件名:異世界でガラケーを打つオオアリクイがいるらしい
「まさか、この私がガラケーを操作する日が来るとは思いませんでした」
地中に掘られた、ひんやりとした巣穴の奥。
私は慣れた仕草で前足を伸ばし、先の尖った鉤爪で小さなキーをカチカチと叩きます。
「随分と成長したものです」
最初にこの道具に触れた時は、爪が引っかかって上手く押せず、悲しいほどの誤字を量産しました。そのせいもあってか、気づけば私の足元には鉤爪で貫かれた何台ものガラケーが転がっています。
「試行錯誤を重ねた証ですわね」
この世界の平和な森で生まれ、アリを食べながら静かに暮らしてきたオオアリクイ。その私が今こうして巣穴の中で、人間の文明に手を伸ばそうとしているのか?
どうして、この冷たい画面に向き合っているのか?
私は記憶を手繰り寄せます。
主人の温もりを。
アリの甘い味を。
森を揺らした風の音を。
そして――血に染まった転生者の剣を。
このメールを送れば、何かが変わるのでしょうか?
それとも、ただの独り言に終わるのでしょうか?
「……いいえ」
これは独り言ではありません。
これは、私という存在の証明なのです。
「主人のオオアリクイが殺されました……」
爪がキーを叩く音が、巣穴の壁に静かに響きました。
そして、私と主人の物語は過去へと遡ります――。
◇◇◇
「主人がアリの巣に頭を突っ込んでいました」
情けないですね。またですか……。
私は遠くからその光景を眺めながら、静かに溜め息をつきました。朝の日光が木々の隙間を抜け、土の香りがふわりと漂います。
小鳥たちのさえずりが響き、そよ風が葉を揺らす――とても穏やかな朝です。
そんな美しい森の片隅で――。
「気をつけてくださいね、あまり奥まで突っ込むと――」
――ズボッ。
主人の長い鼻先が、アリの巣穴にずっぽりと埋まりました。
「んおっ……?」
もがく音とともに、主人がよろめきました。
巣穴の周りには、怒った魔力アリの大群がうごめいています。そして次の瞬間、彼らは主人の顔めがけて一斉に襲いかかりました。
「ぐおおおおっ⁉︎ コイツら、ワシの鼻を噛みやがったぞ⁉︎」
私はつぶらな瞳で瞬きをしました。
「……あなた、それはいつものことではありませんか?」
「バカを言うな御夫人‼︎ 今回のアリは一段と牙が鋭い‼︎」
「まさか、あの子たちが日々進化しているとでも?」
「この森で最も賢いのは、ワシではなくアイツらなのかもしれん……」
「ふふ、それは面白い仮説ですわね」
今日もまた、平和な朝ですね。
――そして、私が最も愛する朝でもあります。
あの方の情けない姿を眺めながら、こうして息を吐く。
それは、何よりも心地よい朝の習慣でしたのに――。
主人がようやくアリの大群を振り払うと、森には再び静けさが戻りました。私はゆっくりと息を吐き、乾いた蟻塚に舌を伸ばします。
――ペロリ。
昨日は巣の奥にいたアリを食べすぎて、少しお腹を壊しました。ですので今日は慎重に、浅いところにいる魔力アリを捕食することにいたします。
「貴重なタンパク源。新鮮な魔力アリは僅かに甘みを含んでおりますのよ。口の中でほのかに土の香りが広がり、最後にピリリとした余韻が残る……まさに、活きた大地の恵みですわね」
舌先に広がる僅かに甘みを含んだ土の風味と、魔力アリ特有のピリリとした刺激。やはり、新鮮なアリの踊り食いは格別です。
しかし、ふと顔を上げると、森の生き物たちがじっと私を見つめていました。リスやフクロウ、ウサギといった動物、さらには何やら羽根が生えた蛇のような害のない魔物まで。
彼らは私たちの食事の光景を、どこか神妙な面持ちで見つめております。
「オオアリクイ御夫人……今日も魔力アリをお食べになったのですね……!」
リスが恐る恐る言いました。
私はゆっくりと顎を上げ、品よく微笑みます。
「ええ。なかなかの美味でございましたよ」
フクロウが静かに頷きました。
「遂にまたひとつ、この森の魔が浄化されたのですね」
えーっと……これは違うんです。
私はただ、空腹を満たしていただけなのですが――。
森に生きる者たちは皆一斉に「オオアリクイ様のおかげで、この森は平和を保っております」と感謝を述べ、神妙な顔つきで頭を下げます。
私はつぶらな瞳で瞬きをしました。
今日もまた、平和な朝ですね。
――そして、私が最も愛する朝でもあります。
そのとき、日向ぼっこをしていた主人が、のそりと顔を上げました。
「うむ……加糖アリは胃にもたれるのう……」
背筋を伸ばした主人が、両手を高く掲げます。すると次の瞬間、森の生き物たちがどよめきました。
リスは目を見開き、フクロウは羽を震わせ、羽根の生えた蛇はしっぽを巻いたままガタガタと震えています。
はぁ……本当に大袈裟ですね。
「アレは伝説のオオアリクイ様の決意の構え‼︎」
「魔王討伐に赴く前に見せた戦士の誓い‼︎」
「これを見たが最後、膝を折らぬ者はいないと伝えられる威厳の型‼︎」
「も、もう耐えられませんっ!」
「神々しすぎて視界がっ……」
「我らは貴方の足元にも及びませぬ……」
私は無言で主人を見つめました。
彼は少し目を細めながら、先の丸くなった爪でのんびりと腹をさすっています。
「……ん? 何か言ったかの?」
彼らの様子を見ていると、私の方が恥ずかしくなってきます。だって当の主人は日向ぼっこをしながら、のんびりと爪を舐めているだけなんですから。
「その落ち着いた佇まい、さすが魔王を討ち滅ぼした聖獣様……」
「荒ぶる"無呼吸運動"の型。いや、これは"神威の構え"か‼︎」
「魔王の手下を殲滅し、その長い舌で幾千もの邪悪を貪り尽くしたという……」
森の生き物たちが一斉にひれ伏します。
主人が驚いた様子で瞬きを繰り返しますが、私も瞬きをしました。
そう、かつて主人は勇者パーティの精霊として召喚され、幾多の戦いを生き抜いた伝説の戦士だったのです。もしかすると、この森で彼が崇められるのは、当然のことなのでしょう。
「ふふ……鼻が高いです」
私は鋭い爪でゆっくりと鼻先を撫でました。
オオアリクイの鼻は物理的にも十分に長いのです。
今日もまた、平和な朝ですね。
――そして、私が最も愛する朝でもあります。
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