④入洛
4.入洛
「前言撤回でござるよ兵部殿。」
藤孝は私心を包み隠さず、露骨に眉間に皺を寄せ首を傾げた。
「は、前言とはどの前言じゃ。ここ数日結構話している故具体的にじゃ。」
「ネネの罪を問うなという件でござるよ。大名家の姫を誘拐した上に遊郭に売り飛ばす。これは式目に照らすと本来ならどんな罪になるのかな。」
「親告罪ゆえ、被害者側が公訴しないと罪には問えない。明智殿が斎藤家の都での心証が悪くなる故罪に問うなと言われたので、注意だけで帰す。つまり罰しないことになる。しかし、被害者側たる斎藤家が式目に照らし合わせて、しっかり罰してほしいと言われば、その通り式目に照らし合わせて罰することになる。」
「被害者の意向は聞いてもらえるのだろうか。」
「尊重するが、あくまで裁くのは御所側。実際には管領様が裁き、公方様が承認の花押を記すことになる。ま盲目判じゃがの。」
「どのような罰になるのですか。」
ハナが聞いてきた。少し苛つきが見える。怒った目は変わらない。
「一年間の夫役、島流しから最高刑は磔じゃ。幅は広い。意向は聞く。」
「御所からの依頼で我らは美濃から半月かけて上洛した。あくまで将軍御世話役という将軍家の頼みに我らは答えるため上洛した。」
「ちょっと待つのじゃ。美濃一国守護を許したのはこの室町御所、その命に従うのは家臣として当然じゃろうが。」
待てと大きな掌で小さな兵部を制した。苛立ちの炎を一瞬にしてかき消す程大きな籠手である。この鋏でどれだけ兵の首を刎ねてきたのじゃ。
「将軍家が依頼側、斎藤家は受託した側は変わらぬ。なのに、上洛早々浚われた。」
ハナは、小さく隣で、わたくしたちは朝廷から山城守を任ぜられた家なのです。この都があるのも山城守ではないですかと言う言葉、つまり立場が上であると言う本音を呑みこんでいた。
対峙する藤孝、まさか、将軍家の失態と責任を追及する構えか。
後頭部の奥に光爆を感じた。危機の予感である。
一千の兵で宣戦布告なんて言うんじゃあるまいな。う、しかもその兵は御所の武家長屋。どういう命令系統か知らぬが、既に話ができているとか。まずい、御世話役は、元々娘と言う人質を取って外様大名に労役させるのが奥義なのじゃ。つまり、今の状態、人質を取らずに兵だけ、御所を取り囲む武家長屋に入れてしまっているじゃないか。謀反。斎藤家謀反じゃ。まさか、十三代将軍様を滅するつもりなのか。滅するつもりなのじゃ、義維を連れてくれば済む話じゃ。
管領様、ネネ捕縛は大失態じゃ。しかも十兵衛めは、己の疑惑を晴らす為か、ネネ名目で、さっさと御世話役の真帰蝶を差し出しやがった。しかも慣例に従って、管領邸の地下牢だと。管領様が不在じゃから、今や斎藤家に乗っ取られたもんじゃろうが。御台様と僅かな従者じゃ話しにならんじゃろ。その上御世話役に用意してるのは偽姫じゃ。ワシも騙されたわ、最初に十兵衛の店で公方様が湖畔の君と勘違いしたあの姫、上手く染めたものじゃ。
藤孝は動揺した。新将軍義維の裁きにより十三代を磔とか言うなよ。命令通り管領邸じゃなく、御所に引けば良かったと言っても詮無いんじゃ。強引に帰蝶を奪って御所へ帰るか。
藤孝は、蟹鋏の下を潜って地下牢に下りて帰蝶を確保する作戦を立て始めた、鍵は自分しか持っていない。蟹将光安の話は続く。
「我らは大いに面目を潰された。当然、斎藤家に舐めた真似をした輩は厳罰に処さなければならぬ。軽い罪いや罪すら負わせぬでは納得いかぬ。」
見上げるような蟹武将の威圧に藤孝全身に震えがきた。武者震いとは弱気を隠す為の強がりだったのじゃ。藤孝、この時未だ戦経験皆無。隙はない、話終わるまで待つか。
「そうじゃが。(どう続けるんじゃ。)掌返しとはこのこと、どうしたのじゃ。」
藤孝はハナの厳しい狸目線に気付いた。この何かに裏付けされた自信、昨晩はなかった気迫じゃ。なんとも間抜けな侍大将と思ったのじゃが、侍女頭と話してから雲行きが変わった。斎藤家は侍女頭が仕切っているのか。
「だから前言撤回、一晩考えて気が変わったと言うておる。」
「続けよ。(もしかして管領邸も陥落して斎藤家の支配下に入っているのか。失態、周囲警戒せず、あっさり入ってしまった。)」
ハナはなんて野心家将軍家転覆恐ろしい事を考えている。代弁者、光安の口上は続く。
「よって首謀者ネネには磔を要求する。以上だ。」
藤孝、思わず前のめりになって折烏帽子を玄関に突きさす所だった。
「ん、は、それだけ。」
「ネネを磔にせよ。」
「…、ああ、御意。そう管領様には伝えておく。(これで、真帰蝶と言う人質は確保できると、なんじゃと。)磔と申したか。」
「御意。磔でござる。」
「では入洛の件で後ほど。宜しくお願い致します。」
とハナは深深と一礼した。光安も十五度頭を下げた。
拍子抜けの藤孝、安堵。将軍家転覆宣戦布告ではなかった。しかし、ネネの磔。ネネは偽ネネ真帰蝶の磔。なんとハナと光安は主の娘の磔を要求したことになる。理解しているのか。帰蝶、危急存亡の危機に発展。安堵一転藤孝は愕然とした、マムシの家は複雑怪奇、理解しかねる。御世話役帰蝶の磔じゃと。いや、それとも本当に地下牢にいるのがネネだと思ってんのじゃろか。教える?いや、これは、三色髪姫失踪案件の四姫目を避ける為の苦肉の策、管領様いや公方様の恩赦を期待してのもの、いやそれなら磔はないじゃろ。こっちは注意だけで放すと言ってるんだから。
判断付かず、藤孝はあがりかまちを越え玄関外に懸けてあった蓑を被り橋を超え門を飛び出し、徒歩距離にある御所に急いだ。斎藤家はネネと考えている。我らもネネと思って捕らえてきた。別人となればワシや公方様の失態となる、それは避けなければならぬ。真帰蝶は公方様の“湖畔の君”であり、三色髪姫失踪案件解決の為の重要参考人じゃ。確保しておいて、どこかで何とかするか。いや、それでは斎藤家、斎藤家の主、利政、“山城守”に逆らう事になってしまうじゃないか。都は山城国、大義を与え兼ねない、仮に、それが侍女頭の独断だとしても、千の兵は御所を囲んでいる。中には、公方様がいらっしゃる。斎藤家は自身が派遣した御世話役を磔にしたいのか。
武家長屋から道一つ堀一つ隔てた所に豪華絢爛たる新室町御所が雨天にも拘わらず異様な輝きを放っている。黄金の竜虎逢い討つ重層な門がもったいぶって開いて行く。
「どうして、もっとささと開く門にせんかったんじゃ。」
藤孝の苛々叫びを雨音がかき消していく。体を横にして、僅かな隙間をすり抜け藤孝は御所内に入る。クリスタルに輝く石畳にこけそうになりながら玄関に急ぎ、蓑の結び目に手をかける。
美観は分かるが、武士は幽玄、機能優先じゃろ、普請主の松永弾正とは何者なんじゃ。
藤孝は絨毯敷き詰められた廊下を走るが、時折、横たわる虎や狼の剥製につまづいている。
邪魔じゃろ。
能舞台に近い管領書院に付いた。廊下に佇む前髪付きの小姓和田某に管領への取り次ぎを頼んだ。
その時、中から南蛮語らしき言葉を喋る管領の声が聞こえた。絡むように女の南蛮語も聞こえる。又じゃ。来客かと藤孝が聞こうとすると、先に和田某の方が口火を切った。
「チビなんやから、廊下の虎や狼なんか眼の前にあるようなもんやろ。躓くって目ぇ見てないんか。」
と面長で出刃の和田某はそう言ってカカカと笑った。
「新助、相変わらず、小姓の分際で偉そうに。:」
藤孝は蹴りを入れたが、和田某は胡坐座りのまま、藤孝の蹴りを左腕で何なく受け、口には吹き矢銃を銜えていた。
「兵部か。入れ。」
管領の声がして、小競り合いはそれまでとなった。和田某は吹き矢銃を懐に仕舞い、丁寧に頭を下げ襖を開けた。なんとも気の短い御方。
悪気は無いんじゃろうけど、思うがまま口にしてたら、早死にするぞ。
藤孝は書院に入り座し一礼した。管領以外居ない。残り香はない、管領の白粉香だけ。天井、床下、上座の奥、気配は感じられない。その道の達人かと聞かれたら自信はないんじゃが。畳にも人が居たと言う歪がない以上管領様以外だれも居なかったのじゃろう。
近うと言われ、上座で脇息にもたれる管領から畳み一つ隔てた場所に座した。やっぱワシは絨毯より畳みじゃ、座り心地が快適じゃ。と同時にぬくもりもない。
以前にも襖を通して南蛮語で管領と女人が絡む事が合ったが、中に入ると管領一人だった。その時はまるで叱責でもされたかのように堕ち込んでいたが、今日は逆に上機嫌だった。三色髪姫失踪案件、南蛮人=奴隷商人の線は、管領がネネを探って堺、大津へ走らせたように、藤孝自身も南蛮商館を直接訪問し確かめていた。故に不入の権を楯に御所の捜査を阻む祇園以外ないと踏んでいるのだ。
書院に南蛮女人の姿はない。姿が見えない以上、樞や鳥でも隠して南蛮語を勉強しているのか、藤孝は、いずれは聞いてみたいと思うが、聞いたらまずいような気がして聞けずにいた。
広い御所で幽玄な武家造りで藤孝に言わせれば一番まともである。管領様だけ印象が良くなりすぎるじゃろ。十三代は派手好みに見られるじゃろ。これ程の事ができる寄進をした山城守に文句言うべきか。普請した松永弾正が悪いのか、しかし二ケ月で南蛮から宝物集めて、豪華絢爛に造り上げるって幕張って分からなかったが、何者じゃ。
気を取り直し、藤孝は晴元に“ネネ磔”が斎藤家の要望である事を伝えた。真帰蝶だとは分かってても決して言わない。
晴元は少し悲しそうな顔をした。
「やっぱ、マムシの家じゃの。磔。何侍女頭が磔に拘っただと。先手侍大将の意向より侍女頭の意向を優先さすとは、その侍女頭とは何モンだ。ま、裁くのは我らだ。注意ということにして…。」
要望御札を反故しようとした。だが、その手を藤孝が止めた。
「なりませんぞ。喩え侍女頭が言ったとしても、それが斎藤家の意向。意向を無視すれば、御所の武家長屋に入っている千の兵がどう出るかじゃ。我らは、未だ斎藤家姫という人質を預かってないのじゃ。(自分で言っててようわからん。斎藤家は、その斎藤家姫の磔を望んでいる。)」
「重要?波多野、赤松、山名は姫が不明になっても動いてないぞお。」
「行方不明で生存の望みがあるからじゃ。それに威信が三家と美濃一国数十万石の斎藤家とは違い過ぎるのじゃ。ネネなんてその辺の下衆じゃ。十兵衛とネネも仕事だけの関係じゃろ。ワシ自らネネの首刎ねてもええぞ。(ワシに委ねてもらえば、なんとでもしてやる。)」
「分かった。それで斎藤家が済むなら、十兵衛も突き出したってことは磔になっても、構わんってことだろ。心配ない、此処からは管領の仕事だ。(多少でも拘わりがあった娘だ。最期を見届けよう。頼もしい若者に育ったものだ。三淵の息子よ。)」
藤孝は三淵家から養子にはいったのである。
いや褒め言葉は良いのじゃが。あの妖術系の“とりわけ人”十兵衛が差し出したって事は、自身に何のやましい事がないって事じゃろう。ただ、刎ねてしまって、それを大義って言うことにはならぬか。
案外考え過ぎで、斎藤家は真帰蝶をネネと思っている。そして、十兵衛が仕立てた影姫を本物と思っている。十兵衛は失踪を避けるためよく似せた偽物を斎藤家の元に送りこむ。祇園の恐ろしさは、一晩で寸分違わぬ影姫を仕立て上げられる所にあるが。
一方で本物を罪人ネネとして斎藤家がいる管領邸に送りこんでいる。本来なら軽微な罪で解放される所が事情を知らない斎藤家により磔になってしまうじゃと。
三色髪姫失踪案件、祇園の線はないのか。尻尾を掴まれる者を一晩とはいえ差し出す愚はやらんじゃろう。
しかし結果的に又四姫目が出てしまう。かと言って誤認捕縛と明かすと公方様の失態、権威失墜につながる、避けなければならぬ。ネネとして衆人環視の三条河原ではなく御所内で密かに磔にして、斎藤家の立ちあいは拒み、遺体は速やかに荼毘にふす。公方様も影姫を湖畔の君と思っていることだし、信じ難いが斎藤家も本物だと思っている。十兵衛や真ネネは哀しむかもしれんが、一時の事じゃろ。これで丸く収まるんじゃないか。
可哀想なのは、管領邸にいる真帰蝶じゃが、彼女の命一つで万事上手く纏まる。
藤孝の脳裏に美濃の帰蝶が蘇った。今から思えば道化を演じ、客人である管領に悪戯を仕掛ける。薄幸を呪う自分を隠していたんじゃなかろうか。先の波多野、赤松、山名の姫達も何処か影があった。そして皆若くして逝ってしまう。美人薄命ってか。
「管領様“デフォルト(将軍御世話役中止)”御札行使してくれんじゃろか。」
「切れるわけないだろ。もう上洛して其処まで来てるんだから。御世話役として午後から入って貰う。(ネネの話だと、同じ錫髪姫を影姫にしているだんろ。同年代の錫髪影姫がいるってことは、たまたま六姫は山城が正室の子で有名だっただけで案外美濃ではざらに居たりしてな。影姫でも錫髪姫ならいいんだよな。姫教育受けているんだから。オセワヤクには十分なりうる。)」
ワシは、この先の話をしてんじゃが。だが、少し浮き浮きし過ぎてないか。しかも中止になった際の御所、都の守りより、あくまでも御世話役の入洛のみ拘っている、自身の世話するわけではないのに。突いてみるか。
「管領様、斎藤六姫の上洛は乗り気でなかったのでは。」
「いや乗り気だよ。乗り気だから、美濃の片田舎まで行ったんじゃないか。色髪姫好みの公方様の為に。」
「色髪姫好みは管領様が吹き込んだんじゃなかったのか。(何首振っているのじゃ。)斎藤六姫見るや否や。後ろ向きになったように見えたのじゃが。」
「悪戯に少々戸惑っただけだ。(それとあの眼力、と錫鞠だが、御台からの報告だと、おしとやかで、部屋に籠り、蹴鞠をする姿など見受けられない。全く本物と逆じゃないか。蹴鞠をしないってことは錫鞠も失くしたまま。上々。)」
管領は、この時点で、管領邸にいる帰蝶は、人の影錫髪帰蝶だと思っている。そしてネネは自分にそれを伝えにきた、あの真ネネだと思っている、当然真帰蝶は十兵衛の店に居ると思っている。
管領が少し物思いにふけっていると耳の遠くで藤孝がお暇を乞う声がして、管領は上の空で頷いた。藤孝が退出し障子を閉めた後、少し大きい音がしたが物思いが優先で気にも留めなかった。襖の外では一時の修羅場、藤孝爪を隠していた。和田某の鳩尾に蹴りを入れ、向かいの部屋に引きづり込んでいた。柱にぶつけ平伏さした後、胸倉を掴み小刀を突き付けた。出刃の口から吐く息が臭いがそんなことはどうでもいい。
「雨が止んだら、下働きの小者使って堀の水を全部抜くんじゃ。空堀にして御所からの抜け穴ないか一周全部隈なく調べさせよ。それから小姓全部使ってもいい。(松永と管領の仲が怪しい。確かにワシが来る前気配ないが、誰かおったのじゃ。南蛮語じゃなく、松永、管領二人しかわからない暗号とも言えなくもない。新室町の普請交渉は殆ど二人やったからな。なんらかの仕掛け、商いの密約があったとしてもおかしくない。新御所の見取り図が管領機密ってのもおかしいじゃろ。)和田家の家臣総出でやれ、上意じゃ。」
「偽上意は管領の逆鱗に触れるで。」
「望むところじゃ。管領は六角殿になって貰ってもいいとワシは思っている。三色髪姫失踪案件の尻尾を捕まえたのじゃ。」
出刃から一際大きな一発吐息、藤孝は顔をそむけそうになりながらも、それが御意の返事と解釈し、懸命に我慢した。“偽上意”御札、“本音吐露”御札二枚切ったんじゃぞ、動けよ。
「三色髪姫の顔、主ら小姓総出で迎えたから知ってるじゃろ。摂津の松永邸行ってガサ入れじゃ。奴の領内隈なく探せ。姿なくても話だけでも聞き出せ。例えば大坂、大輪田泊りを経由してマニラに売りとばしたとか。既に逝ったとか。更に新御所普請図を押収じゃ。抵抗する奴は刺しても斬っても貫いてもよい、上意で通せ。」
堺じゃなく摂津だったか。
藤孝の意志は、そのまま胸倉を掴む握力に連動された。和田某は顔を歪め、悪臭を吐きながらもやっと頷いた。藤孝は、ようやく握力を緩め、立ちあがり、顔を横向けた。一つの武器じゃな、ワシも限界じゃ、口臭すぎるじゃろ。
さて、こちらは管領邸の姫部屋である。ムラメカス帰蝶がおかしいとマツが訴えてきた。襖があけ放たれ、ムラメカス帰蝶が侍女達の前に晒された。なんと四日間無表情だったムラメカス帰蝶が手で口を抑え下向き加減で淑女らしくクスクス笑っているのだ。
「なんか異様に思うのはなぜかしら。」
「既視感が全くない。この姿、あの顔であの笑い。ね緑。」
緑だけは分かっていた。
「ハナさんが見たら、お喜びなさるでしょうね。」
そう、真帰蝶は口を抑えて笑うなんてことなかった。面白い時は手を叩き、体をのけぞらせ天井を向いたり、床を叩いたり大口を開け錫歯を出し舌を見せ包み隠すことなく全身で笑っていた。丸顔、四角顔、白菜顔の順で話す。
「で何かそんなに面白いの。」
「マツさんの冗句が五日目にしてやっと受けたとか。」
「いや象ってる蝶がまた二、三匹逃げたとか、特に頭の部分。ね緑。」
「いや脳波を飛ばして考え纏めているから脳味噌はありんせん。」
と緑じゃなくマツが答えるが三人は分けわからず顔を見合わせている。緑が加わったのは、その直後。
「帰蝶様に理由きいたのマツさん。」
「いや、気味悪くて聞く前に襖開けたでありんす。」
「聞いてないんだ。帰蝶様何かそんなにおかしいの。」
と緑が聞いたが。おかしくないのと言うだけ。そして、頭を抑えた。
「なんか笑いをこらえているように見えるでありんすが、緑の顔がそんなに面白いでありんすか。」
「顔言うか。」
と三人は前髪を瞼まで垂らした緑を見て受けている。
「美人よ。」
「可愛いじゃない。」
「あなた見たいな人を佳人って言うのよ。ね緑。」
とフォローも忘れていない。
一方、ムラメカス帰蝶は布団に寝転がってしまった。そして、
「雨の日は調子悪いのです。」
と語った。調子悪いのを隠すために笑ったでありんすかとマツが聞いたが、調子悪い時の表情を作ったつもりとの答えが帰って来た。調子悪い時の表情が笑いだと勘違いしてインプットしたらしい。
「逆さ憶えだったってことでありんすか。」
…。
「なんで皆シカトでありんすか。」
「シカトじゃないんだけどね。」
「ちょっと思い出してね。あの笑いで。逆さ思い出しつうか。」
「ん、あの笑いは笑いで。ね緑。」
三人の中で帰蝶の弾けるような全身全霊のような笑いが蘇っていた。
「帰蝶様は帰蝶様の良さを護っていきましょう。」
振る舞い言動が本物と逆だとは分かってきていたが、笑い方まで大きく違うとなると。
「良さを護るって。影は真を真似ないとハナさんにばれるでありんしょ。」
「でも帰蝶様は、いわばハナさんの理想の姫様、あったしは、この良さを護る方がいいかと。」
「それだと六姫様を忘れてしまいそうで…。」
「忘れないわよ。緑は一年経ってないけど、あたいなんか何年だろ。」
侍女達の雰囲気が今日の天気になってきた。小雨が本降りになるだろう。
「それよりでありんす。」
マツは話を止め、ムラメカス帰蝶に顔をくっつけ何処が調子悪いか聞いてみた。すると、雨特に本降りの日は調子悪いとか。こんな日は雨が止むまで葉の裏で雨宿りして過ごすのですと答えた。そして、
「このまま寝かせて下さい。」
と訴えた。マツと侍女達に緊張が走った。このまま寝るって何言っているの帰蝶様。
「いや、正午から入洛でありんす。そろそろ準備でありんす。」
「対応できません。明日にしてください。」
とムラメカス帰蝶がきっぱり(満場一致)意志表示してそのまま寝込んでしまった。
そこへ障子が開いた。ハナだった。侍女部屋に入る際は合図はしない。緑は障子に狸影が現れた時点で気づき、片膝座りして一礼した。三人の侍女も緑の動きから察知して従った。三人の視界の隅には何時も緑がどう動くかがあった。姫部屋への襖は緑がハナの接近に気付いた際閉めていた。ナイス緑。
「用意はいかかですか。」
とハナは侍女達に聞いてきた。三人は自信なさげに体をくねり、一様に緑に視線を送る。
「奥の間に、入洛の際の召し物は掛けてあります。」
と緑は胸を張り、三人を一瞥することもなくハナに正面向いて答えた。
まったく、先輩の威厳も自覚もないのですか。入ってまだ一年もならない、いやほぼ一年か、後輩の緑に仕切られて。緑は小見様が忌み嫌う、なんとかと言った妾腹から産まれた五姫様の侍女で足手まといの仕事増やしになっていた娘なのですよ。一応、六姫様が所望したことになっていますが、厄介払いを押しつけられたのです。その厄介払いより下って、情けないやら。情けないって小見様が、わたくしによく言われました。でも、
「四日間殆どいや全てあなた方にお任せ致しました。管領家の御台様からはよくやっていますとの有難いお言葉も頂戴いたしております。わたくしは侍女衆を預かる者として頭が高いです。」
と満面の笑みを込めて謝意を述べた。
「「「頭?この場合、鼻じゃなかったっけ。ハナさんだけに言葉重ねを避けた?」」」
「ありがたき仕合せ身に余るお言葉でございます。」:
と制するように緑一際大きな腹から声で一礼した。他の三人も付き従って礼をした。
幸いハナは昨晩の事はなかったかのような上機嫌、緑達侍女四人は安堵していた。
一方、マツは襖越しにやりとりを聞き、ムラメカス帰蝶に
「次こっちくるでありんす。せめて体を起こすでありんす。」
手を添え起こそうとするが、無理でありんす、重くはないが体が崩壊、ドット蝶化しそうでありんす。
「雨の日は休みます。」
ムラメカス帰蝶“満場一致”御札は有無を言わさない、そのままぐったりしている。調子が悪いのは真実で、これはお手上げでありんすな。
ハナの話、朝礼替りの朝の訓示はまだ続いている。長い話はマツにとっては有難い時間稼ぎである。
「そう、管領家の御台様が六姫様の事も大層褒めておいででした。」
六姫様その実ムラメカス帰蝶の話が出て、心の臓がドキリとする侍女軍団。三人は上目使いでハナの顔色を覗っているが、大柄な緑は堂々と正対してハナを見据えている。ムラメカス帰蝶を真帰蝶として通すと決めた時から肝が据わっているのだ。だが、それが真帰蝶を死地に追い込むことだとは当然認識していない。寧ろ、救う事だと思っている。ネネその実真帰蝶捕縛の事も知らない。全て内密に行われており、管領邸の主である御台ですら、地下牢に人が捕らえられていることすら知らなかった。
「六姫様は大層おしとやかな方で無口。無口だけど礼儀正しく、振る舞いもしなやかで控え目とおっしゃっていました。御台様は世辞が苦手な方、先程申された事は全部本心と思って受け取って下さいませと後でそっと御台様付侍女頭様がわたくしに耳打ちされました。」
ハナの口調がなんとなく厳しくなってきた。噴火の予兆か。三人の侍女は元結を触ったりし膝を揺らしたり明らかな動揺振りを隠せない。緑だけは大きな腰でどっしり座り構えている。
「印象が全く違いますよね!わたくしが主に御世話していた頃の美濃での六姫様と別人かと思うくらい全く違います。」
来た来たと思いながら三人の侍女は顔を伏せ、警戒している。遂に花火山噴火か。
「よくぞ応病与薬なさいました。あなた方にそれ程の侍女力があるとは思いませんでした。わたくしが十年掛ってできなかった事を信じ難い事ですが僅か四日で。わたくしは今まであなた方を適切に評価できず、叱り、怒り、辛く当たってこと数知れず。お詫びいたします。」
となんとハナは侍女衆に頭を下げた。こんな事今迄ありましたっけ。これには、何を言われようとも何をされようとも泰然自若と心に決めていた緑も想定外。評価して下さるの。人替りしたと疑うのではなく侍女の教育ととるの。なんてお人好し、いや好意的で侍女と言う職務に誇りを持っている方なのか。見直してしまいましたよ。だが、ハナの、“姫は所詮、侍女の教育次第”という考えが、真帰蝶を窮地に陥らせてしまうのだ。
「頭を御上げ下さいませ。あたし達はハナさんの教わって通りに六姫様を御世話しただけでございます。」
と緑が膝で擦り寄り、ハナに寄り添った。頭を上げたハナ、うるうるしているのかと思いきや、気持ちはサクッと切り替り既に次の眼になっている。
「ではこれより入洛の準備に入ります。今の六姫様なら入洛も失礼なく滞りなく済みましょう。」
ウと三人の侍女は目を剥き乾杯のグラスのようにくるくる首を廻し顔を見合わせた。そ、なんか奇跡的に上手くいったみたいだけど、本番は此処からよね。緑も元の場所にそそくさと戻っている。
ハナは立ちあがり、姫部屋の襖の前に立った。雨故、障子がある廊下側じゃなく襖がある侍女部屋側から行くのだ。
「ハナでございます。入ります。」
侍女三人が緑の顔を覗き見た。緑は頷いた。私達知らないわよ、緑が尻拭ってね。
襖があけ放たれた。マツが寄り添いながら、ムラメカス帰蝶は布団から這い出ていた。彼女は、いや彼女達は、足を斜めに流すお姉さん座りながらも座して両手を畳についていた。
これがムラメカス帰蝶を保つぎりぎりの態勢なのであろう。笑わないよう口は真一文字。
「あのハナさん。六姫様は、あ(雨でじゃなく)いや調子がすぐれないでありんす。」
と言ってムラメカス帰蝶を支えながら頭を下げた。なんとか赤のリボンでポニーテールを保っているものの、所処ろ刎ねている。
「おやまあ困りましたね。」
とハナが近寄って。ムラメカス帰蝶の真前にきた。・
「雨の日は調子が上がらず床に入っていたのです。」
真帰蝶に雨だから元気がないなんてことはなかった。雨乞いの錫鞠を操る帰蝶が雨で調子悪いなんてことはあり得ない。寧ろ苦手なのは夏の快晴、酷暑だったのである。
なんの為にマツが懸命に寄り添ってまで床から起こしたのか。さらっと真実をはっきり言ってしまった。三人の侍女は、わたくしの眼の前に居るのは誰なのですかと言うハナ火山の噴火を予想して乾杯のグラスの如く首を廻し顔を見合わせた。ずばり言っちゃったわよ。どうするの後。緑ちゃんお願い。
緑も思わず開けた口を手で隠している。まさか自らさらっと言ってしまうとは。先日まで殆どマツが代弁して殆ど喋らなかったからだ。皆味方だとわかり満場一致で警戒を解いたのだろう。なんとかしてくれると満場一致で思ったのかもしれない。
「正午から入洛なのですが。」
意外と優しいハナ。物分かりのいいハナさんに変わったわよと緑は思った。
「このまま降り続けば難しいかと。」
「あなたは、雨乞いの神。逆は難しいですものね。」
神って言ったわよね。理解しているし。錫鞠で逆に雲晴らせとか言わないしさ。
「この雲の厚さと広がりから正午に上がるとは考えにくいでありんす。」
「では、物分かりがよくなった六姫様に免じて延期にしましょう。」
「は、物分かりのよくなったハナさんが物分かりがよくなった六姫様の言う通りに、物分かりの良い管領様が分かりましたと物分かり良いとは限りんせんよ。」
「なんのための美濃の精鋭千。御所を囲む武家長屋に住まわせているのですか。御所を護る名目だけではありません。」
武家の娘らしく凛としたハナの言う通り、入洛は一日延期となった。マツの予報に反して午後には雨は上がったのだが、延期は覆えらず、なんとこれでリアル帰蝶とフェイク帰蝶の入洛が同じ日になると言う天国と地獄のコラボレーションとなった。だが、御世話役は三家続いて失踪、四家今川家も輿は空で到着するという不可思議。或る意味地獄と地獄のコラボレーション。それでも敢行しなければならない将軍御世話役。発端は、斎藤利政の命令。小見の機嫌を考慮したものとはいえ、領主の命令はそれほど絶対なのである。その命令は絶対故、時には仕える者を長く仕える者程盲目にする。ハナはムラメカス帰蝶を真の帰蝶と見て疑わなくなっている。兎に角入洛さすことを第一に考えている。今懐にあるのが偽物だとは露とも疑わない。それが、得体のしれない危険に飛び込むことだと気を払う余裕すらない、真の帰蝶を危機に陥れることだと気付かない。それを戒める役目の若手侍女までもが事情により結果的にハナを盲目にさすことを助けてしまっている。彼女らの真帰蝶への忖度が真帰蝶を死地に追いやっているのである。
その頃、座敷牢から女の絶叫が聞こえたという噂が管領御台より帰蝶様領域に齎された。
「妙な噂に惑わされないでください。一日の日延を有効利用しない手はありません。」
ハナは侍女達四人を集めて、入洛式の段取りの打ち合わせを綿密にした。
その絶叫から間もなく大量の食事が運び込まれだした。それは真帰蝶の入る座敷牢。管領家ではなく、御所から管領によって持ち込まれる一日二食の食事が足りなかったのか。
半刻前に遡る。座敷牢に、光が差し始めた。午前中あれだけ降っていた雨が止んだ。
「斎藤の六姫様とお見受け致します。」
壁にもたれ、足を伸ばし、煤髪は乱れ、顔を隠している。空耳かと思ったが、斎藤の六姫…二度、三度と同じ文句が繰り返された。
「斎藤って何。六姫って何よ。誰。」
「あんさんのことえ。」
「私が誰だか、私をその名で呼ぶということは知っておろう。言うてみよ声の主よ。」
「あんさんはあてらを助けると言うてくれた。そん言霊にわてらはしがみついたえ。」
言霊、吐いた言葉に魂が宿り空間を漂う、漂う力と生存期間は身分に左右されるという。
「私ごときの言霊が漂っていたなんてね。姫身分なの。」
私ごとき、帰蝶が斎藤六姫の時は、考えられない自虐的発言を行った。
「あてらはあんさんに縋るしかないんえ。」
「で、あなた達を助けるだって。そんな事何時いったっけ。…確か何か大義を持って乗り込んだ気がする。あなた達のこと教えて。」
「あては将軍御世話役波多野晴通の一姫、香。」
自分の廻りに漂う言霊に姫の助けを求める生霊が絡みついた。あなた方の要求に答える言霊だったのね、たまたま私が吐いたのが。正気が戻って来た。波多野、赤松、あと一つ、なんだっけ。や、山名。そう思い出した鬼公方よ。
「まだ生きとるで。わてがこうして六姫様に訴えられているから。」
帰蝶の中に怒りが湧いてきた。怒りの感情。怒りの矛先は、姉姫、その生母、侍女、鬼公方。
上洛して鬼公方退治なんて、やっと十歳の童みたいな夢を未だに見てたの誰だ。そ私、私は誰。波多野の姫が本名を名乗った以上礼儀として自分も真名を乗らなければならない。頭脳をフル回転、私の真名。
「私は錫髪を靡かせ錫鞠を扱う斎藤六姫帰蝶!」
ガバと起き上がり、力の限り叫んだ。
「名前頂いたえ。」
「(なんなの頂いたって、アブネ。)でも今は違うの。錫鞠を失くし、斎藤でもその六姫でもない。姫身分ではない惟の帰蝶。いやこの名も棄てたいくらい。いやもう棄てたい。今、自分で自分の名前考えているところなの。」
「でも、あんさんの言霊には姫身分の気概満ちてるえ。お願いあてらを助けにきて。」
「「「御願い。」」」
帰蝶は背中から覆いかぶさるよう両手で捕まえられた。背中ごと地底へ引きずられる。手は前しか向かない。故に背中から引かれるとその手を振りほどくことはできない。・
「ずるいよ。後ろからくるなんて。」
帰蝶は腹筋を使って懸命に耐え、反った体を起こした。その時衛兵が木枠の間から昼飯の膳をだした絵が見えた。
「メシ。足りないわ。味気のない和食なんていらないわ。辛味の波状攻撃明料理がんがん持ってきて。炒飯、餃子、包子、マーボー豆腐山盛りもってきて。」
衛兵は一汁一菜と焼き魚の膳を置いて走って出て行った。
帰蝶はムンと力を込め膳を引き寄せ前屈みの態勢になり、箸を取った。引きずり落とそうとする力と闘いながら、箸で白米を取り、口に入れた。
「私はもう斎藤六姫じゃない。斎藤とは縁切りして姫身分じゃない。将軍御世話役でもない。言霊を出した時とは状況が変わったの。鬼公方を討つその思いは、反姉上とその纏わりに向いていた憎しみのベクトル(方向)を鬼退治に向けただけなの。諦めて。」
「そんな殺生え。あんだけ鬼退治三色髪姫奪回って啖呵切ってたえ。」
両腕を外から抱え込み、見えないが、胸の前で両の手が組まれ後ろへ引き込もうとする。
ちょっと待てこの抱きつき方、帰蝶の脳漿の奥がきらめいた。
「貴様、男だな。抱きつき方が上からだ。女は下から脇に手を忍ばせ、胸の下に回す。そんな抱きつき方はしない。」
明らかに香は動揺した。力は入ったか、上向きの力で下に引き込む力ではなく、これでは効果が発揮できない。帰蝶の胡坐座りの重い尻が少し浮いた程度だ。
「バッドマナー。」
「って何よそれ。」
力は弱まり腕が自由になり、食事が可能になった。だが、背中を引っ張る気配は相変わらずだ。魑魅魍魎、鬼の次に生霊、流石妖しの都ね。楽しませてくれるわ。
「正直に申すえ。あてが助けを求めてんのやなしに、あてがあんさん、帰蝶はんを助けんのや。」
「まず、そちは誰。生霊の主は誰。」
「名前言うたら、あてがあんさんに引きずり出さるよってに、できんえ。要件だけ言うえ。あては帰蝶はんを助けたいんえ。」
「助ける、私は…確かに何処。牢よね此処。」
「そこは管領邸の地下牢え。明日裁きがあるえ。」
「(記憶がはっきりしてきた。)注意程度で終わって、直ぐ十兵衛の店に帰れるの。そこで私は斎藤家とは関係ない、そう思い出した。お蝶として生きていくの。惟のお蝶さんよ。」
「よう聞いてや。あなたは近日中に悲惨な死を遂げるえ。ほんまや。」
帰蝶の箸が止まった。まさか…。
「実は、御世話役の波多野、赤松、山名も既に犠牲になってるえ。将軍御世話役は、その実、よもぎ摘みえ。不良姫の処分場え。」
「やっぱ犠牲になってるの。鬼くぼおおおお。」
帰蝶の魂のイガリ声。煤髪から天井を睨む目。口の中の食べカスが周囲に飛び散った。
「あても肉体のみ助けることはできんえ。でも意識つまり魂魄だけなら…。別人の肉体に帰蝶はんの魂魄移植して。二重人格なるけど、元主を眠らせたら、帰蝶はんの肉体同然え。まさに別な人生生きていけるえ、あてと。あてと共に人生やり直すえ。」
帰蝶の煤髪から睨む目の光が失せた。得体のしれない生霊に歯の浮いた文句言われても、その上、
「私は錫髪あっても私なの。私じゃない他人の体で人生…考えれらない。産まれた以上、私は一生、この体に責任を持つ。他人にはない金属属性の“とりわけ人”錫髪、錫眼、それに錫歯。私が誇りに思うの当然じゃない。そんな私の体が鬼公方に食われる所を魂だけ他人の肉体に逃げて、高みの見物なんて、私が喜ぶとでも思った。生霊か死霊かしらないけど、古今を睥睨できる霊界で霊同志駆け引きしてればいいのよ。人間界に手ぇ出すんじゃないわよ。」
生霊の力が一気に弱まった。
「今川の姫様はお受けになられたのになぜ。」
驚いた。今川の姫は輿に乗っていたのだ。この生霊の話に乗り助けられたことになるが助かるのは意識つまり魂魄のみ。
「今川の姫の肉体はどうしたのよ。」
「魂魄が抜けると意志がなくなり体を保てなくなるえ。つまりセルの接着を維持できなくなり、セルのドット状態になり輿に残ってるえ。」
良く理解できないが、体が粉々になったのは何となく分かる。所で私で二人目よ。
「何が、あてと共に人生やり直すよ。御世話役が来る度に声かけるつもりだったんじゃないの。信じられない。」
嫌だのNOなどと、と懸命に生霊は否定語を入れるが帰蝶聞き入れる様はない。
その時小姓が地下牢の鍵を開け、中華皿をもってきた。そんな小姓が次々並んでいる。皿に山盛りの一品料理、回鍋肉、麻馬豆腐、八宝菜、ニラレバいため炒飯。
「今川が姫。どんな娘か知らないけど。善き気立てなんでしょ、だから、あなたの事信じて、魂魄だけ抜かれて。でも魂魄だけでも助かったんだよね。いい娘なんだから大事にしてあげな。」
「今ならまだ間に合うえ。生霊状態のタイムリミットが近づいたえ。力を抜いて背中を後ろに預けたら助かるえ。」
「私は態度、性格、姉姫やその生母侍女から褒められたことは一度もないの。侍女頭のハナからも注意や説教といった御叱りしか受けたことないわ。そんな私のタチ褒めたのはあなただけよ。感謝するわ。でも霊体だけの人に靡くことなんてできない。喩え、残り少ない命脈でも私は斎藤家の娘として潔い振る舞いをする。それが晩節を汚さずという斎藤家の娘の生き方なの。…所でそちは波多野香の何なのよ。」
と言い終わる頃には生霊の背中を引っ張る力は消え、気配も壁に吸い込まれるように消えていった。悪い冗談よね。悪い白昼夢よね。占いだって外れるんだからさ、夢のお告げなんてある筈ないじゃない。
「さあ食べるわよ。明日で私の命終わるんだって、食べて食べまくるしかないじゃない。最後の晩餐よ。」
生霊は近日中と言ったが、丁度おあつらえ向きに“御裁き”御札が切られてるじゃない。帰蝶は明日の裁きで命脈は尽きると理解している、この齟齬は何なのか。今は未だ不明である。
帰蝶は次々並ぶ明料理の膳に匙で手を付け貪るように食べはじめた。食べることに脳神経全部使えば、己の運命に考えが及ばない。
そこへ、藤孝が下りてきた。明料理店から異常なまでの高額な請求書が舞いこみ何事と様子を見に来たのだ。
「うわ、大食ネネの本領発揮じゃ。」
やっぱネネなのか。見間違えたのはワシの方じゃったか。気を揉んで損した事になるのか。
座敷の半分がほぼ食べきった皿で埋まっている。完食したあと置く場所なく投げ棄てたのか。木枠の廻りに陶器の破片が飛び散っている。
「この世の未練を切るために鱈腹食っておこう考えたか。」
「どういうことよ。私の裁きは極刑で決まっているとでもいうの。」
思わず箸を投げ捨てていた。既聞感。生霊が言った事と一致しているではないか。
藤孝はニラやラー油の臭いで鼻が曲がりそうだ。ついうっかり裁きの事を話してしまっている。まずった。だが、遅かれ早かれじゃ。
「被害者側からはその極刑が望まれているのじゃ。」
「私が何したっていうのよ。」
「斎藤六姫浚った罪じゃろうが。」
「はあああ、私が私浚った罪で首刎ねられるのか。」
やっぱ、帰蝶じゃったか。ワシは間違っていない。寧ろ不自然なのは、先手侍大将と侍女頭が分からんかったことじゃ。
帰蝶は空になった皿を藤孝に向かって投げた。だが、木枠に当たり、乾いた大音響を立てて粉々になった。私の運命も明日こうなるのね。既に料理は食べつくされた。二十数皿はあろう、乱雑に放り出され重なりあい、割れている皿、粉々になった皿も複数あった。
「これは狂っている。もう此処まで飯は終わりじゃ。」:
藤孝は家臣三人に命じた。肩に丸に二匹両紋、藤孝と同じ和泉細川家のエンブレムである。若いと言っても藤孝よりニ、三年上であろう。年の功より身分である。
家臣達はガンジキで皿を箸を入り口まで引き寄せ、階上へ持って上げさせた。藤孝も醜女と狂女振りに恐怖を感じ逃げるように去っていった。
人生って理不尽よね。私が私浚った罪って何、もっと武家らしい罪考えてよ。明らかに鬼公方退治って謀反企てていたんだから。でもそれなら連座で光安やハナや緑、マツ、侍女達、無辜の兵達に被害が及ぶか。
一姫姉は一番優しかったが少し体が弱かった。一姫姉の部屋行っても寝込んでいることが多いから、何時も残念ねと思って帰って来た。でもその時は起きていた。床上げもしていた。一姫姉も招き入れて、かるた取り、貝合わせと言ったお姫様趣味で遊んだっけ。
一姫姉もよく笑った。でも余りにも一生懸命遊び過ぎて、気分が悪くなった。侍女達が私に帰れと怒鳴り散らし、私は追い立てられるようにして帰った。一姫姉はそのまま寝込んでしまった。自部屋に帰って心配していると、ニ姫姉が鬼の顔で侍女引き連れてやってきた。洋梨顔で、自分以外の物を忌み嫌うような目、他人を軽蔑したような飛び出た唇をしていた、二姫(仁蝶)、以外と上背あったわよね。今も私より少し高い。
「六が折角床上げした一姫姉をいじめてまた調子悪くしたってねえ。」
と言ってきた。私は否定した。しかし。ニ姫姉(仁蝶)は、
「一姫姉の生母と侍女が言ってたわよ。嘘つくんじゃないわよ。うそつきは舌ぬかなくちゃね。」
とピチピチと早口で宣戦布告したかと思うと、本当に私に襲いかかり、爪で舌を引っ張って来た。痛いのなんの、てニ姫姉の手を噛んだら、泣いちゃって。そしたら、あとからやってきたニ姫姉の生母がやってきて、
「このやんちゃお六。一の姫様を布団に追いやり、妾の娘に怪我を負わすなんて。名の通りろくでなし。」
と言って平手打ちをニ発。ハナは間に入って謝罪と平伏を繰り返すのみ。
「小見の方様に告口するならやってみな。」
と捨て台詞を吐いてニ姫姉を連れてでていった。告口しないことを知って。姉妹仲良くを装うのが、忠孝梯と信じていたわ。信じる者は馬鹿を見て、明日までの命ってさ。
運び残した膳を木枠めがけて蹴飛ばした。漆塗りで上質だったせいか、乾いた音だけで壊れなかった。何故か帰蝶は安堵していた。閻魔が実在するか、明日で確かめられるのね。真実を写す錫目にはどう見えるのかしら。
こうして、帰蝶上洛五日目、将軍御世話役帰蝶の入洛と罪人帰蝶の磔の朝が訪れた。表向きは斎藤六姫帰蝶の入洛とネネの斎藤六姫帰蝶誘拐の罪で磔が行われる朝が明けたのだ。
こちらは十兵衛の店。
ネネが飲茶の真っ最中。湯のみに緑茶。包子を楽しんでいる。
「姫はん、今日帰ってくんねやろ。うちの身代わりになって有難い話やけど。ちゃんと顔見るまで不安やわ。折角の飲茶やけど、喉通らんわ。」
「と言いながら進んでいるじゃないですか。」
十兵衛は白に青の人銅唐草文様のついたマグカップでチョコを飲んでいる。チョコレートはこの当時飲料なのである。
「姉君達を妾腹と蔑み、さらにその姉の生母を妾風情とを悪し様に評する妹は居てはならぬのです。身分以前に長幼の序があるのです。長幼の序は、人の基本、それを否定する者を身供は許せません。特に家という組織を生きるもの、姫身分として上に立って者がそれを否定してしまっては、組織は崩壊します。これでは斎藤家、斎藤六姫双方そして、何よりその下に仕えるものが不幸なると考え、その不幸の元である斎藤六姫を斎藤家から“巣立ち”させて、比較的自由な祇園で迎えたのです。」
「て綺麗なベベ着せてるけど、管領はんの仕事に応じただけやろ。」
「御世話役の話を持ち掛けながら、斎藤家がやってくると拒む。細川晴元は将軍家を奉戴する最高権力者。斎藤利政は、山城守を称しているものの、その下に使える美濃守護に過ぎぬ。その二家の力関係に興味を持ってこの話、御受けしたのです。それと、波多野、赤松、山名御世話役失踪案件と何か関係あるのかの疑惑解明を含めて。」
「別にうちを庇ってくれたわけないんやな。それか、うちに仕事振って捕縛になったから申し訳ないという罪悪感からかと思ったんやけど。」
「偽物と本物二人返したことなりますね。失踪事件を考えると、ムラメカス帰蝶を入内させるのが当然。そして、斎藤六姫でなくなった帰蝶さんはどうするか、どうさせるか。」
「でも結局お裁きするんやな。姫はん帰って来たと分かれば裁きいらんやん。それとも、御所の威信を示すため。祇園不入も破ったわけやし。」
「身供達とは違います。誘拐は親告罪。斎藤家の訴えを聞き、不入の権を破ってでも出て行かざるを得なかった。なぜなら、いくら管領の指示とはいえ御世話役を管領家に留め置いた状態で御所の武家長屋に斎藤兵千を入れてしまった。つまり人質なしで斎藤家に喉元刃突き付けられている状態なのです。」
「でもネネ捕縛捕まえたと思ったら、姫はんやった。それ分かるん裁きの時やったっけ。」
「面通しは済んでいる筈です。何より、帰蝶さんは管領邸にいます。」
「管領邸なんで。御所ちゃうの。」
「御所には地下牢がありません。管領邸にしかないので。管領邸です。兵部殿が言ってました。」
「なんで、地下牢ないの。あっこって旧斯波邸やろ。去年まで斯波邸やったとこや。」
「でも昨年の三好と管領家との市街戦で廃屋同然となりました。地下は朽ち果て使えないのでしょう。」
「外見も中も無茶苦茶綺麗やで。そう言えば何度か忍んだけど、この前、十兵衛はんの使いで言った時も方々散策したけど、地下牢へ入り口が見つからんかったなあ。」
「これはもう裁きが済んで、そのまま斎藤家残留になっているかもしれませんね。そうなって鬼退治をするのか。捕縛する前の状態から見ると一時の思いつきだったのか。」
「ムラメカス使こて探りいれへんのか。」
「ムラメカス帰蝶が行っています。ムラメカスを形作る蝶達は縄張意識が強いのですよ。管領家はいわばムラメカス帰蝶の縄張。どなたか別種のムラメカスを行かすと喧嘩になってしまいます。」
「じゃあ、うち見てこうか。うちの裁判やし。一応結果見てみたいわ。無罪はないにしても、形式だけの注意で解放されたかどうか。かまへんな。」
「いいでしょう。錫髪娘の鬼退治がみれるといいですね。それが、公方様の救いとなれば、これ程嬉しい事は、いや都人達にとって良い事はないのです。あと城孤社鼠であり“山科輪廻”の妖術系の“とりわけ人”を見つけ出してくれたら。」
「うちは、うちの裁判見届けるだけやって。余計な仕事付けるんやったら、晩、炒飯の大皿二つ追加させてもらうで。ほな。」
ほなと言う言葉を残して黄色と赤の格子柄、帷子一枚赤い帯で締めあげたネネが飛び出して行った。
十兵衛は火照った顔を誰かに見られてないが、悟られないよう食堂部を見渡した。カムロが突っ立っているが、気付いた気配はなく胸をなで下ろした。身供としたことが心を心内だけで制御できなくなり顔に出てしまうとは。それ程の御方。
流れる水には、この世に産み落とされた花を浮かべていきたいと言う情があるものなのですよ公方様。
因みに食堂部と言っているが、料理自体は壁一つ隔てた隣の明料理店で調理している。
一方のネネ、瓦葺きの屋根を走って御所に向かっている。雲は僅かながら出ているが晴れ、草鞋越しで足は暑くないものの、頭は少々暑くなってきた。
うちも笠欲しいわ。それはええ、裁きって御所やろ。あれだけ綺麗にして地下牢ないって、御所としてどうよと言う話や。もっとじっくり探ってみよ。隠し扉とか。隠し部屋とか、武者隠しとか。“山科輪廻”も十兵衛はん程やないけど、あれだけ大掛かりは妖術使うって、興味あるわ。管領はんがつこてるって事は御所やろ。なんつうても半年間、御所が改築して御世話役始まって一度も自邸に帰ってへんて。女や言う噂やけど、妖術系“とりわけ人”の目付つう線もあんのとちゃうか。そういや帰蝶はんは御所造った松永弾正はんに引っかかってたな。まさか…。
ネネは御所へ急いだ。
こちらは管領邸。管領邸の廻りには京雀達が集まってきてきた。
ムラメカス帰蝶が輿に入り、四人の黒陣笠甲冑姿の斎藤兵の担ぎ手に持ち上げられ、管領邸を遂に出立した。玄関で持ち上げた時、陣笠に白抜かれた二頭波頭立浪紋が前後で其々お見合いした。視線が交錯し、語り合わなくても、同じ事を感じていると互いに確認できた。それほど、衝撃的であからさまだったのだ。
本当に六姫様は乗っているのか。蝶千匹のブロックチェーン、ムラメカス帰蝶、光の屈折を利用して真帰蝶そのものだが、外見だけ張りぼてのように囲っているだけなのである。軽いどころか、乗ってないのも同然の軽さ。
フォーマルな侍女小袖姿“替”のハナが咳払いして、白い市女笠を左手で持ち上げ、右手の杖を前後に動かし急かすようにして、上りまちを越えさせた。緑達侍女も白の市女笠にフォーマルな侍女小袖“替”を付けているが、杖は持っていない。特に規定はないが、大人未満は持たない慣習である。
一方、真帰蝶は、裏口より籠に入れられ、馬上の人になる。所がムラメカス帰蝶とは対照的に重くなりすぎて馬にまたがるのは無理。象かと言う位一晩で巨大化していたのだ。
身に付けた赤襦袢は胸が大きくはだけている。白い帯で懸命に留めているが腹の膨らみでハチ切れそうだ。籠も、当初用意していた女囚用では間に合わず、御所から慌てて巨漢用の最大規模の物を用意した。此方は将軍御側衆の甲冑武者四人がエスコートすることになる。二頭立ての馬車の荷車に籠ごと乗せられ、やっと裏口を脱出した。京雀からの罵声、投石を浴びながらの入洛となった。
質素な守護大名家、武家屋敷を抜けた所に旧斯波邸を改築した新御所が姿を現した。斎藤家の者達は感嘆した。それだけで武家屋敷として住むには十分な位の門上ニ層の櫓門。白漆喰の壁を朱柱で固定して、屋根は緑色、なんと翡翠の瓦だ。既に空堀となっている上に架けられた橋は大理石。
「なんでありんす。」
変わらず鎖帷子、陣羽織姿のマツ、ついつい絶句して、馬のまま橋を渡り門を潜ろうとしてしまった。灰色系の肩衣、黒袴冠正装姿の光安が蟹の手で懸命に制した。
「まちゃれ。」
「礼を失する所でありんしたな。」
しかし、失態の恥ずかしさが消し飛ぶほどの絶景である。これが人の造った建物なのか。
豪華絢爛とは、この御所の為にあるようなものでありんす。だが、護衛女官たるマツは上ばかり見るだけでなく下に目がいった。
雨天の翌日にも拘わらず空堀とは、我らを信用している証でありんすか、と解釈した。
緑も侍女達も絶句。侍女達三人は瞳の杯をかわし合い、最後に緑を見上げる。何かコメントは?と言った眼である。覆うのも忘れ、ほんわか開け放たれた口が解答だった。侍女達は“だって”と両手を広げたポーズをシンクロしている。
侍女頭のハナ、口を覆う仕草は忘れないが、絶句であり、言葉にできない。豪華絢爛だが、今迄御台にベンチャラの為使っていた豪華絢爛を軽々しく使えない程の重厚さ敷居の高さである。
「絢爛至極と言っておきましょうか。」
とやっと言葉を絞りだした。先頭の光安は得意満面な面もちをハナに向け、下馬した。
「皆よく聞け、これは斎藤家の寄進で立てられた御所でああある。」
と自慢の戦場声を響かせた。拙者の美声がお館様を讃える詞を都に響かせる、無情の悦び。
「なぜ光安殿が喜んでるの。斎藤家の御館様の寄進であって明智家ではないはず。」
「ちょっと豪華すぎじゃない。」
「そんな銭があるなら、私達の禄弾んでほしいわ。ね緑。」
英雄気分に浸っている光安を侍女達の不満声が現実に引きずり下ろした。
当然、明智の同族で頭たるハナが怒り狸の表を侍女達に向けることになる。
「栄誉なことなのです。あなた方の禄を上げてもろくなことに使わないでしょ、これを銭の有効利用というのです。」
「あたし達別に嬉しくはないのですが。(誰が突っ込むか。)」
「嬉しいとか下衆な言い方するのではなく、誇り高いというのです。(洒落に突っ込んでくれないのですね、やはり世代差を感じてしまいます。)」
櫓門ばかり目がいくが、門扉も相当な代物。朱塗りの上に金の竜虎がが盛り上がり左門から来客を睨み、右門からは、尻尾で追い払わんばかりに振っていた。
「拒まれているようでありんすな。」
帰りましょうかなどと、囁き合う侍女をハナがシと注意している。光安は橋の中程から斎藤家到着の言上を高らかに咆哮する。
蟹将の戦場声に反応して、門扉がギイイと軋む音を上げ重々しく内側に引き込まれた。
光安が馬の手綱を持ち、先頭切って入って行く。次いでハナ、馬と共にマツ、そしてムラメカス帰蝶の輿、そして緑達侍女、そして甲冑に陣笠の兵達が、長い長い千人の行列が続々と黄金の竜と虎の腹の中に吸い込まれていく。
斎藤家ムラメカス帰蝶一行が遂に入洛。更に眼の前の屋敷に皆絶句した。
富士山のように盛り上がった屋根。さらに奥にも同じように尖がった屋根が三つ。まだまだありそうだ。その屋根に皆金箔がはられて眩しすぎる。柱は皆朱塗りになっている。
そして、石畳はクリスタル、きらきら眩く輝いている。足を踏み出すのも勿体なく躊躇する位だ。そんなクリスタル畳を無粋にずかずか足音響かせて歩いてくる深い緑色の狩衣折烏帽子姿の兵部藤孝がいた。
「ようこそお越し下された。(相変わらず歩き憎いのじゃ。特に沓だと。)」
儀礼的に頭を下げた。
実は、この直前、摂津に出張った和田某の使者から報告を受け、農村然とした松永領に他国の姫が訪れた形跡はないとのことだった。ついでに大坂も空振りに終わっていた。大坂は一向衆の門前町で、松永弾正が入りこむ余地などなかった。大輪田泊と藤孝は言ったが、兵庫湊とこの頃は呼ばれおり、此処でも姫身分が遊郭に居る、南蛮船で売りに出されるとの形跡は全くなく空振りとの報告が入りもやもやしていたのだ。
松永の線は無しじゃ、過大評価しすぎたか。
そんな藤孝の心中など露知らぬ、光安も大人と子供程の背丈の差だが同角度で返礼し藤孝の先導で玄関へ向かう。石畳周りには緑、赤、青と言った宝石が輝いている。
木々は、左はバナナ、パパイヤと言った南洋系。右は杉、檜といった北方系である。
「光安殿、本当にこれ全部斎藤家で賄ったのですか。」
おそるおそるハナが聞いている。侍女達が文句つけるのもさもありなんと思ったのだ。
「皆の手前ああ言うたが、無論、御世話役関係大名、波多野、山名、赤松、今川らと共同出資じゃ。流石に拙者もこれ全部斎藤家となれば禄弾めと言いたくなる。(出資中八割は斎藤家と管領様から聞いていたのだが、所詮社交辞令だったが、他の四家、今川などは相当“雰囲気”出したんだろな。やられた。でも…此処はいずれ)」
だがニカニカと笑っている。これ程豪奢な御所に自分の主君が大きく関わっていることに鼻高々なのだ。ハナも同じ、心なしか胸はり、わたくしたちの出資したのだからと堂々とクリスタル畳を踏みしめ進んでいく。
それだけではない。“山城守は真の山城守になるのです”、と言う言葉を心中で復唱していた。
ムラメカス帰蝶も窓を少し開け、その豪華絢爛さにあっけにとられている。口に手をのタイミングが少し遅れたくらいだ。尤も真帰蝶はそれすらやらなかっただろう。
ムラメカスブロックチェーンにより視力色覚も人並になっており、ただでさえカラー風景に感動する毎日なのに、これ程カラフル豪華な御所を見てしまえば、姫仕草を一瞬忘れる蝶が出るのも無理は無い。
帰蝶様じゃなく六姫様ならなんと感想を述べられたのかと緑は思いながらムラメカス帰蝶が窓を開けているマツ側と反対側の同位置を進んでいく。
金の延べ棒を走らせた罰当たり上り框を超え玄関に入った。半年前に完成した筈だが、まだ新しい木の香がプンプンしている。
心地よいでありんす、六姫様ならどう感想述べられるか。
ん、この香どこかで、山科、山科輪廻!山科の木材を使ったって事でありんしょ、と納得させた。疑惑を持ってしまうと、心の障りとなり、これからの入洛式で失敗の元となってしまう。
玄関から一段上がった所の板の間に輿がおかれた。因みに玄関ホールは翡翠でできており、所により琥珀が埋め込まれている。マツのエスコートでムラメカス帰蝶が登場。
桃色を基調として袖、胸下に行くに従って濃くなっていく小袖を身につけ真っ赤な袴を付けている。装い“入洛のお供”である。
頭には紫頭巾を被っている。藤孝がまず出迎える。藤孝一人である。入洛など初めてなので、こんなものだろうとハナと光安は納得していた。いや屋敷の豪華さで他の事は些細で済まされた。因みに斎藤兵たちは玄関前で護衛任務に就いている。
「お待ち申していた。十兵衛の店以来じゃが、公方も首を長くして待っていたのじゃ。」
「何処の首を長く固くしてるでありんすか。」
「無礼じゃ。」
侍女達がキャッキャ受けている。当然、コレとハナの御叱りを受けている。なんか童達の中にわたくしと明智殿、大人は二人だけ。侍女達と六姫様とマツには目を光らせていなくてはいけませんわね。
ムラメカス帰蝶は周囲を見渡した。玄関の天井には蝋燭が十数個付いたシャンデリアがぶら下がっている。蟹将光安が両手広げた以上あり、結構な威圧感である。
「南蛮灯台じゃ。灯は入れたことがない。」
と藤孝が説明している。ムラメカス帰蝶は次に柱にドキっとしている。
「それは虫入り翡翠じゃ。所々ある。どんな虫が入っているが散策してみるのも楽しいじゃろ。」
虫入り翡翠と聞いて一瞬引き攣るマツや侍女達。だが、ムラメカス帰蝶はそれが黄金虫だと知ると平静に戻っている。同じ虫と一括りするのは人から目線だ。
藤孝の先導で奥に向かっていく。白いレースのカーテンの下を折烏帽子ごと藤孝は素通りしていく。
御部屋衆は公方様の世話で多忙、和田某ら小姓共は摂津へ出払って不在、迎えがワシ一人かの難癖は幸い入らなかったか。ま御世話役入洛など初めてだから、こんなものと解釈したのだろう。これが将軍家を戴く御所の御所たる威厳ってもんじゃ。
その後をマツがムラメカス帰蝶の手を取り向かって行くがカーテンなど知らぬ故、その前で歩みは止まる。
「兵部、これ腰を屈めて後ろで誘うの、それとも無粋と手で払いのけて野郎換えのどっちでありんしょ。」
独特の廓言葉で言葉を投げかけてくるが、意味は分かる。分かった故に兵部藤孝、ムッとしたオーラを湧き立てながら踵を返した。
「払うのじゃ。元は布じゃろ。説明せずともわかれ。」
と思い切り不機嫌に返答している。
ムラメカス帰蝶の後ろにハナ、そして、緑、緑の後ろ侍女三人は声は出さぬが手を叩く振り、大きく口を開けて笑う振りをして受けている。そして、手を水平にして自分の鼻当たりでニ、三度動かして又笑う振りをしている。藤孝の頭は此処までしかないと揶揄しているのだ。
最後尾の大柄蟹将光安が咳払いで侍女三人の姿勢を正させている。その流れで少し薄暗い廊下に目が行く。滑り止めと思ったそれは、濃い赤紫のペルシャ絨毯であった。多少は舶来品を知る光安にとって、これは驚愕だった。まさか、御所の全廊下にペルシャ絨毯!
廊下の両脇は等間隔で灯台が掛けられている。銀製忍道唐草文様の装飾が施されている、中には翡翠の小さな竜が付いた物さえもある。天井には黄金のシャンデリアが威圧している。
廊下を暫く歩き、本殿を抜け、絨毯敷きの渡り廊下を抜けた所の黄金の富士山屋根。これが姫屋敷だった。朱塗りの柱、豪華絢爛振りは本殿と同じである。
「こんな豪華なお屋敷でお逃げした姫様方のお気持ちがわかりません。」
とムラメカス帰蝶は淡々と語っている。失踪案件の事はマツから聞かされていたが、逃げたと多数決で解釈しているようである。抑揚のなさと弱い声から、逃げた、食べられたの数は拮抗していたのだろう。だが、角を立てないようにするのが人世界の生き方との考えから逃げたが優勢になったと考えられる。
藤孝が姫屋敷まで案内した所で振りかえって、部屋に入るよう右手で示した。マツのエスコートで部屋内に入るムラメカス帰蝶を藤孝は見つめている。
「随分しおらしいな。(姿、形だけとればこちらの方が帰蝶じゃ。帰蝶過ぎると言ってもよい。)」
藤孝の脳裏には管領邸地下牢で醜態を晒す贅肉の怪物を浮かべている。こちらが、口に出さないが、真帰蝶である。姫が取れたらああなるのか。姫だった記憶さえも失いつつあるようじゃ。
!!これは十兵衛の妖術じゃ。さらに時間が経てば本来の姿から懸け離れ分からなくなる。姫だった記憶も失われていく。
藤孝は平静を装いながら、心中さざめいていた。
やはりあの店が妖しい。公方様が展開していた時、あの中に妖怪化して記憶を失った三家の姫が居たのじゃないか。動機はいくらでもあるわ。御世話役が御所で失踪すれば、公方様の威信は下がり、失踪させられた大名家の不満が積もる、怒る、乱。十兵衛は数多いる十三代の対抗勢力の何処かと繋がっている?
だが、もう派遣する者が居ない。どうすんのじゃ。
「見た目より繊細なのと、実は内弁慶な部分があるのですよ。徐々に慣れてくると思いますが、その時はお気を付けあそばれされませ。」
と膝を少し曲げ、笑みを持ってハナは藤孝に答えた。取り繕ったと取れなくもない受け答え。それとも、美濃を出たのは初めて、まして初めての都会、妖し跋扈する都で事件に遭遇し、実は心折れやすく内弁慶だと分かったと本気に思ったのか。
十兵衛への疑惑とは別に、この侍女頭の振る舞いは本気で裏表ないのか。他の侍女も、揃いも揃って十兵衛の店から送り込まれた、この偽姫を本物だと思っているのか。確かに公方様が“湖畔の君”と見誤る位、見た目は斎藤帰蝶そのもの。
!!他の者は姫ではなく侍女頭しか見ていないじゃないか。それ程絶対権力者なのか、斎藤家で、この狸みたいな侍女頭が。
マツ、緑はハナの振る舞いを思わず目で追っていた。侍女衆の中で、自分達はムラメカス帰蝶と理解しているが、ハナだけは真帰蝶だと未だ思っている。ハナのムラメカス帰蝶に対する態度は注視しなければならないのだ。偽物だとばれてはいけない。侍女三人は、緑任せにしていたが、マツ、緑は此処までで結構神経をすり減らしていた。
早く、公方様の閨にぶちこんで楽になりたいでありんす。三色髪姫失踪、真、鬼閨になったら、蝶化して逃げればいいでありんす。
公方様の懐に預けさえすれば…、その点、三色髪姫失踪案件を心配しなくていいのは蝶で幸いですねえ。問題はハナさんだけ、ハナさんとの接触の際だけ気を付ければ…。
緑の考えが完了する前に騒々しくなってきた。
追っかけ光安の後ろから甲冑姿の明智家臣達により荷駄の籠が二人持ちで次々届けられた。全部で八つ。藤孝は潮時と入洛式の開演つまり対面式は二刻後と告げて去っていった。
御所内の執務室に戻った藤孝は、和田某の二回目の早馬を受けた。松永弾正が御所の使者たる和田某の面会を拒絶しているというものだった。小姓と話すことなどないと言ってると使者は憤然と報告した。
和田某の事だから御所名代を嵩に着て偉そうに言ったのじゃろう。
「松永はもういい。全員、じ…(十兵衛の店はワシが直直に槍入れる。)全員、御所に戻れ。そう伝えよ。」
さて、一方、ムラメカス帰蝶達、姫部屋は八つあり、専用の台所や厠も敷設している。侍女頭ハナが荷開けを事細かに指示している。どこにどの荷を置き、何を出し、どう置くか。
流石ハナ、段取りはできている。緑は感心した、初めて見る屋敷なのに適応し澱みなく指示を出している。そして、侍女達にも衣桁の組み立て、そして、対面式用の召し物の指示を行っていく。
「緑、六姫様のお化粧道具を出して整えてください。」
パーツを分けて収納しているから組み立てよということであり。慎重に緑が出している後ろ、で三人の侍女がガサツに対面用の小袖を探し、ハナに叱られている。だが、そのがさつな手から鞠が出てきた。鞠は球体故落ちた弾みで転がり部屋の廊下側障子がある隅に止まった。真帰蝶の相棒錫鞠であった。最後に使われたのは魑魅魍魎に襲われ光安を助けた時だ。
「兵の一人が拾ってくれてたのよ。ね緑。」
と白菜顔の侍女に言われたものの、緑は知らなかった。てっきり失くしたと思ってたのに、条件反射的に錫鞠を蹴る快濶な六姫が思い浮かべ、眼がうるんできた。良かった、あって良かったの。でも、六姫様は、その相棒さえも手放したのね。これが“巣立ち”の筋目なの。
「マツさん。」
と緑の呼ぶ声がした。ムラメカス帰蝶に寄り添うマツは背中が緑の語勢で震える感触を味わった。懐かしさを共有しようとする呼びかけではありんせんな。帰蝶とのファーストコンタクトだった蹴鞠の思い出がマツの脳裏に出かかっては消えた。
緑の視線は最初の頃こそ懐かしさで錫鞠を見ていたが、視線は徐々に錫鞠が転がった道筋へと移った。マツの視線の流れも緑の視線の動きと同期した。
姫屋敷は総畳敷きである。しかも、張り替えたばかりで香ばしい井草の香が漂っている。マツと緑はその井草の香に既匂感を感じ、山科輪廻が浮かんでいたが。井草も山科産?その山科輪廻のフラッシュバックすら打ち消す、リアルタイムな画像がマツや緑に衝撃を与えた。
鞠が転がった道筋だけ、井草が禿げ、そこだけ、ぼろぼろの古畳みに変化し、山科輪廻の香を打ち消す程の悪臭が漂ってきた。悪臭の源は、黒ずんだ血痕だった。
三人の侍女達も気付き、目を剥き口を抑え絶句している。ハナは家臣達に指示をだしているのでこの部屋にはいない。光安は打ち合わせで本屋敷に行っている。ムラメカス帰蝶は理解できず“あらまあ”と口を抑えている。処理不能の際の仕草とインプットされているのだ。
「布で隠して。」
と緑はおっとり反転しっかりすっきり指針を決めた。侍女達が籠の下敷きにしていた白布で禿げた部分を隠して、その布の上に鞠を置いた。
「新しいものを陳腐化する“とりわけ”力がありんすか。」
とのマツの問いに誰も答えない。緑だけ首を振った。正しき姿に導き真実を指し示す錫鞠、妖しく忌み嫌われるような力がある筈がない。
「まさか、帰蝶様の呪いとか。」
「恨みとか。」
「つらみとか言うしかないじゃない緑。」
「帰蝶様は亡くなってません。天馬行空を謳歌しているの。錫鞠を棄てたのは、そのケジメ、斎藤家から身も心も思い出も棄てて“巣立つ”ための…」
緑が少し大きな声で言った。言っていて、哀しくなり目がうるんできた。あたし達もその錫鞠と同様なのね。
三人の侍女も緑と以心伝心して消沈している。
「いや感傷にふけっている場合じゃありんせん。」
マツが黄昏の空気を打破した。姫様、血の跡って、何か訴えているのでありんすか、錫髪に“とりわけ”な力があるのは山科の一件でも明らかでありんしょ。正しき姿に導き真実を指し示す錫鞠って緑は最前言ったでありんすな。
ムラメカス帰蝶が皆の不安気な雰囲気に恐怖を抱いたのかマツの帷子の袖を掴んできた。マツが心配ありんせんを繰り返しなだめた。
そこへハナがやってきた。
一年前のことである。緑が晴れて帰蝶付きになった時の事である。この時、既に緑はハナと背丈が変わらない位になっていた。
「あなた、厠の緑って五姫様(華蝶)付きの時、言われていたんですってね。」
「はい。厠の仕事しかできなかったので…。」
「居ない方が皆捗るから厠に張り付いていたんですってね。炊事、洗濯、召し物や掃除、何をやっても遅かったんですって。五つ姫が厄介払いできたわ、これで、できる侍女を新たに採用できるなんて喜んでましたわ。」
はあ、と苦笑いで流すこともできす、緑は落ち込んだ。だが、ハナは意外にも笑顔、厄病神を押しつけられたと言う表情ではなかった。
「なにより六姫様のご希望ですから。此処では全ての仕事を交替でやっていただきますが、一応主任を決めています。担当により主任を決め、主任担当の時はあなたが他の侍女を主導する立場でやってもらいます。」
ハア、と首をかしげる緑。人と対面すると緊張する緑、その緊張により理解が遅くなる。それが理解力の遅滞に繋がり、動きも鈍くなるのだ。
「六姫様は他の姫様と違い昼御飯を召し上がりません。その替りお菓子を食されます。お菓子ですから膳の準備はなく簡略化されます。あと、読み書きは既に一姫様と同じ位の技量をお持ちです。太平記、平家物語は諳んじあそばされます。」
ハア、アは天井揚りし、驚きのハアだ。
「この辺は流石明智の血を引く小見様の唯一の嫡女でございます。故に読み書きの稽古は四日に一度、わたくしが主任として行います。他の姫様は御朝食が終わったあと嫌そうに読み書き尼様にお習い遊ばされますが、六姫様だけはご一緒致しません。厠担当だからご存じなかったかもしれませんが。」
「いえ、ああ……(どうだったかな。知ってたって、知らなかったっけ。)」
「まあよろしいです。(全く是か不是か煮え切らない子ですね。)」
ハナはスススと畳みを歩き、戸棚から鞠を出してきた。
「その間、六姫様は蹴鞠の稽古をなさいます。あなたは運動が得意そうなので、(少し横幅があるのが気になりますが、得意ということにしときます。)」
えあたしが運動が得意に見えるの。何かに得意そうってみられるのって生涯初めて。
「緑あなたが蹴鞠の主任として六姫様の御相手をしてください。侍女一人を補佐につけます。庭で三人でお稽古してください。」
そこへ濃い緑の袴姿に着替えた紫頭巾姿の帰蝶が登場した。小袖は濃い赤色に銀杏が肩に見えている。早速ハナから鞠を受け取っている。
帰蝶が受け取ると、焦げ茶色で荘厳な光沢を放った。なんて不可思議、生きてるのかしら、まるで飼い犬が主に尻尾を振る様と緑は思った。
次に帰蝶は緑を注視した。五姫に仕えてきた時、他人が自分を見る目といえば蔑み、嘲笑、激怒な目しかなかったが、なんて暖かい目。受け入れられてるのあたし。
「あなたが新しい侍女ね。成程、蹴鞠主任ね。頼んだわね。」
あたしが主任、頼まれるって。あなたは厠しかできないでしょじゃない。
「もう“乙”の台所が空いた頃ですね。わたくしは残りの侍女達を連れて御食器のお片づけに行って参ります。」
とスタスタスタとハナ他侍女二人は帰蝶の膳と侍女達の膳を持って“乙”の台所へ消えた。台所は甲乙丙、三つある。六人の姫が使う時間と場所は、一姫の侍女頭が決めている。
帰蝶と緑と侍女一人、三人で三勤一休の間隔で蹴鞠の稽古が始まった。因みに午後は弓矢、馬術等の武芸に付き合わされることになる。
一度、帰蝶の蹴りが強く、庭を飛び越え、城壁外に出てしまった事があった。
「あ、御免。探しにいこっか。」
と帰蝶が誘ってきたが、緑はハナから自分が居ない時に城壁外に出ないように固く言い含められていたので、緑が一人で探しに行った。
鞠の落ちた場所に見当をつけ、そこから転がると想定して、山を降り、獣道を通り、脇に入り探した。四半刻探してやっと見つかったが、山道に出た所で髭もじゃ獣の皮を被った変な男と鉢合わせしてしまった。なんとそれは麓で強盗を働き、家主を殺害して逃げきた賊だった。背中に籠を背負い、その中に盗品を入れているのだろう。尾根伝いに山奥へ逃げるつもりだ。面見やがったな、鉈を振りあげてきた。緑は背を向けて逃げ出した。声を上げたいが、恐怖で声が出ない。懸命に走った。鞠を持って懸命に逃げた。
この鞠だけは命に替えても守らなければならないの、あの暖かい瞳に答える為にも。
山道を逃げていると、城壁の見える場所にでた。丁度、六姫様部屋の庭、さっきまで蹴鞠の稽古をしていた場所。賊に追い付かれるには未だ少し間がある。緑は鞠を浮かし、蹴り上げた。この時だけはジャストミートし、城内に入った。一瞬でも正確に蹴ろうと思って蹴ったら失敗しただろう、考える前に使命感だけで蹴り上げたのだ。
これで侍女の役目は終わったわ、役目が終われば後は思うん存分!緑は振り返った。
「賊と御見受け、稲葉山の素通りは赦すまじ。」
緑か体を沈ませ、左足を軸に右足を廻した。見事に賊の足を払い、その場に突っ伏させた。
賊は自分の鉈で首を斬り、山道を血の海にして、その場に果てた。
危なかった。こんなに出血するなんて、鞠を城に返してよかった、鞠を血で汚してたかしれなかった。だが、緑、腰が抜け、血の海に沈み抜けだせなかった。
その後暫くして、帰蝶の連絡を受けた明智光安が緑と賊を捜索。琴切れた賊と血の海でもがく緑を見つけたのだった。光安の馬にはハナも乗っており、ハナを見た途端安心したのか、抜け腰は治ったという。その後城に帰った緑に帰蝶は語った。
「いや、多分、危機に陥っているんだと思ってさ。なぜ分かったと思う。この鞠の外縁は私の錫髪で巻いてるのよ。私の頭から抜けてても、霊的なもので繋がっててね。あなたが…。」
「み、緑です。」
「そう、み、緑が危ないって分かったのよ。で、ハナに知らせたってわけ。で、狸が走って蟹が…あなたを助けにきた。」
「緑です。」
「そう緑を助けにきたのよ。この錫鞠がある限り、私は緑と離れない。繋がってるの。」
そう言った時の帰蝶の爽やかな笑顔を緑は思い出していた。鞠に巻かれた錫髪が危機だと判断して帰蝶に伝えるのか、それとも、あたしがわが身の危機と思った、その思いを錫髪が焼き付け帰蝶に伝えたのか、聞くの忘れた。いや聞こうとしたけど、帰蝶が“さ、お菓子の時間”とかで空気変えたから聞きそびれたのだ。
霊的に錫鞠と六姫様が繋がっているって言ったわよね。
「また油を売っているのですか。先代が油売りだったとう言い伝えがあるからと言ってわたくし達が真似をしていいわけがありません。侍女は侍女のお仕事を優先させて下さい。」
ハナが突然部屋に足音もせず入って来た。三人はやりかけの仕事に戻っていた。緑だけ鞠を持って帰蝶の思いでに浸り佇んでいた。ハナは、チラと見て小首を傾げ、
「二刻程時間ありますから。少し位お稽古する時間がとれるかもしれませんね。御出立してから止めてましたからね。公方様と蹴鞠ができれば良好な関係が築けるかもしれませんね。」
と顔を和らげた。だが、畳の障子側の隅に敷かれている布に目がいった。
まずいです、畳に傷付けたなんてとられたら、と緑が内心焦っていると、光安が蟹の横歩きで顔を見せた。
「ハナ、対面式で確認したい儀がある。」
真剣は表情だったので、後は緑御願いと言い残しハナは出て行った。
実はその頃、真帰蝶が御所裏門から裁きに為に入洛したのだ。罪人ネネとして。
先程の緑の回想、実は続きがある。賊は一人ではなかった。もう一人は街外れまで逃げ、百姓の家の屋根裏に隠れていたのだが、たまたま帰って来た家主が賊を明智光安が稲葉山で討ち滅ぼしたという話をしたのだ。兄貴が六姫の侍女に惨殺されたと知った、弟分の賊は烈火の如く怒り、床に舞い降り、家主家族を持っていた鉈で両断。さらに馬を奪い、稲葉山城へ取って返した。家主が持っていたのは駿馬であり、突如、騎手になった賊の怒りが乗り移り、鬼のように駆けた。麓の門番をけちらし、門を飛び越え、山道を駆けあがり、山城の高さ三メートルの門さえも飛び越えた。
「斎藤六姫とは何処のどいつじゃ。兄貴の仇討ちに参った出会いそうらえ。」
なんと熊のような風袋のイカツイ賊が童相手に仇討などと言ってきたのだ。
賊が乱入した際には侍女達が薙刀を得物に立ち向かうことになっているのだが、賊が六姫目当てと知ったとたん、一姫以下五姫の侍女は自部屋の雨戸を固くしめ籠城を決め込んだ。そして、一姫の侍女頭からハナへ、
「責任を取ってあなたが麓まで走って明智殿に訴えなさい。」
と言い放った。稲葉山城の揉め事は稲葉山城で解決するのが筋、しかし、賊の言っている仇である兄貴は麓で悪事を働き稲葉山に逃げてきたのである。麓の侍大将明智光安に訴えるのが筋のようだが、仇の相手は実際に手を下した緑の主六姫帰蝶と既におたけっている。賊を出し抜いて麓に訴えに行けようか、厳しいミッションになることは相違ない。
「受けて立たずばなるまい。」
と帰蝶は錫鞠を持ち覚悟を決めた。弟分の賊は閉められた雨戸を鉈で破壊仕掛けている。
「六姫様、何をおっしゃっているのですか。蹴鞠で叶う相手ではありません。わたくしも自信が…あ、ありま…明智殿を…。」
鉈で雨戸を破壊する音、怒号、嘶きの恐怖でハナは身震いし、その場で腰を抜かしたようにへたりこんでしまった。変事に弱いハナ。
緑は責任を感じ胸を抑えた、そして顔を上げた時、もう帰蝶は消えていた。
「六姫様…。」
三人の侍女は誰が明智殿を呼びに行く、皆で、あたし嫌よとパニックに陥っている。
帰蝶は紫頭巾を締め直し、玄関のつっかえ棒を外し、両開きの扉を開け、錫鞠を持ち、一人で庭にでた。
「斎藤六姫はここよ。賊如きが踏み込んで良い場所に非ず。その上、馬を奪い、奪うだけでなく常軌を奪い狂い走りさせ、挙句城を破壊するなど言語道断、羅刹の所業成。この六姫が成敗致す。」
と言上名乗りを行った。庭の向うで暴れていた賊の動きが止まり、馬毎帰蝶に振り返った。馬の目は血走り、舌を出し息使いが荒い、騎手の怒りの恐怖でパニックに陥っている。股間からは夥しい尿を垂れ流している。未だ牝馬で良かったわ、と帰蝶は余裕がある。
「かああ、こんな餓鬼だったのかい。ま、ヤッタのはコン餓鬼の侍女らしいが。兄貴仕留めるって、どんな鬼侍女なんだい。ま、鬼侍女の責任は主たる姫だ。」
と言うなり、賊の弟分は不敵な笑いを浮かべ鉈の腹で馬のケツを叩き、帰蝶に向かってスタートした。帰蝶は臆することなく錫鞠を持つ。
「正しき姿に導き真実を指し示す錫鞠。正義を勝たせなさい。さあ、どちらが正義かしら。」
玄関からおそるおそる見守る三人の侍女達がいる。彼女達は六姫様無謀と思ったが怖くて助けに出れない。丸顔、四角顔、白菜顔の順で言葉を紡ぐ。
「緑は何処よ。」
「おっとり緑だから、遅れてるんじゃない。」
「来るの。又腰抜かしてない。」
馬が加速する。半ばまで来た時、弟分の右隣の雨戸が突然蹴破られた。雨戸が地面にドサと落ち、代りに現れたのが何時の自信なさげな引っ込み思案な緑ではなく無表情だが凛と顎を上げ口を尖がらた緑、睫毛寸前垂れた前髪の下からは、瞳が怒りの炎を滾らせていた。
おっとり緑とは思えない素早い動きで、いつこんなの隠していたのか、手に鬼瓦を持っていたのだ。縁の下に予備用で積んである瓦の一つである。そして、賊に向かって一番重い鬼瓦を投擲した。しかも速度を計算して、此処に投げれば真正面にぶつかると言う位置になげた。賊から見れば、鬼瓦が飛んでくる方向に突っ込んでいくことになる。
このままいけば鬼瓦を食っちまう。だが、その恐怖が筋肉を硬直させ、避ける動きをできなくした。いや余りに鮮やかなジャストフィットな投擲に、まさかこんな偶然に鬼瓦が飛んでくるなんてありえないよな。その上俺に当たるなんて偶然あるわけないよな、と言う絶体絶命時に陥る絶望的な楽観思考(正常性バイアス)に陥ってしまった。認められるか!
だが、次の瞬間、彼は空が地面に落ち、自分の首の無い胴体を逆さに見て、その胴体に激突する感触を味わった。これが彼の最後の生きた感触になった。鬼瓦は馬の首と賊の僅かな隙間を通り加速が付いた賊の喉の肉を斬り骨を絶ち首を刎ね落とし、頚椎でバウンドした後、一回転して、緑の右手に戻った。真っ二つになった賊は庭に横たわった。帰蝶の投げた錫鞠は、馬の頭に命中し、リバンドを帰蝶が受け取っていた。興奮状態から戻った緑は、鬼瓦の重さに膝を付いてしまった。
「そうあなたは暴れ馬じゃない。本当は従順なお馬さん。」
パ二ックから脱出した馬は帰蝶に撫でられ、喜びのあまり舌で帰蝶の頬を舐めていた。帰蝶が緑の搦め手を予想していたかどうかは不明である。真相は解明するより伝説のままの方が…というのが三人の一致した意見だった。良い物見せてもらたわ、で良いんじゃない。
この勇気と機転で緑は帰蝶の侍女衆から一目置かれるようになっていったのでる。
“ここ一番の緑”伝説が誕生した瞬間である。
まさか、古畳とドス黒い血痕が真実なの!
ハナが光安とアベックで行った先は、玄関を通りこして、反対側、つまり政務部表の部分だ。二人の眼の前には藤孝がいる。光安は思い切り見下ろしてる。首イテ、このオヤジ。
罪人ネネが能舞台の庭に引きづり出され裁きを受けていると言った。
「改めて面通しを御願したいのじゃが。」
と藤孝は切り出した。視線は光安から絶対的権力者と見積もっているハナに流れる。周囲に誰も居ない。広い御所にしては人が少ないですわね、と思いつつ、ハナは、後廻しにして、喫緊の質問に答える。
「それは昨日終わった筈なのではないですか。」
とハナは凛とした目で同じ視線の藤孝に語った。光安は伏し目で深刻な面もち。
「まこと、磔でいいのじゃな。」
「二言はありません。…明智殿。」
とハナは振り返り光安に批難の目を向けた。なぜわたくしに穢れ役を押し付けるのですかと言いたげだ。
「本音の話じゃ。御世話役に関しては公方が食べたなど、首を刎ねたなど、妙な噂が流れているみたいだが、まこと失踪したのじゃ。ワシらが一番案じていて、捜索も行っているのじゃ。今浜の湖畔で遭遇した折も、敢えて明かすと大津の南蛮館の捜査次いでに足を伸ばしたのじゃ。公方は無実、朝起きたら御世話役が消えていたのじゃ。で、本音で語っていただきたい。」
藤孝は、同じ事を光安だけの時に語ったらしい、そこで光安がハナを連れて来たのだ。もう、それで今罪人として、御所に居るのはネネではなく真帰蝶であると言っているようなものだ。それでもハナは、
「ネネです。六姫様の誘拐犯ネネです。ネネが何を言っているか分かりませんが、信じてはいけません。」
と言いきった。
「ワシは、この話持って行った時、管領様と同行した。御世話役となる斎藤六姫本人と会っておるのじゃ。それは知っておるな。」
ハナは頷いた。
「確かに面変わりした。しかし、いくら体格が変化しようとも瞳は変化しないものじゃ。瞳は、その人の物の考え、見方を投影する。あの目線の動き、あれは斎藤六姫じゃ。姫御殿に入ったのは影姫であろう。それと…、」
藤孝は、能舞台の見所と呼ばれる観客席に二人を連れてきた。その衝立の裏からソと裁きの様子を伺った。舞台に細川真之と言う折烏帽子姿の若い御世話衆が裁きに立ち会い、その前に贅肉の塊かと思うばかりの超肥満体の女人が縄を掛けられている。
「寄進はどこに行ったのだ。改築したのではなかったのか。これが改築したと言えるのか。何処からどう見てもあばら家。我が斎藤家からの寄進を何に使ったのだ。」
女人は我が斎藤家と堂々と言っている。しかも豪華絢爛たる御所をあばら家と評している。ハナは訥々と反論した。
「斎藤家を語ったからと言って斎藤家の姫とは限りますまい。誘拐ができると言う事は都の事情にも通じているということです。寄進の話位聞いていたのかもしれません。その話を元に、御所をあばら家などと貶めるとは。これは御所と斎藤家への冒涜。己の運命を呪い、それを転嫁しているにすぎません。あるいは、ここ数日、いやほぼ一日での暴食による肥満化、乱心状態で無実を勝ちとろうとしているとしか思えません。」
「ワシには、あの女人が言っているのが事実だとすると、松永弾正が二カ月の突貫工事で南蛮宝を集め、黄金をふんだんに使って豪華絢爛たる御所を造り上げる事ができた辻褄が全て合致するのじゃ。これは幻じゃと。山科で輪廻したのはその幻じゃないのか。それを破ったのは斎藤六姫じゃないのか。管領と松永の線は御主たちには関係ないのか、寄進横領じゃないのか。だとすれば、管領家と三好配下の松永による将軍家と斎藤家始め波多野家、赤松家、山名家を袖にした汚職なのじゃぞ。(顔色変らぬな。)磔でいいのじゃな。」
御白州上の帰蝶の証言で、藤孝は松永ラインを再度復活させていた。しかし、三色髪姫失踪案件との交錯点が見出せないでいた。そのキーマンは帰蝶だと確信していた。このまま刑死させていいのか。刑死させなければならないのか。その理由は何なんだ。
ハナは頷いた。ハナに足を踏まれ、光安も御意と呟いた。磔にせよと言っている。
「なぜ、そこまで磔に拘る。それを言ってもらえれば磔を行う。公方様は今浜の湖畔で六姫を一度見ている。そこで惚れてしまっている。“湖畔の君”と称して、どれほど焦がれているか。傍からみて、大丈夫かと思う位じゃ。しかも、その君が次の御世話役と言う。これ程対面を心待ちにした御世話役はいない。そして、今度こそ失踪はさせないと心から誓っている。影なんてのはいずればれる。このままでは、斎藤家の理由で失踪ということなってしまうが、それでも良いか。」
「もう…。(聞き分けの無い童ですこと。)」
ハナは溜息を付いた。だからあれはネネと言いたげであるが、それを制して、
「磔に拘る理由を言ってもらえれば磔を敢行し、なおかつ影を真斎藤六姫として、ワシも近習も扱う。勿論管領様も。さすれば、流石の公方も、納得していくじゃろう。(但し、妖術系の“とりわけ人”破りは恒久にこの世から消え去り、管領と松永が図った大名家の寄進横領、所謂汚職は闇で脈脈と生き続ける事になる。)」
十三代の行く末を憂う藤孝の思いを察する余裕などなく、ハナ、と光安がハナを促した。この者には真実を話してもいいという暗示だ。深呼吸一つ、ハナが口を開いた。相変わらずわたくしに穢れ役を。
「わたくしも明智殿も忠義を大切にするのです。慈よりも忠が大切なのです。忠は、小見の方様。小見の方様は此度ご懐妊されました。占師より姫だと伺っています。理由は定かではありませんが、姫である事が分かると同時に、御実子を勘当したしました。ただの勘当ではなく、この世からの失踪。故に、失踪の噂がある、この話を受けたのです。本人が乗り気になってくれたのは楽でしたが、また噂を耳にして余計乗り気になってくれたのはさらに楽。尤も彼女の性格なら最初から自分で罠に嵌っていくだろうとは察しが付いていましたが。
小見様からの命令は、御実子様のこの世からの失踪。身分をはく奪して、南蛮人の女郎屋に売り飛ばすのもより、首を刎ねるのもよし、その内の後者に当たる故、わたくしは磔を望んだのです。因みに女郎屋の御主人様がなぜ本物そっくりの影姫を造ってよこしたのかは分かりません。なんの偶然か、わたくし達は、それに便乗させて貰った次第。」
罪人ネネを斎藤六姫と認めたようなものだ。光安の額に汗。このままハナだけ罪を被せるわけにはいかない。ハナはわたくし達と言った
「拙者ら武士は、人に仕えるのではない。家に仕えるのだ。命令は命令としてさておき、どう道筋を付けて進んでいくか、それは、どう選べば家臣、領民、正室側室らがいる稲葉山城が上手く行くかを考えて命令を出された将が判断する。三淵家より細川家に養子に入った兵部殿なら分かっていただけるな。」
「それ程生母である小見の方に嫌われていたのか、六姫は。いっそ、不憫じゃの。だが、子は親のまつりごとの御札じゃ。喩え勘当するほどの悪童だとはいえ…、大体子は生母の思い通りならんもんじゃろ。此処の小姓や御部屋衆も餓鬼の頃は皆生母に叱られとったぞ。御札を死に札化してしまったら、腹を痛めて産み乳母や侍女に育てて貰った年月が無駄になるじゃろ。ま、それ程のどうしようもない悪童だったと言う事じゃな。返し札になる位の。(何かあるじゃろ。小見の方とは美濃で会った。一人娘を案じていた。自慢の娘とさえ言っていた。できれば、ずっと手元に置きたいとさえ言っておった。だが、室町から、話のあった御世話役が色髪姫限定であったと聞き、身を切る覚悟でお六を送り出したい。室町とお六の人生の為にと潤んだ瞳で語った。
だが、今それを追求するのは危険じゃ。千の斎藤兵ではなく、小見の方の実家、土岐随分衆たる明智家の兵。土岐随分衆とは、美濃国守護土岐氏の宿老を指す。明智家から見たら、天正七年に守護代家を乗っ取った今の斎藤家など成り上がり者じゃ。今、室町は、その明智兵千に囲まれている上に、和田某共が出払って手薄、さらに管領が汚職に手を染めている事が明らかになりつつある今。)」
管領は、所で、磔になるのが真帰蝶と知っているのだろうか。否である。この時点で真帰蝶は罪人ネネで通しており、一度も管領晴元は実物を見ていない。
帰蝶を御所に入れるなの命を十兵衛に出し、プランBの“山科輪廻”を謎の妖術系の“とりわけ人”に出してまで帰蝶の入洛を避けようとした管領晴元、いざ磔の場面に来て、どう反応するか。
単に失踪を避けようとしただけなのか、悪戯を嫌がったのか、その真実が明らかになる。
侍女頭説を取れば、小見の方は、替りの娘を懐妊したことにより、斎藤利政の血を引き愛する姉娘を死札化しようとしている。御家の為。この場合の家は斎藤家ではない。このまま刑を引き延ばせば明智の謀略らしき物が引き出せるかも知れんのじゃ。しかし、それはこちらも薄氷を踏まなけれならぬ。何処まで聞いて、何処から耳を閉じるか。
哀れなのは、生母に愛されながらも死札化された帰蝶じゃ。武家の娘って…。それとも、あの侍女頭と先手侍大将は、生母に内緒で忖度しているのか。侍女達の侍女頭への畏怖振りからして、その線も捨てきれぬ。明智家の為と言う大義を旗印にして。娘なら、又お生まれになるではありませんかとか言いそうじゃ、あの侍女頭なら。
「管領様が直ぐにお越しになる。そこで磔の刑が下され、三条河原で執行される。依存ないな。」
藤孝は管領を呼びに去っていった。
十兵衛とは何者なのじゃ、斎藤家いや明智家と繋がりがあるのか、侍女頭は否定し、顔色見る限り偽りはないようじゃが。
ハナは瞳孔開き、覚悟したようにしっかり頷いた。
「山城守は真の山城守になるのです。で良いのですね。所であの偽姫は…」
「放りだしたら、祇園に帰るだろ。それより、これから明智家が出世街道に乗る番でござるよ。ハナには感謝致す。今から思えば公方様だったらしいが、湖畔の者との月下氷人になると言った時には驚いたが。」
「”山科輪廻“で不安にかられていたのです。でも、白鳩がやってきた。姫君御懐妊の知らせです。わたくしも腹を決めました。」
一方、姫御殿、帰蝶の蹴鞠の通り道を見て、マツ、緑、侍女達が不可思議がっていた。
「まるで、鞠によって禿げたようでありんすな。」
「化けの皮がはがれたって…。」
「そうよ緑。それそれ。」
「この畳みって、張り子の虎とか。」
「畳だけ?しかも血痕気味悪いしね緑。」
“正しき姿に導き真実を指し示す錫鞠”と言う言葉が皆の思考を支配した。“山科の輪廻”を破り幻の森から皆を目覚めさせたのは錫鞠。
さらに驚くべきことは帰蝶だけは真実が見えていたってことだ。
「姫さんなら、違った御殿に見えているのかもしれんせん。」
そこへ、ひょっこり漆黒の立烏帽子が姿を現した。よお、とか言って六尺を越える堂々とした体躯が豪華絢爛たる御所に映え聳え立った。皓歯が日光に光り輝く。品の良い香がマツの鼻襞を癒した。妾を百合界から引きもどそうとする罪な御方、
「公方様でありんせんか。」
緑達侍女は一列に並び廊下の前で平伏した。その後ろでムラメカス帰蝶も頭を下げる。妾も一応とムラメカス帰蝶の隣のマツ、少し、片膝立ての姿勢から会釈程度に頭を下げる。護衛女官は護衛任務の為、視界をさえぎってしまう平伏姿勢は見せない。
「苦しゅうない楽にせよ。朝立ちだ。待ちきれなくなった。」
侍女達が思い切り引き気味になって道を開けたので、マツが透かさずフォローした。
「朝駆けでありんしょ。公方様は戦言葉、言い間違いとはいえ廓言葉は柄に合いんせん。」
義輝は、ムラメカス帰蝶の前へ行き義輝片膝を付いた。威圧感がある。
「綴り書(履歴書)に蹴鞠と弓矢を嗜むと書いてあった。対面まで時間がある、余と一緒にやらぬか。どちらを選ぶかは姫次第。」
「御意。」
とムラメカス帰蝶はそう答えて上げた頭をもう一度下げた。顔をよくと義輝のトーンが下がる。義輝にとっての“湖畔の君”。十兵衛の店から連れ出したムラメカス帰蝶を“湖畔の君”だと思い込んでいる。故に、その後十兵衛の店を訪問した時、真帰蝶と部屋を共にしたのだが、本人が禍々しく豚化した事もあり、見抜けなかったのだ。
まさか、疑問に思ったでありんすか。琵琶湖の湖畔ではほんの少し目が遭っただけでありんしょ。性格までは確かめる暇は無かった筈でありんす。
じっと目を見る義輝、きょとんとした顔のムラメカス帰蝶。ブロックチェーンでは、どう対応するか、論争が起こっているが結論は出ない。結果マツに委ねる。ムラメカス帰蝶はマツの袖を掴んだ。い、妾に頼られても…弓矢か蹴鞠でありんしょ、第一知ってるでありんすか、弓矢なるもの蹴鞠なるもの。マツは固まった。
「蹴鞠をやってみては…。」
と提案したのは緑だった。真帰蝶さんの錫髪で巻かれた“正しき姿に導き真実を指し示す錫鞠”、今あたし達が見ている、豪華絢爛、豪華絢爛過ぎる御所屋敷の真が分かるかもしれない。本当に張り子の虎なのかしら。
「よしやるか。蹴鞠をやろう。」
義輝がムラメカス帰蝶の手を取りエスコートして立ち上がらせた。
綴り書なるものがあるなんて聞いてやせん。侍女達の様子からしてハナさんだけが知っている事でありんしょ。
いや、もはや其処が問題ではなく、できればその綴り書、現実では無理でありんすが、十兵衛どんと交して欲しかったでありんす。帰蝶様は蹴鞠なんて知っているでありんすか。妾が補佐するしかありんせん。
「あたしは六姫様の蹴鞠の御相手を務めて参りました。あたしも加わります。」
とマツに続いて緑も立ち上がった。侍女の一人からムラメカス帰蝶用の沓を受けた。畳みがはがれた跡は侍女の誰かによって再び白布で覆われている。
義輝が廊下に立つと、沓置き用の石に何処からともなく小姓がやってきて沓を置き、それに足を通した。マツは、荷駄から帰蝶鞠と沓を持ち、廊下にでた。緑も沓を持ち、庭へ。
「赤い翡翠の上に沓を置いて履くなんて贅沢この上ないでありんすな。」
「いや、それ管領に言わせれば珊瑚らしいぞ。南洋の海に潜れば普通に徒党組んでるらしい。だが、命のやりとりを散々行って戦利品にできるのは極僅からしいぜ。」
義輝は戦言葉を交えながら得意気に話している。気さくな御方と皆思い、公方に対する肩の張りは無くなった。だが、今や問題はそこではない。・
「どちらにしでも高嶺の華、沓を置くには勿体ないと言う事でありんす。」
四人が庭に出た。芝生が綺麗に整えられている。足で踏むしめるのが憚られる、気にしたら負けだぞと義輝は言う。芝生を囲む大理石には真珠の首飾りが掛けられ、陽光にキラキラ輝いている。まさにユートピアでの蹴鞠である。
マツが隙を見て、鞠を足でけりあげればいいでありんす、とさり気なく蹴鞠のなんたるかを教授した。だが反応は薄い。ムラメカス帰蝶の視線はずっと錫鞠に注がれている。ひょっとして鞠つうか球体見るのも初めてでありんすか。この丸い物は何であるか、鞠と呼んでいるが、どういう代物なのかと内部で論争が発情いや白熱してるでありんすか。
屋敷側にマツとムラメカス帰蝶、庭側に義輝と緑の正方形を作り蹴鞠開始とまった。
「余から参るぞ。」
と小姓が鞠を浮かせ、義輝が蹴った。遊びの場合はできるだけ相手に蹴りやすい鞠を送るのが基本だが、義輝が緑に送った鞠は大きくそれた。そして、大理石に鞠は当たって、そを手で受けた緑、大理石をみてびっくり。それは馬の骨で真珠の首飾りと思った物はなめくじの群れ。キモっ感じたまま声がでない。緑は驚くと絶句するタイプなのである。
こちらは、真帰蝶がいる能舞台である。いよいよ裁く管領細川晴元のおでましとなった。帰蝶は、殆ど満丸の達磨体型に赤襦袢に黄色帯だけの姿で太い足を投げ出し白州に座っている。その赤襦袢も細身の頃の者で胸がはだけている。そんな醜体を縄で縛っているが脂肪に食い込み見えない程だ。その両脇を槍兵が固めている。
「まさかネネの命を我が手でグリップすることになろうとはな、だが恨むなら斎藤家を恨めよ。ああ、その元になった十兵衛もな。俺は恨むなよプリーズ。」
と呟きながら能舞台に姿を現した。異国人との交流が多いのだろう舶来語を自慢気に使っている。
他国との交渉等フォーマルな場では控えているらしいが、空蝉相手の裁判となれば素出放題である。
だが、そんな晴元の顔に戦慄が走るのに暇はなかった。
「わが斎藤家から寄進が来ている筈だ。その寄進で御所を改築したのではなかったか。豪華絢爛たる御所に生まれ変わったという噂を天下扶桑に流し、来てみれば、あばら家。旧斯波家の廃屋のまま。苔だらけ、黴だらけ、虫食いだらけ、ネズミの巣だらけ。鴨居の遺体から蛆が湧いている、多分盗賊が骨に刺さって命落としたと思うが。」
もう、晴元は帰蝶の前に出てしまっていた。数歩先に縄で縛られた帰蝶がいる。わが斎藤家だと、わが斎藤家とはどういうことだ。
「そなたはネネではないのか。ネネだと斎藤家の侍女頭と先手侍大将が認めている。」
「私は斎藤六姫。将軍御世話役として上洛した。なのに、亀甲縛りで入洛とはまさに鬼の所業なり。ひょっとして波多野、赤松、山名の姫達もこうして罪人扱いし入洛早々首を刎ねたのか。せめて鬼公方、どんな面しているのか今際に姿みせい。」
真帰蝶の声が更に凄みを増し御所に響き渡った。風貌はブタれど帰蝶節が全開になってきた。晴元、後ずさりし衝立に再び隠れてしまった。そして、化粧顔に思い切り極悪な皺を作り控える兵部に見せ付けた。
「これ、兵部、どうして猿轡嵌めさせていない。」
「裁きの場じゃ。罪人とはいえど申し開きの手札は切れるんじゃ。」
細川藤孝和泉上守護家の人、管領晴元は細川宗家である京兆家。傍流、しかも御所内でも地位が下、年少、されど全く動じず、正論を通す。本能寺の変後の都動乱にありながら、決して明智光秀の誘い脅しに屈しなかった後の細川幽斎である。
管領様、松永との関係、後で吐いてもらうぞ。
細川晴元、顔を引き攣るだけで何も言い返せない。
「この三淵んとこの…(餓鬼)」
「さっさと裁くのじゃ。そうすれば猿轡でもなんでも嵌めて三条河原でも三途の河原でも引きたてられるのじゃ。」
と藤孝は手を上げ、藤孝からすれば見あげる程の大きな背中を押しだした。
観念して晴元は真帰蝶の前にでた。その様子を帰蝶の後ろからそっと見守る光安、ハナ、これ程の二人が真剣な表情をみせたことがあったか。
晴元は扇で顔を隠し、扇の骨の間から真帰蝶を見ている。その扇をパとはぎ取った藤孝。
「管領が裁きの場で顔隠してどうすんのじゃ。」
「おう管領、久しぶりじゃない。その堀の深い顔と落ち込んだ頬骨、がっちりして割れた顎、冠から洩れる赤銅色の髪は相変わらずだね。」
「どうして、錫鞠がないのに、そう見えてるの。あばら屋って見えるの。」
管領の勘違いは、錫髪と鞠の相乗効果によって“とりわけ”術破りができると漠然と、楽観的に考えていたことだ。“とりわけ人”は誰だ。
「いや管領様は、のっぺりとした顔で頬はおたふく見たいに膨れてるし、割れるも何も二重あごじゃろ。」
違うのか、帰蝶にはそう管領が見えてるんか。赤銅色、色髪じゃと。管領は管領ではないのか。じゃあ、誰なんじゃ。ワシの前に居るこの腐った肉の塊は。
一方こちらは蹴鞠。
恐らくいや、いや恐らくもなにも、外見だけ真似ただけのムラメカス帰蝶でありんす、蹴鞠の事まで教えてありんせん。
マツは蹴鞠を持って懸に戻って来た緑にウインクして、目線で指示。
緑は大きく左にそれる蹴りを披露。担鰭骨と呼ばれる縁側から庭に出る際の草履置に使っている赤い珊瑚石に鞠はバウンド。侍女が鞠を確保
緑があたしがとムラメカス帰蝶を制し鞠を取りに行く。絶句、珊瑚石ではなく、なんと木乃伊の顎が外れる程の断末魔の絶叫顔がそこにあった。木乃伊は手を顔の両頬に当て、足を抱え込む乳児体型で固まっていた。
これ、帰蝶様いえ、あたしのお姫様の怨念で妖しに変化させているの。それともこれが真実なの。
イヤアアアと丸顔侍女は絶句。緑は白布持ってきてとすかさず指示を出す。畳を隠していた白布で代用し、鞠を持って踵を返し、義輝の顔色を恐る恐る伺った。
義輝は、侍女の悲鳴など耳にはいらない。マツ越しにムラメカス帰蝶に注目していた。
湖畔の君なのか。あの凛とした意志、石をも砕きかねない目力を持った女子。あんな女子はみたことがない。あれ以来、その湖畔の君と何度も逢引しては袖にされる夢を見てきた余。ようやく、十兵衛の店で再会して連れだしたと思ったら、夢の如く擦り抜けていった。そして今目の前にいるというのに。思えば十兵衛の店で我が手に招き入れた時も覇気がなかった。あの時は誘拐、拉致されその恐怖と疲れからくるものと思ったのだが。今も不安、そうか、三家の姫君失踪案件で警戒しているのか。だが、湖畔の君なら、直接問いかけてくるはずだ。疑念が頭やあまつさえ心に渦巻いているのか。三色髪姫失踪案件に対する兵法なら…
「余に問え。」
思わず声に出ていた。巨声に驚いて両手を胸に引いたマツだったが、直ぐに気持ちを再構築する。なんでありんすか、突然。下手過ぎて苛ついてるでありんすか。帰蝶様以下みな蹴鞠の達人と見られたら迷惑でありんす、それともまさか綴り書に侍女以下皆蹴鞠が得意とか書いてあるでありんすか。
「姫様は、蹴鞠の儀は心得ているでありんす。ただ、昼間なのに、前触れなしの公方様の夜這い。皆、受け入れる心と体の備えができんせん。そう言う公方様もモロ外していたでありんしょ。」
「いや蹴鞠の儀、ではなくだな。兵法上の…」
「では妾から上鞠捧げるでありんす。(戦言葉に付き合ってられないでありんす。)」
マツがホイと浮かせ、帰蝶鞠を蹴りあげた。鞠は絶好のポジションで義輝へ、義輝、にやりとするかと思いきや、真剣な表情。
そして、義輝が鞠に蹴り。
「斬り払う。」
マツはやや足が右に向いていると思った時、鋭い弾道ならぬ鞠道がマツの眼の前を通り過ぎた。鞠はムラメカス帰蝶へ。
「斎藤六姫。そなたが我が湖畔の君というなら、余の鞠、華麗に斬り払ってみよ。」
義輝、魂の訴え、我が思いを受け止よ。義輝の恋慕を込めた鞠がムラメカス帰蝶へ。そこまで気持ちを込められては何人も邪魔だてできない。
琵琶湖で一目ぼれした姫様と眼の前の帰蝶様に違和感を感じているでありんすな。帰蝶様も、この先最低半年、公方様の自家薬籠になるなら、六姫様、本物に成りきって給りんせ。
フォローは任しなさい、されと時には突き放す事も必要、マツはムラメカス帰蝶が華麗に蹴りを決める事を祈った。何度か見て理解できたでありんしょ。此処で蹴りを決めれば綴り書通りとなり、違和感は払拭されるでありんしょう。後、妾が一目惚れは自惚れともいい自分の都合の良いように思い出が粉飾されるものでありんすと公方様に吐息しておきんす。
その場で足を振りあげれば、ヒットする位置に鞠が飛んできた。ムラメカス帰蝶、流石にブロックチェーン内で学習していた。見よう見まねながら、沓を鋭く真上に振りあげ、見事に鞠にフィット、そのまま上空に蹴りあげた。足は胸辺りまで上がったが体との空間は適度にある。足腰が柔らかいと思える程度だ。これ以上身体側に足が折れると不自然になってしまう、ムラメカス帰蝶は脚の可動域も把握していた。
「見事な鞠捌き。綴り書に記すだけのことはある。」
鞠の上り方を見て義輝は感心した。だが鞠を見上げているのは義輝だけ。そもそも不思議で妖しな帰蝶鞠である。マツ、緑ら侍女衆、蹴りあげた後のムラメカス帰蝶に注目、注視した。
「屈折を調整できません。」
とムラメカス帰蝶が囁いたような気がした。羽根で光の屈折を調整し、帰蝶に見えるようにしている。それが不可能な状況に陥っているのだ。錫髪は真を見せ、あるべき姿に導く髪、そんな錫髪を巻いた鞠は“正しき姿に導き真実を指し示す錫鞠”そんな鞠を偽帰蝶が叩いたらどうなるか。沓と袴、小袖、紫頭巾だけ浮かびその間に人型を作る蝶が飛んでいる。しかしもうブロックチェーンすら維持できない沓と袴、小袖、紫頭巾は落ち大量の蝶が飛んでいるだけになった。マツも緑も思わずハっと吐息した口を両手で覆っている。
「ちょっと所か、かなりまずいでありんす。入洛式前に御世話役崩壊でありんすよ。別な意味で失踪でありんす。」
藤孝は驚いた。罪人が言う晴元像と藤孝が見る晴元像が余りに違い過ぎるのだ。そして、藤孝は勿論最初から分かっている、罪人ネネとして赤襦袢に亀甲縛りで座している女人は醜い姿を晒しているが真帰蝶なのである。だから、こそハナと光安に何度も面通しをして確かめたのだ。確かめる度に斎藤家への疑問、疑惑は深まって行った。
「紆余曲折、心が折れそうだったけど、理不尽な“可愛いがり”“御戯れ”は美濃でいやという程味わったから、折れなかったよ。そして、念願の御所に入ったわ。しかも罪人としてね。御世話役六姫として入るわけいかないよね。山科輪廻なんて策かけて妨害したんだから。移木之信、武家の娘いや、遠征軍の大将が言霊化した事は最後の一人なっても成し遂げるんだよ、鬼退治。」
帰蝶は斎藤軍に向かって宣言した鬼退治を忘れていなかった。そして、将軍御世話役という姫ではなく、先手侍大将明智光安なんて尸位素餐、自分が大将と自覚していたのだ。
帰蝶の太い腕大きな手が晴元の胸倉を掴んだ。縄は緩んでいる。肥え過ぎて縛りが弱く、グと力を入れただけで結びが緩んでしまったのだ。
槍兵二人は帰蝶が立ちあがった時、醜尻から放った中華二十六皿の激臭をモロに受け魂魄の魂が抜けたかのように気絶していた。遣り方、導きは違えど、御世話役の姫が入洛後、鬼は必ず印象的に現れる、盛り付けを吟味し味を予測するために。根拠なき確信が帰蝶にはあった。帰蝶の錫目は管領細川晴元を捉える。
「あなたが鬼公方じゃなく御所の鬼よね。三家の姫達をどこやったの。まさか亡きものにしたなんて言わないよね。」
生霊の言い分を鵜呑みにしてないが、鎌掛けて確かめようとしているのだ。
晴元は険しい表情で帰蝶の手を解こうとするが、全く力が入らない、眼では藤孝に助けを求めるが、藤孝は管領は管領ではないと確信し、やりとりを見守るだけ。
こんな身近な所に三色髪姫失踪案件の首謀者がおったとは、迂闊じゃったわ。しかし、妖術かけられたら、打つ手なしじゃて、一体こやつは十兵衛とは別の何者なんじゃ。
衝立の裏では光安とハナが隙間から様子を見守っている。
「山科輪廻で妨害。十兵衛に浚わせたり、私の錫髪いや私と錫鞠の化学反応を余程恐れていたのね。初対面で、錫鞠があなたの膝に当たったからね。実は当たる前から、赤銅髪にあなたは見えていたのよ。あなたの私の錫髪と錫鞠の異常なる怖れ。それがひしひしと伝わって来たわ。だから、とにかくまず相手に打たすしかないと思って打たせてみた。そしたら、真の敵も浮かび上がってきた。現公方が鬼なんて人形(身代わり)に決まっているじゃない。あとは自分がどれだけ心を正常に保てるか。そして、この隙を待っていた。後はそれでも、錫鞠を持たない錫髪姫が必要だった事。ムラメカス帰蝶を影錫髪姫と考え“失踪”御札切ろうとしたのは明らか。目的は錫髪なら誰でもいいってこと。誰が居るのこの赤銅髪偽管領の上位に。」
藤孝は驚愕した。偽管領の上に誰かいる、そ奴が首謀者なのか、帰蝶は、そこまで見据えている。まさか、此処で松永弾正、いや三好長慶か。摂津で虎視眈々と失地回復を目指す三好長慶なら、大規模な謀略やりかねん。しかし、細川京兆家の敵じゃろ。つうことは、この偽管領って、誰。
「兵部。管領が三色髪姫失踪案件の犯人よ。百中九九ね。縄をかけろ。縄を掛けて、管領の操り人を吐かせろ。管領の上って誰よ。まさか公方なんてことはないわよね。」
腫れあがった両まぶたから重層に光る眼は、まさに稲葉山で見た、又湖畔でみた帰蝶。思いが入れば右眼は錫眼化する。
「それはない公方様は断じて関係ねえ。第一、この者は管領…」
と言いながら、帰蝶を縛っていた縄を手にとろとした藤孝、眼の前を大きな臭い肉体が遮り、動きも会話も中断してしまった。
斎藤家先手侍大将光安が助太刀に現れたのだ。
「おう蟹。童兵部には流石に無理よ。力も身分も職位でも。代りに管領を取り押さえてやって。縄は私に絡んでいるのを取って使えばよい。」
「御意。」
光安は手にした槍を振りかざした。柄で叩かれる、管領晴元は手で防御の仕草を見せながらも覚悟を決めた。自分を叩けばどうなるかなんて土壇場の脅しを吐く余裕もなし。
「御免。」
光安は叩くのではなく刺した。なんと管領を刺したのか。細川京兆家と戦を始めるつもりか。
「斎藤家は誰のモノか。御館とその子息の為にあるのではない。美濃国衆の為にあるのだ。国衆はかつて土岐氏を祀り上げ今は斎藤家を祀り上げている。斎藤家が美濃を選んだのではない。国衆が土岐氏を見限り国外者である斎藤家を選んだのだ。勘違いしてないか。我が随分衆たる明智家は代々人を見る目を磨き鋭利にして美濃国衆の意を吸い上げながら代表として御館を選んできたのだ。そんな明智家の中でも最も人を見る目に敏な我が妹(御正室小見の方)が伴侶として選んだ者が今の美濃国主となっておる。妹は立場的にも国衆の代表だ。明智家当主の拙者ではない、妹だ。その妹が美濃の明日を考え決断した。
六姫程、忠孝梯に厚い娘はおらぬ。故に人柱になることを分かってくれるだろう。怨霊化して、明智家を呪うなんて、すまい。これが随分衆たる明智家の娘である宿命だ。理解できるよな。国衆の為、美濃の空蝉の為だ。命を以て美濃に潤いを。」
光安、帰蝶を刺す!
「なんじゃ、どういうことじゃ。随分衆ってなんじゃ明智殿。名前は知っててもワシも中身は知らん。」
兵部は狼狽した。
「美濃の公僕とだけ言っておく。ここ十数年、寒冷化が進み、収穫高は年々減ってるのでござる。しかし、年貢は定額。明智の子が一人できたら、同性の子を生贄にするのだ。これが扶桑。しかと目に焼き付けて、今後天下のマツリゴトに生かして下され。」
「ひょっとしてじゃ、他の三家も同じ理由で密かに姫達を葬ってきた。」
帰蝶の手から力が抜けた。だが目だけは死んでいない、錫眼になり荘厳な光を放っている。
「なわけないわよ。蟹将の詭弁に惑わされんじゃないわよ。蟹!そんな話小見様から聞いてないわよ。」
「生母に言わすのか。そんな残酷なこと。」
「どうせ、千の軍勢で囲んでるんだから、兵部に気を遣わないで言っちまいなよ。寒冷化は、美濃だけでなく、あちこち、いや天下扶桑ほぼ全域で起こっている。天下扶桑の飢饉は、執政者の不徳。十二代の早い隠居は、そこに理由があるんじゃないの。しかし、代替わりしても、一向に変化なし。足利の執政には限界有り。
此処で蟹将と狸が切ったのが死に札“山城守は真の山城守になる”」
「知っているのか。誰から聞いた。」
「深芳野経由でマツからよ。蟹と狸に持たすのは死に札は重すぎるわよ。」
「だから、その切り札を持っていたのは小見、妹だって。」
「奪って切ったのが、蟹将と狸よ。三色髪姫失踪案件は、私の出立後半月で、四色髪姫失踪案件になる。私が自害、他殺、事故死、刑死なんでもいい。上洛後、御所又は御所付近で失踪すればそれでいい。
私の失踪を御所の仕業にして、娘を御所に殺害されたと逆上した御館を謀反戦に駆り立てる。恐らく小見様は、狼狽し士気は無いに等しい。
同じ姫失踪家である波多野、赤松、山名を誘って。そして山城守は真の山城守になる。足利将軍家を葬って。」
光安が固まった。ハナは蟹の甲羅に隠れた。反論できない蟹はもとより、ハナも、悪臭燃立つ蟹の背中に顔隠す位だから図星よね。分かりやすいわ。
同じく固まった者がもう一人、藤孝だった。
「何度、面通ししてもネネと言い切る謎、偽帰蝶を産まれ出ずる時から付き添う侍女頭が気付かない理由がようやく解けた。生母小見の方の斎藤帰蝶“死に札”化だと。此度の遠征軍は帰蝶の死地への旅路だったってことじゃ。そして、御所での帰蝶が死を大義に斎藤家が三家を誘って御所に乱入じゃと。この斯波屋敷であった、三好と細川京兆家との小競り合い所じゃねえ。
応仁文明の大乱を今に再現するつもりじゃったか。六姫が言う通り足利将軍家転覆を狙う斎藤家の謀反じゃ。」
藤孝が憎悪に満ち溢れた眼線と指先を光安に向ける。そして、返す流し眼を管領に送る。管領様も聞いたじゃろ。討つべき相手はこの蟹将明智光安じゃ。
帰蝶の豚手による絞首刑から抜けた管領は、咳込んでいる。
「兵部、斎藤家の謀反じゃないわよ。御館や小見様は何も知らない。小見様の御子が娘と出たのは、美濃を発って後なのよ。日記は付けてないけど、頭が記憶してるわよ。その時系列の齟齬が、そもそも斎藤家謀反説が虚構だってことよ。
御館と小見様は、世人と違う錫髪を案じ、しかし、“とりわけ人”であることを発掘し、私を神格化。天変地異の神として生ける道を与えたの。しかし、室町が探す御世話役が色髪姫だったと言う話を“競り”の時聞き、小見様は乗った。小見様の薦めに私も乗ったわ。そして、別れ際言われたの。御世話役として生きる道を歩め、斎藤家から“巣立ち”せよと。稲葉山は、まさに蠱毒。その蠱毒を見て見ぬ振りをするのが、妾の“御育み”。険しい道だったが、お六は見事生き残った。魑魅魍魎行き交う都でも、御世話役として十分幸せになるであろう。お六、妾は、そちを誇りに思うと迄真顔で私の錫眼を見て言われたのよ。私の話に、齟齬があるかしら。
これは明智家の謀反なの。光安やハナが見誤ったのは、小見様は、斎藤利政に嫁入りし、私の肉体のもう半分は斎藤利政でできてるってこと。御館は私が御所で亡くなったからって逆上なんかしない。寧ろ、役目もこなすことなく討ち死にしよってと私に怒るんじゃない。そして、公方に謝罪を込めて、誰か別の姫をよこすなんて言うんじゃないかしら。山城守を授かった室町御所に矢を討ちこむなんてありえない不忠でしょ。不忠は悪なのよ。不忠がまかり通っては、和は壊れ、世は殺伐として滅亡へと転がり落ちる。山城守は、聖上に代わり山城を守り、室町の守護として美濃を守るの。守るべき山城で戦なんてありえないでしょ。その上、将軍家を滅するなんてありえないわ。さあ、兵部どっちを信じるの?」
藤孝は管領に寄り添う。光安は帰蝶を刺したまま、光安の背中にはハナが顔ごと張り付いてる。帰蝶は槍を受けたまま、槍の柄を両手で掴み錫眼で光安を睨む、痛みを訴える様は見えない。藤孝は確信する。厄介な蟹将を討てる機会は此処しかない、槍が帰蝶の体で絡め捕られている今しかないんじゃ。
「管領様、命令して下され。謀反を企てた明智兵庫頭を討てと。管領に見えているうちに。」
光安は無念の皺で顔を埋め尽くし、首を小さく振っている。
「生まれて十二年のお六が知った風な口叩きおって。妹は斎藤家に嫁入りだと。婚姻した時の御館様がどうだったか。守護土岐様の家臣小守護長井長広の家臣で西村勘九郎と言ったのだぞ。随分衆たる明智に婿入りすることで、財力と軍事力を得て、そこから成長したのでござる。嫁入りなわけないわ。御館は、明智の総意を具現化しているに過ぎぬ。明智の総意を指導しているのは、我妹だ。生母だから、娘に心地良いことは言っただろう。気持ちよく“死に札”になって上洛してもらわなければならぬからな。明智は花弁摘みもやっててな、三色髪姫失踪案件も掴んでいた。知らない振りしていただけだ。そもそも、稲葉山に殆ど篭らせ、神託の雨乞いも紫頭巾を付けてやった。錫髪の噂、どうして室町が知っているんだ。それは明智が花弁流しをしたからだ。その時、既に妹は懐妊し、占い師から娘と聞かされた。“競り”の流れは演出に過ぎぬ。深芳野に出来仕合と思われぬ為にな。それでも最後までお六を案じ反対していたのはハナだった。ハナは、下克上かと思う位妹とは衝突したがな。あの鳩は、妹の最後通牒だ。絶対命令を意味するんだ。」
「お六様。ごめんなさい。鳩が来た以上、小見の方様に従うしかないのです。それが身分差なのです。でも、たとえ幾日間でも、小見の方様身分低き侍女頭風情のわたくしの意見を案じてくれて、ありがたかったのです。」
ハナも光安を助太刀した。両者とも辻褄が合ってしまった。
「勿論、妹と御館様は一心同体だ。御館様の名代たる、拙者の槍は、御館様の槍と心得よ。明智家は公僕なり。娘が一人できれば、長姉は”よもぎ摘み”に逝く。安心せよ。お六の生母は、その死に札に付加価値を付けた。それが、“山城守は真の山城守になる。”」
「姪殺めの罪を公方様に擦り付けるつもりか。」
「千の兵がござるよ。御所は、どういう訳か入洛日に拘らず御伽衆や小姓が少ないようだが。」
迂闊じゃ。和田も戻るのはあすじゃろ。本物の管領様は何処じゃ。管領様が居ないと細川軍は動かぬ。明智光安謀反これだけは事実じゃ。今日の内に、ワシも公方様も討ち取るつもりじゃろ。
藤孝は太刀に手をやり、管領の命令を待っている。帰蝶説を取ると、この管領は偽管領だ、だが、ワシの眼には本物にしか見えぬ。他の者もそうじゃろ。ならこの管領の出す命は管領の命じゃ。早く命令を出すんじゃ。
武者震いする藤孝に管領は答えた。
「ジャッジ、斎藤六姫帰蝶は御所反逆の刑で死罪。執行は斎藤家へエンドースする。明智殿、絶命させよ。」
この命令に藤孝飛びあがってしまった。飛びあがっても管領の頭位、光安には遠く及ばない。
「おかしいじゃろ。やっぱ偽管領じゃ。兵庫頭らは帰蝶の死を利用して室町転覆を企てとるんじゃ。」
「騒ぐな、兵部。私に喋らせろ。おい、管領。いいの、このまま私が絶命しても。あなたが当てにしている影錫姫は祇園が十兵衛の調教によって生まれたムラメカス帰蝶。ムラメカスと言っても何の事だと思うから、その真を言うわ。あれはね、蝶の集合体なの。光の屈折で私だと見えているだけ。つまり錫髪を擁していない。」
ディズガイス帰蝶は錫髪すらディスガイスだったのぉ。
今度は管領が飛びあがって驚く番だった。藤孝がその勢いに押されて尻餅を付いている。
この色髪狂め、でも体目的じゃない、明らかに上に誰かいる。それは誰、三色髪姫を何処でどうやって失踪させたのよ。我が身を以って確かめるしかない、ったく邪魔ね、この蟹の一刺し。
「ジャスタモーメン明智殿。:」
管領は咳込みから復帰して利害が一致していた筈の蟹の肩にしがみとめようとしたが、厚い肩の筋肉を掴めない。
「管領様の握力は無さ過ぎるから、拙者の肩は揉めぬ。だが揉まなくても、豚姫貫いてみせるでござるよ。」
当然、待てと言ってる偽管領の意思が全く通じていない。
「ストップなのお、あちゃあ。インセンティブがなくなるのお。」
「何言ってるかよくわかりませんが、管領様も武士なら、二言はないはず。その後、この素首お渡しいたす。心配なきよう。管領様も兵部様、公方様の命は奪いませぬ。
千の兵には弔い合戦など言わず速やかに帰国するようハナから申してくれ。頼む。」
しがみ付くハナの背中が小刻みに震えだした。
「信用できるか。(このまま引くわけないじゃろが。)」
童の記憶だから錯綜して、時期がいつだったか、正確には判然としないものの、事実だけは覚えているわ。小見様は、滅多にないが時折”お育み“と称して山頂まで上がってきた。私の頭髪の異常を見るに見かねて、乳母を責めた。乳母はハナの実母である。責めるは攻めるで、”御戒め“だった。ハナは乳母に蹴りを入れるきゅうり顔の侍女頭に対して体を張って守ろうとしたけど、体格の差はいかんともしょうがなかった。
小見様は、錫髪化は、乳母の私に対する“御折檻”と思い込み、以降その考えを変えることはなかったわ。
錫歯になった時だったっけ。私と小見様にとっては、”お育み“でも、乳母とハナには”御折檻“だったわね。思えば、埋められない溝があったのよ。私だけ見えていなかった。きゅうり顔の侍女頭の膝が鼻柱に命中し、乳母は動かなくなったわ。
小見様は、急病による突然死にして、御館に報告し、しれっとハナを侍女頭にしたわ。あの日を境にして、ハナは、小見様を恨みに思い…じゃなかったのよね。
ハナ、私を報仇雪恨の対象とするなんて。報仇雪恨して、事実を隠蔽できることだけでなく、賞賛される、“山城守は真の山城守になる”作戦にとって将軍御世話役はこれ程好都合な案件はなかった。寧ろ、報仇雪恨の冥い炎を燃やしていたハナにとて、この案件、小見様が飛びついたことは渡りに船だった。仇を討てるだけでなく、千の兵で隠蔽し、そう全て鬼将軍の仕業にするの。明智も出世し御館と小見様を出世させ、自身は労って貰えるとでも思ったのかしら。違うわよね。
「担当姫を守れぬ。それでも侍女頭か。」
「七姫様がいらっしゃるではありませんか。」
「六姫様の替りならぬ。」
「私は、立派に我母上の替りをいたしました。」
加えてこう言うだろうか。
「罰したければ、どうぞ罰して下さい。斎藤幕府を喜ぶ京衆達がどう思われるでしょうか。」
まさか…。山城守は、そのまま山城守に留まり、明智幕府になる?でなきゃ光安が協力している理由がない。なんか、やたら自尊心の高い随分衆だものね、知らないけど。
蹴鞠の懸はどうなったか。マツは遂に観念した。ムラメカス帰蝶はブロックチェーンネすら構築できなくなり、蝶の群れになった。
“人形”御札上手く切れましたでしょうか、とムラメカス帰蝶の品良い声がマツに届いた。意志を前面に押し出し圧のある真帰蝶とは対照的で惑いを含む囁くような声。
立派な手札でありんした。姫様が控え目な撫子だったなら、対極のもしもを堪能できたでありんす。
「もう、鞠はいいから公方様、姫さんを見るでありんす。」
マツの声で義輝、ムラメカス帰蝶にその熱い視線を移した。
「なんと蝶に帰ったか。故に帰蝶とはよく出来た話。湖畔の君は蝶の化身だったか。余は蝶に恋慕していたのか、わが恋慕は露と消え落ち、空へ発するかな。
♫“春思い 焦がれる花は 蜜の味 逢瀬の通い路 夢露と消ゆ”
蝶は結局、花の蜜しか興味がなかったってことだよ。」
錫鞠は落ちてきて義輝の大きな掌に収まった。
錫鞠に目を落とす義輝の二重瞼の大きな瞳が哀しみに憂いている。あの瞳を哀しい色で染めてしまうのは、世の女子達の不始末、怠惰、罪、断じてありんせん。
妾が一時、百合を封印してもいいでありんすが、その役目の適任は他においででありんす。天馬行空なんて謳歌している場合じゃありんせん。
マツは一歩、義輝に近寄った、六尺のマツよりも高上背、憧れの深芳野を思い出したが、直ぐ振り切った。
「公方様、帰蝶様は蝶になど返ってありんせん。これは六姫様の本名を題材したほんの余興でありんす。そして、この鞠はき…いえ貴名を連呼するのは卑名を流布する妾には憚られんす。この鞠は斎藤六姫様の髪、錫髪を使って作られたもの、妖しを被せる鞠ではなく、真を見せる鞠と言ってよろしんせ。」
マツは陣羽織の袖を振り大きく手差し、指した先は御所の様相。偽りのオブジェを義輝に注視させた。ギョとする義輝。細川vs三好の足利将軍家という神輿の担ぎ手争いの跡である。それを偽りの皮で覆い被せたのである。実はマツはこの御所に入ってから薄いながらも男の香を感じ取っていた、しかも四十位の初老、遊郭にいて男の体臭に敏感だったマツだからこそであった。それは屍の死臭ともまた違っていた。第一木乃伊は乾燥しており生物臭は消えていた。それは山科輪廻でも香っていた。十兵衛が仕掛けた幻嫗では漂っていなかった。
「仕掛けたのは“とりわけ人”、これは汗を表面に塗り、その汗に幻を投影する空薫術でありんす。つまり御所は改築されておらず、空薫術を施した汗を塗っただけ、その誠、戦の後、あばら家になった旧斯波邸のままでありんす。」
義輝の二重瞼の瞳がさらに大きく見開かれた。そして、顔からオーラが溢れた。
「ほう、流石管領様、こんな隠し味を庭に嗜好しておったか。見事、見事。」
となんとマツから見ると心外にも義輝は趣深いと言った態度を見せたのだ。
育ちが違うと、常識も違うでありんすな。とマツの調子が狂う。
「錫鞠が輝いて…。」
と緑が言いかけると、丸顔、四角顔、白菜顔の順に
「こんなに綺麗な錫鞠久しぶり。」
「六姫様が使う時はいつも。」
「実は近くにいるのでは、ね緑。」
侍女達が口ぐちに帰蝶、近接説を唱えた。管領邸で片付けていた時にはこんなに輝いていなかったというのである。侍女達はお化け屋敷染みた真の御所より、真帰蝶を追い求めていた。偽物は所詮、偽物、それでも真帰蝶の意向と理解して、偽物で満たそうとしたが、偽物が居なくなった今、侍女達の関心は真帰蝶の事。その真帰蝶と連動している、錫鞠が化学反応を起こしている。
我が人生、最大の悔恨を悟った、真帰蝶の“巣立ち”しかし、今、あの六姫様は近くに居るのでは…、期待しすぎては裏切られると思いながらも緑は期待してしまう。
「斎藤家から“巣立ち”天馬行空の為、出奔したと言いながら…。やはり御世話役に…。」
「移木の信である鬼公方退治だけはやりたいと御所の外からいや、もう中へ忍び何処か潜んでいるでありんすか。」
「違う。どんな事情があって、ムラメカス帰蝶を御立になったのかも分かりませんが、本心は将軍御世話役をやりたかったのです。公方様がお手を触れになったことで、六姫様と連動している錫髪が反応したのではないでしょうか。」
緑が両拳を握り、自己主張した。これだけは言いたい、たまの緑の自己主張である。六姫はきっと別の手段で入洛されている。それは鬼公方退治なんて冥い理由じゃない、将軍御世話役と言う夢もあり華がある話じゃなきゃだめなの。
乙女話とは一線を画した義輝は、鞠がある方向に向いて輝いていることに気が付いた。逆方向は暗く、一定方向に向いている面のみ地球の昼のように輝いている。
その方向はマツと義輝の背後。
「あっちってどんな廓がありんすか。」
「色々あるぞ。…。」
「何がありんすか。(相手が公方様とはいえ苛ってと来たでありんす。)」
「全部だ。いやあっちいけば、ぐるっと回って此処に戻ってくるからの。丁度鞠の表面を敵に見つからないよう這うが如く。」
どこかずれているでありんすな。しかし、外を指していないと言う事は御所内でありんすか。入ろうと思えば高さ十尺の塀を飛び越えてでもでありんすが。姫さん、跳躍力、這上力、つまりは指力ありんしたか。
「さあ、蹴鞠再会といくか。侍女から一人入れば又四人揃う。」
流石のマツも前のめりになり、緑ら侍女達も足を滑らせている。
「この場に及んでもまだ蹴鞠でありんすか。公方様と呼ばれる御仁の思考は理解できんせん。」
しかも、背筋を伸ばし堂々として一点の曇りもない、まるで全幅の信頼を置けと言わんばかりに。眼力を込めた先はマツだった。
「通じているのだろ。この鞠は姫と。斎藤六姫帰蝶と。わが湖畔の君と。」
「御意、侍女たる緑が申した故、確かでありんす。」
色眼は違反でありんす、百合を剥がさないで給りんせ。
「鞠よ。余を鞠主の本陣へ連れて行け。なんか行きたくてうずうずしているようでな。:」
「姫さんが逢引してるでありんすか。それが公方様に分かりんす、なんて艶話、乙女語り。」
「いや余が逢いたくてうずうずしているだけなんだか。兎に角早く干戈を交えたい。」
干戈って喩えが艶じゃありんせん、この公方乗り、慣れるのに暫くかかりんせ。
義輝は、反転し、自ら鞠を浮かせ、渾身の蹴りで帰蝶鞠を蹴りあげた。約十度、輝き方向に蹴りあげた。鞠は、そのまま滞空し、何かに向かってドローンの様に進み始めた。帰蝶がいるのか。
義輝は追う。マツも追う。
「緑はムラメカス帰蝶御願いでありんす。」
「もういませんよ。店に帰ったのでしょう。あたしも行くに決まってるじゃないですか。」
誰と思わず振り返る気丈な受け答え。まるで緑の全身全霊前向きスイッチが入ったかのよう。
六姫様に逢いたい気持ちは誰にも負けませんよ。
木々が茂り、建物が張りだしたり、離れ堂を渡る橋を潜り抜けたりしながら、飛ぶ鞠を追う。
「緑は鞠見て、妾が先導するでありんす。屈んでまた橋でありんす。」
「そろそろ能舞台だな。」
「能舞台がありんすか。」
「斯波邸時代からあったのだよ。それを色直しした。だけど能はやったことない。興味ねえしハハ。やることとすれば裁きだ。あそういえば今日裁きがあったな。」
「真っさか。入洛の日と重ねるでありんすか。まさかのまさかいきなり御世話役を裁くとか」
「関係なくはないのだよ。だってさ、御世話役誘拐犯ネネの裁きだものさ。」
「ネネがでありんすか。」
「ネネさんが…。(そんな話がハナさんや明智殿との間で進んでたのですね。)」
そこへ当人ネネ登場。丁度十兵衛の店から今着いたのである。
「相変わらずこの堀越え、十尺塀飛び越えんの往生するわ。」
眼の前に現れるものだから、ずずと足を擦って止まったマツ、勢い抱きしめる。
「おうマツ。愛しの君と御所内で再会したのか。御所もいろんな輩が出没しているからな。」
「いやありんせん、そこは戦喩えで。ネネが百合ったらどうするでありんすか、妾は気がありんせんに。それはいい、ネネ、裁かれたでありんすか。」
とマツは、空かさずネネを我が体から引き離す。長い両手で勢いよく押し出されたものだから、ネネ目を廻している。
「いやその裁きを見に来たんや。…。うちがうちの裁き見に来たんや。つまりうちの身代わりでええええって、今走っていくの公方様やんな。」
「そうでありんす。錫鞠追っているでありんす。もうムラメカス帰蝶はばれたでありんす。その裁かれているのって誰でありんすか。」
「我らが姫様。元斎藤家の六姫様や。」
マツ、ネネの手を引っ張って急ぐ。
「どうして代りに裁かれているのか知りんせん。ただ、姫さんの本位ではないことは確かでありんす。」:
「なんでや。うちの身代わりになってくれたんや。申し訳のうて見届けにきたんや。」
「姫身分の御方が、どこの馬か鹿か分からん者の身代わりになんかなりんせん。」
「姫身分自ら捨てたんやって。」
「ちょっと自暴自棄になっただけでありんす。生まれながらの姫身分、簡単に捨てられる者じゃありんせん。妾なら石にかじりつくでありんす。」
マツはワと大きな黒い背中にぶつかった。ぶつかったマツが痛い程の固い背中。義輝が下を向いている。マツは上を見た。鞠はない。え、それが鞠でありんすか。義輝の横から覗きこんだ。それは赤襦袢を着たぶくぶく肥えた人だった。しかもお縄つき。・
「あ、姫さんや。一層肥えたけど姫さんに違いないわ・」
地面突っ伏して倒れ居る肥満の女人をネネは帰蝶だと言い放った。
「いや違うぞ。錫髪じゃなく、これは煤髪じゃないか。湖畔の君の髪は煤けて、ぶよぶよ百貫デブではない。前に十兵衛の店で戦言上だけした者を一回りも三廻りも巨人化した輩だ。」
マツと緑は絶句した。変わり果てている。だが、雰囲気からして帰蝶に見えなくもない。いや見えてきた。でもなぜこんな地面に放置されてるでありんすか。しかも生気がない。
光安の槍に散々貫かれ、捌かれ、遂に絶命し討ち棄てられたのだろう。そして、怒りに震えた管領と藤孝により、今、光安が足利将軍家転覆の罪で裁かれている。管領の制止を無視して将軍御世話役を成敗した罪も付けられているかもしれない。
「もう裁きすんで、切腹になったとか、ちゃうの。嘘やろ、簡単な注意で帰れるって十兵衛はん言うてたやん。話ちゃうで。」
ネネがワと顔を覆った。緑も両手で口を覆い、マツの肩に額を当てた。
この醜体が六姫様。なんてことなの。別れても生きていてさえすれば、この半年の間に又、都の何処かで…って思って自分を慰めていたのに。それが断ち切られて…。
目の奥から湧いて出てくる何かをもう抑えきれない。マツの右の籠手が緑の頭を撫でた。そのマツは怒りで歯が噛み合わないがやっと言葉を吐きだした。吐きださないとハラワタに穴が空きそうだ。・
「どうしても、どうあがいても御世話役の失踪からは逃れらないのでありんすか。やっぱこの御所には鬼がいるでありんす。三色髪姫失踪案件は今四色髪姫失踪案件になったでありんす。何の恨みがあって、全国の色髪姫を将軍の地位を利用して集め惨殺するでありんすか。その上、こんな醜い死肉の塊にして放置して、このまま犬にでも食わすつもりでありんすか。あなたここの主じゃありんせんか。」
マツは義輝の左腕を引っ張り、向き直させた。
「いや違うだろ。余の瞳に焼印している湖畔の君じゃない。御飯食い過ぎで腸が裂けて亡くなったとしか思えぬ下賤だ。」
この言葉を信じるなら、公方様は鬼公方じゃない。最前で妾と一緒いたから、公方様の手で葬られたわけではないと思うでありんすが。
「そう思い込みたいのは分かるけど、一番直近まで一緒にいたネネが証明しているでありんす。大体にして裁かれる筈のネネが此処にいてピンピンしているでありんす。代りに裁かれたのは誰かということでありんす。」
「嘘やろ、冗談や、いつもの“お戯れ”や言うて起きてきてえな姫様。十兵衛はんが死罪にしたようなもんやで。」
ネネは両膝を付き、感情が溢れだした。瞳はどしゃぶりの大嵐となった。
公方だけが、顎に手をやり難しい顔で、“帰蝶の遺骸”を見つめている。
「食い過ぎで命落とした下賤ってさっき言ったが、新種の生物じゃねえか。だって、この骸、血が出てねえぞ。」
“え”新種の生物か、なんかどうでもいい。帰蝶でなければよい。マツも緑もネネも我に帰って“帰蝶の遺骸”を観察した。脂肪肉が醜く地面に横たえているだけで、透明の脂肪液は滲み出しているが、出血の跡がない。
「肉の着ぐるみでありんすか。」
「そんなん知らんで。」
一瞬間が開いた後、能舞台の客席方向から、強気な少女の声がした。:
「助けにきたんなら助けてよ。そこの見た顔の者達。錫鞠だけよこして知らん顔はないでしょ。鞠一個でどれだけ隠せるって思っているのよ。
この声は…、マツも緑もネネも、ほんの少し逢えなかっただけなのに懐かしい。今一番聞きたかったムラメカス帰蝶と音色は同じだけど声圧が凛とした真帰蝶、斎藤六姫の声だ。 真っ先に反応したのは、帰蝶を湖畔の君として慕う義輝である。
「観音様あああ。」
と両手を上げ近寄ろうとしている。義輝の行く先には、舞台の下、白州と御所本殿に繋がる見所の間に十間程の庭がある。庭には、牛が寝転がった様な大きな石があり、その上に、素っ裸に股間を錫鞠で隠し右手で両胸を隠した女人が立って、義輝を睨みつけていた。
「六姫様。」
マツ、ネネ、緑が一斉に思わず発していた。緑だけは輪唱のように一節ずれていたが。
「鞠がないうちはどうしてたんだ。」
「まず声をかけるのがそれでありんすか。艶話、乙女語りにするには、そなたが湖畔の君かでありんす。」
とマツが手を叩いて受けている。
「いや、その次語ろうとしたんだが、マツに一番槍付けられてしまったのだよ。」
「見るのは私じゃないでしょ。ここは能舞台なんだから。舞台をみてよ。」
マツと緑とネネは舞台に視線を移すと、自ずから人の気配に引き攣られ橋渡しに視線は向かう。一ノ松の背後、橋渡しの柱に矢で折烏帽子を射られ釘付けになっている者がいる。矢が烏帽子事髷を射られ動けないのだ。矢を向けられ、後ずさりで逃げようとしたのか正面に向いて射られている。銀の狩衣、折烏帽子姿であり身分長けき者であろう。
「ちょっと公方でいいのかしらね、こんな悲劇的な再会ってあんの。身分偽って十兵衛の店に来てたけど、あなたが誠の公方なら、私が錫矢で射った相手確認してよ。こっちばかり見てないで。この者は管領細川晴元らしいわよ。本当なの。」
なんと、帰蝶はプリンセスロンダリングされた先の十兵衛の店の初陣客を義輝と認識していた。遊郭は源氏名を称して生きる常世なので身分を明かさなかったのだ。
「何を言うこんな劇的な再会あろうか。待ち望んだ果たし合い。間合いを詰める時に視線を外すのは剣の邪道。一寸たりとも離さぬぞ。そして、今すぐ干戈を交えたいのだよ。」
と公方、両手で差し出し帰蝶に近づき始めた。
逢いたい思いが募った分、一瞬たりとも視線を外したくない、そして今すぐ抱きしめたいと言う思いを戦喩えで表現したのだが、帰蝶に通じたかどうか。
もう、干戈など交えるって、いきなり御世話役初日の昼から閨所望かよ。
「この色鬼公方。寄るな。来るな。」
帰蝶が悲鳴を上げマツに助けを頼んでいる。
「公方様、そんな物言いじゃ、艶話、乙女語りになりんせん。」
マツは義輝の狩衣を引っ張り止めようとしているが敵う相手ではない。ずるずる力で引きづられてく。
そもそもどういうシチュエーションか。光安に刺されたのではないのか。少し時間は遡る。
帰蝶の顔が歪む。管領の顔も絶望で歪む。光安の顔も歪む、なぜか、それは出血しないからだ。つまり脂肪部分を刺しているだけで、血が通う筋肉部分に全く到達しないのだ。
「蟹が無知蒙昧なのは、自分の挟みでなんでも斬れるって思いこんでいることよ。つまり力を計れない。相応を知らないってこと。特に得体のしれない初物の敵に対してはね。可愛いハトコを前にすれば盲目って、それとも可愛くない姪に蟹扱いされるの、そんなに嫌だった。」
「ガ。」
と叫ぶ戦声が全く響かない。光安の顔の直ぐ下に帰蝶の顔、槍はほぼ沈んでいる、なのに帰蝶は平然とした顔。
「明智幕府なんて、させないわよ。蟹は川に帰んな。」
帰蝶の太く短い足に蹴られ、その脂肪の弾力に光安は駿足後退、更に朱柱に後頭部を当て、そのまま気絶してしまった。
「あぶね。上の方腐っているから、折れるかと思ったじゃない。斯波家に感謝だわ。太めの柱にしてくれて。」
藤孝や危険察知して蟹の背中から離れたハナには朱柱にしか見えない。
「そろそろ脱ごうかしらね。熱く語ったら暑くなってきたし。」
と帰蝶が気合を入れると煤髪が、光沢を発し、錫髪に変化した。人はショックを受けると一瞬にして白髪に変わると言う。帰蝶は気合を入れると一種にして煤髪を荘厳漂う錫髪に変化さす。
そして胸に刺さった槍を両手に握り力を込めて下ろす。ゴワゴワ、ゴムを裂くような音がして、脂肪が裂けて行く、さらに襦袢の帯も斬る。
そして、襦袢ごと脂肪の服を脱ぎ捨てた。帰蝶再生である、錫髪ショート、ふんわり、まんま産まれたままの姿である。
そして、脂肪の中で自らの血を使い密かに作っていた錫鉄合金弓を手に取った。弦の部分は血管のように収縮する。矢は総錫造りの破魔矢。
帰蝶、キューピットになる。
「覚悟なさい。空薫術“とりわけ人”管領晴元。山科輪廻、幻豪華御所の騙し手。そして、偽りは自分自身もまた。焼きが廻った所で、化けの皮削いだげるわ。って兵部なに顔真っ赤にして視線を下ろそうか下ろそまいか迷っているのよ。って、下ろしたら、この矢兵部に向けるからね。」
「うそじゃろ。(管領は管領じゃない。空薫術“とりわけ人”じゃと。一体誰なのじゃ。誰に見えているのじゃ。それ以前に流れ矢は御免じゃ。)」
藤孝は尻尾を巻いて衝立の向う左側の鏡の間に向かって逃げ出した。晴元は矢が自分に向けられていると分かり、パニックになり素の口調になっている。・
「おい、俺はあの蟹武者止めようとしただろうが。」
「遅い。一度でも私に殺意を向けた者は許さない。以前に全く止めてないだろうが。」
小太り体型にも拘わらず機敏にもバック転。だが、一回転した所で折烏帽子毎矢に射ぬかれてしまった。だが、帰蝶の威厳と反撃も此処まで。
帰蝶は或る現実に気付き弓をその場に棄ててしまった。何も身に付けてない脂肪と一緒に赤襦袢も脱ぎ捨ててしまった。恥ずいよ、と胸と前を覆った。後ろ誰もいないよね高塀だもんね。
「ちょっと隠すものおおお。」
脂肪と襦袢は遠くへ脱ぎ捨ててしまった。そこへ鞠が飛んできて、あからひく者は鞠でも掴む。錫鞠を右手に取り大事なホトを隠した所に義輝、マツ、緑が現れたのだ。
こういう時の緑の動きは素早い赤襦袢を脂肪きぐるみからはぎ取り、帰蝶に羽織らせた。緑は袂から予備の黄色帯を取りだし素早く帰蝶の腰に廻し蝶結びで応急した。
「何よ、その面白くないって顔は。裸じゃなかったら、近付かないんかい。それどころか顔逸らすってなによ。」
義輝の足取りは止まっていた。
「いや、そなたを味方と信じ左を見たのだよ。」
義輝はようやく帰蝶の示した方向に視線を移していた、偽管領が矢に射られた場所だ。
「そうなの、とりあえず烏帽子ごと髷討って留め解いたから。勿論私の体内で創った錫矢だから真実を示す矢、その者の正体が露になったんだから、誰か吟味して…って。」
矢は確かに折烏帽子を射ていた。しかし、折烏帽子だけ、さらに言えば白州の上に銀の狩衣が横たわっていた。義輝は狂言役者のように、両手を上げ、足を交互に上げ、目をむき大口を開け大袈裟に驚いた。
「管領が消えたあああ。斎藤の六姫は、体を透明にさす術を持っているのか、まさに斎藤家の姫は妖しの姫。美濃や妖しの里なのか。」
これだけ間を開けたら、当然逃げるわよね。私も未だ甘いわよね。
「あのね、妖しの都の公方に妖しの里の妖しの姫って言われたくないんだけど。」
「鏡の間に逃げられたでありんすか。」
マツが階段を上り舞台に上がりかけた。
「マツ、待つのよ。」
帰蝶が声を掛けるも、
「聞き飽いて耳垢が付いた洒落でありんすが、久しぶりの再会でありんす故、赦しんす。」
と舞台に上がってしまったが、綺麗過ぎる位磨かれた板の間に滑って転んでしまった。しかし、尻もちを付くのではなく前のめりになり手を付いてしまった。
帰蝶は、錫鞠を緑に預けると、白州に落ちていた弓を素足でけり上げ右手で受け止めた。まるで弓取り式の力士が弓を落とした時に拾い上げるかの如くである。
緑は帰蝶から錫鞠を受け取り、感激にムセイでいる。
また、六姫様から香とともに錫鞠を受け取れるなんて。帰蝶は気にせず先に進んでいる。
「“妖言は続かないわよ。皆に真を明かしなさい。”」
帰蝶は弓をサイドから舞台に向けて投げた。すると、きらきら光り綺麗過ぎる舞台から、人骨が累々とひしめく殺伐とした戦場跡と化した。流石のマツも目が飛び出る程驚いて、白州に飛び逃げた。細川VS三好の市街戦の戦死者達だ。
「埋葬する費用惜しさに壊れた舞台跡を骨壷に見立てて骸掘り込んで空薫術で蓋したのね。誰かしら。私は数カ月前、御所改築の普請をやった者が怪しいとみてるけどね。それはだあれ。」
「松永弾正はんや。」
「松永弾正じゃろ。摂津に調べの手を入れが公方命にも拘わらず会わないと言ってきた。おそらく不在か疾しい処があるからなのじゃろう。」
此処に来て、三好家再びの襲来、しかも波濤の如くって。
帰蝶とネネ、藤孝の意見が一致した。偽管領は松永弾正久秀である。“とりわけ人”たる松永は空薫術で管領本物そっくりに化け管領を演じていたのだ。美濃で帰蝶に逢い、錫鞠を膝に当て動揺したのは、錫鞠に自分の空薫術を破る力あると悟ったためであろう。その為、色髪姫は必要だが、錫鞠で自分の術を破られ、豪華絢爛たる御所は幻とばれる事を避けるため、空薫術“山科輪廻”や十兵衛に依頼して御所入りを阻もうとしたのだ。偽帰蝶を喜んだのは、錫鞠を持っていないこと、それと、やはり錫髪姫が必要だったと言う事である。
松永、管領晴元寄進金横領の共謀説は消え松永単独犯に落ち着いた。帰蝶の蹴りで負傷した光安とハナは何処かに消えうせた。帰蝶への報仇雪恨の付加価値たる明智家の謀略、帰蝶の“死に札化”偽りの大義で、“山城守は真の山城守になる”or“山城守は山城守のままで、明智幕府になる”将軍家転覆作戦も失敗に終わった。御館様の命も救ったんだからね、感謝しなさい。
残ったのは全く別件で最大の懸念、三色髪姫失踪案件。何故松永弾正は色髪姫に拘り、拉致し続けたのか。そして何処にやったのか。又は殺害したのか。
「私の処刑を止めようとした所を見ると、何処かに売っているのよ。少なくとも御所で色髪姫に異常な支配欲を示し猟奇的に殺害したって言う線はなくなったわ。三家の色髪姫に加えて更に私が必要。松永は単に使い魔、彼奴の上に誰が居るのかしらね。」
ネネと藤孝は首を傾げるしかない。緑は帰蝶のおどろおどろしい漢語表現の連なりにあぜんとして口に左手を当てていた。
「管領の上つうと余しかあるまい。」
話、半分も聞いてねええ、マツは声は出さないが手を叩いて喜んでいる。
「てことはやっぱあなた鬼公方なの。折角、鬼公方伝説消して差しあげたって言うのに。管領は偽で術士松永が化けていたって話した所じゃない。艶や戦が付かないと話に興味示さないってどうかと思うわ。(錫鞠が頼りになると言っても、相手は空薫術とりわけ人厄介よね。)」
帰蝶節全開である、赤襦袢恰好がいっそ恰好良く見える。
「管領の上じゃなく、松永の上つうと、三好長慶でありんしょ。眠り琵琶の魔力魅入られた四姫様も三好の謀略にかかってたでありんす。」
「ちょーけー?あいつ結構間抜けだぞおお。」
義輝が、眉を複雑に顰め、それはないだろうと手でいやいやをしている。ちょーけーだぞ、ちょーけー。
「いつまでちょけてるの公方、柄でかくても餓鬼なんだから。兎に角松永確保よ。髪は赤銅色で四十代、二重で眠そうな顔にがっしりした顎。身の丈六尺はないわね。五尺八寸程度。目立つ筈よ。遠くに行ってないわ。探しなさい。」
天下の公方と兵部の藤孝に号令を発している。赤襦袢が、狩衣より高級品に見えてしまう。
「小者に堀水抜いて調べさせた所、この御所に抜け穴はないんじゃ。御所内の何処かに隠れている。将軍御伽衆皆であえええ。」
藤孝は極自然に帰蝶に乗せられ、やる気満々で左手鏡部屋方面に駆けて行った。
一方公方義輝は、まるで帰蝶の号令など耳に届かなかったかのように、背中を丸め、無数の骸骨を眺めながら、階段を上っていく。
「能は世情無情の芸と言われるが成程その通り。我々現代人は、先人達の屍の上に生きているのだ。そしてその屍を越えていかなければこの世を治めることはできぬ。このような舞台を創ってくれた事を感謝する。二人とりわけ人(帰蝶と松永久秀)の合作に謝意を示す。」
天下人って世間からずれてるでありんすな、とマツは考えながら、帰蝶の顔色をうかがった。帰蝶の頬の赤みは消え冷静になっていた。
「二人の合作って。松永と組んだつもりは全くないんだけどぉ。(聞いてないのね、まいいわ。)あなた、天下に生き、御所で年長の管領や大御所相手している割には儒学に染まってないわね。先人の骨を踏みしめるなんて怖れ覆い、これは不孝不忠不梯に当たるって言わないのね。見所あるわね。」
と言いながら、帰蝶も階段を上り、義輝の隣に立ち、舞台の骨を踏みしめた。
「そうか余に惚れているか。」
え、見所ある。湖畔の君と慕われておいでなのは知ってる筈、今お受けしたでありんすか。マツと緑は顔を見合わせた。
「いや見所あるってのは、見識あるって事よ。多角的に見れる、施政者向きって事。若い内に継いだせいかしら。それとも何、御世話役中、公方との会話は常に逢引調で流れ、褒めたら、即閨受け入れになるの。それならそれって予め…。」
流石の帰蝶も赤面した。しかも、私、赤襦袢一枚って何よ、落花流水になるかって場面でこの格好ってさ。
「最悪じゃない。」
と帰蝶は顔を隠した。そんな顔を隠す帰蝶を義輝がいきなりガバっと抱きしめた。
「ちょっと今、私超が付く程薄着なのよ。しかもいくらなんでも骸骨舞台の上、しかもマツや緑も居るし昼間だし、その気にもどんな気にもならないわよ。」
だが、義輝の抱きしめる力はますます強くなる。その時、
「公方様、ちょっとは自分の御立場を考えておくんなんし。」
と言うマツの怒号がして、帰蝶の手を引っ張る力。帰蝶は義輝から引きはがされ、マツの懐へ。それは一見、帰蝶の失言告白に乗っかった義輝の性急な性動を注意したかに見えた。だが、義輝の背後の足元にそれは居た。烏が一匹骸骨の上で呻いていたのだ。烏の体には一本の矢が刺さっていた。その烏は痙攣して果てた。毒矢だったのだろう。鏡部屋から、一人の能役者が現れた。義輝は、狼藉能役者の弓攻撃から帰蝶を守ったのだ。
「私を守ってくれたの公方。」
「ったりめえだ。湖畔の君、そして余を惚れたと言ってくれた女子を護るのが余の指名。」
「いや私、惚れたなんて一言も言ってないし。(以前の私なら助けられた事を悔しがったかもしれないわ。)」
「申し訳ありんせん。護衛女官である妾の失態、どうか許して給りんせ。」
とマツは、帰蝶を後ろに隠し、背中の太刀を抜いた。狼藉能役者の殺気と矢の尖端に気付いたマツが、とりわけ術“一見さん、たをやかに妾の僕になりんす。”
を使って舞台の屋根に止まっていた烏の脳を捉え、矢の餌食としたのである。烏は可哀想だが、天下人の命と主君帰蝶の名誉に換えられない。
公方様、ちょっと…の発言は、マツ秘術を他者に知られたくないための楯である。
廊下も骸骨累々、液体錫に熔けた帰蝶の弓は廊下も術を溶かし真実を現していた。
「この舞台芸能の製作者、斎藤六姫の相方が現れたか。」
と義輝も太刀を抜いた。
「私は相方になった記憶もないし、なりたくもないけどね。」
と言う帰蝶の言葉がマツの背中に響く。緑が帰蝶に寄り添っている。
「そなたが、松永弾正でありんすか。」
金銀の能衣装に赤髪、夜叉の面を付けた能役者、二の矢を弓に携え、一歩二歩とゆっくり進んできた。ちょっと見せてと危ないからを拒否するマツの腕の下から覗きみた。
「今、松永が揺れているとしたら、私を拉致って、仮に元締めと言っとくけど、元締めに売りに言って報酬を得る事。だけど、今私は公方や藤孝と一緒に居る。つまり、私を拉致する前に寄進金横領の罪に問われるって事。どちらを優先するかで悩んだ末、公方ごと私達を葬る方を選んだって事なの。」
ハナと光安は何処。千の兵は、私と蟹将どちらに付くかしら。半分以上は、新兵だけど明智以外の家出身だものね。
マツが義輝の前に出ようとする。
「天下の公方様の後ろに妾が控えているわけいきんせん。」
だが、マツよりも上背があり、がっしりした肩幅が邪魔で前に出られない。義輝がマツや帰蝶を護っている図式となっている。マツは鎖帷子をインナーとして付けており、体に矢が当たっても跳ね返せるようになっている。公方様は付けている雰囲気はありんせん。
「世話をされ守られるだけが将軍ではない。武家の娘やその女官達を護れずして、何が武家の最高位、第一それは男ではない。こい狼藉者。」
緑だけは頬を赤らめていたが、現実的な帰蝶やマツは呆れることはあっても艶話、乙女語りとは露程にも思わない。
「公方、あなた立場分かっている。十三代が就任一年持たずに矢に倒れたとなったら次どおすんのよ。折角都が安常処順したって言うのに十四代巡って又右往左往の大戦になるじゃない。」
「斎藤家の責任問題にもなるでありんす。明智どんはどこでありんす、兵部どんは」
マツが叫べど二人は出てこない。夜叉が間合いを詰める、絶対外さない、撃ち返せない、さりとて、義輝の突撃にも対応できる所まで詰めるつもりだ。
義輝まで約八歩と言う所で夜叉は止まった。
「この間合い、八か月前の管領じゃないかあ。かんれええええ。」
義輝は太刀を中段に構えたまま、目を覚ませと言わんばかりに喝を入れた。
いや管領は偽だってのツッコミを入れそこなった帰蝶だが、ちょっと待って、八ケ月前の管領って何よ。義輝の喝に驚いたか、夜叉、二の矢を射るも大きく頭上に外した。矢は塀まで飛んでいった。代りに飛んできたのは烏。
マツとりわけ術“一見さん、たをやかに妾の僕になりんす。”で捕まえたのだ。
「いきなり喝入れるから、一斉に逃げて掴み損ねる所だったでありんす。寸での差でありんした。」
烏の嘴が夜叉の面を直撃。
「八か月前の管領なんて妙な事おっしゃられるから、眉間を突くのは外したでありんす。」
術を外された烏は再び瓦屋根の上に帰って行った。
夜叉の面は乾いた音をたてて割れ、八ケ月前の管領は骸骨廊下に突っ伏した。義輝が骸骨を踏みしめ駆け寄る。
アとマツが手で追うも、帰蝶をそのままにして義輝を追うわけにはいかない。だが、大柄な緑が帰蝶の肩を抱くのを見て。お願いと心に刻み、マツは、縦長の筋肉質な尻を振り猪突、公方を追った。尻肉の高さが羽根になり、機敏に動けることを経験で知っている。
眉間は無傷と言ったでありんしょ。陽動ではという危機感はありんせんか。義輝は跪き八カ月前の管領を抱き起こし膝の上に頭を乗せた。
「八か月前の管領だ。多分。」
「多分が付くでありんすか。」
それは紛れもなく、管領細川晴元だった。帰蝶以外の者が見えていた、あの下膨れで傲慢不遜な晴元の顔がそこにあった。
その時、鏡の間から、顔を蒼く腫らした藤孝がよたりながら出てきた。重傷を負っていたが、報告を怠る事はなかった。藤孝によると、
鏡の間には、金銀の衣装を来た赤髪、夜叉面の能人形が、御所入居後間もなくから見られるようになった。椅子に腰かけていたが、気味悪く誰も近寄ることはなかった。今回、流れで藤孝、光安、ハナが鏡の間に入ってしまったが、当初能人形は、普通に座っていた。だが、液体錫、つまり帰蝶の弓が解凍した液体錫が流れて真実を現した。三人が鏡の間までやって来た時、床が骸骨だらけになると同時に人形だと思っていたそれが立ち上がり、膝にあった弓で暴れ始めたということだった。負傷した光安は立ち上がり懸命にハナを護ったが、まず餌食となり、続いて鏡の間に入った藤孝が太刀を抜く間もなく弓で叩きのめされ、暫く意識を失っていたということだった。どうやら喝で正気を戻したらしい。鏡の間では光安をハナが舐めて介抱してるということだった。
「そういえば、私の頬や手の汚れ除く時も手巾を舐めて、唾で濡れた部分で拭き取ってくれたわね。舐めてってそういう意味でしょ。ちゃんと説明なさぁい。」・
「しかし、八か月前の管領って事は八カ月間飲まず食わずで座っていたってことでありんすか。」
「“とりわけ”術を掛けられたのだろう。」
「松永って案外命大事にするわね。さっさと殺害して自分が成変わり管領になっても言い程度なのに。空薫術をかけて、つまり自身の汗を管領の全身にかけ、その汗の中で冬籠りさせたのよ熊みたいにね。美濃の山でも冬熊が出ないから散策できるのよ。雪が降る迄だけどね。」
空薫術は汗幻術とも言い、覆った人物の体温を低下させ冬眠さすことができるというのである。帰蝶の液体錫で突然起こされ、もし突然起こされた場合、その相手を攻撃するようインプットされていたのかもしれない。いやそれくらいは妖術系の“とりわけ人”なら出来るだろう。これは騙しの術なのであるから。
義輝は、管領の体が冷たい、しかし屍のそれとは違うと言った。予期せぬ烏の啄木鳥攻撃の衝撃。その衝撃を認めたくない脳が時間を逆行させ、再び冬眠状態に入ったと思われる。恐らく空薫術により冬眠が脳に取って何より心地善い状態と洗脳されたのは明らかであるから。
「だああれかあるううう。」
義輝がオペラは伝わってないが、テノール歌手のような声を響かせ御伽衆を呼んだ。
御伽衆達五人が能舞台の公方やマツがやってきた反対側から走り出て来て、真管領、藤孝に肩を貸し御所へ運ぼうとしている。
「明智殿も負傷しています。お願い致します。」
ハナが鏡の間から登場した。帰蝶の磔を指示したハナは淡々としているが帰蝶とは視線を合わせない。
「蟹の治療より、松永弾正の捕縛が先でしょ。公方、管領捕縛の命を下して。」
帰蝶の迅速、的確な判断、美漢は皓歯を輝かせる。淫靡な赤襦袢に威厳を持たせたのは、斎藤帰蝶が初めてじゃないか。
「流石、余が見初めた我が湖畔の君よ。」
義輝の視線に厭らしさを感じた帰蝶は、両手で胸を隠している。
「緑、何時まで六姫様を恥ずかしい恰好にさせておくのですか。おっとりは悪いとは申しません、あなたの個性であり利点なのですから。焦ってしくじるよりはましです。しかし、おっとりし過ぎと六姫様が感冒にかかってしまいます。」
ハナは何時ものように帰蝶の手をとり、舞台を横切り、骸骨群を足袋で踏みしめ階段へ向かって行った。あまりにも自然過ぎて抵抗する理由がない。
本来なら、自分を磔にしようとした首謀者である。その先にあるのは、千の兵を武器にした明智幕府成立である。自分は生きているが、陰謀が潰えたわけではない、公方に訴え完全に阻止しなければならない。
先程帰蝶より耳にして、衝撃を受けたマツだったが、余りに侍女頭として裏表無い当然の動きだったので、割って入るのに躊躇してしまった。何より、殺気がありんせん、だった。
自己主張モードに入っていた緑も消極的でつまらない事に迷い緑に戻っており、ハナを制するべきか否か迷い、気持ち的に護衛女官のマツ任せにしてしまった。
帰蝶もハナから殺気が感じられず、それより、管領や藤孝、光安を介抱し運ぼうとする御伽衆が自分をちらちら興味本位でみる視線を感じていた。室町御所の危機にも拘らず、男って奴はと怒り心頭、早くこの場から逃れ、“意匠”を整えたかった。その心理を唯一上手く突かれた。自分が産まれた時からの付き合い、ハナだからこそ私の心を一番分かっている。
ハナが帰蝶の手を取り階段へ向かう。帰蝶は裸足であり、その上錫鞠を持ち。骸骨群を歩くのは極めて惨い。その上今気付いたのだが、ネズミが骸骨を齧っていたのだ。しかも数十匹蠢いている。
ネズミは踏みたくないわね。食事に夢中になっているネズミを避け、注意深く舞台を横切る。でも、ネズミっていたっけ。ネズミいたでありんすか。
御側衆が藤孝と真管領、光安に肩を貸し、階段を優先的に下りて行くので、健常な、ハナと帰蝶は自ずから、舞台の右寄りに進むことになる。
「殿方が去る迄わたくしたちは地謡座で待ちましょう。」
地謡座とは舞台の右端に張りだした囃し手が座る場所である。地謡座だけは骸骨やネズミなく普通の板の間になっている。
「(怪しすぎるわね。あすこだけ何もないってさ。)気味悪いけど、そこまで寄らなくても、さっさと下りてどっかいくでしょ、このムサイ連中。」
その時、ハナがねずみをにゅるっと踏んでしまった。なんとキャアなどという金切り声を上げ、気持ち悪いなどと声を上げ、帰蝶に飛び付いた。危機に弱いハナ、しかし、今迄なら一人で卒倒していた筈。
「ちょっとハナ、私に頼ってどうするの。」
裸足で骸骨とネズミ群の舞台で態勢を保つのは困難。帰蝶とハナはよろいよろけて地謡座へ踏み入れた。ここ地謡座じゃないの、でもどうしてここだけ普通に綺麗な廊下なのよ。
「ここで暫く待ってましょう。何もぞっとするような所にいなくてもいいでしょう。侍女頭なら当然のおもてなしです。」
帰蝶は欄干に手をかけた。
「確かにハナの言う通り、足心地のいいところにいましょう。何やら暖かい風が吹いてきたわね、心地いいわ。いやなんか少し風が強くなってきたじゃない。ええ、御所の外の景色が動いてるって何、あれ禿げ山。」
帰蝶は隣に人が居るのを感じた。その者が背中越しに左目と鼻をちらっと見せた赤銅髪偽管領松永弾正久秀だった。レアカードゲットだぜと確かに帰蝶は聞いた。
「六姫様あああああ。」
緑が、マツが足元悪い中懸命に追っかけ、手を伸ばす。義輝も異変に気付き大股で追っかける。だが、帰蝶とハナは地謡座の人二人分座れる位の幅の板の間に吸い込まれていった。
「ここ、って何でありんすか。」
「地謡座といってな、お囃子の者が音を奏でる場所なのだよ。」:
「楽器を持ってなかったら、消されるとかでありんすか。」
「まさかの地謡座心中!?」
「本当に緑、そう思うでありんすか。」
「いえ、これと比べたら、六姫様が管領いえ松永様に仕掛けたのは子供騙しの落とし穴。これは松永様が仕返しに仕掛けた本格的な大人の落とし穴…。」
「戻って来ないでありんすが、どうすべきだと思いんすか。」
マツは、義輝と緑の顔を交互に見た。義輝は、マツの不安げな視線を包み込み皓歯の煌きで返し、右手のビルドアップで導き寄せる。
「余達も行くしかないだろう。」
緑も頷いた。あたしのお姫様、もう二度と離しません。
「冒険公方と好奇娘でありんすな。」
「さあ、肥ダメに堕ちた姫を助けるぞ。」
義輝が真っ先に地謡座に飛び乗った。その瞬間姿が消えた。
「肥溜じゃありんせん。(踏み出して今更なんでありんすが、本当にありんせんね。」
と言いながらマツ、そして緑も飛び乗った。
二人の姿も消えた。