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戦場に咲いた毒の希望

作者: たんすい
掲載日:2025/10/08

【第一章: 異邦の魚】


 2025年4月、カンボジア南部、バサック川流域。乾季の終わりを迎え、茶色く濁った川の水が、緩やかに流れていた。太陽の光が水面を照らし、周辺の農村地帯では、住民たちが日常の作業に勤しんでいた。

 腰まで川に浸かり、網を引いていた青年が、突然声を上げた。「先生! 何か妙な魚が入っています! フグですよ、フグ!」


 水辺で調査用のプラスチック舟を洗っていた白石悠人は、顔を上げた。彼は水産研究所の若手研究員であり、東南アジアにおける淡水魚の生態調査を専門としていた。黒いゴム長靴を履き、ノートとペンを手元に置いた白石は、青年の言葉に軽く眉を寄せた。「この地域には淡水フグが多く生息するが……それは何だ?」


 青年がバケツに移した魚を覗き込んだ瞬間、白石の動きが止まった。オレンジ色の体色に、丸く膨らんだ腹部。平たく押しつぶされたような顔立ちと、大きな赤い目。目の下には、山吹色の放射状の模様が走っていた。


 見間違えるはずがない。白石は小さく呟いた。「パオ・パレンバンゲンシス……? インドネシアのフグではないか……なぜ、カンボジアに……?」


 この魚、パオ・パレンバンゲンシス(Pao palembangensis)は、スマトラ島とボルネオ島にのみ生息する淡水フグである。カンボジアのこの用水路に存在する理由など、考えられるはずがない。仮に人為的な持ち込みがあったとしても、ここは辺鄙な農村地帯に過ぎない。


 白石は調査ノートに記録を付けながら、心の中で繰り返した。――なぜ、この魚がここに?



【第二章: 空の神兵】


 時は遡り、1942年2月。太平洋戦争の緒戦において、日本軍はスマトラ島最大の都市パレンバンを目指し、落下傘部隊による奇襲作戦(パレンバン空挺作戦)を実行した。この作戦は「空の神兵」と称賛され、短期間でオランダ軍を制圧。スマトラ全島を占領下に置いた。これが、スマトラにおける最も大規模で有名な戦闘であった。


 パレンバンの街は、ムシ川のほとりに広がる熱帯の低地に位置し、蒸し暑い空気が常に肌を覆っていた。乾季の合間を縫うように降るスコールが、泥濁った川面を叩き、石油精製施設の煙突から立ち上る黒煙が、青々としたヤシの木々と混じり合う。プラジュとスンガイ・ゲロンの製油所は、鉄の塔とパイプラインが林立し、石油の重い匂いが周囲を満たしていた。高温多湿の気候は、兵士たちの制服を汗でびっしょりと濡らし、ジャングルの湿気が肺に染み込むようだった。


 和田一郎は、この作戦の直後に召集された。もとは下関の老舗料亭で板前として修行を積んだ男で、フグの扱いに特に長けていた。店の主人も一目置くほどの知識と腕を持ち、様々な種類のフグの毒抜きを完璧にこなすことができた。


 召集後、和田は経理部所属の主計兵として配属された。最前線で銃を取る歩兵ではなく、後方で兵站を支える役割である。パレンバン制圧後、彼は石油施設の守備隊に所属し、野戦炊事班の班長を務めた。任務は、部隊の胃袋を預かること。兵士たちに食事を供給する責任者として、日々腕を振るった。


 ある日の昼下がり、炊事場で兵士たちが休憩しながら噂話をしていた。関西弁の兵士が、汗を拭いながら感心したように言った。「いやあ、班長の飯はほんまに美味いわ。こんな異国の地で、こないなモンが食えるとは思わんかったで」すると、隣で食器を磨いていた九州出身の兵士が、得意げに胸を張った。「そりゃそうたい。班長は内地じゃ下関のえらい料亭で板前ばしとったと聞いとる。腕が違うっちゃん」「料亭か! そら美味いはずやなァ」その声を聞きつけた和田が、厳しい表情で口を挟んだ。「口を動かす前に手を動かせ、一等兵ども。軍曹殿がお見えになるぞ」


 スマトラは、マレー半島と共に第25軍の軍政下に置かれ、石油という最重要資源を確保した後方拠点であった。ニューギニアやフィリピン、ビルマのような大規模な地上戦はほとんど発生せず、比較的平穏な統治時代が続いた。しかし、水面下ではオランダ軍や現地住民による抵抗運動、ゲリラ活動、諜報活動が潜んでおり、日本軍の憲兵隊による検挙も行われていた。完全な平穏など、存在しなかった。



【第三章: 飢えの影】


 当初、物資は豊かであった。和田は兵士たちのために、地元の食材を活かした料理を提供した。しかし、1944年以降、戦況が悪化すると、補給線が断絶。連合軍の空母機動部隊による空襲(レンティル作戦など)が繰り返され、スマトラは孤立した。空襲の轟音が響くたび、兵士たちはヤシの木陰に身を潜め、「また敵機か。くそっ、ヤンキーどもめ」と悪態をついた。


 制海権と制空権を失った日本軍にとって、南方諸島は絶海の孤島と化した。食糧、医薬品、武器弾薬の全てが本土から届かなくなる。スマトラ駐留部隊は自給自足を強いられた。


 日本軍の戦没者のうち、実に六割以上が戦闘によるものではなく、飢餓や栄養失調が原因の戦病死であったという。スマトラは豊かな土地ではあったが、軍隊規模の食糧生産能力はなかった。当初は現地住民から米を買い上げていたが、それも限界に達した。兵士たちは自ら畑を耕し、イモや雑穀を栽培したが、収穫は乏しく、常に飢えに苦しんだ。


 手に入るものは何でも食べようとした。野生の動植物、時には毒を持つものにまで手を出し、命を落とす者もいた。マラリアなどの病気が蔓延し、兵士たちは絶望的な環境に置かれた。


 そんな中、和田は現地住民が網で捕らえた大量の淡水フグを発見した。彼らはそれを食べずにすべて捨てていた。「スマトラには淡水にフグもおるんか!」和田は驚き、通訳のできる者を呼び、現地語を訳してもらう。現地の人が「毒があって食べられない」と語っていたが、和田はフグの本場で培った知識を思い出した。「フグは皮と肝と内蔵に毒が多い。その部分を除去すれば、絶対とは言えないが、食べられる可能性がある。」部下の一等兵が訝しげに言った。「班長殿、そんな危ないもん食えるんすか? 内地じゃフグは高級品やけど、ここじゃ沼や池におるんやろ。」和田は軍曹に相談し、許可を得た。「よし、試してみろ。だが、慎重にだぞ。」



【第四章: 猛毒の挑戦】


 和田の試みは、単なる好奇心ではなく、部隊の存亡を賭けた挑戦であった。彼はありとあらゆる方法で毒見を試みた。まず、ニワトリや犬に少量を与え、反応を観察。死に至らない量を慎重に増やし、人体への影響を推測した。


 数回の失敗と犠牲を経て、和田は確信を得た。この淡水フグは、適切に処理すれば食用にできる。そして、味は上々であった。その柔らかな白身は、兵士たちの乾いた舌に、久方ぶりのまともな食事の喜びを与えた。試食した兵長が目を丸くして喜んだ。「おお、旨い! 班長殿、こりゃ一級品だ。内地の料亭の味だぜ。」


 しかし、この発見は喜びだけをもたらさなかった。和田は厳格な通達を出した。「身の部分のみを慎重に扱え。」これを守れば、安全であるはずだった。だが、飢えの極限状態では、規律が崩れやすい。ある夜、他の班の兵士数名が、飢えと好奇心に抗えず、盗み食いした肝に当たってしまったのだ。翌朝、数名の兵士が激しい痙攣と吐血を起こし、苦しみながら息絶えた。軍曹が激怒した。「馬鹿者ども! 通達を無視するとは、何事だ! 和田班長、責任を取れ。」


 和田は深い葛藤に苛まれた。自分の知識がもたらした希望が、逆に仲間を死に追いやったのだ。「なぜ、通達を守らなかったのか……いや、守らせるだけの指導ができなかったのは、私の責任か。」彼は夜通し、死者の傍で自問自答した。フグの毒は、敵の弾丸以上に無情だった。この事件は、和田の決意をさらに強めた。より慎重な処理法を確立し、部隊全体の生存を支えるために。


 この評判は軍部に知れ渡った。食糧不足に悩む南方軍司令部は、これを「一大食糧資源」と位置づけ、和田に特命を下した。「南方戦線におけるタンパク質確保計画(コードネーム:河豚計画)」として、生きた個体を輸送し、管理のしやすいベトナムのメコンデルタで養殖せよ。


 スマトラからベトナムへ――それは地図上では数百キロの距離に過ぎない。しかし、戦況が悪化した南方戦線では、道は寸断され、空は敵機に覆われていた。和田は船での輸送を断念した。船を使えば早いが、水の交換ができずフグを死なせてしまう。和田は敢えて困難な陸路を選んだ。


和田伍長は、信頼する兵士6名を選んだ。皆、飢えと戦場の過酷さを知る者ばかりだった。竹かごに木樽を押し込み、バナナの葉で何重にも包む。熱帯の陽射しを避けるための工夫だった。


「一人一樽。命を運ぶと思え。」


朝、昼、晩。和田は川を見つけては、ぬるくなった樽の水を八割交換した。車両が通れないところは徒歩で、橋がかかっていないところは首まで水に浸かった。


 揺れが水面を揺らし、酸素を供給する。フグたちは、静かにその揺れに身を任せていた。和田の部隊は、まるで我が子を運ぶように、樽を抱えて移動した。敵の空襲を避け、ゲリラの影に怯えながら、彼らは命を運んだ。それは、戦場の片隅で咲いた、静かな祈りだった。



【第五章: 放流の瞬間】


 輸送の最終目的地であるベトナムに到着する直前、カンボジアの拠点で、和田は日本の無条件降伏を知らされた。伝令の声が響いた瞬間、和田の胸に鋭い痛みが走った。すべてが終わった。長きにわたる戦い、飢えとの闘い、そしてフグをめぐる希望の計画――それらが一瞬にして灰燼に帰した。絶望が怒涛のように押し寄せ、膝が震え、視界が滲む。虚無感が全身を蝕み、何のために生き延びてきたのかという問いが、頭の中を渦巻いた。司令部は崩壊し、兵士たちは混乱の中で帰国の途を探していた。


 和田の背後で、兵士の一人がぽつりと呟いた。「……これで、終わりですか、班長殿。」別の兵士が木樽を見つめながら、静かに言った。「こいつら、俺たちよりも長く生きるかもしれませんね。」


 フグはもはや希望の糧ではなく、ただの重荷でしかなかった。だが、誰も捨てようとは言わなかった。竹かごを背負ってきた兵士たちは、黙って川辺に立ち、和田の指示を待った。


 武装解除が迫る中、和田はカンボジアの川にたどり着いた。彼の心境は複雑であった。単なる諦めを超え、戦争の無常に対する静かな怒り、失われた仲間の記憶、そして未知の未来への微かな願いが交錯した。フグを放つ行為は、敗北の象徴であると同時に、生命の連鎖を託すささやかな抵抗でもあった。


「一匹ずつだ。乱暴にするな。最後まで、丁寧に。」


 兵士たちは無言で頷き、木樽の蓋を開けた。一人がそっと川に手を伸ばし、フグをすくい上げる。「……行けよ。俺たちの代わりに、泳いでくれ。」そう言って、川へと放った。


 バナナの葉に包まれていた木樽が次々と空になっていく。兵士の一人が、最後の一匹を放ち終えたあと、ぽつりと呟いた。「死ぬわけにはいかない。お前たちも死ぬな。ここで生き延びろ」


 和田は川面を見つめながら、静かに言った。「俺達の任務は終わった。無事に帰ろう。日本へ」その声は、命令ではなく祈りだった。そして、彼は歴史の闇へと消えていった。



【第六章: 毒の遺産】


 2025年4月、カンボジア南部、バサック川流域。白石悠人は、発見したパオ・パレンバンゲンシスを慎重に扱いながら、村の長老に話を聞いた。長老は古い竹の椅子に腰を下ろし、煙草をくゆらせながら、遠い目を向けた。


「敗戦した日本軍が立ち去った後、このフグが増え始めたんだ。日本兵が川にこいつを放ったって噂だ。だがな、こいつは毒の塊だ。食えるもんじゃない。何人も死んでる。日本兵は一体何を目的に、こんな毒魚を放ったんだろうな」


 長老の言葉は、ただの伝聞ではなかった。実際、カンボジアでこの種が確認されており、毒性分析ではサキシトキシンを高濃度で含有し、食用に適さないケースが報告されている。現地住民の間で「毒の魚は食えない」との戒めが根強く、過去に中毒で命を落とした者たちの記憶が、村の暗い影として残っていた。


 さらなる調査のため、白石はスマトラ島パレンバンの大学に問い合わせを送った。「そちらで、パオ・パレンバンゲンシスはどのように利用されているのですか?」返信は意外なものだった。


「はい、日本の統治時代から食べられるようになりました。日本兵から毒を避ける調理法を教わったのです。現在では観賞用だけでなく、食用としての養殖技術も推進されています」


 白石の心臓が早鐘のように鳴った。カンボジアでは毒魚として忌避されている一方、スマトラでは食用として受け入れられている。同じ種のはずなのに、なぜこの違いが生じたのか。環境の差か、それとも戦時中の放流による未知の変異か――謎は深まるばかりだった。


 白石の脳裏に浮かぶのは、川辺で囁かれる幽霊のような噂だった。戦後、川に放たれたフグ。日本兵はなぜスマトラのフグをカンボジアまで運び、放流したのか。長老の言葉が繰り返し響く。「何人も死んでる」――それは単なる事故なのか、それとも日本兵の呪いか。時を超えて蘇った呪いなのか。


 白石はノートを閉じ、濁った川を見つめた。カンボジアにおけるパオ・パレンバンゲンシスの起源は、今も不明のままである。しかし、この物語は一つの仮説を提示する。戦争の残滓が、思いもよらぬ形で現代に繋がっている可能性。そして、その遺産がもたらす謎は、静かに解明の時を待っている。


※本作は、パオ・パレンバンゲンシスがカンボジアで確認された実例に基づき、その起源の謎をフィクションとして描いたものです。同種が現地で養殖され、観賞用として輸出されているほか、スマトラでの食用利用が進められていることは史実に基づいています。

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