾った。遠くのトラックが信号で止まり、ブレーキの空気が抜ける音。抜けた空気は、夜の冷たさに溶けた。
兄になって。
昨夜の声が、文字になってノートの余白に現れた気がした。書かない。書くと重さが先に固まる。今は、声の温度を覚えておく。温度を覚えることは、忘れないための準備になる。準備は、祈りに似ている。祈りは、首筋にある。触れると消える。消えたふりをして、内側で灯る。灯り続けるために、明日も窓を開ける。窓を開ける手元に、誰かの小さな息の跡が、うすく触れている。




