(島津家討伐)2
元近習が面を伏せて言う。
「錦の御旗下賜の一件ですが、おかしな具合になりました」
島津義久は畿内に潜む島津家の者達に、下賜を阻止すべく、
内裏に働きかけるように指示していた。
主に力のある公卿公家衆にだ。
前回の報告では、感触は悪くない、とあった。
伊達家や徳川家も同様に働きかけていたので、
それなりの効果が見られたそうだ。
「どうした」
「下賜願いが取り下げられました」
上様と大老四人が連署で上奏したはず。
思わず義久は前のめりになった。
「なに、如何なる訳だ」
「これは武家方の家中統制の問題である。
よって、武家方で解決するのが筋であろう。
そういう意見が畿内で急速に広まり、取り下げになりました」
良き知らせではないか。
ぬか喜びでは困るので、念の為に尋ねた。
「すると公儀は錦の御旗を諦めたのだな」
「いいえ、そうでは御座いません。
武家方の家中統制を口実に、大老中老奉行衆が連署で、
上様に錦の御旗の下賜を願い出ました」
「秀頼様にか」
「そうです。
願い出たその日、即日、錦の御旗が下賜されました」
大広間から物音が消えた。
咳は無論、身動ぎする音もない。
そんな中、最初に声を発したのは重臣の市来正富であった。
「義弘様、某は無学故存ぜぬが、
錦の御旗は内裏の物ではなかでしょうか」
問われたのは島津義弘。
義久の弟で、上方通の人。
「そう聞いちょる。
鎌倉も室町も錦の御旗は内裏から下賜された筈や」
その返答で大広間に音がもどった。
安心したのか、隣の者達となんやかんやと論ず。
義久はそれらを好きにさせて、元近習に尋ねた。
「その錦の御旗を目にしたか」
元近習が面を上げ、義久を見上げた。
「又聞きですが、赤い旗に、天下安寧、そう入れてあるそうです。
旗はもう一つ。
白い旗に、天下布武。
馬印は金瓢箪」
義久は図り兼ねた。
金瓢箪は太閤殿下。
天下布武は織田信長公。
そこで義弘に尋ねた。
「どう思う」
義弘は義久からの問には答えず、元近習を見据えた。
彼が何やら物言いたげな表情をしていたからだ。
そこで尋ねた。
「全て申せ」
元近習は大袈裟に平伏した。
「旗指物も幾つか下賜されたそうです。
それには、官軍、そう入れてあるとか。
これで足りなければ作っても良し、とのお言葉も」
聞いた義弘の顔が強張った。
「そうか・・・」
義久も口には出さぬが、本質を理解はした。
言ったもん勝ち。
世の多くは無学の徒。
錦の御旗には縁がなくとも、官軍の意味くらい分かるだろう。
重臣の加世田兼盛が元近習に尋ねた。
「お馬揃えは見ちょっとか」
元近習は加世田に向けて面を上げた。
「某はこれを伝えるのに急ぎ戻りましたので、見ておりもはん。
お馬揃えの日にちは、本日です」
義久は加世田兼盛に確認した。
「上方の軍はもう発せられているのだったな」
「お馬揃えを別にして、既にそれぞれ発しちょります。
近日中には宿営地に集まるかと」
お馬揃えには多くの大名が参加するが、特に宿舎の問題から、
その人数には上限が定められた。
大名中名小名関係なく最大でも、騎馬も徒士もそれぞれ五十、と。
その裏で、討伐軍本体は既に各領地から発されていた。
肥後口と日向口の宿営地で、
お馬揃えを終えた大名衆を待つ段取りであった。
義久は義弘を見た。
「先に宿営地を焼き払うか」
「それは先方も承知のはず。
当主がいなくても、手練れの重臣共がおります。
手ぐすねを引いて待っておりましょうよ」
戦乱続きで歴戦の剛の者達が各家に存在していた。
若き当主の島津忠恒が義久に提言した。
「そいでん、出鼻ば挫く必要があっとじゃ。
大隅ば一時捨て、兵力さ、肥後に向けてはどがじゃ」
急いていたのか、訛り丸出しであった。
義久は苦笑いで応じた。
「肥後か、討伐軍の大将が来る前に追い散らすか」
忠恒は咳をして、言葉を改めた。
「こちらは往時の兵力は揃えられませんが、息は軒高です。
勢いのあるうちに一当てすべきです」
義久には懸念があった。
東の日向口であった。
豊後から伊東家を経るのは分かっていた。
伊東家が宿営地になっていたからだ。
問題はその先、
通常であれば伊集院家の都之城を経て、
島津領に侵攻するのが早道であった。
しかし、それに義久義弘の二人は疑問を抱いていた。
膠着している伊集院家の陣をそのままに、大隅へ侵攻せぬかと、
その一点であった。
兵力で劣る島津家を更に分散させるつもりでは、と懸念していた。
前回の島津家討伐と違い、豊臣家は余力があった。
主力の大老衆を動かしていないのだ。
九州に毛利家の所領があるので、一部は出兵するだろうが、
それでも全力ではない。
全力でなくても今の島津にとっては十分に脅威だ。
悩んだ義久は義弘を見遣った。
その義弘、義久の視線には気付かず、深い思考に入っていた。
義久は弟の癖を知っていたので、敢えて邪魔はしない。
ただ、待った。
おもむろに義弘が身動ぎして義久に低頭した。
「相手の大将はあの立花宗茂。
我が島津家を何度も退けた強者。
それが公儀の大軍を率いておるのです。
待ち受けているだけでは、じり貧しかありません。
削られて追い込まれます。
ここは一つ、勝つか負けるか、博打を打ちましょう」




