10:家庭教師、来襲
「本日から、私があなたの家庭教師を務めます。アメリア・クラヴェルと申します」
綺麗な灰金の髪を後ろでまとめ、眼鏡越しの目元は知性に満ち、凛と冷たい。
誰がどう見ても「できる大人の女性」だった。
クラヴェル準男爵家の出。家計を助けるために職に就いたという。
(勉強……それは私が完璧令嬢になる為の、おそらく、断罪ルート入り阻止の最終防衛線……!)
「まずは、所作指導から参りましょう。椅子に腰掛けたまま、背筋を伸ばして。……肘は開かないように。指先は添えるだけ。もっと内側に」
「はっ、はいっ……」
(もうこの時点で無理では!?)
椅子の座り方ひとつで20回は注意されている。
歩き方では内股すぎる、腕が揺れている、腰の重心が不安定――。
(生まれ変わって6年。今までどんな雑な生き方を……前世でも雑だったわ…)
「ダンスの基本ステップも確認しておきましょう」
「えっ今!?!? 待って心の準備が」
「まずは足の角度。次に音楽の取り方。手の振りは腰からです」
初見の音楽に合わせて動こうとするが、当然踊れない。
足がもつれて転びかけ、先生の腕がさっと支えてくれる。
「……やり直しです」
冷静に言われて、なんだか涙が出そうになった。
次は文化と歴史の口頭試問。
「今代の王の名前は?」
「えーと……あの、第一王子の……お兄さま……」
「それは第二王子です。即答できるようにしておきましょう。では、法典第一章の第一条は?」
「えっ、法律って覚えるんですか……!?」
「貴族の責務は義務より先にございます」
もう頭の中がぐちゃぐちゃ。
この時点で私は本気で「いっそいじめられてた方が良かった」などと訳の分からないことを考え始めていた。
(でも違うんです、これが貴族の教育なんです……! いじめじゃない……断罪回避には必要な苦行なんです……!)
息も絶え絶えになったころ、ついに最後の科目――算術がやってきた。
「こちらは文章題です。まず読んで解いてみてください」
私は手渡されたプリントを見て、数秒沈黙した。
(……これ、前世でやったやつじゃん!!)
「ふふ……まかせてください」
静かに、でも内心ガッツポーズで、私は鉛筆を走らせる。
数字の合計、引き算、簡単な掛け算。
桁も少なく、暗算でもいける内容。
私の頭が、ここだけ妙に冴えていた。
頭ガチ爽快りんぬ。
「……終わりました!」
提出したプリントを、アメリア先生がぱらぱらとめくる。
「正解です。手順も明快です。大変よくできました」
ぴしり、と背筋が伸びるような感覚。
「……ありがとう、ございます!」
ほんの少しでも褒められたのが、すごく嬉しい。
ようやくこの世界の中で、自分の足場がひとつできた気がした。
本当に、本当に……
これでも前世では文学部のガチ文系で、数学なんて聞いただけで軽く湿疹。数字アレルギーという名の呪いに苦しめられてきた。
一次関数で涙目、二次関数で魂が抜け、確率統計では成仏しかけた過去。
会社でも基本は文書作成や調整業務ばかりで、数字が出てくると「それ経理に回して!」が合言葉だった。
でも、たまに回ってくる経費精算だけは、何となくで頑張ってたっけ。
なのに、どうだ今の私は。小学生レベルの算術を前にして。
(わかる……! 私、解けるじゃん……!?)
小学生レベルだし、自慢するには早すぎるとは思う。思うけど。
今この瀕死の教育ルーキーには、ほんの一問の正解がオアシスだった。
心に染みる、栄養満点の一滴。
(好き……好きになっちゃう……算術……)
初恋かな?ってレベルで感謝が湧いてくる。
これがもし人間だったら、私は今、絶対お礼にケーキを焼いてる。
私はそっとプリントをめくる。
次の問題も、きっと解ける。たぶん。
算術は敵じゃない。いや、むしろ推しだ。
(まだいける……! 私、完璧令嬢ライフ、いけるかもしれない……!)