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兄の血は、少し甘い  作者: 妙原奇天


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第1話 赤い朝食を食べて

 冬の朝は、音がよく通る。吐く息の白がほどけるときのかすかな擦れ、マフラーの毛糸が頬に当たる微かなざらつき、遠くの踏切が一度だけ鳴らす短い金属音。灯生は集合時間より二十分早くマンションの前に着き、ポケットの中で指先をこすり合わせた。初日の緊張は、手のひらの温度を奪う。約束のインターホンを押す前に、軽く深呼吸をした。冷たい空気が胸に入って、喉を通るときだけ甘く感じるのは、冬の朝だけの味だ。

 インターホンのボタンを押す。呼び出し音のすぐ後に、落ち着いた女性の声が返ってきた。

「少し待っててくれる?」

「はい。灯生です。よろしくお願いします」

 自分の声が、スピーカーの小さな穴から出た音になって戻ってくる。その間に、玄関ドアの隙間から薄い湯気が漏れ、スープの匂いが混じった。野菜を煮込んだ甘さと、ほんの少しだけ鉄の匂い。嗅ぎ慣れた料理の湯気の奥に、金属を拭いた後のような、薄い赤い香りが紛れている。曇ったガラスの向こう側で靴の音がして、チェーンロックが外れる金属音が続いた。

 扉が開く。小学生くらいの女の子が顔を出す。前髪はぱつんと揃い、視線だけが大人びている。ドアの中から、温かい空気がこちらへ流れた。

「詠。先生、入っていいって」

 玄関で靴を脱ぐと、廊下の先に明るいリビングが見える。窓際に観葉植物、壁には子どもの絵。テーブルの上は整えられていて、席がひとつ空いたままだった。箸が四膳、皿が四枚。けれど椅子は五脚。席の配置はきれいで、空いた椅子にもランチョンマットが敷かれている。

 エプロン姿の女性が振り向いた。ショートカットに薄く化粧。目元の皺は柔らかい。

「はじめまして。麻子です。今日は来てくれてありがとう。朝ごはんの前に、お祈りをするの」

「お祈り、ですか」

 宗教、と言いかけたところで、奥の部屋から中学生くらいの男の子が現れた。律。黒縁の眼鏡をかけ、動きに無駄がない。手には透明なプラスチックのケース。中には消毒綿と細い器具、安全キャップの付いたパッチ、小さな小瓶が並んでいる。

「先生は見ていてくださいね。今日は家族だけで」

 麻子は申し訳なさそうに笑い、手早く消毒綿で自分の親指を拭いた。小型の器具を押し当てる。ぱちん、と軽く鳴る。指の腹に薄い赤が浮き、小瓶の口に傾けると、一滴、赤が落ちた。ガラスに当たる微かな音が、部屋の温度よりも冷たく響いた。続けて律が同じ手順をこなす。ため息をひとつついた詠も、慣れた手つきで器具を押し当てる。三つの小瓶に、一滴ずつ。赤はすぐに暗くなり、光の角度で黒にも見えた。

「今日は家族だけで」と麻子はもう一度、灯生に言った。「先生は、見ていてください」

 空いた席の前に、麻子はそっと小瓶を置いた。誰もいない空間に向かって、穏やかに微笑む。

「先に、どうぞ」

 見たくない種類の気配というものがある。そこに在ると分かった瞬間、目が勝手に焦点を合わせてしまう気配。空いた椅子の前で、空気がほんの少し歪んだ。湯気が一筋、そこで屈折し、影にならない影がクッションにふっと沈む。座面の布が、誰かの体重でゆるむときの微かな皺が生まれる。その皺はすぐ消えたが、消える前に確かにあった。

 灯生は思わず息を呑んだ。麻子と律の目は、その方向を静かに追い、詠は椅子の背もたれを指で弾きながら、つぶやく。

「まだ、いない弟ごっこ?」

 言葉は棘を持っていた。けれど、目は揺れていた。棘は、自分に向けられることがある。そのことを知っている目だった。

 お祈りは五分もかからなかった。三つの小瓶は空いた椅子の前に並んだまま、朝食の準備が進む。スープの香りが立つ。鉄の匂いはもう感じない。トマトの赤は湯気に混ざると少し橙に近づき、トーストの焼ける香りに勝つ。食卓の声が増える。学校のこと、近所の公園のこと、昨夜のテレビの話。会話は穏やかで、ありふれている。ただ一点、空いた席のあたりだけ、湯気の量が少し多く見えた。視覚が、気温と匂いの混ざり方を色で解釈してしまう。灯生は自分の観察癖を叱って、コップの水を口に運ぶ。

 食事が終わる頃、麻子は空いた席の前の小瓶を両手で包み、丁寧に持ち上げた。

「今日もいっしょに食べてくれて、ありがとう」

 その言い方は、空気を乱さない。目線の高さと声の高さが合っていて、祈りというより挨拶に近い。律は席を立ち、洗い場に小瓶を運ぶ。詠はスプーンを皿に置く音をわざと少し大きくして、自分の気持ちを確かめるようにしてから、ふっと息を吐いた。

「先生、行こ」

 勉強部屋はリビングから少し離れた北側の部屋で、壁一面に本棚があり、机は二つ並んでいた。窓の外に別のマンションの白い壁が見える。冬の光は斜めで、棚の一番上の辞書だけを強く照らしていた。参考書の背表紙は新しく、付箋の色が規則正しい。

 英語のワークブックを開く前に、律がこちらを見た。眼鏡の縁が光を拾う。

「先生、驚いた?」

 灯生は曖昧に笑った。

「あれは、えっと」

「いない弟、ってうちでは呼んでる。名前はつけてない。つけようって母に言われたこともあったけど、やめた。名前をつけると、違うものになりそうで」

 律は、覚悟というより段取りを説明するみたいに、ゆっくり話す。単語の選び方に無理がない。

「二年前に、母が出産直前で流産した。それで、いろんなものが食卓からこぼれた。先に生まれていた僕たちは、それぞれに拾ったつもりだったけど、拾い方がバラバラだった。母が言った。儀礼にしよう、と。形にして毎日やる。ほんの少しだけ血を分けて、家族の一部を空席へ戻す。誰も置き去りにしないために」

「毎朝、ですか」

「うん。病気のための医療行為じゃないから、ほんの一滴。消毒して、器具も安全なものを使う。やり過ぎない、って規則を決めた。父も最初は反対だったけど、いないものをないことにするのは、もっと悪いことだと思って、今は一番きちんとやる」

 いないものをないことにする。言葉しかないはずの線が、机の木目に合わせてじっとり浮き上がってくる。灯生は頷いた。理解はできる。家族の喪失を、形のある手順で受け止める方法。宗教というより、生活のための手段。だが、さっき実際に見た温度の揺れは、どう説明できるのか。見間違いだと片づけるには、体の方が先に記憶した。

「詠は、どう思ってるのかな」

「詠は、いつも先にふざける。ふざけないと、とても言えないことがあるから。からかってるみたいに聞こえるけど、からかいでできてるわけじゃない」

 律はワークブックを開いた。指先は細く、ページをめくるときにすべらない。英文の例文は、平凡な高校生の一日についてだった。灯生は問題の下線を指で示し、訳を組み立てる手助けをする。英語の語順を日本語に置き換える作業に集中すれば、色と匂いは少し遠くなる。音読のリズムに合わせて息を整える。灯生が問題の解説を終えるたびに、律は短く頷き、ノートに簡単なメモを書いた。無駄のない字。まっすぐな縦線が、雪ののち晴れの天気図の等圧線みたいに並ぶ。

 小一時間の授業が終わって、詠の部屋に移動する。女の子の部屋は、壁にピンクのガーランドと動物のポスター。机の上には折り紙で作った小さな箱が積み上がり、引き出しに香り付きの消しゴムが並ぶ。詠は椅子に腰を下ろし、やや不満顔のまま鉛筆を握った。プリントの角を指で折って遊び、こちらが視線で合図すると、きちんと前を向く。

「さっきのは、ごっこじゃないの」

「さっきの、って?」

「朝の。先生、顔に書いてあった。見た。そういう顔。びっくりしたけど、言っていいのか分からない顔」

 詠の声は、強がりと素直の間で落ち着く場所を探している。鉛筆の芯を少し強く紙に当てたので、ひらがなの輪郭に浅い凹みができた。

「うちは、うちで決めたの。だから、うちの中では普通。外では、言わない。それで何が変わるでもないけど、言わない。先生にも、しばらくは言わないつもりだったけど、朝、先生が玄関で息を白くしたとき、ふっと思ったの。言ってもいい、って」

「どうして」

「息が、きれいだったから。嘘のない白。先生、たぶん観察するのが好きで、それを隠そうとするから、余計にまわりが見える。そういう人は、うちの儀礼を見ても、叫ばないでしょ」

 灯生は苦笑する。自分の癖を見抜かれると、隠すより先に肩の力が抜ける。

「叫ぶのは苦手だ」

「でしょ。だから、まあ、いい」

 詠はそこで話題を切り替えるように、算数の問題を読み上げた。文章問題の中に、家族の人数という言葉が出てくる箇所で、わずかに読みが遅くなった。灯生は何も言わず、詠の目線の高さに合わせて椅子の位置を少し下げる。詠は最後まで読み終えると、鉛筆で図を描いた。四角と丸が並び、矢印が二本。間違えて消しゴムをかけると、白いカスが机の上に散った。灯生はそれを手のひらでまとめ、ロゴの入った小さなゴミ箱に捨てた。カスの手触りが、朝の消毒綿のざらつきを思い出させる。触覚は勝手に糸を引く。

 授業を終えて廊下に出ると、キッチンからコップの当たる音がした。麻子が食器を片づけている。カーテン越しの光で、流しのステンレスが静かに光った。灯生は今日の内容と次回の予定を話し、玄関で靴を履く。鏡に映る自分の首筋に目が行く。何もない。無傷。なのに、薄いひやりが皮膚の内側をなぞっていく。冬の外気に触れる前の、影のような冷たさ。

「また来週。お気をつけてね」

 麻子の声は、どこかに力を失わずに残す種類の優しさだ。灯生は会釈し、エレベーターを待つ。閉じた扉に自分の姿がぼんやり映る。誰かがもう一人映っているように見えて、目を凝らすと、ただの光の反射だった。エレベーターの中は温かく、階数表示の赤い数字が規則正しく減っていく。規則正しく減るものは安心をくれる。安心は、扉が開く音で容易く奪われることがあるが、今日は大丈夫だった。

 駅まで歩くと、風の匂いが変わる。道路の匂いとコンビニの中華まんの匂いが混ざって、信号待ちの間だけ甘くなる。電車に乗ると、窓の外の景色は冬の色で固められていた。建築現場のネット、空の灰色、遠い川の鈍い銀。電車の揺れは一定で、寝入る寸前の子どもの呼吸のようだ。つり革につかまった手のひらに、さっきの冷たさの残りが細く残っている。

 夕方、家に着くと、母の作る味噌汁の匂いが廊下まで来ていた。灯生は「ただいま」と声をかけ、洗面所で手を洗う。水は冷たいが、指先がすぐ馴染む。石けんの柑橘の香りが鼻に立つ。食卓に座って今日の出来事を少し話す。宗教の話にはしない。家庭教師としての距離と礼節を口の中で反芻する。母はうんうんと頷き、父はみそ汁の湯気の向こうで新聞を畳んだ。太字の見出しが一瞬こちらに向く。人は紙の黒よりも、湯気の白を見ている時間の方が長い、と灯生は思う。湯気には時間が映る。黒には答えが並ぶ。

 食後、自室に戻る。机の前に座り、窓を十センチほど開けた。冷たい空気が入り、遠くの線路の音が細く届く。ノートアプリを開いて、今日のメモを走り書きする。

 血の儀礼。空席に座る誰か。甘い鉄の匂い。湯気の屈折。詠の棘。律の段取り。麻子の声の高さ。観客でいる。

 観客、という言葉に下線を引いた。観客でいる。踏み込みすぎない。関わりすぎない。家庭教師としての距離。距離は保つために測るものだ。目測で足りることもあるが、今夜はしっかり測ろうと思う。窓の外の空気の冷たさをものさしにして。

 ペンを置き、ベッドに横になる。毛布の繊維が頬に触れる。冬の毛布は音を吸う。頭の中で午後の会話を繰り返し、音を消して映像だけを残し、映像の輪郭がぼやけるのを待つ。まぶたの裏に、朝の小瓶の赤が浮かぶ。赤はすぐ黒に沈む。その沈み方が、心臓の拍と関係があるような無関係なような、奇妙な一致を見せる。

 眠りに落ちる前、声を聞いた。夢と現の境目は、冬の窓ガラスにできる薄い水の膜みたいに曖昧で、指でなぞるとよけい曖昧になる。声はその膜の向こうから来た。

「たべてくれて、ありがとう」

 幼い声。息の音が軽い。音の手前に、甘い鉄の匂いがほんのわずか乗った。灯生ははっと目を開いた。部屋は暗く、街灯の橙がカーテンの隙間から細く差している。静かだ。耳を澄ますと、窓の隙間風がコンセントの穴のあたりで小さく鳴っていた。夢だったのだろうか。夢にしては、体の方の反応が早い。首筋が微かにあたたかい。直接触れていないのに、皮膚の内側がそっと撫でられているみたいに。

 起き上がって、洗面所へ行く。鏡に首を近づける。何もない。赤くもない。けれど、触ると、ぬるい。冬の夜にぬるいものは、すぐに疑わしくなる。疑いすぎると、見えるものが減る。灯生は指を離し、水を一口飲んだ。口腔の温度が少し下がる。戻る。戻る速度に、体は安心する。

 戻る途中で、机の上のスマホが振動した。画面に知らない番号の通知。迷う。だが、家庭教師の初日だ。急ぎの連絡かもしれない。画面をスライドさせる。

「もしもし」

 短い沈黙の後、低めの女性の声がした。麻子の声だとすぐに分かった。

「遅い時間にごめんなさい。先生、今日は本当にありがとう。明日、もし時間があれば、もう一度来てもらえますか。詠の宿題で、少し相談があって」

「大丈夫です。午後なら」

「助かります。あと、その……変に思わないで聞いてほしいのですが、今夜、何か変なことはありませんでしたか」

 灯生は、言葉を選んだ。夢、という言葉と、現実、という言葉の間にある段差を飛び越えるには、助走がいる。助走は短くてもいい。

「夢を見ました。誰かの声で、ありがとう、って」

「そうですか」

 麻子の声は、浅い所で安堵する音をわずかに含んだ。

「よかった。怖がらせたくはなくて。私たち、あの儀礼を軽いものにしないよう気をつけているんです。軽くすると、軽いものが寄ってくる。重くしすぎると、重いものだけになる。ちょうどよさは難しい」

「……はい」

「先生に、少し関係ができるといいなと思って。距離を破るのではなく、距離の形をきれいにする感じで。勝手なことを言ってごめんなさい。明日、また」

 電話が切れる。部屋に戻る。スマホの画面はすぐ暗くなった。暗くなる速度がさっきよりも早く感じる。体感の誤差。誤差にも温度がある。布団にもぐり直すと、首筋のぬるさはいつの間にか引いていて、代わりに毛布の内側の空気がゆるく温まっていた。

 次の日の朝、目覚ましより少し早く目が覚めた。夢を覚えているときは、目覚めの速度がなだらかになる。カーテンを開けると、薄曇りの空が窓いっぱいに広がった。遠くの電線に、鳥が三羽。電線のたるみ具合と鳥の間隔がきれいに合っている。朝食のトーストの匂いが階下から上がってきて、胃のあたりが現実に戻る。

 学校へ向かう途中、神社の前を通った。境内の空気は冷たいが、砂利の中にまだ夜の湿りが残っている。手水舎の水は指を刺すほど冷たく、とがった冷えが瞬時に指紋の間に入り込む。手を合わせる。合掌の隙間に、昨夜の声がごく薄く残った。たべてくれてありがとう。ありがとう、と返事をしたつもりだったが、声にはならなかった。息だけが白く出て、すぐに透明になる。

 授業中、黒板のチョークの音がやけに聞き取れた。粉の粒が光に溶けて、斜めの光の中で踊る。粒には名前がない。名前がないから弱いわけではない。名前がないものが世界を支えていることに、筆圧の強い板書が追いつけない瞬間がある。灯生はペン先を少し寝かせ、ノートに線を引いた。観客、という言葉の下の線が二重になる。線の間に余白ができ、その余白が今日の時間の形に似ている。

 放課後、マンションの前で息を白くする。インターホンを押すと、今日は律の声がした。

「どうぞ」

 昨日より、声がほんの少しだけ柔らかい。扉が開くと、玄関の空気はやはり温かい。廊下に置かれたスリッパの位置は少しだけ変わっていて、誰かの足の大きさに合わせたように間隔ができている。目に映る微細な違いに、体が先に記憶の枠を合わせにいく。調律のように。

 リビングのテーブルには、昨日の朝の小瓶はない。代わりに、薄い色の花が一輪挿しに差してあった。白に近い黄色。冬の光で透け、花弁の縁がわずかに乾いている。詠がトレイを運んでくる。カップには温かい紅茶。湯気にほんのわずか蜂蜜の匂いが混ざる。

「先生、昨日の夢、どんな声だった?」

 詠は椅子の背に腕を回し、身を乗り出した。律は英語のワークブックを開きながら、耳だけこちらに向けている。

「幼い声。短い言葉。たべてくれてありがとう、って」

「かもね」

 詠は満足そうでも不満そうでもない顔をした。感情の重さを均す術を、年齢より少し早く身につけた顔。

「じゃあ、今日の宿題は、先生の世界の単語帳」

「単語帳?」

「観客、の反対。つまり、舞台に上がる言い方。やり方。言葉」

 詠の提案に、律がペンを持つ手を止めて頷く。「それは、役に立つ。僕たちにも」

 灯生は紅茶をひと口飲んだ。熱は舌の上で丸く広がり、喉の手前で少し尖る。尖ったところで観念と触れて、丸く戻る。観客の反対。板書のように正確な言葉が欲しい。けれど、今は正確よりも適温の言葉がいい。ふさわしく、続けられる言葉。

「見ないで、見る。触れないで、関わる。立ち止まらずに、そばにいる。そういうのは、どう」

「長い」と詠が笑う。「でも、いい」

「短くまとめるなら、立ち会う、かな」

 律がメモに書く。立ち会う。ひらがなで書くとやわらかい。漢字にすると骨が見える。どちらも同じ言葉だが、骨の見え方で距離が変わる。

「じゃあ、今日の英語は witness の使い方から」

 灯生は笑って、ワークブックを開いた。意味の線は、言葉の外側だけにあるわけではない。内側にも、温度の違う面がある。面の間に指を差し入れすぎないように、でも逃げないように。ページの紙の匂いに、昨日の鉄の匂いは混ざらない。混ざらないことは、救いだ。混ざらないから、別々に覚えていられる。

 夕方、マンションを出ると、空気の層が少し柔らかくなっていた。冬の一日は短い。それでも、昨日よりは長い。帰り道、灯生はスマホのメモを開き、観客の下線の隣に新しい言葉を置く。

 立ち会う。

 指先でその字をなぞると、首筋のぬるさはもう残っていなかった。代わりに、鼻の奥に温かい紅茶の匂いが薄く残った。匂いは、言葉よりも長く残ることがある。長く残るものを、頼りにしてもいい。頼るという言葉の重さが、少し変わる。

 その夜、灯生は夢を見なかった。夢を見ない夜は、音が少ない。少ない音の中で、遠くの線路の走行音だけが一定の間隔で続く。一定は安心だ。安心は、明日の朝の光に似ている。目を閉じながら、灯生は思う。儀礼は食卓のための道具で、道具は使い方で変わる。変わりながら同じでいられるものを、一緒に探せるかもしれない。観客でいる、から一歩だけ。立ち会う、へ。

 毛布の中の空気が、ゆっくりと温度を上げた。冬の夜は長い。だが、長いことと孤独であることは、同じではない。窓の外を走る最後の電車の音に、灯生は小さく頷いた。頷きは自分だけに見える合図。合図があると、人は前に進みやすい。次の朝、インターホンの前で息を白くするとき、昨日よりも白はまっすぐに伸びるだろう。そう思えることが、今夜の終わり方にはちょうどよかった。


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