件名:無呼吸運動の型は二度と見られないようです
「主人との平和な朝が消えたのは、この日からでした」
いつもの朝と同じように、私は慎重に朝食をとりました。
いつもと同じように魔力アリの踊り食いで甘みを味わいながら、ゆっくりと舌を這わせたのも覚えています。
そして、いつもと同じように主人は日向ぼっこを楽しみ、森の生き物たちは今日も変わらず私たちを崇めておりました。
本来なら、それが続くはずでした。
――けれど、この日は違ったんです。
「うわっ、このクエスト、マジで雑魚狩りすぎるwww」
「こんなヌルゲーで金もらえるとか、タイパ最高www」
場違いな声が、森の奥から響いてきました。
なるほど……随分と騒々しいお客様ですこと。
「あら、今日は新しい見物人がいらしたのですね」
軽薄でいて傲慢で、そして命を踏みにじるような声音でしたね。彼らの言葉が風に乗ってはっきりと届いた瞬間、私は本能的に理解しました。
この声を一生忘れることができないと。
「オオアリクイってマジでモンスターなの?www」
「雑魚狩りなんだし、私がトドメを刺したいんだけど」
「さっさと終わらせて報酬ゲットな」
その声は五人だったと思います。
若い男が三人、女が二人。
彼らの足音は、森の静けさを何の躊躇いもなく踏み躙っていました。
その瞬間のことを――彼らの声、彼らの顔、彼らの足取りを今も鮮明に思い出すことができます。
転生者たちは遠慮なく森を踏み荒らしながら、真っ直ぐにこちらへ向かってきました。まるで"ゲームのマップ移動"でもしているかのような足取りです。
「おい、いたいた! これが討伐対象だろ?」
先頭を歩く金髪碧眼の少年――レイヴン・アストリアが、こちらを指差しました。
「……え、マジでオオアリクイじゃんwww」
「こんなのクエスト対象にするギルドの頭おかしくね?www」
「つーか、こんなもんで経験値とかもらえんの?」
彼らは笑っていました。
獲物を狩るための準備運動のように剣を抜き、杖を構え、各々が好き勝手に装備を整えていきます。
――そして、彼らは私を殺すために武器を向けました。
ですがその瞬間、主人が静かに立ち上がります。
「ふむ……これは……少し、まずいのではないかの?」
先ほどまで日向ぼっこを楽しんでいた主人は、ゆっくりと立ち上がり、悠然とこちらに歩み寄りました。
その姿は、まるでこの森の王。
優雅に威厳を持ち、そして……少々眠たそうに。
「どうしました、あなた?」
「うむ、少し目を覚まそうと思ってな」
主人は長い鼻先を高く掲げ、悠然と爪を研ぎ始めました。
彼なりの「準備運動」だったのでしょう。
けれど、それを見た転生者たちが爆笑しました。
「なにあれwww 今から武器研ぎ?www」
「っていうか、武器持ってねぇじゃんww」
「いやいや、マジでカワイイんだけどwww」
彼の背中は広く、長年この森を守ってきた存在としての威厳を感じます。
しかし――。
転生者たちは主人の姿を見ても、まったく気にしていませんでした。
今となっては、それも仕方のないことだったのかもしれません。彼らにとって、私たちオオアリクイの「威嚇」は、ただの"笑い話"だったのですから。
主人はその長い腕をゆっくりと広げていました。この平和な森では威厳のある「無呼吸運動の型・神威の構え」です。それは、敵意を示す者に対し、こちらに戦う意思があることを伝える正当な行動でした。
しかし、転生者たちには、それがまるで――。
「ちょwww まさか召喚モーション?www」
「ヤバイ、ラスボス級のモンスターだったりする⁉︎www」
「いやいやww どこからどう見ても雑魚ww」
彼らの笑い声が、森の静寂を壊していきます。
私はつぶらな瞳で瞬きをしました。
「あら……どうやら、彼らには神威の構えの意味が伝わらなかったようですね」
今日もまた、平和な朝ですね。
――そして、私が最も愛する朝でもあります。
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