(始まりは突然に)14
表門の詰め所は内側にあるが、
外側に閉門後の窓口が設けられていた。
小さな格子が嵌め込まれて、遣り取りが出来るようになっていた。
家康はそこから外を覗いた。
陰になっているので、覗いている人物の存在は知れても、
当の本人とは思わないだろう。
家康は織田老犬斎こと、織田信包を観察した。
騎乗姿は装束のお陰で高位の武士だが、
何時ものように、裏も表もないような表情をしていた。
気持ちは手に取るように分かった。
かつての彼は世が世なら天下人の一員。
ところが、信長様が本能寺で討たれて一大名に転落した。
激流の中に放り出された気分であっただろう
それからは家康同様に白刃の上を歩かされた。
ところがところがなのだ。
天が彼に味方した。
太閤殿下が亡くなったのだ。
残ったのは幼い秀頼ただ一人。
姪が生んだ子。
稀有な事に、彼は天下人の血族となった。
面と向かって彼にその本心を質した事はない。
推測だが、質しても、本心を語ってくれたとは思わない。
殻に閉じこもった雰囲気が濃いのだ。
老犬斎の思惑は別にして、
一行の者達と門番達の間が険悪になった。
このままだと、誰かが刀を抜いても不思議ではない。
剣呑とした空気が生じた。
それを見取ったのか、老犬斎と轡を並べている者が声を上げた。
実に通りやすい声で、織田家の家臣を諫め、門番達を宥めた。
本多正信が家康にその者の名を教えてくれた。
姓から本能寺で亡くなった重臣の流れと知れた。
一呼吸置いて、その者が屋敷に向けて呼ばわった。
「上様からのお沙汰を申し上げる」
従者から朱印状を受け取ると、馬上からそれを読み上げた。
一通目、御掟を破ったので徳川家康殿を大老より罷免する。
二通目、許しがあるまで家康殿は大坂屋敷で謹慎すること。
三通目、相模と伊豆、この二つの領地を取り上げること。
家康としては事前に知っていたので怒りも驚きもない。
淡々と聞き届けた。
受けるかどうかは別にしてだが。
その者は朱印状を従者に戻し、更に続けた。
「このこと、高札場にて広く公布する。
ご承知下され」
家康は愕然とした。
高札場。
新しく作られた法度や御掟を周知する為に設けられた掲示場だ。
そこに掲示するという事は、暗に、交渉の余地なし、
ということを示唆していた。
目の前が暗くなった家康の耳に容赦のない声。
「本日より謹慎が解けるまでの間、
曽呂利新左衛門殿が徳川家の取次役となられた。
議あらば、曽呂利殿を通して為されるように」
三日続けて門前払いを喰らわせた。
その人物が取次役に任命された。
しっぺ返し、と言う言葉しか思い浮かばない。
完全に、してやられた。
家康は夜中、奥室に気心の知れた者達を呼んだ。
古くから仕えている重臣ばかり。
正信に豊臣家との一連の遣り取りを説明させた。
連中は一端を知ってはいたが、流れを知るに至り、
深い溜息を付いた。
文句は言うが、家康にではない。
正信にだ。
教えてくれれば知恵を貸したものを・・・と。
家康は笑顔を貼り付けた。
「その知恵を拝借したい。
誰ぞ、良き知恵はないか」
武辺者が多いので期待はしていない。
ただ、この者達を通して、家臣団の肚の内を探りたかった。
彼等は一様に豊臣家を貶した。
猿公亡き今、天下を支えているのは家康様だ。
労うのが当然なのに、感謝でなく三つのお沙汰。
ふざけるな。
これは手切れですな。
関東へ戻りましょう。
等々。
戦とは口にしないが、それに近い表現に終始した。
家康はその危うさに閉口した。
同時に安心もした。
忠義一筋の者達だ。
喜んで死してくれる。
それまで口数の少なかった本多忠勝が口を開いた。
片隅に控えていた男に声を掛けた。
「服部殿」
服部半蔵が顔を上げた。
「某ですか」
「そうだ、お主にしか聞けない。
この所の豊臣家の忍びの動向を掴んでおるか」
「某の管掌の一つです。
大坂城には忍び込めませんが、大概の事でしたら」
「それで結構。
この屋敷は見張られておるか」
「以前同様、張り込みは有りません。
朝夕の見回りが有るだけです」
「御掟破り以降は」
「これといった変化はありません」
忠勝が腕を組んだ。
「殿を逃がせるか」
「簡単な事です」
忠勝は間を置いて尋ねた。
「どう読む」
唐突な問い掛けにも関わらず、半蔵は平然としていた。
「笑わないでくれますか」
「笑わぬ。
おそらく某と同じだ」
「ですか、
豊臣家としては殿に逃げて欲しいのでしょう」
部屋が凍り付いた。
耳目が二人に向けられた。
正信が二人に問うた。
「話の肝が分らぬ。
詳しく説明してくれ」
半蔵が忠勝を目で促した。
渋々感一杯で忠勝が正信と家康に視線を転じた。
「これはあくまでも某の妄想です。
それを承知の上で聞いて下され。
・・・。
豊臣家も大名衆も朝鮮では何も得られておりません。
そこにこの御掟破り。
徳川家に難癖を付けて領地を召し上げる絶好の機会。
殿がお逃げになれば相模伊豆だけでなく、
全てを召し上げる理由になります」