(お江様)4
御簾が上げられた。
大広間では全員が低頭していた。
与太郎は上座から見下ろし、手前に居並ぶ大人衆に声をかけた。
「面を上げさせてくれ」
家老筆頭の片桐且元がそれに応じた。
「上様のお言葉である。
全員面を上げられよ」
人の数だけの衣擦れの音がして、全員が面を上げた。
見知らぬ顔が多い。
大名小名の多くが大挙して二つの討伐に出陣していたので、
このところ城中にはその代理である留守居役が多く、
顔と名前を一致させるのに誰もが難儀していた。
だが与太郎はそれを色には出さない。
如何にも覚えてますよ、と装っていた。
片桐且元が大広間を見回して言う。
「島津家討伐の大役を仰せつかった立花宗茂殿より、
待ち望んでいた吉報が届けられた。
方々も知りたいであろう。
長いので端折りながらではあるが、その一部を読み聞かせよう」
勝報であろうが、敗報であろうが、情報共有は大事。
秘匿したままであると、その一部が漏れた際に、
悪しき者共に改竄されて大きな騒ぎに発展してしまう。
それを防ぐ為にこのような仕儀と相成った。
とかく、この公儀のような大きな組織では、
派閥争いや出世競争もあり、切っ掛け一つで、
味方であるにも関わらず嬉々として足を引っ張り合うのだ。
それを見越しての防衛策が今回の情報共有。
勿論、それを主導したのは与太郎。
敗報で公儀への忠義心が揺れ動くのは承知していた。
それで離反すればそれもまた良し。
去る者は追わず来る者は拒まず。
それが秀パパの跡を継ぐ者の流儀。
片桐且元の視線が隣の明石全登に向けられた。
「明石殿、頼み入る」
明石全登が頷くように頭を下げた。
「承りました」
元は宇喜多家の家臣。
秀パパと宇喜多家がズブズブの頃に、その才気を買われ、
豊臣家の直臣にも取り立てられた人。
宇喜多家と豊臣家両属の家老であった。
特に最近は宇喜多家の内訌もあり、
豊臣家への奉公は差し控え気味であった。
それも与太郎の気転で内訌が収まるや、一転して、
豊臣家の家老に専念できるようになった。
だが決して宇喜多家を見限った訳ではない。
宇喜多家の新しい体制に配慮してのこと。
明石全登が立花宗茂からの書状を読み聞かせた。
公式の書類であり、長文である事から、
片桐がいうように半分ほどに端折ったものであったが、
それでも聞き手の者達は満足した。
彼等が知らされてない事が多く、目を瞬くばかり。
皆が皆、大人しく耳を傾け、咀嚼した。
この書状が届けられたのは三日前。
宛先は当然、与太郎であったが、直に受け取ってはいない。
取次役方が受け取り、中身を吟味してどこに届けるか判断した。
今回は真っ先に大老衆に届けられ、それから与太郎に回された。
これはけっして与太郎を軽視した訳ではない。
与太郎は秀パパに無理に元服させられたが、
本来であれば元服前の子供。
その配慮から大老衆が与太郎本来の仕事を減らし、
おおよそ半分近くを彼等が肩代わりしていた。
半分と言っても公儀の屋台骨を支える事柄が中心であった。
明石全登の読み聞かせが終わりに近付いた。
「噴煙に覆われた早朝、それまで静かだった島津軍が動いた。
朝駆け。
厚い噴煙の中、土地勘を活かしての総攻撃。
何の迷いもなく一斉に内城方面に走り出した。
こちらは慣れぬ噴煙の影響もあり出遅れた。
が、数はこちらが上。
出遅れを数で補った。
内城周りの陣から報告が次々に齎された。
近接したのでこれより撃退する、と。
敵勢は内城の真ん前を突っ切っている、とも。
・・・。
後で知った事だが、敵勢は大隅に戻る為に駆けただけのこと。
その大隅は島津義弘殿の領地だ。
戦に飽きた連中を、帰国を餌に囮としたそうだ。
その陽動に我等はまんまと釣られてしまった。
・・・。
気付いた時には遅かった。
我が本陣側面が小数の島津家精鋭に襲われた。
これも後で知った事だが、騎乗の千二百四十六名。
・・・。
我が本陣の備えも島津家に負けぬ手練れ揃い。
五千余名。
突破だけは許さぬと、厚い隊列を組んで抗戦した。
されど、勢いは島津家にあった。
僅か三十三騎であるが、騎乗にての本陣侵入を許してしまった。
・・・。
我も槍を手に出迎えた。
供回りは七十ほど。
盾持ち二十余、槍持ち二十余、槍持ち二十余。
・・・。
駆け寄って来た先頭の馬から一人が飛び降りた。
島津義久殿だ。
我に一騎打ち所望かと思いきや、違った。
笑顔を我に向けられたまま、その場で自害された。
次は島津義弘殿だった。
彼の方も、我に笑顔を向けて自害された。
二人からは何の言葉もなかった。
恨み言も頼み事も一切なく笑顔で逝かれた。
・・・。
お二人に付き従っていた三十一騎も、その場で自害した。
あまりの早い決断に止める事は叶わなかった。
・・・。
本陣の外に生き残った兵も十数騎いた。
が、それらもお二人の自害を知ると、その場で即座に自害した」
与太郎は島津義久に会った事はない。
しかし、彼の者はそれなりに名をはせていた。
戦ぶりではない。
腹の内を読ませないところが、であった。
それは秀パパを呆れさせる程であった。
良い例が、秀パパの上洛要請をのらりくらりと躱した事であろう。
あの家康でさえ、秀パパの上洛要請を受諾したというのに。
その彼は秀パパに降伏するや隠居して婿養子に家督を譲った。
婿養子に内政を任せ、弟の義弘には外交を任せた。
形としては表舞台から退いた。
ところが実権だけは手放さなかった。
あらゆる事に口を出した。
それが今回の終焉に繋がった、そう与太郎は考察した。
宗茂からの書状を受けて、はいそうですか、討伐ご苦労様、
では済まない。
幾つかの要請があったので、それに応えないければならない。
まずは一つ目は肝心要の、三つの首のこと。
それは島津義久、義弘、忠恒の首を指していた。
その三つを大坂に届けるのが討伐軍に課せられた役目であった。
宗茂としては、本陣で自害した島津兄弟の心情を鑑み、
それを取り下げて欲しい、と要望して来た。
討伐軍に帯同していた石田三成も同封の添状で、
その旨を記していた。




