⑧本能寺のバグ
8.本能寺のバグ
一五八二年六月一日、本能寺、帰蝶は上様と共に入っていた。上様は公家衆と茶器の品評会をやっているという。帰蝶達女達は四畳半の茶室で、茶会と洒落こんでいた。
「茶器は見るモンじゃなく呑む物でしょう。」
黒塗りの円錐形の茶碗を口から離した。少し、頬がふっくらしただろうか。髪は黒くなっている。青地に桜咲く小袖、趣味は昔から変わっていない。
帰蝶が口を付けた場所には桃色の紅がくっついている。茶釜の側には、ふっくらした緑がニコニコして控えている。年月と共に表情が豊かになっている。
緑は橙地に金の格子柄の侍女小袖を付けている。金の格子柄は侍女頭の印であり、この道三十五年の大ベテランである。客人はもう一人、桃色の小袖に金の帯を付けたネネが座っている。長い髪を元結で留め福々しく笑みを湛えている。食に苦労していない証拠であろう。
「待たせたでありんす。」
狭い茶室の戸に体を捻じ込むように入ってきたのは、相変わらずの遊郭言葉に大柄なマツだった。太刀は戸の横にある太刀置きに横にして置いてきている。得物を持ちこまないのがマナーだ。
「もう始めとんで。何時来るかわからんさけな。」
ネネが帰蝶から渡された茶碗を手に取っている。この雰囲気相変わらずだが、四人揃うのは一年振りらしい。
「皆、御久!」
と帰蝶が満面の笑顔を見せた。マツも口角を上げ、こちらは、もう暑いでありんすとか言っている。マツは北陸へ夫前田利家と共に移り疎遠になっていた。帰蝶の紅を避け、茶を嗜むネネは長浜を仕切っているが、そう頻繁に逢いにくる状態ではなくなっている。主は遠征で殆ど留守だからだ。
「目尻に流れる筋をもとろもせず微笑まれる、とは今日は何の御用でありんしょ。」
マツの元に届いた扇文には短く上洛せよ、場所は本能寺としか書かれていなかった。あと日時と。扇文は御台の号令で、絶対である。マツの手元にはネネから茶碗が手渡された。
「曜変天目や大事にしいや。」
「いい、国二つ三つ分の価値があると言う、あの曜変天目でありんすか。」
「はよ取りいな。」
とネネはマツに押し付けている。マツは落とさないよう慎重に受け取った。
マツは北陸街道を駈けてきただけあって黒に赤の縁取りの陣羽織に深緑の袴を身に付けている。頭は相変わらずのポニーテールである。化粧は濃く、赤い紅とアイシャドウが数寄屋者を彷彿させ、流石前田家の御台である。
「別に落としても畳みだから割れないから。仮に割れても替りはいくらでもあるわよ。」
「手に入るしやわな。(安く仕入れて、利休はんに値ぇ上げてもらうやろ。言えんけどな。年々言えん事増えるわ。)」
それより、帰蝶は茶釜に控える緑から和紙を受け取り、唇を拭いた。更に緑は茶釜の隣にある縦一尺四段構えの化粧箱の最上段から貝殻を取りだし小指で帰蝶の紅を直している。
帰蝶を待たせないナチュラルな流れは、緑だからこそ成せる技、それが三十四年侍女頭の座を死守している。
ネネも他人の子とはいえ、未来の直参子育て真っ最中、マツもそう七人だっけ八人だっけ、忘れたわ、未だ子育て奮闘中だったわね。
「明日から三ケ月間、私は上様と共に外遊する。」
マツが思わず茶を吹き出していた。
「飛んだサンライズや言おう思たのに、マツの茶吹きで持っていかれてもうたやんか。茶ぁ飲んでたモン勝ちつうやっちゃな。」
「ネネ、サンライズじゃなくてサプライズよ。南蛮語のSORPRESAの方が最近はっよく聞くけど。」
「天下の上様と御台様が三ケ月も開けるってなんでありんすか。」
緑はマツから空になった茶碗を受け取っている。
「今から一月後って何の日だかわかる。」
「何の日や。」
「ネネは知らないけど、新大陸に行った日よ。あの時はヘレンの”“未来”で行ったけど、今回は“今”で航る。」
「そう中性子星がこの世界襲ってきて、御台様が錫鞠で助けて、若い折の武勇伝でありんすな。」
ヘレンのブラックボックスは誤差が生じ、一五八ニ年のグレゴリオ暦七月と繋がっていたのである。帰蝶は都にいる宣教師と西洋との暦の差も修正し、渡航日数を計算し明日都出立を決めていた。あの新大陸へウエスタンに向かうと言っているのである。
「あそこに行けば公方様がいる。」
マツとネネは帰蝶を思わず首をグルリと廻し凝視した。半年間の御世話役生活、ゲルマン娘の妨害などもあり、決して順風なものでなく、幾度となく衝突した。何度実家に帰るなどと言った事か。しかし帰る実家などない帰蝶、それを知る公方義輝の歩み等があり、いつしか思いが通うようになっていった。閨直前かと思われた五カ月半目、美濃斎藤利政から帰国命令。帰蝶は断罪されるのかと青ざめたが、それは織田弾正忠家との同盟、即ち、縁組だったのである。帰蝶は、伴侶を連れての再びの上洛を約束し、都から胸を張って後にしたのだった。伴侶織田上総介は、帰蝶の望みを聞くべく努力したものの、なんと哀しむべきことに、公方足利義輝はあのワイルドガイ松永弾正久秀らに討たれてしまったのである。だが、帰蝶は気付いていた。一五八ニ年七月迄待てば公方義輝に逢えると。
「でも殆ど馬の姿だったでありんしょ、妾はダチョウだったし。」
「姿形はどうでもいいの。魂魄が公方なら。私だって、半分以上妖怪化してるんだから。嫗って人間が妖怪化したものなのね。この年なってようやく分かったわ。」
「姫様は、変わりません。初めて上洛した時から今も。」
緑が低音の野太い声を上げた。帰蝶がチラと緑に視線を送り口角を上げた。
「当たり前よ。抗わなくてなんとする。あなたは福々しくなったけどね。」
緑は口に手を当て恥ずかしがっている。その厚い左手から大福餅が入ったかのような両頬が大きく食み出ている。
年を重ねる毎に、ずうずうしくなった緑だが、基本、控えめなのは変わらない。因みに緑の先輩侍女三人は、御世話役が終わった直後当たりから雪崩式に嫁に行き、今は交流すらない。帰蝶は結局彼女達の名前すら覚えられなかった。今も緑以外の平侍女の名前は知らない顔も一様、モブキャラ扱いである。
「でも、黒髪になったのは驚いたでありんす。これは常人で言う心労による白髪にあたるでありんすか。」
「逢う度に黒なっていってな。うちも聞こぅ思とったんやけど、他に用多おうてな。…なんで。」
ネネとマツは帰蝶の頭を注視している。帰蝶の眼は輝いている、それを言いたくてしょうがない。
「大坂に錫甲船を一隻用意しているのよ。それで航る。」
“錫甲船”ネネとマツは顔を見合わせ目を見開き口を両手で覆い驚いている。
自身の錫を使って船を造ったというのだ。毛利海賊軍を撃ち破った鉄甲船ならぬ錫甲船と言っている。尤も木の船に錫を塗った船だが、一戦だけで鉄屑化してしまい使えなくなった鉄甲船と違い錆びることはない。その上、
「私の思い通り動くのよ。一応舵輪は付いてるけどね。」
御願いなんだけどと、帰蝶を笑みを湛えながらも真顔になった。本題はここからなのだ。
「岐阜中将を盛りたててやってほしい。上様は家督も譲り官位を辞し、言わば隠居の身。でも、家臣以下、皆の頼り用と言ったら現役のまま。仕方なく上様も応じ、先日はネネも知ってのとおり日向に羽柴の後詰、さらに出雲、石見の仕置きを命じたりしてるし。…私達が帰るまで、殿不在は内密にして中将を我が殿と同格化してもらいたい。此処での話は、この四人と中将、闌丸だけしか知らぬ。他言無用。喩え権少将(前田利家)、筑前でも。」
マツもネネも一瞬凍りついた。その大役を我らに。マツは、ムラメカス帰蝶を真帰蝶の影姫にしようとした昔を思い出した。四日目でばれたでありんすな、でも疑問に思われたのは既に最初からであったでありんすな。“!!”
「こン寺に兵が森殿以下百数十しかいないのは、その為でありんすか。上様の上洛でこれ程少ないのは初めてでありんしょ。錫甲船の船員になると言う事でありんすな。」
「流石マツ、取る者も取りあえず茶室に滑り込んだ風、吹かせながら、しっかり護衛を確認しているなんて。流石元護衛女官。」
「皮肉に聞こえるでありんす。護衛女官ではあまり働きんせん。」
「でも日向どん後詰に出してもたら、天下大丈夫か。紀伊の動きも気になるし。いくら頼む言われても、長浜には、年寄と餓鬼しかおらんで。」
「餓鬼といえば兵部がいるでしょ。ま、大人になってそこそこ大きくなったけど。」
細川藤孝は足利義昭から織田方に寝返り都に睨みをきかせていた。旧知の兵部に知らせるかどうか迷ったが、最終的に外した。あまり密航を知る者が多くなると密航が密航にならなくなるからだ。
「中将どんは勇将の誉れ高く三月後、天下に上様の居場所がなくなってるかも知れんせん。」
「望む所じゃない。できたら大坂に帰り付くや否や討ってくれるのが理想的、子は親を屍にして越えて行く者。」
親の屍でなく屍にしてでありんすか。
マツとネネは少しぞっとしていた。斎藤家はそう言う家だった。斎藤道三は深芳野と嫡男義龍の謀反により攻めこまれた。援軍をさしむけようとする織田上総介に対して帰蝶は体を張ってそれを拒んだのだ。見捨てよと慈は孝より勝る、義親孝行など愚の骨頂と。御蔭で道三は敗れ自害して果てた。
斎藤家相克戦のとばっちりを受けたのは明智家で、蟹将光安は、義龍謀反の折に稲葉軍に攻められ戦死している。その後流浪した明智家当主光秀は後に織田上総介によって破格の待遇により迎えれられ、今は惟当日向守を名乗っている。前出の日向とは明智光秀の事である。
「やはり、追放した室町(足利義昭)に近すぎた故、兵部どんを外したでありんすか。」
「いや日向どんの娘嫁がせてるんやし問題ないやろ。細川やなしに長岡を名乗ってるのが忠義の証、上様も十分知行弾んでるし。」
「二人が重荷に思うのも分かるが、私は殿方より女子の方が土壇場では信用できると思っているの。故に兵部じゃなく二人に頼むの。」
帰蝶の覚悟を知り、マツとネネは顔を見合わせ頷いた。
「紀州は攻めれば抵抗するけど、紀州を出る気はありんせん。」
畿内に敵はおらず、謀反を起こす者などいないだろう。帰蝶も同じ事を思っており、
「中将は一人前以上だ。只知っておいてほしいというだけだ。(三州も安土城での接待で忠義を確認できたし、問題はない。今は堺だったか、大坂と堺は以外と離れてるし分からないでしょ。三州は知識吸収意欲はあるけど発想を産めない。仮に怪しげなガレオン船が大坂を出たと知っても私達が乗っているなんて考えも及ばない筈。)」
二人は帰蝶はもう海の向こうを見ていると思った。
ようやく移木の信を実行することができる。公方に我が伴侶を紹介する、喩え馬であっても、それが公方の愛に答えることだと。
「それと後、ヘレンのいないヘレンの店にいる波多野、赤松、山名の姫達に軍資金を渡してやろうかと思ってさ。(うわ店名付いてたけどド忘れして出てこないよ。姫達の名前も忘れるなんて…。)」
帰蝶はあの三色髪姫と何人残ったか分からないが、他のプリンセスやメイド達と店を廻していけるか心配していたのだ。ピクニックからしっかり店に帰る迄見届けると言いながら、できなかったことがずっと三十四年心残になっていたのだ。
金子と腕の立つ護衛女官十人ばかりを新装開店祝いに贈呈させようと考えていた。何なら上様だけ帰国させ、自分だけ残ってシナジーしようか迄考えていた。
「若き姫様の武勇伝を今一度見てみたいと言うのもありんせんか。:」
「そうよね、自分で過去の自分が見れるんだものね、ヘレンの時代はレコードできて当たり前のように見えるなんて言ってたけど、まだまだ時代が追い付かない。これは貴重な体験だよ。(若い私に見つからないようにしないといけないけど。でないとマットの言うパラレルワールドができてしまう。)」
皆一同に笑った。中性子星の来襲に憶え、死期を悟った若き私や姫達を結末を知った私が余裕を以って見る、なんかいいね。あと年を重ねたと言うショックも覚悟しておかないとね。三十四年よね、あの三人やプリンセス達やメイド達、私って分かるかしら、分かるわよね、劣化しないように金銭惜しまなかったんだから。黒髪は渡航するうちに錫髪に戻るでしょ。
四人は再度茶を嗜み、ネネとマツは帰って行った。
その晩、帰蝶は上様と明日の段取りに着いて打ち合わせしている。といっても帰蝶が一方的にスケジュールを伝えるだけなのだが。日の出後、関船でダミーを含む船団を組んで大坂まで下り、停泊している錫甲船に乗りかえるというものである。
天正十年六月ニ日(一五八ニ年六月二十一日)早朝夜明け前。夫婦別床は新婚当初より当たり前になっていた。帰蝶が子を為さなかったのは、当時、半分が命を落としていた出産を避け天正十年六月まで生きる必要があった為、体の問題、織田上総介との愛情がなかった、公方義輝との仁義等諸説あるが、不明である。興味ある者が侍女頭緑にそれとなく聞いてみたが、
「あたし、閨のことは知りません。いくら侍女頭でも、立ち入れん場所はあるんです。」
と一掃した。説明するのが面倒なので、この言葉で切り抜けると決めていたようである。
夜明け前、周囲の物々しさで帰蝶は目覚めた。
「何、祇園で騒いでる京雀達が此処まで繰り出してきたの。朔乱って奴よね。できたら出立は明日にしたかったんだけど、やっぱり計算すると今朝でぎりぎりなのよね。」
早く着きすぎても停泊費がかかってしまう。占領目的それとも略奪と不審がられる。
朔乱とは新月の日に京雀達が祇園に集まって飲んで歌って騒ぐ宴会の事である、錯乱と掛けたものであるが、月がなくなることを憂い、本当に三日目に新月が現れるか不安に想う心を乱痴気騒ぎで紛らす事から始まったものである。祇園で月初二日通しで繰り広げられると言うだけで、何時から始まったものか誰も分からない。
上様も帰蝶も京雀の愉しみを奪って反感を買いたくないと言う理由から黙認していた。
御世話役で半年居た時もあったらしいけど、祇園から溢れだすまで激しくなかったよね。
帰蝶は布団から半身起こし、額に垂れた前髪を払い、元結を直した。一つ部屋を挟んだ外からは無粋な声が聞こえる。
この声だけは好きになれないわね、野郎の汚い戦声。
男声は家を襲う敵を威嚇する為耳障りで、女声は子を慈しむから耳に優しい、誰が言ったか忘れたわ。私だったっけ。それより!
戦!自分で発想して驚いた。その時、どたどたという重たい足音が段々大きくなってきた。重い足音に引きずられるように微かな足音が三つ、四つ。緑と侍女達だ。
「御台様失礼します。」
「何よ緑。祇園の騒ぎかここまで飛び火したの。」
「いえ。」
最悪だわ。祇園の騒ぎ程度で収まってくれって思ったのに。
「水色の旗に桔梗の白抜き、惟当日向守様でございます。報仇雪恨とか叫んでおります。」
帰蝶は掛け布団を跳ねのけた。その気配で、襖が開き、白襦袢姿の侍女三人とオレンジと赤の格子に深緑の袴、既に侍女小袖姿の緑が入ってきた。緑は通し番だったのだ。
侍女達は衣桁にあった青い小袖を帰蝶に羽織らせた。
「上様が応戦しておられます。」
ファンデーションを調える緑が伝えた。
「どうして。惟当いや明智は私を討ちにきているのよ。」
明智は私を討ちにきているで気付いた。受け継がれているの、私の“死に札化”。親世代の命を受け継いだって言うの光秀。御館、小見様、深芳野、ハナ、光安それに義龍兄。もう皆亡くなっているんだから縛られてどうするのよ。私の“死に札化”を喜ぶのは誰、公家、皇族?
帰蝶は布団から一歩踏み出した。緑の化粧直しを振りはらうように。
「上様を死なせてはいけない。せめて上様だけでも渡航させて公方様に逢わせる。そして、金子と護衛女官を波多野姫達に渡す。」
「せめて帯を。」
「自分でやる。鞠を持て。」:
帰蝶は襟を調え銀色の帯を自分で締め廊下に出た。目線の五メートル先、白寝装束姿の上様が弓で応じている。
「貴様達の敵、斎藤帰蝶は此処だ。上様を討ってはならぬ。」
帰蝶は声の限り叫んだ。喧騒で通らない、二度、三度叫んだ所で、兵達は帰蝶を向いた。
敵!兵達は、“敵は本能寺にある”としか聞いていない。敵は上様とは聞いてないのだ。帰蝶が敵は斎藤帰蝶であると宣言した所で、兵達は帰蝶に集まって来た。回廊の下、帰蝶は彼らを見下ろした。
欄干が邪魔で蹴鞠は使えないと考えた緑が気を利かして弓を持ってきた。
「お濃よ。」
上様が弓を持ったまま回廊を走り迫って来た。森闌丸が矢筒を携えている。
「来ちゃだめ。上様は下がって。これは私の戦なの。三十四年前から続いてきた、明智との戦。私は斎藤家を“巣立ち”できたけど、“明智家”とは“巣立ち”できていなかった。光秀は義昭を伴って私に近づいてきた。そして、より価値ある機会を覗っていた。一番、相応しい時期を。」
帰蝶は緑の持ってきた弓ではなく、若い侍女の持つ錫鞠を持った。下では闌丸達兵達が明智軍と懸命に闘っている。その修羅場めがけて、錫鞠を浮かべ右からボレーシュートを放った。錫鞠は器用に明智兵の顔面だけに命中し、跳ねかえりながら、明智兵のみを十人ばかし撃破した。錫鞠は戻ってこなかった。兵は動く、十人撃破の途中で球道が変わり、欄干に当たって乱戦の中に消えて行った。なんて…三十四年振りに…又失うなんて。
「どういう時の流れで、明智と同化したか分からないわ。でも、あなたは儒教に浸かっていたわね。血染めの長良川。父上の窮地を救わない私を許せなかった。あなたの義父光安も討ち死にさせた。儒教国にするには私の存在があってはならないのでしょ。どこに居るのよ。明智、いやムラメカスの“とりわけ人”十兵衛。」
右隣では上様が弓を放っている。左隣から護衛女官達がやってきた。
「私の護衛はあの者達がやるから上様は下がって。」
下がろうとしないので、仕方なく帰蝶が左に走った。兵も帰蝶を追い、境内を走る。
帰蝶は迫って来る護衛女官が笑ったように見えた。上様との空間がかなりできた瞬間だ。上様も帰蝶を追おうとしたが、弓を打ちつつなので敏速に近づけない。
護衛女官が瞬間消えた。エと思った次の瞬間、帰蝶の廻りを十人が囲んだ。
「あなた達ムラメカスね。(錫甲船創るのに体内の錫を使い過ぎてしまった。御蔭で真を見る力がなくなっていたのね。脚下照顧に務めていたつもりながら、何処か私も浮かれていた。)」
「父親を死地においやる御方がどうして、梟雄を生かしたんえ。」
「あの時、術を奪うだけでなく、なんで打ち首にせんかったんや。」
「公方様好いてるんやったら。大敵が誰か分かるやろ。なんで寄進金横領の罪で御所預かりせんかったんや。打ち首やったのに。」
恐らくこれが十兵衛の意思。ムラメカスがスピークフォーしているのだ。
十兵衛は公方義輝に一目惚れしていた。だが、義輝は以外にも両刀遣いの気はなく秘めた恋慕となった。義輝は帰蝶への思いは本気であったが、ゲルマン姫や様々な妨害があって、届かない。帰蝶自身も惹かれ始めたその折、期限と尾張輿入れの為帰国となったのである。
帰蝶が居なくなった後の義輝だが、その溝を薔薇道で埋める事はなかった。しかし、十兵衛は幕臣にはなれなかったが、美濃随分衆明智光安の養子となることで、奏者として、都を行き来することになった。
義輝はその後、十兵衛の帰濃時を狙われ松永久秀に討たれることになる。
「公方様を載せてこの世を流れていきたかった。」
「私は公方様に載ってこの世を流れて行きたかった。十兵衛、あなた弟で代用しようとしたわよね。還俗までさせて。」
「まさか、利用して、あなたに近づいた。」
「そ、私も上様の天下布武に利用した。」
「あなたは悔いがないのか。あの時なぜ松永を討たなかったかと。」
「十七年間、冥き炎を目に滾らせ頬に宿らせ、舌を焼き、歯を炙っていたって言うの。このナメクジ。道理で…、風貌陰鬱になってるから。私が光秀を十兵衛と見抜けなかったわけだわ。私は公方の遺髪を貰った一晩、鞠に狂っただけで気持ち切り替えたわよ。(悔いるわけないでしょ。私は今から、公方に載りにいくのだから。邪魔しないで。)」
「所詮は、その程度の思いだったのか。重い違いにも程がある。」
その時、帰蝶は眼の前から赤い噴水が上がったのを見た。そして大量の蜂が飛び去るのを見送った。
帰蝶を取り巻く護衛女官を貫くべく投げた槍だった。帰蝶の位置情報を十兵衛に伝えるムラメカスだったと知るよしもない。槍の羽音を聞いた瞬間、ムラメカスは蜂化し、ムラメカスが邪魔で戦況が見えなかった帰蝶は槍の餌食になった。
護衛女官を人で味方の護衛女官だと思っていた上様は虚を突かれた。
以外な程に槍を初めて体で受けてみると痛みはない。肉体が溶けたかのように出血しているにも拘わらずだ。一瞬初花を思い出した。ハートへの衝撃は初花の方があったわね。
だめだわ、力が入らない。立位を維持できない。ガクと膝を付いた。このまま、回廊に倒れると思った時、懐かしい香がして暖かい肉厚に包まれた。上様が抱きとめてくれた。眼の前に砂嵐がやってきた。血が頭まで上って来ない、間もなく意識が消えるだろう。
マット何処よ。私を助けなさい。今なら、その話。受けて上げるわよ。リアルタイムなら、まだ火星に送られれる前の筈よ。…都合よくいかないか。
「上様、お願いだから、私を棄てて逃げて。(表向きは明智家の謀反、中将に任せて三カ月の外遊なんて言ってられない。)私の遺体が此処に放置されたら、明智は回収し戦利品とする筈、その隙に中将と合流して安土に帰って。」
「できるわけないだろう。余は三十三年前そなたと一緒になったのだ。一緒になったと言う事は何時何処でも一緒なのであるよ。」
「何を寝言、戦で何度も床を開けたくせに。幸い日向は(公方様とはいえ男を巡る三角関係の女子討ちを恥ずかしいと思ったのか。しかも何年前の恨みよ。いくさ公方にそっちの気はないにしても私が都から去った後にモノにしときなさいの、玉なし。)此処まで出張っていない。群竜無首の軍は最初の命令を実行するだけ。敵は本能寺にあり、本能寺にいる敵、私を討ち回収するだけなの。」
帰蝶の体が浮かび上がった。あ、私息絶えて天に昇る。
「是非もない。緑、そなたは侍女達を連れ、此処を落ち伸びよ。安土いや長浜まで走れ。場合によっては越前迄。命令だ。行け。」
上様の力強い声が聞こえる。生涯、綺麗と思った殿方の声は二人だけ、公方様と上様、二人を逢わせてみたかった。桃源郷の心地を私は味わうことができたであろう。松永のワイルドさに少しぐらついたのは一生の不覚。
「私を境内にいる群竜に棄てて。お願い。それが上様を織田家を天下を、何よりこの国の人々を救うことになるの。」
「闌丸、時を創れ。」
時を創れって、何の時を創れって言ってるのよ。駄目よ。あなたを討ちに来てるんじゃないんだから。
喧騒が遠ざかっていった。聴覚に血が通わなくなったのではない。奥に入ったのだ。
「帰蝶、そなたと逢ったこと誇りに思う。もう少しでそなたの心にある公方様を越えられたものを。いやそう思った事で天罰が下ったのかもしれん。」
「天罰なんて、上様が天にならないといけないの。私は薪になればそれでいいの。上様、天下扶桑の子供たち、これから産まれてくる孫たちの事を考えて。私を棄て子孫への慈を優先して。子孫に慈しみを与え導く雲蒸龍変な君は天下扶桑、新大陸数百年含めてあなただけなの。混乱してるけどあなたを討ちに来てる軍じゃないの。このまま闌丸や緑達と寺を去れば何もされないから。」
だが口が舌が喉が動かない。妻だけ死なせて自分が生き延びたら、”織田信長“は地に堕ちるとでも思ってるの、どうしても明智光秀の自分への謀反にしたいの。その方が双方の名は輝かしい物になると思ってるの。男は変、私は分からない。
マットの辞書には本能寺の変は明智光秀が主君織田信長に対して起こした謀反であると書いてそうね。
私達は後世の為に生きてるんじゃない。未来人の歴史人物事典に乗って賞賛される為生きてるんじゃないの。直近の子孫の為にあるのよ。
「この先も一緒だ御濃。地獄で閻魔大王を切り棄て、天に昇り中将の天下を睥睨しようじゃないか。」
「何言ってるの三郎、閻魔大王を切り棄てたら、新大陸よ。私利私欲渦巻く街ウエスタンよ。公方が白馬の姿で待ってるわ。とんでもない駄馬よ。さっさと見つけて笑い者にしちゃいましょう。」
襖が開いた。
「香達が帰蝶とほたえたいってよ。Take our border back.だ。」
ジーパン、ジーシャツ、カウボーイハットに革手袋、赤ひげを蓄えた松永久秀であった。久秀は大きな茶釜を大事そうに抱えていた。
「タイミング微妙なんだから。危うく灰になるところだったじゃない。」
「灰になっても女だ。」
「冗談相手してる場合じゃないの。上様もOKだよね。あなたの茶釜欲しがった事反省してんのよ。」
「この茶釜(古天明平蜘蛛)は、俺の銅属性の”とりわけ“力がないと、単に茶釜だ。量子テレポはできねえ。」
「目にしないと信じないのよ上様は。」
「おい、姫。怪我してるじゃねえかよ。急がねえと。量子テレポの時、治療してやらあ。」
「さ、いくわよ上様。香ンとこに。Take our border back.だって。槍忘れないでね。私も替えの錫鞠と弓矢はもってくわ。珍しい遊び相手がいるってさ。で公方の白馬は元気?」
本能寺の変後、織田信長の遺体は見つかっていない。本能寺の変に濃姫がいたと言う記録はあるが、その後、濃姫がどうなったかに付いては、何処にも記されていない。