(始まりは突然に)6
長岡藤孝は本能寺の変を機に隠居した。
それを秀パパが好機とばかりに招聘した。
天下に一番近い人からの招聘を拒否できる者はいない。
嫌われれば長岡家が傾く。
本心は分からないが、快く受諾したそうだ。
その長岡が与太郎から視線を外し、腕を組み、
ジッと宙の一点を見詰めた。
蓄えた知識を総浚いしている様子。
与太郎は待つ事にした。
彼が駄目なら諦めるしかない。
蘇、醍醐。
所謂、チーズ。
滋養があるとも言われ、内裏では重宝された。
それが長らく戦乱で製造法は無論、存在すら忘れ去られた。
それを与太郎は蘇らせるつもりでいた。
長岡が視線を戻した。
「蘇と醍醐でしたな。
生憎、手元には写本一つもありません。
ただ、入手先に心当たりが有ります」
「写本があれば作れると思うか」
「試しみる価値はあると思います」
好奇心の色。
「ならその方に委ねよう。
一切の費用はこちら持ちだ」
「はい、万事お任せを」
秀パパが気に入っていた訳だ。
与太郎は豊臣家の家臣席を見回した。
「来栖田吾作、前へ」
秀パパの子飼いだが、出世が遅い。
その理由はただ一つ。
戦場に出る機会を逸していたのが大きい。
今はそれでも大坂城の普請奉行の一人。
小柄な身体で膝すりすり前に出て来た。
「これに」
「長岡殿の与力をせよ。
長岡殿が写本を入手され次第、物作りに入る。
その方はその前に準備を整えよ。
牛と鶏を城の一角に集めるのだ」
「城の一角にですか」
「そうだ。
誰にも邪魔されたくない。
人目の少ない所に牛舎と鶏舎を用意せよ。
勿論、その方が世話する必要はない。
慣れた者共を雇えばよい」
牛でチーズ、鶏で卵スープ。
頷く来栖にもう一つ。
「長岡殿の要求は全て飲め。
人も経費も、天井はない」
淀ママが喰い付いた。
「秀頼、牛とか鶏とか、何を企んでいるのですか。
汚らわしい獣ですよ」
これだから。
淀ママを振り向いた。
「大陸の本によれば牛の乳、鶏の卵、これには滋養がある、
そう書かれております。
だからと言って母上様に食えとは強制は致しませぬ。
どうかご安心下さいませ」
大陸の本云々は口からの出任せ。
真偽を問う者は存在しない、たぶん。
透かさず長岡が言う。
「滋養と申されるからには、前田殿の為ですな」
おおきに、おおきに。
気が利くお方や。
めっちゃ嬉しいわ。
長岡殿の言葉で一応決着した。
これからは賢者様とでも呼ぼうかな。
ホッとしたのも束の間、石田三成が声を発した。
「卒爾ながら、お伺いしたい儀が御座います」
与太郎は発言を許した。
すると石田、思いがけぬ事を言う。
「徳川殿が罷免された訳ですが、
その後任はどなたになされますか」
大老職に定員が定められていたのか。
初耳なんだが。
石田が与太郎の疑問を察して言う。
「小早川隆景殿が亡くなれた後に上杉景勝殿が補任されました」
「すると五人体制なのか」
「そのように理解しています」
せっかく賢者様が目の前にいるのだ。
活用しない手はない。
与太郎は尋ねた。
「長岡殿、そうなのか」
「太閤様は、利家殿の後任は利長殿、家康殿の後任は秀忠殿、
そう約されていたと聞き及んでおります」
「他のお三方は」
「某としては、五大老のうちの二つは前田家と徳川家ではないか、
そう思っております。
他のお三方に関しては何も聞き及んでおりません」
五大老のうちの二つは前田家と徳川家の世襲という事か。
石田が露骨なまでに嫌な顔をしていた。
長岡の発言が気に喰わないらしい。
ああー、そうか。
長岡家の現当主、忠興は石田と敵対する武功派だ。
関ケ原は、前田利家の死に起因していた、
と言っても過言ではない。
石田三成等の文治派と対立していた加藤清正等の武功派は、
家康殿寄りと見られがちだが、実はそれ程でもなかった。
冷静に見ると、家康殿を利用していた節があった。
豊臣政権内で実権を握る文治派に敵わぬと知った武功派は、
対抗する為に家康殿に片足を置きながら、
もう片足を利家殿に置いた。
伏見城で政務を担う家康殿、大坂城で秀頼の傅役を担う利家殿。
実に功利的に動いた。
この均衡は利家殿の死をもって終わった。
家康殿が大坂城に入り、傅役をも担う事になった。
これにより、政に疎い者は別にして、
多くの者達は新たな局面に入ったと理解した。
恰好の前例が直近にあった。
秀パパの天下取り。
与太郎は否々と思った。
家康殿の罷免は決定した。
当人が拒否しても、覆る事はない。
それでも問題は残っていた。
武功派の処遇だ。
利家殿が生存しているうちに軟着陸させたい。
さて、その最大の障害は目の前の男、石田三成。