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③護衛女官マツ

3.護衛女官マツ



その直ぐ後、事は済んだ。通常営業に戻る筈である。開かない筈の十兵衛暖簾が開いた、この騒ぎの中来客?

 入れ替わるように入って来たのは、なんとマツだった、誓いを立てた短刀を握っている。

「残香を掻き寄せに戻ったのですか。(忘れ物?)」

「折角珍しい廓に縁結びしたというに百合の温もり知らずでは寝付けんせん。(流石祇園で遊郭張ってるだけあって顔色少し変えんせんね。)」

「先程、姫様と弐度と離れないとその短刀で誓いを立てたではありませんか。煩悩を未だ絶ち切れないのですか。それとも今宵を最後に…・」

「十兵衛どん、殿方にしては喋りでありんすな。美漢は程度、無口な方がもてりんせ。二度と離れないと誓ったからこそ、この店に入りんせ。」

 短刀の鞘は既に抜かれていた。一旦暖簾の外に出て鞘を払い入り直したのだ。切先は下向きに十兵衛の首元に向いている。マツの方が上背があるためである。

「マツ、あかんて。」

 離れたテーブルに居たネネが驚いて、近寄ってきた。

 大柄は大柄を知る、流石深芳野様が見染めた護衛女官ですね。情強十兵衛とネネの動きは止まった。情強であっても、三色髪姫失踪案件の真相は地団太踏む程図り兼ねていた。

「あなた、ネネじゃありんせん。」

 下手な演技はもう終わりとマツは目で言っていた。

「流石マツやな。鳥はともかく人の気持ちを掴むのは苦手…、どこが苦手なんや。見抜かれとったんか。」

 遊郭部の扉を開け、出てきたのはネネだった。ネネが又二人。

「フェロモン(体臭)でありんす。この偽ネネ、あなた独特の磯の香がありんせん。湯浴みワカメ洗いは時折(たま)にした方が殿方呼びに効くでありんす。」

「ええ、そうなん。そんなにうちくさいん。落ち込むわあ。(磯臭いって、尾張の海辺の産まれって其処までわかんの。怖!)」

ネネは向きだしのニの腕やら手の甲やら嗅いでいる。

「何が誰もありんせんや。偽ネネの言葉借りたら、激劇セコイ店って事になりんす。さっさと妾が姫様差し出すでありんす。」

 十兵衛に短刀を突き付けたままマツは隣で銭緡を握りしめているカムロに睨みを利かした。朝の光が玄関に差し込んできた。長い夜が明けてきた。

 偽ネネはぐったりし始めた。

「習性は知性を高めても抑えられないようですね。姫様は血を武器化されるようなので、敢えて選ばせて貰ったのですが、限界なようですね。」

 しかし、あのもがきとあかんてと言う言葉は明らかに帰蝶様の公方様への素の鬼殺気でしたよね。ぎりぎり美濃言葉を修正はしましたが。

「そうです。偽ネネは斎藤六姫、帰蝶さんです。これが身供が決めた落とし所です。」

 パチンと十兵衛が指を鳴らすと偽ネネは、ぐったりと膝を付くと同時に表が真っ黒になった。本物ネネが帰蝶の小袖を十兵衛に投げた。表層で偽ネネを造っていたのはなんと山ヒルだった。山ヒルのムラメカスはムラメカスで知性を高めたものの、習性を抑えきれず、裏では宿主から血を吸い上げていたのである。表層が床に堕ちて行った。山ヒルの群れが壁際に向かって移動していく。おぞましく、むくつけし光景である。

 流石のマツも驚いていたが、もう逃げたりしない、決意とそれと下から現れたのが裸の帰蝶だったからだ。細く、付くべき肉はなく、尻に少し弾力が付きかけている程度で、まだ女人途上段階だ。十兵衛はサと手際よく小袖を羽織らせた。

右手が赤、左手が青で、うぐいすが枝に止まっている小袖である。装い“夏遠からじ”である。

「まさか力ずくで脱がした(あからひいた)ってことはありんせんな。」

と言いながらマツは十兵衛からオレンジ系の帯を奪い取り帰蝶に締めている。

「部屋の大気を調整して失神さす所までは知っていますが、後はネネとムラメカスが執り行いました。」

「着物脱がしたんはうちや。怖い顔せんかて、なんも盗ってないて。鞠も通りで失くしたんや、ムラメカス京雀にチョッカイ出された明智はん助けようとして。」

「当たりまえでありんす。いくら姫さんが血の鉄分と自分の錫髪の錫と結合さす武器(とりわけ)もってるからて、吸血ヒルのムラメカスを選ぶって、十兵衛どんもどうかしてるでありんす。本物の人の娘がこの店で務めきれない筈でありんす。(なぜ、此処で元締めの顔が過りんせ。遊郭の主にロクな奴はござりんせん。)」

帰蝶の顔、体は血が吸われた跡が残り傷だらけだった。

 こんな傷残ったら、公方様の御世話役どころやありんせん。女の一生台無しでありんす。それと錫鞠を失くしたでありんすか。妾が出奔した後でありんすな、その後酒池肉林の修羅場と化し、扇の要たる明智どんを助けようとして…いや、それが斎藤家全部を救う為と信じて錫鞠を叩きこんだでありんすな。あるべき姿に導く錫鞠、ムラメカスは元の虫に戻り、修羅場は回避されたが、そのどさくさにまぎれてネネと十兵衛どんは”“プリンセスロンダリング(遊郭飛ばし)”御札を切ったでありんすな。ごめんなんし。

 マツは帰蝶を抱きしめた。そして思い切り恨みをこめた冷目を十兵衛に浴びせた。引目だけに、この冷目は、十兵衛をして、視線を弾き飛ばした。

「これで帰蝶様は守られるのです。あなたも御存じでしょう。波多野、赤松、山名、各家の御世話役姫君が失踪の一落。“三色髪姫失踪案件”と京雀達は今年に入ってその話題で持ち切り。今宵初めて公方様に御目にかかりましたが…。全て策の内と言えなくもなく、管領様が身供や山科輪廻なる物の怪を使ってでも帰蝶様の御所入りを阻止しようとしたことからも。なんとも言えません。」

 三姫は帰国ではなく失踪した。最前の酒場でも耳にした話であり、事実であろう。御所入りした御世話役の色髪姫は、間もなく失踪する。

「山科輪廻、”“プリンセスロンダリング(遊郭飛ばし)”が管領様の調略御札によるものでありんすか。姫様が察した鬼公方の疑惑は消えないでありんすな。公方に四度目の鬼風吹かされたら、斎藤家を敵に回してしまい波多野、赤松、山名との東西挟撃もありうると管領様は恐れたでありんすか。」

 今、我が懐に、愛しき姫様は居る。金属臭を若い娘の甘い香りが包むという独特の肉感。帰蝶を護れるならばと言う考えが沸き起こり、マツは冷静さを取り戻していった。

 そして、ある事実がクローズアップされた。先程公方義輝が湖畔の君斎藤帰蝶と思って連れ去った者は影武者ならぬ影姫だと。マツの眼の動きから、その思考に至った事に気付いた十兵衛は、言葉を繫いだ。

「しかしあのムラメカスは少なくとも見目は完璧に複写致しました。時なく、気質を真似る迄には至りませんでしたが、公方様とは初対面問題ありますまい。」

「問題ないなんて、公方様は騙せても、先手侍大将の光安どんやハナさんや侍女までは騙せないでありんしょ。」

「察してくださいましょう。少なくとも御世話役赴任、その後失踪といった波多野、赤松、山名が被った不幸な事態は避けられるのです。空の輿をよこして、失踪したと騒いで、その場凌ぎの低身分かつ醜く黒髪の御世話役を立て公方様に見向きもされない。そんな今川家に都人の心象はよくありません。まだ影武者ならぬ影姫を立てる方が宜しいかと。」

「(そう簡単に行くとは…。少なくとも御世話役は御館様と将軍家との契約でありんす。いくら鬼であっても御世話役が偽物とばれたら、将軍家を騙し、御館様の命に背いた事になりんせ。明智どんやハナさん、頭たる者の責任は免れんせん。)まこと公方様は、姫身分で見目麗しい色髪の御世話役を食べているようでありんすな。」

「わかりません。だが、失踪は事実。居酒屋のヨタ話では美姫の体に溺れ過ぎ勢い食べてしまった等の軽口を叩く者も実在します。その上痕跡が何もないとすれば帰蝶様の言う通り、実は公方様は鬼で鬼の脂で肉辺骨片溶かして飲んだとの憶測が出ても不思議ではありません。山城国には酒呑童子伝説も存在しますので。」

 帰蝶の意識が大分戻って来た。マツは短刀を鞘におさめ、懐に仕舞った。そして肩を帰蝶に貸し床から起こし、椅子に座らせた。帰蝶はワとテーブルに突っ伏した。

「斎藤帰蝶様はお亡くなりになりました。正確に言えばムラメカスがしっかり斎藤帰蝶様を演じてくれましょう。あなたは大嫌いな姉上様達、そのたらちね侍女達と無縁になりました。これからは一人の女人として生きていけます。これこそ真の斎藤家からの“巣立ち”じゃないでしょうか。」

 姫様は“巣立ち”の話も十兵衛どんにしたでありんすか。

「小袖を羽織らせたものの、裸で都に放り出されたようなものでありんすが。(言わば御世話役も、小見様が薦めたから孝行心で乗ったようなもの。ハナさんの帰国案を蹴ったのも、御館様からの決定に背く事になり、不孝になるからでありんす。その成り行き上で宣言してしまった鬼退治は、御謀反。不忠不孝でありんす。将軍家と斎藤家の板挟みになってたでありんす、そこから逃れるには…でありんす。)」

 マツの陣羽織越しの豊かな胸が撫で下りた。十兵衛もネネもその動きでマツが納得した事を察した。

「ま、これで家も名も棄てて出てきたうちと同じ立場になってわけや。姫はんなんて呼ばんでもええな。これから当面は此処で姫属性の遊び女として生きていきぃな。」

「何言っているの。私は斎藤六姫帰蝶よ。あなた方とは身分が違うお姫様なの。」

 帰蝶は、ネネの言葉にうわ言の如き反応を見せた。

「十兵衛はん、これ使えるで。客に高飛車にでて蹴りでも入れたら、高貴な姫に叱られたい、蹴られたい言う京雀も多いからな。」

 十兵衛の反応は、ネネに同意するようなものではなかった。マツに厳しい視線を送っていた。

「マツさん、あなたは姫様の私兵ですか、それとも斎藤家の家臣ですか。」

 マツは十兵衛の普段甘くても一線には厳しい、大人の分別を感じ取った。そして、自分は、深芳野様の推薦で、国主斎藤山城守から任ぜられた将軍御世話役護衛女官である事、帰蝶が将軍御世話役に任ぜられた事が時系列で後であることを正直に語った。ひょっとしたら、師匠深芳野様は、自身が後見する一姫様(胡蝶)の為に自身を推薦したかもしれないことまで。憶測に過ぎないのに、余計な事まで話して姫様(帰蝶)との間に溝掘って、妾って奴はでありんす。

「あなたが居ては、さっきのうわ言のようにずっと斎藤六姫をひきずってしまいます。マツさんあなたは、ムラメカス斎藤六姫に付いていてもらいたいのです。経緯から考えるとそれが筋ですよね。斎藤六姫の性格を仕込み、疑問に抱く者を宥めすかし信用させる御役目があります。」

 やはり真の“巣立ち”には妾も不要ということでありんすか、さらに踏み込むなら…。

「はあ、妾に鞭打ちするでありんすか。どんな股間のお立場でありんすか。(流石に将軍家と斎藤家双方を敵に回す恐ろしさを理解してりんせ。ばれたら御札を吹き込んだ主にも罰は及びんせ。もう少し十兵衛どんの覚悟を深堀するでありんす。)」

「あなたは斎藤六姫の護衛女官ではありませんか。あなたが護衛するのは、たった今公方様に連れて行かれた斎藤六姫様、今目の前に突っ伏している斎藤六姫属性の新人遊女じゃありません。あなた流に言うなら、たった今公方様が湖畔の君を称され逢引された御方が斎藤六姫様です。そうですよね。異論ないですよね。(身供の策した落とし所理解してください。理解できる年齢でしょう。これが大人の世界です。)錫鞠は斎藤家の侍女が回収しています。逢引の勢いで公方様と蹴鞠をなされるのが宜しいかと。三種の神器(おふだ)即ち得物錫鞠、護衛女官マツ、侍女頭ハナを持つ者こそ真帰蝶の正統性を示す者ではないですか。」

 十兵衛は瞬きすら放棄しマツの眼をじっと見つめた。思わずマツの方が逸らした。遊郭での商い秋波とは言え、視線を切り下や上や左右を向くのは客の方だった。

 姫様の懐に何時もあった錫鞠にも気を配り、この店に持って来るなと警告でありんすか。

 これが大人社会でありんすな。大きな“落着”御札を良い塩梅で切ったでありんすな、十兵衛どん。まさに“十兵衛切札”でありんすな。後は依頼主の管領様に“真実暴露“御札をどう忍ばせるか、忍ばせないでありんすが、それは妾には関係ありんせん。

「確かに、それが六姫様の為でありんすな。疑惑を掛けられ調べられ偽と分かれば本物探し。再度、この店に改めの手が入るのは必定でありんす。今度こそ姫様が連れて行かれて、もし鬼公方なら餌食になりんせ。」

 あの美漢が誠の鬼なら、百合から逆触れした妾に六姫を護り退治をお助けする自信はありんせん。たとえ鬼でも相手は公方、それは天下への謀反でありんす。妾には手に負える代物ではありんせん。六姫様、元々鬼退治を主眼に置いた上洛じゃなかった筈でありんせんか、元は稲葉山と言う伏魔殿から出て、“巣立ち”すること。鬼公方退治を宣言した時点で御謀反でありんす。御館様と小見様に火の粉を浴びせない為にも斎藤家との縁切りが最善の策でありんしょ。妾が去る事で、姫様の“巣立ち”これで達成でありんす。

 マツは帰蝶の横に座り背筋を撫でていたが、意を決して立ちあがった。胸が上に揺れた事を自身で感じ取った。もっと内心を秘め普段通り立った方が良かったでありんすか。いや謀略癖を疑われない為にはこの方が良かりんせ。

「あ、…(この子扱いはなんぼなんでも可哀想やな。)帰蝶(呼び捨ても殺生やな。)はんのことはうちが面倒みるさかい。うち、この店で暫く働くことになったさけ。」

「因みにあのムラメカスは蝶なのです。丁度いいでしょう。」

 ネネと十兵衛は懸命にマツに利を解き宥めている。切り札である以上、妥協は許されない。冷風が吹いた。

「丁度以降は聞かなかったことにするでありんす。たまたまダジャレになっただけで、帰蝶さん故、蝶にしたでありんすな。親切心と受け取っとくでありんす。あと、食事もちゃんと綺麗な着物を与えるでありんす。時々様子見にくるでありんすから。(勿論、社交辞令。三種の神器(おふだ)が一枚でも欠けたら正統性が失われ痛い腹を探られることになりんす。それは姫様の命の危機、護衛が居ない方が護衛となりんす。)申し訳ありんせん。」

背筋から外しテーブルに置いたマツの手を帰蝶が懸命に求めてきた。血が上らず視界は砂嵐であろう。そんな薄い意識の中でも懸命に外界の情報を集め判断している。

「マツ、待って。あなたが護衛するのは、私よ。」

 う、マツの目頭が熱くなった。思わず籠手で顔覆う。今生の別れと帰蝶が悟っているのは痛い程わかった。ポニーテールの後ろ髪が轢かれるとはこのこと。

「兎に角あのムラメカスを教育する役目がありんす。そして、光安やハナと言った一筋縄でいかない斎藤家の人達も騙す、いや信用さす必要がありんす。姫様は斎藤家から自由になりたかったのでありんしょ。自由はいいもんでありんす。姫様の自由の為に行くでありんす。”巣立ち“達成おめでとうでありんす。」

マツはだっと飛び出していった。飛び出すと目を真っ赤にした力士体型スキンヘッドのあの祇園の守が一人腕組みして仁王立ちしていた。こちらは寝不足によるものだ。

「まだいらしたでありんすか。」

 あの脱兎の勢いをいきなり削がれたマツ、膝が震えだした。祇園の守がすっと紙を出してきた時は、新手のドスと思い、再再度店に逃げ込もうかと思った程だったが。再再度目は思い切り恰好悪くどう顔を造れば良いかわかりんせ。駄目、姫様の為にならないと思っていても姫様を抱きしめてしまいそう。

 だが、祇園の守が差し出してきたのは紙であった。墨で丁寧にここから室町御所(旧斯波邸)への道筋が書かれてあった。

 さらにもう一人の力士体型、黒頭巾の祇園の守が馬を引っ張ってきた。マツ感激、それが鞍の下に隠している槍ごと盗まれたマツの馬だった。

「武運長久。」

 肩甲骨を横切る太刀の鞘を叩いてマツを送りだした。マツは馬に跨り駆けて行った。

 その様子を暖簾の隙間からそっと確認した十兵衛。

 後は、管領様への伝達、帰蝶様確保だけ伝えられると、契約違反になってしまいます。前金の返金要求だけで済むか否か。信頼できる者を派遣してくれたら良いのですが、又はこちらから派遣するか。ネネは暫く帰蝶に付くことになるので厳しいですね。切札を最大限有効にするための点睛、難題が残りましたね。この機密、管領様以外の兵部様始め御伽衆、家族の方、マツ以外の斎藤家の面々勿論京雀にも知られてはならないのです。

 マツは徒歩で帰る公方と兵部、ムラメカス帰蝶に追いついた。そして、ムラメカス帰蝶を自馬の前に乗せ、斎藤家が駐屯している管領屋敷に戻った。その頃には帰蝶確保の報は隅々まで伝わり、夜通し探索にでた斎藤兵も戻りはじめていた。管領邸への帰還命令を促す花火が三発都の空に打ち上げられたのだ。

 堀と高塀に囲まれた管領邸に管領は不在、常時御所に詰めていて滅多に帰らないとのことである。妻と産まれたばかりの赤子後の細川昭元が二十数人の家臣と共に暮らしていた。斎藤家の兵は朝出立の今川兵と入れ替わるように管領邸と御所の武家長屋に入っていった。緑が聞いた晴元正室の話によると元々義輝と先代義晴とは対立関係にあったが、義輝将軍職譲位さらに都帰還、そして御所改築した当たりから関係が良好になり将軍御世話役の実行が決められたとのことだった。

「で、正室様は波多野、赤松、山名の御世話役の失踪の件はどう言っておられたでありんすか。」

「ま、昨日から姫様失踪と右往左往の騒ぎでしたので、こちらから、話しにくいことを…。」

「要するに聞いてないってことでありんすな。(誠、公方様は鬼で三色髪姫を食べたのか否かのか、現時点で不明でありんす。ムラメカス帰蝶様との対面で、まず反応したのが錫髪だったかどうかも判然としないでありんす。第一妾は湖畔の君の場面を見てないのが致命的でありんす。いつも紫頭巾を付けている筈だと思うでありんすが、たまたま脱げてたとか…。)」

 ハナと光安は帰蝶帰還に大喜びしていた。光安も目が真っ赤。ハナは、フォーマルな小袖に管領邸到着後換えていたものの、大分縒れていた。髪も所所跳ねており、当たり前だが、寝てないでありんすな。そういう妾も。

 マツは籠手で髪を撫でている。

 ムラメカス帰蝶は困惑気味ながらも答えていたが、外見と小袖と袴だけ同じで性格はコピーできていない。ハナが首を傾げ大人しすぎますね、とまず違和感を持った。しかし、

「疲れておいでですよね。ネネに遊郭に売られるなんて。本当最悪の経験でしたねえ。」

となんとか理解しようと努めていた。光安も御所に登る前に休まれてはと言っていたので、マツは内心ほっとしていた。

 御所にいる管領からは、こちらも捜索活動により疲労困憊、明朝から今川兵と斎藤兵の入れ替えがあったので明日にしてほしいと言ってきた。さもありなん、これ幸いと皆休むことにした。マツも真帰蝶の事が気になったが、与えられた管領邸の一部屋で緑と共に昼間から眠りに付いてしまった。

 だが次の日の朝、又も使いが来てもう一日日延と言ってきた。理由は斎藤兵の武家長屋分配に暇がかかっていると言う理由だった。これも、さもありなん。

 これ幸いとマツは暇を見ては斎藤家がどういう家で家族構成、それに斎藤帰蝶の性格、思考等をムラメカス帰蝶にレクチャした。幸い、ハナも兵達の世話等で忙しく、おっとり緑が直接担当になったので未だ楽だった。それでも緑の視線を盗みながらのレクチャとなる。特に複雑な家族構成については。蝶の集合体、千匹の脳波ブロックチェーンを形成して知能が人レベルに達していると言う。だが、一応返事はしているものの、マツによれば理解できたかどうか怪しいものだった。

 もっと時が必要でありんす、と考えていたらまた管領から連絡が来て一日日延となった。理由は陰陽道により忌日ということだった。斎藤家内に陰陽道に通じる者はなく、そのまま確かめることもなくすんなり受け入れられた。

 この日延…。公方様にとって姫様は湖畔の君であり、早く御世話して貰いたいのはヤマヤマの筈。それを管領様が拒んでいると言うのが真相でありんしょ。御世話役の好みは公方様の要求を聞き入れているとしても他の事は年長者であり執政たる管領様が仕切っているてことでありんすな。とはいえ、それでは色恋盛りの公方様にとっては悶悶教の荒行になってしまい、暴発寸前になってないでありんすか。と一瞬、マツは義輝の空房事を案じたか、文字通り一瞬で終わった。ムラメカス帰蝶のレクチャに時間も思考も取られ、他の事は後廻しになった。着付けの受け方、化粧の受け方まで、緑にばれずそれとなく教えなければならなかった。特に食事には気を使った。常にマツが付き添った。厠にも付いてこさせた。それでわかったのだが、ムラメカスは用を足さない。足しているのだが、量が少なすぎて人の五感で捉えられない。虫の集合体の為、内臓が一切ないのだ。

 中身空洞でありんすか。体重は全蝶で力を込めているらしいが、本物の百分の一位の重さ。そして、一番気を使うのは食事、人の食べ物はとらない。内臓がないので取れないのだが。ムラメカスは、マツの袖をひっぱった流れでオミキと囁いて来るのだ。メシと叫んだ真帰蝶とは対照的、十兵衛どんの仕込みでありんすな。品の良さが裏目に成りかねなかった。

 これが食欲示唆で一日一回来る。湯場に行ってムラメカスは全裸になり、マツが用意した砂糖水を吸い上げる。裸体から突然蔓のような蝶の口が千本現れ、流石のマツも驚嘆の声を上げてしまった。当然、実態を緑や他の侍女に話せないから、食事は一日二回普通に作らせる。侍女を下がらせ、マツが二人分食べることになってしまった。

「“食事専用侍女”御札を切って健啖家ネネを臨時で雇いたい気分でありんす。でも姫様を浚った張本人だから無理でありんすな。これでは妾がブタになってしまうでありんすよ。」

 早く御所に差し出した方がいいでありんせんか、御所に差し出した時点でムラメカス解除して失踪とか。でも、本当にあの公方様が色食両欲の使い鬼なら、すぐばれるでありんすな。

 あの皓歯の公方様が…、女好きだけど、物扱い、獣狂いするとは到底信じられないでありんすが。房事となれば豹変する殿方も数多、なんとも言えないでありんすな。

 日延が続くと隠して体裁を保っていたものが破れたり透けたり見えてきたり疑惑が持ちあがるものである。

 まず口に出さないものの緑達侍女も流石に違和感なる物が積み重なって来た。最初、事件に巻き込まれた故の心的ストレスと考えていたが、三日も経つと面変わりしているのが明白だったからだ。 

 光安、ハナが管領邸の細川京兆家家臣を使い御所の管領に入洛(御所入り)矢の催促、いつまでも管領邸で御世話になるわけにはいきません公方様の御世話役で上洛致したのですと実に全うな理由だ。

 光安によれば確かに武家長屋への入居は四人部屋に二十人登録されいるとか、御所側の不備が目立つが、六姫様とは関係ないだろ、これも全うな意見。

 こちらは御所、義輝は、管領晴元より斎藤家が拒んでいると方便を聞かされていた。

「板ばさみの身にもなれよ。誰も分かってくれないだろうな。」

 と呟く晴元。広間で波多野からの使者をようやく返した所だったのだ。御所で姫捜索と言う事で帰国させたものの、音沙汰無いので丹波から催促にやってきたのだ。使者は、都で鬼公方が御世話役の姫を食ったと言う噂を耳にしたとまで言った。

「公方様が食ってなどいない、鬼じゃあるまいし。現に今川の御世話役(身分低き侍女で黒髪)は昨日帰国した。捜索は勿論続行している。ドンウォーリーよ、おっとヤベ。」

 今川家の場合、御世話役は送る振りして空の輿をよこし、袖にしたと言うのが晴元の言い分で、その話が噂となって駿府まで届いた所、今川からは、こちらは送り届けた、姫(色髪か黒髪かは不明。遠方の為、御所の御伽衆は事前確認しておらず。)を期限日に無事返せと言って来ていた。だが。随行役の朝比奈泰能が、上洛、御所到着後、居る筈の姫が居ないと驚いた事から、今川の手違いだろう。道中で逃げたのかもしれないし、賊に浚われたのかもしれない。今川兵千が御所に怒りの矛先を向けなかったのが何よりの証拠。今川の件までこちらのせいにされたらたまらないと言うのが晴元の本心だろう。

 だが、将軍御世話役で縁起の悪いことが続いており、公方の意向で始めたものの、これで斎藤家の姫に何かあれば、流石に各大名家も黙ってないじゃろ。管領様が入洛に慎重になるのは当然かもしれん。現に一度、斎藤家の姫君は浚われたのじゃからのう、と兵部藤孝は己の一存で日延を繰り返す管領晴元に理解を示していた。だが、藤孝が引っかかっているのは、美濃入りの時は噂の錫髪姫を上洛さすとあれ程乗り気だった晴元、いざ本人を目にすると、嫌気がさしてしまったことだ。

 悪戯が懲りたのか、どの時点の悪戯、でもあんな餓鬼の悪戯でやる気失くすか、そもそも色髪姫で御世話役を強引に薦めたのは公方じゃなく管領の方じゃからの。以外と女人そのものが苦手なのか、現に御台が居る管領邸に帰らないし、それとも実は悪戯っ子を極端に恐れるノミの肝なのか。

 さて面白くないのは、若く興味津津な思春期将軍義輝。黒髪で醜女とはいえ、今川の御世話役が帰国してしまい、寂しい夜を過ごしている。黒髪故、鬼モードに入らなかったのか。だとするならば管領は何故鬼モードに入る色髪姫を推したのか。波多野で義輝の鬼モードかするのが分かったのから、止められた筈の赤松、山名の時点で止めずに色髪姫を続けたのは何故。さらに管領晴元は錫髪姫を美濃入り迄は望んだのだ。しかし、帰蝶を見た途端、ようやく此処で、遮断シフトに掌返ししたのは何故なのか、管領への疑惑は深まるばかりである。

 悶悶教の荒行に耐えきれなくなった義輝は、遂に心の収まり所を探して四日目の夜に動いた。なんと十兵衛の店を訪れたのである。

 十兵衛は恭しく出迎えたが、驚いた。管領晴元から、依頼を果たせとの催促が来ていたからである。実は果たしているのだが、その伝達方法を考えあぐねていたのである。和田某という元服前の御伽衆には依頼を果たしていますとは答えたものの、それ以上は語らなかった。迂闊に語れないのだ。手紙も配達途中で紛失、事故、強奪が考えられ、文字に表す事も憚られた。

 十兵衛の入洛、ネネを付けているものの自害の可能性がないとはいえない帰蝶を放って短時間でも店を空ける事は未だできなかったこれが表向き。あともう一点これが真の理由、管領が雇った“山科輪廻”の妖術系の“とりわけ人”の存在。敵なのか味方なのか。道を迷わせる“とりわけ人”の正体が分からぬ上で或る意味結界祇園を出ることはできなかった。ここ数日祇園を出た瞬間、室町御所にも近づけない祇園にも戻れない、そんな予感がしてならないのだ。

逆に妖術系の“とりわけ人”を雇っている側の管領晴元の来店、これも否。祇園には不入の権があり、殿上人とその兵士は入れなかった。斎藤兵すら拒み切る祇園の守の気概、事情を知る公方義輝は、怪の振りして祇園を駆けたのである。藤孝は正装だったが、小さかった為夜陰に紛れ上手く擦り抜け、祇園内でも童がコスプレしているとしか見られなかったのである。

ただ、帰りは義輝狩衣、烏帽子姿だったものの、早朝で人目に付かず、祇園の守を十兵衛が緘口を強いた事で、騒ぎにならなかったのである。

 今後も不入の権を犯さない小姓の催促が続くだろう。まさか、伝達が届かない内はムラメカス帰蝶の入洛を認めないつもりなのか管領様は。せめて童扱いされる兵部様が来店してくれたら話は早いのだがと考えていた。

 そもそも、なぜ管領様はそれほど嫌なら断らなかったのだ。断りきれない事情があったのか。断らなければならない事情があるのに、それが斎藤家御館いや小見の方と言うべきか、小見の方と公方義輝に分かってもらえない、或いは分かってもらえそうにないのか。

 やはり失踪事件は公方義輝が関与しており、管領故、表沙汰にして罪を認めて制度を廃止することができないためなのか。だが、かつて義維という足利一族を立てて、義輝側とは別の将軍家をたてようとした事を思うと随分しおらしくなられたものだ。

 そんな事を思案していた時に十兵衛にとって渦中の人、外見とは裏腹、鬼公方疑惑十三代将軍足利義輝が白と橙のストライブの肩衣、紺の袴に冠、身分隠しの御伽衆姿で現れた。祇園では怪とは違った意味でその巨体から好奇と疑惑の目で見られたであろう。公方ではないのか。単独ではなく何時もつるんでいる小柄な兵部藤孝も同じ格好で現れただけに、

「服装を落としたからと言って氏素性を偽れるものではありませんぞ。」

 十兵衛は眼がしらから額を伝って頭頂部に血が上るのを感じ取った。だが、少しだけ血が下りた、うまく擦り抜けたと仮定して兵部様を通して管領様に真実を伝える事ができるかもしれない。しかし問題は帰蝶を湖畔の君と慕う公方様を出しぬけるかどうか。公方様に管領邸に居るのはムラメカス帰蝶と知られるわけにはいかない。

 表の食堂部が動き始めた中、プリンセスロンダリングされた真帰蝶はどうなっているのか。

 三日経ち落ち着きを取り戻していた。二日目で外の南京錠も外された。外に逃げ出す可能性はないのと、未だ自殺の可能性が残るとの判断からだ。

外出は望まず、白襦袢に赤襦袢を重ね着して、部屋や飲食スペースで、茶を飲んだり、黄色と赤の格子の襦袢を桃色帯で締めたネネと雑談している。分刻みのスケジュールをこなす姫身分とは違うゆったりとした時を過ごしていた。

「なぜ私選ばれないんだろうね。美人だと思うんだけどさ。」

「姫属性言うのがな、京雀には御高く見えるんちゃうか。ちょっとうちには届かんかなあてなもんやで。知らんけどな。」

「でも姫属性って付けたん御主人様よ。客取ってもらいたくないんかな。()、私は衣食住苦労せんでもええから、そんでええけど。」

「え、えらいもんやな。来て三日でうちの上方言葉覚えとるで。(なんや別人みたいやな。なんかうちの眼の前におるんが偽姫みたいや。)」

 ネネの脳裏に矢を放ち錫鞠を蹴る凛とした姫武将の帰蝶が交錯した。今の帰蝶は例のヒルのムラメカスが吸血した影響で顔含めて体全体があばただらけになっていたのだ。傷からヒルの唾液が入り皮膚がアレルギーを起こしている。十兵衛が塗薬を用意するも、染みて痛がり、ずっと拒否している。特に顔が酷く、認めたくないのか、この三日、鏡は一切見ない、当然化粧もしない状態が続いていた。眉描きと髪の毛はネネに梳いてもらうものの、錫髪は限りなく黒ずんていた。

 まるで煤髪やとネネは心の中で溜息を付いていた。姫身分って血筋やない立ち位置や。身分相応の立ち位置におってこそ姫として振る舞えるし、美しい。血筋引いてても姫の立ち位置から“巣立ち”いや巣から飛び立てずに転落したら、目もあてられん醜女そのもの、十兵衛はん、どない思とんのうやろ。聞いみたいけど、客付かへんから、うちべったり。十兵衛はんと二人きりになって話す暇があらへん。

 帰蝶は“巣立ち”から大空へ飛び立てず、地面に転落した?

 帰蝶の左手が何かを探すような仕草を見せた。

 錫鞠か。あの錫髪で巻いた鞠が姫を姫たらしめてたんか。食いモンなら兎も角物に執着する女心ってうちはようわからん。

 各遊女の個室の自画像は、小さな虫が這うことにより描かれており、面相が変わると、線画も変わる。帰蝶が意識的に視界から外す、彼女の線画はくすんだ髪、あばただらけの顔で姫属性と書いてあっても選ぶ有りがたい客は皆無だった。

 こんな状況で心まで落ち込み、凛々しさは消え、時折失った錫鞠を惜しむが如く空を撫でる仕草が狂人感を周囲に与え、話す言葉はネガティブ、斎藤家のさの字もでない。移木の信の筈だった鬼退治のおの字もでなかった。

 だが、四日目の今宵、兵部藤孝を伴い義輝が客としてやってきた。

 義輝は、斎藤家が入洛を拒んでいる、あの失踪の噂が影響しているからかとまず切り出した。御世話役失踪案件は公方が一番心を痛めている。こちらは無実なのにと語った。

 沈痛な表情を十兵衛に見せ、この振る舞いに偽りは無い、或いは、体内に別人格として鬼を宿し、鬼行為に及んでいる時、本人は寝ていて知らないのか、と其処まで十兵衛は推理を膨らませてしまう。

「“湖畔の君”が忘れられぬ。最初今浜で出会って惚れ、あのま浚っておけばと悔いた、次にこの店で逢って、恋に堕ちた。折角わが手に入れながら…。御世話役は遊びではなく公務じゃとか兵部が言うから泣く泣く護衛女官のマツに引き渡した。渡さなければよかった。斎藤家が六姫を入洛させない。」

 管領様から、そう聞かされているのですか。

「来る所が違うのでは、斎藤の六姫様は管領邸にいらっしゃいます。」

「それも管領に言ったよ。公方と呼ばれる御方は手続きが大切、夜這いの()浚いは下衆のすること。やってはならぬことだってよ。余がちえええ、いいじゃん、手続きなんかかったるいとか少し切れてみたら、元堺公方(義維)を十四代に立て、そなたを廃すだってよ。恐ろしい位大袈裟過ぎてひいちまったよ。」

 今宵は身供に対してざっくばらんな言葉遣い。身供に人慣れされたととっていいのですね。十兵衛は、黄金に花咲き誇る扇をバと天井に向かって開放した。

「では遊んでいかれますか。ここは、京雀が生きながらにして極楽を味わえる祇園!但し、将軍であることは内密にして頂たい。」

 と恭しく一礼した。

 義輝は手を挙げ、左右に頭を振り自分の恰好を確かめた。

「これでも駄目?御伽衆の肩衣と袴しかなかったんだよ。」

「以前来た時に忠告しようとしたのですが、恰好に関しては遊女達全く気にしません。ただ話振りで将軍とばれないようにしてください。身分をひけらかす者を嫌います。(身供が嫌うので、その思考をムラメカス達に吹き込んでいるのですが。それ以上に)身の為と心得て下さい。」

「身の為って、まさか将軍暗殺を目論む刺客を囲っているとか。」

「嫌った者に対しては舐め属性、責め属性、刺し属性、容赦がなくなると言う道理でございます。」

 とはぐらかしたものの義輝の武人勘は既に達人の域に達していた。拒否権を敢えて発動せず、刺客のロシアンルーレットに誘う十兵衛、これも十兵衛理論、刺客を選べばそれまでの将軍、選ばなければこれからの将軍である。

 カムロではなく十兵衛自ら扉をスライドし、遊郭部へ案内した。扉をスライドした際鈴が鳴り響き遊女に来客を知らせる。

「まらうど様、御昇天でございます。首を伸ばして御座候?」

 声楽家、十兵衛が心地良いバリトンを響かせた。遊女の客待ち部屋から一斉に拍手が沸き起こった。半分以上空いている勢いである。

 少年将軍足利義輝の瞳孔が開き、頬が高揚した。

 怪しい蝋燭が左右等間隔に並んでいる薄暗い人一人分通れるくらいの中廊下。客入り部屋からは琵琶や笛の音が聞こえてくる。寝るだけが遊女ではない。まずは芸事を披露するのが遊女である。線画を見ながら義輝が選別する。藤孝は虎皮の裏側、例の右手の秘密部屋で待機している。帰蝶は一番奥の右である。鈴の音がネネの耳を揺らし即座に反応した。

「あ鈴の音や、ほなうち退散するわな。」

「いいじゃないネネ、どうせあれやん。私選ばれへんわ。」

布団の横で手を付き足を投げ出している。赤襦袢越しに腹が段々になってきている。外出もせず明料理をネネペースで食べているからである。

「正座とは言わんけど、胡坐でもええから緊張感もちいな。」

「これが楽なんだもん。(ゲップ。)ああ、餃子のげっぷでた。ゲップでも餃子は上手いな。ネネ、おりいな。」

「ま、客が何処か入ったら戻ってくるさかい。あ、餃子皿持ってくるから。」

「持ってと違て、盛ってな。頼むで。」:

と不満気に口をとんがらす帰蝶を残してネネ、スと扉を開けた。灯の死角を足音を忍ばせ右奥にある遊女控えの間を目指す。後ろ髪引かれる所か前髪引っ張って欲しい気分だった。

「面倒やな、この仕事。狭い廓の中で鬱憤溜まるわ。あの凛とした斎藤帰蝶は…、もうおらんねんな。偽もんはんは、今頃御世話役として…。え。」

「さあてとどの子がいいかなあ。」

それは、まさかの御世話役を迎えている筈の義輝。この四日間ネネは店に張り付いており、十兵衛からも後日譚は知らされておらず花弁盲目に陥っていた。その為、ムラメカス帰蝶が未だ将軍義輝と逢ってないこどなど露ほども考えてなかったのである。

 ネネはとっさに天井に飛びあがった。遊女控えの間にいくドアの僅かな枠組みに足をのせ天井に頭と背中をくっつけ体を固定した。

 斎藤帰蝶はんに教えてもうたんやで、今の帰蝶はんできるか。そんなことより嘘やろ。なんで来んねん。ばれとる。いやばれてない。御世話役が魑魅(ムラ)魍魎(メカス)の偽物やて分かったら大騒ぎや、当然此処まで聞こえとる。なんで来たんや。来るんはええけど、なんで遊郭空間に十兵衛はん通したんや。せめて帰蝶はん隠してからでええやん。鬼公方を移木の信とする帰蝶はんが“お“の字すら言わん。食っちゃ寝のぐうたら生活、それは、ひょっとして公方様が来店した時にうちらを欺く為の芝居ちゃうの。帰蝶はんは窮鼠刀持っとんのやで、うち十兵衛はんに話したやろ。此処で帰蝶はんが公方様討ち果たしたら、うちは逃げれるとしても、十兵衛はんは磔免れんで。それとも不入の権をかざして祇園の衆巻きこんで、御所つまり細川京兆家と戦するつもりなんか。こんな恐ろしい博打知らんで。

 ネネは戦慄した。胸を右手で摩り、懸命に落ち着こうと落ち着けるネタを探した。見っけ。

 いや選ばんか。ネネは線画に目を移した。初日なら兎も角四日目のあの醜女振りは尋常の域を越えてるし。十二分の一いやあの醜画で、さらに率は下がり、まず選択(あたり)はないと見たか。拒否ったら、公方はんの印象は悪なる。なんでやってなって又展開とかなったら事や。なんとか帰蝶はんを止めた蛭のムラメカスは、錫入りの血ぃ吸うて全滅したんやからな。錫って虫には毒なんか。もうどのムラメカスも防いでくれへん。ほぼ勝ったも同然の賭場に出ない手はないってこっちゃな。そらそやな、一人も客取ってへんねやから。ムラメカスの店やなかったら、他の遊女はんから批難の波状攻撃やで。

 義輝はうううんと言いながら部屋を二つ通過した。次の二つは赤い札が掛けられ商い中である。音曲はこの部屋から。

 義輝はさらに次の二つ、左の線画、そして右の線画、スルー。さらに次に二人もスルー。

 うそやろ。なんでや。さらにスルー。もう帰蝶ブロックしかない。まさか赤い糸で結ばれているなんて言わんといてや。偽物掴ませやがって本物食いにきた、待ってました鬼退治ってッ修羅場見たないで。

 義輝は左みて右。帰蝶の部屋の線画に見入った。扉からはゲップや放屁の音が聞こえてくる。ううわ最悪や、いや最良や、流石に放屁したばかりの部屋選ばんやろ。

 しかし義輝は、ゲップや放屁の音など聞かなかったように線画に見入った。そして

「この陣幕がいい。代金は兵部が払う。」

ここでいいではなくここがいいのである。灯に義輝の姿が露になった、御伽衆姿なれど、帰蝶は先日、蛭のムラメカス越しながら、公方様の姿形を見て殺気を露にしている。

 ネネは動悸が止まらない、窮鼠刀が襲って来るで、十兵衛はん、それでも開けるか。

「それではお開けいたします。御照覧あれ。」

 バリトンを響かせ、十兵衛は躊躇なく扉をスライドした。義輝は十二分の一のロシアンルーレットを選択してしまった。それまでの公方で終わるのか。自身は磔になってもいいのか十兵衛。

 十兵衛が扉を開けると、メタンガスやらニラの臭いが洩れ薫って来た。なんて、世俗的な天使なのか。天井に居るネネでさえ、クセと鼻抓む位なのに、義輝は顔色一つ変えない。

「ごゆっくりどうぞ。」

 と無表情な十兵衛に言われ、義輝は帰蝶の部屋に沓を脱ぎ入っていった。義輝から見れは湖畔の君、帰蝶から見れは鬼退治の鬼、修羅場と化すのか。先日は蛭のムラメカスに取込まれながらも公方の存在に反応して殺気さえ見せた。今宵はどうなる干戈を交えるのか。窮鼠刀の一番槍御札は切ってこなかった。代りに帰蝶は義輝の顔をじっと見つめた。涙袋が少し垂れ気味になっている。帰蝶はハテと首を傾げた。何処かで遭ったかなと思ったけど、思い出せない。何処かと言うのが、湖畔なのか、この店での事なのか自分でも判別できない。

 帰蝶は布団から重い体を鞭打ち引きづり出ると右の壁に立てかけてあった膳を用意。

枕の向う、奥に拵えらえた一尺四方の木戸をノック。すると木戸がスライドして酒の徳利と御猪口が向う側の棚に置いてあるのが見てとれた。帰蝶が慣れない手つきで徳利を取り、御猪口を左手で取って膳まで膝歩きでもってきた。赤い帯を付けたカバにしか見えない。

 徳利を置いた音が予想外に大きく、アと驚いていた。さらに御猪口を義輝の前に置いたが小刻みに震えていた。

「初陣なのか。」

「お初のお客さんどす。」

と変なイントネーションの京言葉を使ってしまった。その恥ずかしさが手を震えさせ、御猪口に注げない。義輝がソと徳利を取って手酌で御猪口に注いで、一杯飲みほした。これで落ち着いたか、帰蝶が徳利でやっと御猪口に酒を注いだ。元姫身分の為、男に酒を注ぐなんて経験は初めてである。

「余、よおおおおお。余興だ気にするな。」

と言った後義輝咳払いのアクセントを付けて話し始めた。“余”は公方身分しか使わない。

「俺はとある武家の家臣(直臣、陪臣どっち、ま、いいか詳しい事はわからんだろ。)だが、婚約しての、それがああ、初めて慕いたいと思った女子だ。」

「ほほう、よろしおすな。」

イントネーションがおかしい京ことば、明らかに棒読み。帰蝶、眼の前の武人が公方義輝だと認識できていない。

「しかし婚約して婚儀の為上洛してくれたのはいいが、一行に輿入れしてくれぬ。我が家に来てくれぬのだ。」

「ほほう、それはどえりゃあ、いやどえらいこって。(どえりゃあって何処の言葉よ、何処かで聞いた?もう私の頭)。」

「俺はこれまで三度結婚して三度妻に逃げられておる。四度目だ。三度失敗しているから、土壇場で彼女の実家が拒んでいる。恐らく仲人が四度目と言うのを隠していて上洛途中で知ったのだろう。仕方がないと言えば仕方がない。だが、この四度目の妻は俺が初めて見染めた女子だ。琵琶湖の湖畔で見染めた。錫色の髪と愛らしい涙袋がある、眼が琵琶湖の如く澄んだ女子だった。」

 ムラメカス越しに見たから、歪んで見えてたんちゃうか。今宵は人の眼で見たから姿形が前とは違ってて認識できてへんって思ってたんやけど、それ言うたら、錫色の髪に涙袋に湖畔の話って、其処まで明かしたら公方と名乗ってるようなもんやろ。

 ネネと十兵衛は戸越し外で様子を覗っていた。扉は薄く、会話は丸聞こえである。ネネは右隣の十兵衛を凝視した。斬り合いなったらどうすんねん。いや窮鼠刀が公方はん貫いたら。

「帰蝶さんの…、帰蝶の棒読み京ことばの相槌が少々気になりましたが、初客ということで大目に見てもらっているのでしょう。」

「何悠長に…(言うとんのや)。」

 十兵衛は人差し指を自分の口の前に立て、声が大きいポーズをネネに見せた。

「婚儀ですか、御世話役をそう見ていたのですね。発案者は公方様ということですが、実は管領様という線も濃くなってきましたね。どうやらばれないで進んでいきそうですね。」

 公方様が御所に連れ帰らなければいいのですよねっ管領様。

 そや、帰蝶はんが認識できてないと同時に、公方はんも湖畔の君って分かってへんやん。

「あないにいじったらばれへんで。四日で面影なしって鬼の所業やで十兵衛はん。」

「弄ったと観ますか。蛭の本能がムラメカスになっても抑えきれなかったのは想定外。しかし、抵抗する意志があれば吹出物は十八刻あれば克服できた筈。そもそも女一人が天下で生きるとは、鬼や天狗に襲われ、それをいかに最小限の被害で食い止め、やりすごすかというとじゃありませんか。ではネネ、身供が庇護せよと、しかし庇護すると言う事は躾るということ、それでは斎藤家が身供に変わっただけってことじゃないですか。“巣立ち”ではありません。見てくれは変わりましたが、あれで心は楽になってるんじゃありませんか。幸せ太りともいいます。」

「いや四日であないに太ったら一年経ったらどこまでなるか恐ろしいわ。でもどうやろ、無理矢理斎藤六姫の記憶を封印して触れんようにしてると思えてならへん。印象薄うても、異性の均整とれた裸見たという記憶は残ってる筈やし、あれ程山科輪廻で激怒して鬼退治と姫救出を移木の信にした公方本人が眼の前におるのに。先日の“体は童、腕っぷしは大人、頭は童…知らんけど”な兵部はんが必死に羽交い締めで抑える程の殺気はなんやったんや。」

 ここで十兵衛は話題を変えた。

「この四日間、あなたに仕事を依頼しようと思っていたのですが、一人の時間が取れなかったので頼めませんでした。」

「しゃあないやろ、帰蝶はんべったりやったんや。姫身分の頃は常に誰かいる状態、突如一人は、寂しさで自決する恐れがあるからなあ。斎藤家が嫌やったのは事実やけど、斎藤家から巣立って遊女って、これが姫さんが望んだことやったんか十兵衛はん。少なくとも姫さんは将軍御世話役を望んでいた、国主の命令やなく自分の意思で…、それが波多野以下の大名との違いや。寧ろ、ここにおるべきなんは、波多野以下の姫達やったんと違うか。斎藤の六姫はんこそ御所に入るべきやったんとちゃうか。」

「べき論に意味なく、我々は管領様の仕事を淡々とこなせばいいのです。マーボー豆腐つけますから、急いで行って欲しい場所があるのです。」

十兵衛は拳に力を入れ、肩を盛り上がらせ、有無を言わさぬ厳しく冷たい目をネネに向けた。すっこいわ、男の武器使ぅて。

「文書で残せませんので口伝です。信用できるあなたならではの仕事。」

「大体分かる、管領家やろ。」

「この状態を知らせてください。本物は身供が預かっていますと。」

「まだ伝えてなかったんかいな。(帰蝶はんの自殺防止言うけど、うちが付いてんのに。自身で御所迄行って来たら言うたら、なんや切れそうで言わんかったんやけど。)それで失踪の斎藤帰蝶が見つかったなんて聞いたら拒否るわ。けどなんで管領はんは拒むんや。結果的に上洛前鬼公方討伐と宣言したけど、それは後の話やろ。うちが三家失踪の情報伝えろって言う仕事を十兵衛はん経由で管領様から受けて遂行した時に鬼公方を討てってなったんやからな。十兵衛はん以外にも山科輪廻使って必死に姫はんを拒んだ管領はん。でも山科輪廻って“とりわけ人(誰)”の術や。道やのに森が茂っているように見せる騙し術…。」

 ネネは十兵衛の触れられたくない部分に触れてしまった。“山科輪廻”自身をも越える謎の妖術系の“とりわけ人”の存在が、十兵衛を引き篭りにしてしまっているのだ。

 「早く行ってもらいたいのですが。」

 ネネは即座に消えた。明らかに十兵衛の顔がこわばって来たからだ。この手の男は切れたらどこまで切れるか分からんから怖い。

 ひょっとして、十兵衛はんが御所行かれへんのって“山科輪廻”の“とりわけ人”が果たし合い挑んでくるの恐れてのことやったんか。

一方壁の向こうは、義輝の徳利は早くも三杯目だった。

「婚約してから一回逢ったんだよな。でも放してしまった。悔い残る。湖畔で捕まえ損ね、都で手を離し、人面桃花って美辞ってみるが、却って惨めになるだけ。俺は本当に最悪だな。結婚も三度失敗した。理由はわかんねえ。朝なったらいなくなってんだ。昨晩まで笑ってたじゃねえかよ。悦んでいたじゃねえか。」

「げ、いや。旦那はん泣き上戸でおすか。(違った)おすなあ。(なんか変ね、)」

 帰蝶さん、斎藤が取れて、楽になっただけでなく女としての気概すら失ったのですか。あなたの鬼退治は斎藤帰蝶の立場だけのものだったのですか。少し知恵を働かせればわかるでしょう。あなたの宿敵は目の前にいるのです。勿論、身供は十三代様が斬られるのは見たくありませんし、考えたくもありません。しかし、誤解、恐らく誤解で女子に斬られたら、それまでの将軍なのです。あなたは、三家の姫の恨みを理由に斬ってもいいのです。

 身の危険を感じての中止、どの“とりわけ人”の仕業が知りませんが“山科輪廻”を理由にしての撤退があっても変ではない。しかし、あなたは鬼公方退治を移木の信にして“山科輪廻”を破り上洛なさったのではないのですか。それとも三種の神器、ハナ、マツそして、一番大事な錫鞠がないと何もできない何も耐えきれないのですか。物は火が付けば燃え、飛んでいけば消え、力が加われば壊れ潰れるのです。空蝉の世界で物に執着していては命がいくつあっても足りません。人も同じ、必ず別れがくるのです。伏魔殿を“巣立つ”と言う事は斎藤家を出る事、斎藤帰蝶から斎藤を取れば、嫌な者達だけでなく、御館様、小見様はじめ、好いた者達とも別れるのは当然。都合いいようには行きませんよ姫じゃないのですから。

 鼾が聞こえてきた。義輝が酔い潰れて寝てしまったのだ。十兵衛の肩に蜂が止まった。義輝が寝堕ちした情報を伝えにきたのだ。義輝が膳に突っ伏したまま寝ている様を荒いモノクロ画像で十兵衛の視覚領域に伝えてきた。大柄な男が寝ているとしか見えないが、義輝であることは明らかである。

 もう少し鮮明な画像が送れたら、御所内部も探れるのですが。

 十兵衛は、扉を開けて、義輝に肩を貸し抱き抱え、いつの間にか現れたカムロに沓を玄関ホールまで持ってくるよう指示した。

「あなたには何も言う事はありません。この店の席数は決まっています。当然人の新人も入れます。必要に応じてムラメカスを創ることもあるでしょう。よくお考えください。」

と背中で語り、十兵衛は出て行った。

「とりあえず一人終えたんやから餃子十人前持ってきて。ネネと約束したのよ。ネネはあ。」

「直ぐに帰ってきますが、暫く徳利と遊んでてください。」

 それを十兵衛最後の言葉としてカムロが扉を閉めた。カムロのハとした顔、帰蝶は足でガンと膳を蹴飛ばし徳利ごとガブ飲みしていた。

 兵部が秘密の部屋から出て玄関ホールにあるテーブルの座に付いていた。テーブルの上には紅茶カップが乗っている。

「エウロパの茶は上手いもんじゃの。」

とか言っている。だが、少し肩衣が乱れている。十兵衛は椅子の上に義輝を下ろした。

 秘密の部屋の戸が開いている。中から茶髪ロング、金銀交錯する同じ小袖を羽織った美女二人が出てきた。

「アベジャにアベジャジュニア。」

 蜂のムラメカスツインズだ。その背中越に部屋の中が見える、スキンヘッド、力士体型の祇園の守が三人寝込んでいる。背が言い訳程度に低く眼が大きく頬の線が幼いジュニアが先に口を開いた。

「はん、堪忍どす。なんか怖くて報告遅なったえ。」

「あん。守様の介抱を優先したの、何か問題でも。」

「ごくろうさま。」

と二人のムラメカスに労いの言葉を懸け、下がると思いきや、二人は十兵衛の背後に付き、兵部に見下ろしの視線を集中さす、その上十兵衛の厳しい目線も三点集中。

「ワシを収斂火災で焼き殺めるつもりかお三方。」

「祇園不入の権を知らないとは言わせませんぞ新兵部卿様。」

 厳しい声圧に、唇を結び思わず仰け反る少年兵部である。

祇園不入の権、罪人であっても祇園領域に入った場合は室町御所の役人は手を出せない、祇園で判断するという権利である。それ以前に槍を持っての入園は御法度なのである。

 槍兵が祇園の門を潜りいきなり乱入、祇園の守が止めようとして、問答になったって所ですね。祇園の入り口に、柱を組み合わせた質素な門は有るが、扉はない。祇園は不夜城、替りに権利と体格の良い祇園の守が守っているのだ。

「将軍代替りにより、権利いや権益も斬っていくんじゃ。因循姑息じゃ駄目なんじゃ。酔い潰れているが公方の考えじゃ。こんな権益あったんじゃ、祇園はならず者の温床になり都治安悪化の元になる、思わんか。そのため斬るべき御札は斬るんじゃ。」

 少年兵部の顔が、舌がニョロけ、蛇のようになっている。 

蜂が十兵衛の肩に集って来た。モノクロ映像情報を伝えてきた。三頭の馬と顔は判別できないが甲冑姿の槍兵、少なくとも三十人はいるであろう。

 十兵衛は眉に皺を寄せ無念の意味を込めて少し首を振った後、言葉を絞りだした。

「用件を聞きましょう。」

「御成敗式目に基づき将軍御世話役斎藤六姫誘拐の罪でネネと言う輩を捕縛する。」

 行違いになりましたか。管領様を四日も待たせたのは失態でした。管領家の催促とは相当痛みを伴わせるものなのですね。見込みが甘かったということです。しかし、祇園にいる者の捕縛、それが三十数人にも及ぶ槍兵の投入。不入の権はおろか祇園そのものを叩きつぶしかねない宣戦布告級ではありませんか。鋭い視線で藤孝を見下ろした。

「ネネ捕縛だけなら隠密儀に出来た筈、物々し過ぎやしませんか。」

 待ってましたと膝をペンと叩き藤孝が答える。

「三色髪姫失踪案件、さらにこの所都で鬼公方が食ったという噂まで広がっておる。ワシらも被害者なのだ。その旨伝えている故、波多野、赤松、山名は大人しいしとるのじゃ。」

「鬼公方などと言う話は斎藤家側が火元、祇園は関係ありません。」

「ほう斎藤家。その御世話役の姫を拉致ったのは、祇園のこの店ではないか。四人いやともすれば五人目でようやく尻尾を掴んだのじゃ。」

 今度は藤孝が睨み上げる番、若さへの純な目、まさか、三色髪姫失踪案件の主犯と身供をお疑いか。このものものしさは、身供を捕らえるためのものと…。管領様は公方様に近すぎる者には、“斎藤六姫入洛相成らぬ”の件を伝えていない。知っている者は恐らく和田某始め少数、まさに極秘の裏仕事だったと言う事。

「とんでもございません。身供は拉致ったネネから御世話役とは知らず姫を買ったのです。(管領様の仕事とは口が裂けても言えぬ。契約内容に緘口がある以上。偉丈夫な十三代が、管領の施政に良きに計らえと投げるのではなく、自己主張を加えた。)以降ネネはこの店に住み着いていますが、元々なんの関係も御座いません。ガサ入れと言う意味では三日前、全遊女を展開させたはず。今宵も公方様自ら、線画ですが、閲覧され確認致しました。波多野、赤松、山名の御世話役姫達が居ましたか?居なかったでしょう。」

「たまたま四人目いや五人目が居たのがこの店だっただけでワシは祇園全体がぐるってると推理した。現に今迄不入の権とやらで、一番疑わしい祇園に手ぇ入れることができんじゃったからのう。今回も斎藤家の六姫捜索を拒んで門で軽い騒動になっておった。故に今回管領様のネネ捕縛の権に乗じてガサ入れさせてもらった。」

「なんと…。」

 十兵衛の顔がさらに険しくなった。険しさを形創る皺が全て刻まれたといってよい。

「心配するな十兵衛。祇園の守が打ちひしがれた姿を見ればどの遊郭も無抵抗。改めさせて貰った。御協力感謝いたす。」

「当たり前です。御世話役強奪などする筈ありません。」

 十兵衛は安堵の息を吐いた。祇園と御所との戦は避けられました。一旦思ってはみたもの別の怒りの灯が灯された。

「ま、ネネが拉致してこの店に売り飛ばしたのが真相と管領様も言っておられる。十兵衛を咎めたりせぬ。ネネさえ吐き出してくれたら。(拒むなよ。これが今回の落とし所じゃ。拒んだら、祇園丸ごと焼払うぞ。いや炙り出しと言うべきか。たまたま見つけられなかっただけじゃとワシは見とる。此処は余りにも怪し過ぎるじゃろ。)」

 祇園の方々、戦嫌いは理解できますが、得物を以ってしてでも抵抗してほしかった。これで、不入の権は破られた。応仁、文明の乱戦後、血の涙で将軍家(実際は、執政日野富子)と契った権利だったのですぞ。十兵衛は拳を握りしめる事で怒りのアースとした。

「はん。ご主人様どうするえ。」

「あん。ちゃっちゃとネネ突き出したら。」

 アベジャとアベジャジュニアの柔らかな声が十兵衛を落ち着かせた。これも祇園の選択と言う事ですか。祇園はリーダーを持たない為、選択は各々の店の判断に任すしかないのである。

 十兵衛は、肩の蜂二匹に電磁波でメッセージを伝えた。肩の蜂はアベジャとアベジャジュニアに。二人はメッセージを実行しに遊郭部に入っていった。

「もう何、ネネが帰って来たの。」

 帰蝶のけだるく縋るような声がした。

 さて当のネネは、御所に潜入していた。管領に斎藤帰蝶は十兵衛の店で匿っている、管領家にいるのは姿形同じの偽帰蝶であると伝えていた。屋根裏から侵入して、十兵衛の使いでネネであることを告げ、管領の挙手を合図に畳の間に降り立っていた。

 管領部屋は普通の八畳敷きに床の間がある書院やな。此処以外はシャンデリアに絨毯って南蛮趣味満載や。

 まず管領晴元は真帰蝶が十兵衛の店に居る事を知って反応したのは、

「錫鞠は何処だ。」

だった。錫鞠なんか、真帰蝶はんが怖かったんちゃうんか。

「あ、帰蝶はん拉致る時のどさくさで何処か行ってしもうたわ。」

 ネネの報告を聞くや否や平静を装っているものの、明らかに肩が脱力した。錫鞠がそないに怖いんかいな。まさかとは思うけど…。山科輪廻が浮かび、ネネが勘ぐりはじめた所、

「影武者。影武者を使うのか斎藤家は、当主本人以外に姫でも。」

と次に反応したのは影武者帰蝶、目を丸くする程の驚きを見せてた。

 何か閃いたかのような挙動やな。

 ん、ユーがネネよの。一足遅かったの、もうネネ捕縛に公方と兵部だしちちまった。ま、いいかゲット即有罪ってわけやないし。今晩我が邸に留め置いて、明日にでも御所でジャッジメント、草引きとか軽い夫役程度にでもしとけば十兵衛も怒らんだろ。

 管領はネネにちょいちょいと手の甲でもう帰っていいよの仕草を見せた。気前よく捕まってきな。此処で捕まえて楽しては駄目。若い奴には成し遂げたという達成感が不可欠なの。その為にもゴーホウム。だが、ネネは微動だになく憮然とした面持ち。

「わあああたよ。」

 管領は小姓に耳打ちにして紙袋を持って来さした。ホレ、とネネに差し出した。

「やっほー。」

とネネが両手でハートマークを作り、キラキラ瞳で喜んでいる。

「ほんま、餓鬼の使いなんだから。」

 ま、三色髪姫失踪花弁(情報)伝達の時もそうだったが、銭じゃなく当座の菓子で済むから楽は楽。

「餓鬼の使いでもなんでもいい。お菓子もろたらそれでええねん。」

 帰って真帰蝶はんと初仕事話で盛り上がろ。ネネが貰ったのは、ちょっとカラっとした味のしょうが煎餅だった。後、で喉乾きそうやな。


 一方の十兵衛の店。

「縄は勘弁して貰えますか。暴れません、仮に暴れたら刺して貰って一向に構いません。」

 帰蝶は呆然と十兵衛を見た。煤髪の下から冥い瞳で、呪うのは十兵衛か我が運命か。

 ネネとして十兵衛が藤孝に差し出したのはなんと真帰蝶だった。サと帰蝶より小柄な藤孝が帰蝶の手首を掴んだ。その時、義輝がフラと立ちあがった。そして、半分しまった眼で帰蝶を見た。

 まさか、公方様、今更気付いたとか言わないで下さいよ。あなたの湖畔の君は今管領邸にいらっしゃいます。

「お、兵部、お蝶さん御持ち帰りぃ。御持ち帰りできるんだ。よし御所帰って飲み直しだ。」

「いや御所じゃなくて…。」

「終わったらちゃんと返して下さいよ。大事な子なのですから。」

ややこしくなるので、藤孝の正論を遮った。取りあえず酔客の言う通りにして店の外に出してしまうのが得策なのだ。

「たいした罪にならんじゃろ。姫は無事だったんじゃし。一応将軍家の威光、室町の威信を強めたいだけじゃ。(どう見ても別人じゃが。空蝉相手の些細な案件、祇園で捕縛したと言う既成事実が重要なんじゃ。今後のガサ入れの先例となるんじゃ。しかし、この別人何処かで…誰かに…)。」

 管領様、不入の権を犯してまでのネネ捕縛。伝達遅延があったものの、今頃伝わっている筈。なら早馬を走らせて祇園ガサ入れ執行停止も出来た筈。連行途中にその執行停止の早馬が間に合う事を希望します。でないと、不入の権を破った罪で身供は管領様の依頼を覆すことなります。身供を陽動として使い搦め手で新手の妖術系“とりわけ人”が操る“山科輪廻”を使ってまで御所入りを拒んだ真斎藤帰蝶が入ってしまいますよ。御所に入ったら何がそんなに困るのですか、確かめてしまいますよ。

 物惜しそうな目を向け帰蝶は十兵衛の前を通り抜けていった。

「心配ありません。拷問などありません。全て御意と言えば明日には戻れるでしょう。」

それは十兵衛が兵部にその通りにしろよと脅しているのだ。その通りにしなければ祇園は総力を挙げて御所に対して蜂起する。

 十兵衛も通りにでた。三十名の槍兵と骨のある二十数人の祇園衆の睨みあい、罵り合いが続いていた。

「皆さん静かにしてください。全ての落ち度はこの十兵衛にあり。御所の方々をお通し下さい。」

と十兵衛が、バリトン声を張り上げ、ようやく祇園衆は引き上げはじめた。それなりの地位を十兵衛は、祇園で築いていたのだ。帰蝶は下向きながら去っていった。

「はん、なんか紙ついてるえ。」

「あん、お蝶ってこんな悪戯する子だったけ。あ、したな確か初日。」

 お蝶とは十兵衛の店での源氏名である。因みに十兵衛の店に店の名前はない。

 十兵衛は、紙を素早く広げ文字を追った。

“せわになった”

 と慌てたせいで殴り書き。かろうじてそう読めた。やがて月光で消えていった。

 落下枝戻り難し。身供はあなたを斬ったりしていない。

身供の店からも巣立つつもりですか。いや戻れます。戻らないつもりなのですか。世を捨ててはいけません。

 十兵衛は、追おうと一歩外に出た。だが、あん、はんと止められた。

「あん、人生も蜂生もなるようにしかなりませんえ。邪魔しても結果一緒どす。御主人様が損するだけでおす。」

「はん、ほっといたらいいの。お蝶が姿見せてから、やたらこの辺もムサクなったんだからさ。厄介払いよ。」 

管領細川晴元は不入の権を知らないのか。いや、此処まで大騒動にしたのは、不入の権を良く知らない細川藤孝の独断である。藤孝は藤孝成りに三色髪姫失踪案件解決を目指していた。そして、不入の権で捜査できない祇園を怪し過ぎると睨んでいた。そして、晴元のネネ捕縛に便乗して槍兵を入れガサ入れさせたのである。祇園の遊郭は、不入の権もあったが、失踪案件の犯人と疑われるのは割に遭わないとほぼ皆協力した。

不入の権は破られましたが、これで兵部様公方様の祇園への疑惑は晴れました。納得してない目を兵部様はされましたが。しかし、一度先例が出来た以上、もう拒むことはできません。何度来て貰っても構いません。祇園は潔白。その度に兵部様あなたの信用は失墜するばかりです。ただ公方様の緯武経文が穢されていくのが無念でなりません。

斎藤六姫に頼るしかないと言う事ですか。身供も斎藤家同様、知らず知らずのうちに、六姫様、あなたを御札化してしまいました。でも身供はあなたが明日無事帰る事をお祈りしています。

「あん、室町がガサ入れたって事は、三色髪姫失踪案件って祇園が怪しいんえ?」

「はん、主はん祇園潔白って自信あるみたいやけど、全部の店、裏事情把握してんの。」

 十兵衛の睨みが入り、アベジャ、アベジャジュニアは背筋を伸ばしていた。人の習性を学習していた。


 さて、こちらは管領邸。まだ帰蝶がネネとして捕縛される前である。護衛女官マツが鎖帷子と陣羽織姿で文字通り四六時中付き従いムラメカス帰蝶がばれないように必死になっている。

 しかし、衣食住の世話をする緑と三人の侍女は四日目になると流石におかしいと思っていた。まず厠へ全く行かないのだ。マツと厠に行くが、自分は用を足していない。厠は個室なので、小袖を脱いで個室に入れば、ごまかせると考えていたのだが。緑とあと一人枠三交替で侍女が戸の前に立ち、排便、排尿の音を聞き、終わった後、直ぐに手洗い手拭き、着替えができるように並んで待ちかまえているのだ。

「厠の中も汚れているので、入った以上、手ぇをお流しますがぁ、足してませんよねぇ。」

と遂に四日目、マツが足す次いでの偽厠の折、緑が口に出した。ハナが斎藤家の雑務に追われ不在のなか、実質上の頭。他の侍女たちからつつかれていたのだろう。

 イと青ざめたのは自ら柄杓を使い手を洗っていたマツだった。自分が扉を開けるのを合図に出てくるよう指示してたのだが、いくらなんでも四日間、厠サイクル、さらに用足し時間がぴったり同じというのもおかしな話だ。そこまで細工する余裕がなかったのだが。その上音まで聞き耳立てられていたとは。

 侍女はそこまでするでありんすか。恥ずかしいとか姫様は言えんせんな。

 緑が流す柄杓の水で手を洗い、隣の侍女の出す白布で手を拭くムラメカス帰蝶、返答に当然困る、人の社会は知っていても、用足しなど憚り事の知識はない。

 実はこの時、蝶の位置を視認できない位の高速で換え、手に水がかからないようにしていたのである。ムラメカス帰蝶にとって、水は苦手で厠はストレスであった。その途中に難しい質問されても答えられるものではない。

 十兵衛も姫身分がどんな生活様式なのか詳しく知らない。

「いや足しているでありんしょ。」

 とりあえず、虚構のパンチを繰り出してみる。だが、あっさり跳ね返される。

「音でわかるんですよ。あたし達を甘くみてはいけないのですよ。マツさんとは姫様と付き合った年季が違い過ぎるのですよ。あたしから見ればマツさんが姫様の元に来たのは昨日、今日いやつい先程。」

と今日の緑はおっとりじゃなく毅然として怖い。オレンジと白格子、侍女小袖越しの太鼓腹が、攻撃的で、途轍もない超兵器にさえ思える。

ムラメカス帰蝶に藍色の小袖を着せている丸顔侍女のマツを見る目も冷たく突き放している。白目が一段と白いでありんすな。

 出入りの激しい方で元々信じられない方ですけど、管領邸に入ってから、ますます信じられない方ですわねと瞳孔が言っていた。

「ま、あんなことあったでありんす。少しは大目に見てもくれてもいいでありんす。」

「どんな事があって、何を大目に見るのですかマツさん。」

緑が太鼓腹から焙烙玉を打ちこんできた、マツは、ムラメカス帰蝶の手を引っ張り姫部屋へ小走りに急いだ。

突っ込むなでありんす。もう返答できんせん。

「ついでにいいますが、御飯も召し上がってませんよね。」

と走る緑が背中から焙烙玉攻撃を諦めない。

「食べてるでありんしょ。器、空でありんす。」

「器の食べ方ってクセ出るんですよ。綺麗に食べる人、食べかすが残る人、その食べカスの残り方などなど。同じなんですよ。六姫様とマツさん、ここにきてから。もっといえば管領邸に来てから、六姫様食べ方が変化しているんです。六姫様はポツポツ米粒が残ったり、魚の身は上手にとれない…(それが米粒が残らず綺麗。魚は身は全て取られ、綺麗に骨だけ。しかも、骨が折れていない。)」

「それ以上言わんせん。」

 緑の貴重なセリフ、とれない…以降をマツが喰ってしまい、本気の走りになった。姫さんってそんなにガサツな食べ方だったでありんすか。三代目世代になると食べ物があるありがたみが消えるんでありんすな。いや妾が百合遊びしないで夕食に付き合っていれば癖が頭に入ってたでありんす。

 と後悔しても遅い。

だが、そんな薄氷を踏んで歩くような思いから解放される時がやってきた。夜にも拘わらず御所から管領の使者が訪問し、自分が自宅に帰ればいいようなのだが、明日御所入洛するようにとの通達がきたのである。

 姫の間でムラメカス帰蝶と共にハナから聞いたマツは手を叩いて喜んだ。忝いでありんす管領様。

「あらどうしてマツがそんなに喜ぶのですか。」

 狸のクリクリ目ん玉丸めてハナがマツに疑問を呈する。

「いやだって、ありんす。」

 言葉を紡げないが、口から先に産まれたハナで幸いだった。間を空けることなく既にマイクをマツから奪いとっている。

「公方様は美漢ですけど、手をだしてはいけませんよ。この四日間姫様に付きっきりでしたが、まさか、入洛したら役目は終わりなんて思ってないでしょうね。まだまだ半年間続くのですよ。」

「ええああありんす。」

 前半部分は、あっそっちねって安心したが、後半部分は気を回す余裕がなかった入洛後だった。え、こんなのが半年も続くでありんすか。四日目でいい加減疲れているのでありんしょ、もたないでありんす。

 と言う気持ちを著しく堅い笑いでごまかすしかなかった。ポニーテールの先を人差し指でくるくる廻しながら、軽く溜息を付いている。だが、一筋の光明、ハナの話し振りから、報告は上っていない。数々の疑問点は緑で止まっている。

 ハナは管領邸の侍女達との折衝、付き合い、兵を束ねる光安とのやりとり等で超が付く程多忙であった。その為、こんな時こそハナさんの手を煩わせることなく残りの侍女達でしっかりやらねばと緑は震い立ち、就寝前聞かれても問題なしと答えていたのである。

 マツにとっては幸運であり、くるくる廻していた毛先を歓喜の意を込め刎ね挙げていた。

 部屋には書見立てが用意されていた。ハナとムラメカス帰蝶、そしてマツ、立てには薄い書物が置かれ入洛に関する事が書かれている。管領御台から渡されたものらしい。歴代の御世話役は管領邸で一拍し、この書物の内容を頭に入れてから次の朝入洛するとハナは一頁目を読みながら説明している。

ハナは次の頁を捲り入洛の心得等々ムラメカス帰蝶を帰蝶と思ってレクチャしている。ムラメカス帰蝶はハイハイと聞いている。

「ああら、管領邸に入ってから素直になりましたね。流石に天下の管領邸ですからね。六姫様って実は内弁慶だったんですねえ。」

と挑発はしてくるが、それもハイとムラメカス帰蝶が受け流すと、これ幸いとレクチャが続いて行く。

 すんなり仕事が済めばそれに越したことはないってことでありんすか。それとも将軍御世話役を侍女頭として仕切らなければならない、それで頭が一杯ってことでありんすか。妾にとってはせめてもの幸い。難敵を最初にイカセ、あと緑と侍女三人をどうイカせるかでありんす。いくら妾が百合好みと言えども一度に五人相手は腰がイカレルでありんす。

 なんで、ありんすか。右の首に陣羽織の襟が不自然に当たる感覚が…人為的。

 ムラメカス帰蝶がマツが着込んでいる陣羽織の袖を引っ張っていたのだ。

いつからでありんしょ。黒に赤の縁取りがある陣羽織の赤い部分を華奢な指で力なく引っ張っていた。蝶のブロックチェーンの為、持つ力は或る程度あっても引っ張る力は左程ない。持つ行為はある、しかし蝶に何かを握り引っ張ると言う仕草はなく、ムラメカスを形成してから学んだ行為、まだ慣れていないのだ。指に成る蝶に誰がなるか、譲り合ったかもしれない。

 いつもはムラメカス帰蝶の一挙手一投足に気を付けているのだが、考え事の深みに思わず嵌ってしまっていた。

 まさか結構前からでありんすか。何か言いたけなので、マツは体をムラメカスに寄せ耳を近づけた。

「オミキ。お腹すいたの。」

 と囁いた。さっき食べた所でありんしょ、いやそれは妾でありんす、二人分だからお腹一杯。今何刻でありんす。部屋から障子に差す月光の差し具合で計ろうにも、今宵は曇りで分からない。腹時計も頼れない。

ひょっとして夕食の時間でありんすか。

 緑が絡んだ一件、入内許可の一件、ハナのレクチャで時間が思ったより早く進んでいたのだ。

「終わるまで我慢するでありんす。」

と耳打ち。だが交頭接耳の摩擦声は密室では響くもの。

「マツ、なんですか。マツも護衛女官ですから聞いててください。あ、でも明日は無粋なあなたより緑が直付きにして、マツは一つ後ろって言うのも手ですね。」

 一つ後ろって何でありんすか。ハナの話も聞いてなかったので良く分からないが、入洛の際の行進の順と閃いた。直付き、緑ってありんせん。

「いいえ、初めての御所。しかも待たされての御所、失踪事件等イワク付きの御所。護衛女官たる妾が直に付いていなくては何のための護衛でありんしょ。」

「は、護衛。道中、あれだけ勝手な陣離れ、よく何の為の護衛で言えたものだこと。」

「(あちゃ。)それを指摘されると弱いでありんすが、千の兵が付く行軍と妾達だけの入洛とは仕事の重みが違うでありんす。此処からが将軍御世話役護衛女官の本出番でありんす。(と張ったり御札を切るしかありんせん。)」

 ハナは、マツの張ったり御札は棄て置き、話しを前に進めた。明日入洛、時間がないのだ。

「入洛の際、護衛は明智殿が付くことになっています。曰く付き故、先手侍大将が付くのが適切かと考えています。私、六姫様と緑、その後ろに明智殿、その後ろにマツです。」

 曰く付きと言うのは三色髪姫失踪案件の事を指しているのだろう。

え、間に明智どんが入るでありんすか。一つ後ろ所じゃありんせん。何人を一つと考えているでありんすかハナさんは、と頬をぴくぴくさせながら、マツは眼球だけ動かせ、ムラメカス帰蝶の顔色をうかがった。顔が項垂れている。

「あ、天井に蝶蝶が。」

 障子の前で控えている緑が天井を指さした。

「あらま、どこから入ったのかしら障子締めきっているのに。不可思議ですね。」

蝶が飛び交っている。しかし元気がない。

「あ、こちらもよ。」

と背後に控えている丸顔侍女が声に出した。

反対側襖側にも蝶が、その蝶も元気がない。そうだ、ムラメカス帰蝶って元々蝶でありんした。おそるおそるマツはムラメカス帰蝶に目をやった。マツ側頬の一部が欠けて空洞になってる。耳たぶの下半分もない。

 空腹で維持できなくなってるでありんすか。とにかく応急でありんす。

「護衛女官として蝶を確保するでありんす。」

よわよわしい飛び方なので、あっと言う間に障子側で一匹、襖側で一匹捕まえた。

「あれえ、姫様、耳が小さ…。」

「護衛女官マツ、蝶を捕まえたでありんす。」

「って、マツって非常時ならともかく平時にそんなに自己主張する人だったかしらね。」

「自己主張は護衛女官、その一でありんす。(はあ、緑がおっとり緑でよかったでありんす。)」

「頬に大きな(ほくろ、ありましたっけ。)…。」

「さあ、ハナさん、続きをお願いします。(穴なんて言われた日にはでありんす。何か違和感)」

ハナがマツを見た。緑や他の侍女の視線も痛い。

ハナが噴き出して大笑いし始めた。笑いのツボにはまったのだ。

「マツが。マツが。ありんす忘れた。:」

と言って手を叩き畳を叩き大笑い。しまったでありんす、マツ一生の不覚でありんす。口癖だった筈の廓言葉が出なかったのだ。でもなんかこの四日疲れたでありんす、しかし明日以降もと思うとでありんす、でもそれもこれも真姫様の”巣立ち“を護るためでありんす。でも斎藤家から巣立って天馬行空になって何するでありんすか、移木の信、鬼公方退治も入洛できないから無理でありんす。遊女の道を究める、姫様が客取る姿、想像できんせん。ま、それはまた後程でありんす。

 マツは、皆が笑っている間に寄り添い蝶を耳たぶと頬に戻し修復。今度はまた一匹、眼の前に。捕まえたマツ。だがどこのピースも埋まっている。摩擦を極力控えた小声で聞くしかない。

「どこでありんす。」

「に、乳頭。」

「“にゅうとう”ってなんでありんす。」

「右のおちちの天辺。」

 十兵衛、乳頭って教えたでありんすか、厠の件もそうでありんすが、十兵衛どんが女なら、もっとキメ細かく擦りこまれ上手くいったのではと思うでありんす。

 マツは蝶を捕まえ、ムラメカス帰蝶の胸元に手を突っ込んだ。ここで御笑い時間が終わり、ハナが正気に戻った。

「まあ、マツ、姫様に何をなさっているのですか。」

と今度は目を剥きのけぞり驚愕の表情。百合という噂は本当、でも六姫様となんて。しかもわたくしの目前でえええ、六姫様の青い果実な胸に手を突っ込むなんてえええ。

「いや姫様少々お疲れ気味で、心の臓の鼓動を見てたでありんす。」

「なら、手首で脈診れます。変な測りかたしないで下さいませ。」

「この辺で終わって、もうお休みというのはだめでありんせんか。」

 取りあえず休みたいでありんす。休んで湯場へ。

マツは恨めしげに書見立ての入洛テキストを見つめた。未だ半分も行ってない。お願いを込めた上目遣いでハナの顔色を覗ってみる。

「御所の入り方、着任式のやり方を教えて、頭に叩き込み、予行演習までやるつもりなのです。」

 と怜悧な刀で一刀両断されてしまった。

「そんな今からでありんすか。所で、入洛って明日の何時でありんすか。」

「明日の正午です。」

「じゃあ明日の朝やればいいでありんす。」

「わたくしが居ないことをいいことに昼前までお休みになっている事は知っています。」

まずいでありんす。でも疲れるのでありんす。更にハナは畳みかける。

「今晩頑張って明日ゆっくり休む方が良いとはおもいませんか。尤も六姫様は着付け化粧を念いりに行いますので、早く起きてもらいますが。」

うえ、それじゃ一緒でありんす。

 起床時刻も一緒にしてある。早く目覚めても自分が起きるまで起き上がらないよう言い含めてあるのだ。起き上がった気配を障子越しに察知して、緑達侍女衆が顔洗い、着替え、歯磨き等身繕いに入ってくるからだ。

 なんて考えているとマツの頬に何かが触る。鼻になにか粉見たいな物がかかる。眼の前をヒラヒラ。なんでありんすか。と払うと。 

 それは全部蝶だ。

「いや妾は上洛して陰陽道に通じ、無から蝶を産む技を得たでありん…・。」

 キャアアなどと背後の侍女、障子の白菜頭の侍女が口に手を当て悲鳴をあげている。

「マツ、陰陽道って安倍晴明様にお会いでもしたのですか。上洛後居なくなったと思ったら、そんな恐ろしい術を学んでたのですか。それを又、よりによって大事な夜にどうして披露するのですか。」

「いや明日の余興の練習でありんす。大体急に明日って急でありんす。」

「六姫様の頭が…。」

 誰も被せてないのに緑の発言が途中で絶句してしまった。

 マツ隣を見て流石に口を両手で覆い悶絶。首がない。替りに蝶が力なく飛び交っていた。

「ハナさん。」

 障子の侍女が駆け寄った。ハナがその場に失神して倒れ込んだ。逆境に弱いハナにマツはひとまず助けられたようだが、緑始め他の侍女の手前…。

まずいでありんす。

「直ぐに食事にするでありんす、だから保つでありんす。」

マツはムラメカス帰蝶を抱きよせ、両手で頭付近の蝶を全て覆った。して、再び再構築。帰蝶になった。

「中座でありんす。」

とムラメカス帰蝶の手を取った・

「どちらへ。」

「直ぐに戻りんせ。妾を信じるでありんす。」

 マツは、障子を開けムラメカス帰蝶を引っ張って走った。緑も追って廊下にでた。廊下担当四角顔の侍女が、

「追う、緑。」

「いえ、そのままにして。それより、ハナさん。」

「しかし、あったし、思うんだけど、どう見てもおかしいわ。化け物じゃない。それとも、都は鬼、天狗、魑魅魍魎跋扈する妖しの都でわたしたち全員騙されているの。騙されるにしても、少なくともマツさんは六姫様の秘密を知っている。それを隠そうとしてる。今追えば、その秘密の扉を閉める前に入りこむ事ができるわ。」

今度は背後担当の丸顔侍女。

「解明してはいけないこともあるの。今はあたしのいう事を尊重して。ハナさんの介抱ほっといて、マツさんを追えば仮に六姫様絡みでもハナさん拗ねるから。誰でもいいから、気付薬をもってきて。」

 もう、認めざるを得ないのよ、あたしのお姫様が妖しに入れ替わっている。姫様はあたし達の元に帰ってきていない。替え玉は誰の差金、ネネさん?あの怪しい声楽家さん?それとも姫様の意志?

 背後の侍女が障子の反対側の襖を開け、薬箱を取りにいった。障子担当白菜顔の侍女は、ハナの頭を膝に置き、揺らしたり軽く頬を叩いたりしているが起きない。

「甘いわ。」

緑がススと寄り、ペンと音がする位思い切りハナの頬を張り飛ばした。

「なんか日頃の恨み入ってません緑ぃ?」

白菜顔の侍女が引いていた。

 その頃、マツは小袖と足以外殆ど蝶化した、ムラメカス帰蝶を伴い湯屋に到着した。脱衣場の屋根裏に隠していた砂糖水を取りだした。そして、そのまま湯につかるのだ。勿論戸の前に使用中の立て札を吊るすのも忘れない。

 幸い雲が切れ、月光が十二畳の広さがある湯屋の天窓から差し込みんでいた。これで入浴に支障はない。マツは暫くすれば夜眼が利くようになるが、ムラメカス帰蝶は夜眼が利かない。ブロックチェーンを以ってしても、カラー映像が手一杯で夜眼機能までは及ばなかったのである。昨夜のように闇の恐怖を取り去り手取り足とりの必要はなかった。

 これで二人だけの空間でありんす。マツは、解放されたかのように陣羽織を取り、パッと鎖帷子、さらに赤襦袢を脱ぎ棄て、晒木綿でできた貞操帯を外し全裸になった。ムラメカス帰蝶の小袖と襦袢も取り、足以外蝶化していたが、そのまま湯にむかった。マツの腹肉が見事に八つに割れている。縦長の尻の筋肉が歩く度に上下にコリっと動く、その上、膝下の長さといったら…、百合趣味がなくても憧れてしまいそうな下半身である。檜風呂の枠を難無く跨ぎマツは湯に浸かった。そして、洗い場に砂糖水の桶を置いた。蝶が群がり一斉に砂糖水を吸い始めた。すると再び体を構築、裸体の帰蝶になった。マツと比べて小振りである。肩から背中の線が丸く柔らかい。腹はマツ程ではないが…。

「よおくできてるでありんすな。何度も湯屋ともしたでありんすが、かのような(あからひく)体だったでありんすな。肩、ニの腕逞しく、腰や腹なんか引き締まって、鞠を掴み蹴っていたからでありんすな。そ、いえば真帰蝶を示す三種の神器の一つ、錫鞠、荷物に入ってたようななかったような…忘れたでありんす。」

 とりあえず一息付けたでありんす。遊郭から逃げた日もなんて長い一日と思ったでありんすが、上洛してからの一日、一日って、四六時って大きな数字を使った方が的確と思う位長いでありんす。

 ムラメカス帰蝶はスノコの上で桶から砂糖水を吸っている。肌から一斉に口を伸ばして吸っている様は妖怪そのもの。水に濡れるのはだめと最初にムラメカス帰蝶から釘をさされていた。羽が濡れては病気になってしまい、全員の命にかかわるということだった。しかし裸になって誰の目に触れず全員食事が取れる場所は湯屋しかなかった。管領家は、贅沢にも、湯屋の時間が長いのが幸いだった。湯屋の気配を察して、小者達が、外で薪を足している。ムラメカス帰蝶はマツに全幅の信頼を置くしかない、マツに命を預けていると言ってよかった

「全ては真帰蝶さんの“巣立ち”斎藤家からの“天馬行空”の為、一緒の時にはこれ程職務に力入れることはありんせんした。何の因果か、遠く離れてやっと職務一筋になるなんて人生って皮肉でありんすな。」

 湯を掬って握った湯は流れ落ちていく。深芳野様、大事な者は離れて初めて分かるでありんすか、遊郭のカムロ達、姫様。湯煙が一瞬、深芳野の大柄で豊満な裸体に見えたマツだった。西瓜のような胸でありんしたな、御師匠。

そんな望郷心を煽るような幻を見たからこそマツは現実に引き戻された。

 しかし、この先どうするかでありんす。超常現象に弱いハナさんはしっかり気絶してくれるから大丈夫でありんす。問題は緑他若手侍女、正義感強く一筋縄でいかない連中でありんす。道中でもっと仲良くなってておくべきだったでありんす。おっくうがらす先延ばしせず邪魔くさがらずやっておくべきだったでありんす。それどころか零下でありんす、晩、役目ほっぽりだして一夜の百合逢瀬に呆けて、どれだけ顰蹙かっているか、妾を見る目を見れはあきらかでありんす。

 と思いながら、ムラメカス帰蝶の裸体を見ていた。何度か真帰蝶様の周りを着物の下に忍びこんで廻って値を集めて具現化したとか言ってたでありんすな。蝶も千匹になり、脳波網を作れば人と同じかそれ以上になるって、それ何でありんすか。虫ってこの世に無数にいりんす、虫の王に君臨すれば十兵衛どん、あなた、天下盗れるじゃありんせんか。でも虫の命は恐ろしく短い、盗っても三日天下でありんすか。

 この同時刻に真帰蝶、捕縛。まだ、この時斎藤家の面々は知る由もなし、知らせてくれる虫もなし。

「相当空腹だったありんすか。今宵は長いでありんすな。」

 となどとムラメカス帰蝶に声をかけた後、扉がスライドした。結構厚い板で重い、じわじわ開くことになる。厚い故、中の音も聞こえなければ、脱衣所の音も聞こえない。管領が密談に使っていたという噂もあり、密談ではなく密会という説もある。マツは何時ものように使用中の札かけ開くはずがないと鷹を括っていた。故に扉の向こうの気配に気づくのが遅れた。誰でありんすか。

手ぬぐいが最初が見え、入って来たのは、

「わたくしも少し疲れすぎたのかもしれませんね。六姫様が蝶って、いくら本名に蝶が付いているからといって。」

ハナだった、ともう一人四角顔の侍女。

心底まずいでありんす。

マツの視線は直ぐに近くのムラメカス帰蝶に戻る。

 まだ全裸のムラメカス帰蝶が長いストロー状の口を伸ばして砂糖水を吸っている最中だった。そのストローの数、千本。手ぬぐいで前面を隠したハナはしっかりくっきり見てしまい、固まった。

「はあああ。」

又もハナ、卒倒。倒れる寸前、四角顔の侍女がなんとか抱きかかえた。当然、異変に気付いた脱衣場の警備担当の緑と他の二人の侍女が侍女小袖のまま入ってくることになる。緑は肩を怒らせ拳を握り明らかに殺気だっている。前髪の直ぐ下の眼が爛爛と輝き、マツを批難している。こんな感情露な緑を見るのはマツ初めてである。

「マツさん、六姫様、毎晩湯を使って…たのは聞いてましたが、六姫様あなたは誰…・」

 緑、感情が高ぶって噛んでしまっている。

「緑、話がありんす。」

 マツは、そうと湯からあがった。衝撃で凍りついて動けないムラメカス帰蝶に湯をかけないためである。ムラメカス帰蝶は流石にストロー口をひっこめ、単に裸の帰蝶と化していた。緑達は再び気絶した裸の小さなハナを丁寧に脱衣場にだし、布をかけておいた。

 緑と他の侍女が入って来た。裸の侍女は布を胸から下に巻き入って来た。

 マツは、

「騙して申しわけありんせん。」:

と何処も隠さず裸のまま正座して頭を下げた。ムラメカス帰蝶も続いて頭を下げた。頭を上げた後マツは経緯を説明した。

「姫様を斎藤家から“巣立ち”させてありんせ。どれだけ斎藤家が姫様を苦しめてきたかでありんす。道中、その話ばかり聞かされたでありんす。妾も一度だけ稲葉山で小見様とお会いしたでありすが、姫様付きと聞くと、“変な遊び教えたら、命はないからそう肝に銘ぜよ。いつでも光安使ってそちの首を刎ねる用意はできてる”っていやあキツイな思ったでありんす。初対面でしかも自分の娘の護衛女官に言う言葉じゃありんせん。」

「自分の娘が可愛いから言うのよ。」

「自分の娘が大事だから申し付けるのよ。」

「自分の娘が天下一だから、お付の者に厳しく言い聞かせるのよ、ね緑ぃ。」

「マツさん。うっそ、お腹割れてる。あたしお腹出てるのに。」

「「「そこかい!」」」

「小見様や姉上様その生母侍女、伏魔殿のような稲葉山からでたかったから小見様の推薦もあり御世話役立候補したでありんす。しかし、その実、小見様に御札化された姫様は、任期中の半年の間に和子を創る事を強制され、子ができたら、実娘の世話を名目に夫婦揃っての上洛、斎藤山城守家は真の山城守となる。

 これ、まさに親の手札でありんしょ。幸せと言えるのでありんしょうか。

姫様にとっては伏魔殿が都にやってくるようなものでありんす。和子ができなければ再び伏魔殿に逆戻り、また蠱毒な生活が舞い戻ってくるでありんす。」

「“山城守家は真の山城守となる”?。え、小見様が姫様を御札化、御館様が上洛って本当なのマツさん。」

 緑の後ろで、三人の侍女が?の杯を交わしている。

成り行き上、仕方なく言ってしまったでありんす。でも、いつかは明かさなければ、侍女達の輪に入れねえ、師匠。

「ごめんなさい。伝書鳩を通して、師匠深芳野様とは花弁の交換はしてたでありんす。さっき述べた事は、深芳野様の見立てでありんすが。これの何処が“巣立ち”でありんすか。“巣立ち”は天馬行空でなくてはありんせん。その為には斎藤家から離脱するしかありんせん。」

 じっと聞いていた緑と三人の侍女。まず丸顔の侍女。次いで、四角顔、白菜顔。

「護衛女官を決める方が、御世話役決めるより先だったから。ある程度覚悟してたわよ。一姫様(胡蝶)を想定してたんだもの。深芳野様の推薦受けるわよ、御館様も小見様も。でも、家を上げての行事だから、足を引っ張り合いなどしないと思ってたけど。

深芳野様は、親子仲違いを画策しようとしているのよ。御館様と小見様と六姫様は固い絆で結ばれているわ。あったし、その話乗れないわよ。」

「誘拐犯が、偽物立てて、堂々と目の前にいるって感じ。今宵ばれたから良いようなものの、入洛してばれたら明智家は大恥かくんじゃないの。当然、光安殿は切腹ものよ。」

「六姫様側から見れば深芳野様そして、マツさん、ネネさん、十兵衛様が一線に繋がって、姫様の立身出世を阻んでいるように見えちゃうよね緑。」

「深芳野様は、一姫様同様、六姫様のお味方、それは穿った見方というもの。あたしはかつて五姫付きだから分かります。深芳野様は六姫様を心から案じておられたの。御世話役で六姫様を応援する心に偽りはないわ。その深芳野様が推薦したマツさんよ。」

なんか、緑かたじけありんせん。妾の失言すら挽回して頂けたでありんす。

「これは姫様の選択でありんす。力ずくで奪回する手もありんしたが、姫様が選択した真の“巣立ち”でありんす。斎藤家から天馬行空の“巣立ちでありんす。」

三人の侍女は視線の杯を交し、最後一斉に緑を見た。発言したのは、丸顔の侍女だった。

「六姫様から直に伺う手段がないので、天馬行空の“巣立ち”の選択に付いては裏取りしようがないんだけど。

寧ろ大事なのは、三姫が鬼公方に食われてるって言う疑惑。仮に今、真六姫様が此処にいて、明日入洛すれば、即六姫様は、公方様の食卓に乗るかもしれないってこと。」

次に白菜顔侍女。

「女体盛りを女体ごと食われてしまうって話、鬼よね。ああ怖、ね緑ぃ。」

「あたしのお姫様は、その公方様を退治するって宣言してしまい。これは謀反を宣言したに等しいってことなの。このまま明日入洛となれば…。」

「妾達利害関係一致してありんせんか。明日、本物の姫様を入洛させるのは、いかに危険かと。姫様だけでなく、室町と斎藤家で戦になりんしょ。」

それで…とマツは、ムラメカス帰蝶を左親指で差している。

「四日でばれたのよ。いや、あたいは、マツさんと帰った時からおかしいと思ったよ。性格変わってるし、こんなまやかし!御所に速攻でばれるよ。特に管領様と兵部様は美濃で六姫様を見定めているの分かってるマツさん。それより前ハナさんどうするのよ。」

と白菜顔の侍女。

「嘘は百回付けば真実に近づき、千回付けば真になり、一万回付けば伝説になりんせん。一人が一万回付くのは時間がかかりんせ、でも、多くの人を抱き込んで嘘付けば一万回なんてあっと言う間の六姫様伝説でありんす。(他に手はなし、我ながら強引でありんす。)」

そこまで言って又若手侍女達の協力を願って頭を下げた。勿論ずっと裸。ムラメカス帰蝶も続いて頭を下げた。マツの肩の筋肉が天窓から差し込む月光でテカっている、鍛え上げられている証拠だ。

 ざわざわと侍女達が視線と囁きの杯を交わし合った。緑は三人の意見の聞き役に回っている。そして宣言した。

「あたしは協力しようと思う。マツさんの話に乗る。」

 相手は天下の公方様よ、ばれたら、光安殿だけでなく侍女皆打ち首か下手すれば戦よなんて四角顔侍女の声、入洛の前、ハナさんどうするのよの声が上がる。意見の出尽くしはすぐ訪れた。自然と三人の侍女の見上げる視線は緑に集まっている。縋るような目、緑に発言権が与えられ、前述の様な力の籠った発言になった。

「ハナさんを説得するつもりはないわ。御所にばれたら打ち首でもなんでもすればいい。」

緑の覚悟をしった侍女たちはそれ以上反論しなかった。大柄な緑が代表になり

「あたしたちは協力します。一に六姫様の“天馬行空”の為、ニにマツさんが、裸のままどこも隠そうともせず語ってくれたこと。身も心も全て包み隠さず話して、赤心を晒してくれたから、信じて協力します。」

と強く語った。ただ、緑は一抹の不安が、あの六姫様の上洛する際の鬼退治宣言はなんだったのか。かねて寄り移木の信などと語っていた六姫様、あの宣言はそれに値するものではないの。斎藤家から離れてしまえば、その機会は極めて困難になり、殆ど不可能になる。元々斎藤家の事を考えない為の意識を他に集中さすための材料に過ぎなかったのか、見ず知らずの姫の仇打ちより、斎藤家から離れた方が心地いいと考えたのか、それこそ、真の”巣立ち“。細部は本人に聞かないと分からない。しかし、六姫様失踪案件は、最初失踪だったにも拘わらず、売られた先の遊郭に残り将軍御世話役は替え玉を立てる事を六姫様は選択された。斎藤家との縁切り”天馬行空“。六姫様の最終選択を重視し守るべき。

あたし達は護衛女官が連れてきた替え玉を本人として扱い公方様、管領様含めて全ての人を騙していくしかないじゃない。それが六姫様への忠義よ。

 そう結論に達したのである。ここで、ようやく四人の侍女とマツ、ムラメカス帰蝶はブロックチェーンで結ばれたのだ。後ハナと光安だが、騙すにしても説得するにしても自分達が協力して何とかする何とかしてみせると言う事になった。

 マツはほおおおおおと吐息した。人生の危機が去ったと大袈裟だか其処まで思った。そして、湯覚めした、もう一回入ってもいいと確認とってから、又木枠を跨ぎ、湯船の人となった。マツは恥じらいすらなく平気で緑達侍女に無防備な下半身を晒した。見せつけられる緑の方が、筋肉質で縦長の大きな尻が眼の前に来て顔を逸らしていた。その恥ずかしさを紛らわす為、マツさん今迄お疲れ様、後はあたしたち侍女達が…、その方が自然でしょうと、緑がムラメマス帰蝶を世話することにした。一緒に湯屋を出て、脱衣場の籠に畳んであった襦袢を着せ、さらに小袖を帯で留めた。

 緑は表面だけの蝶の集合体の為、崩壊させないよう、小袖が解けないよう気を遣いながらゆるりと帯を締めた。

帯の締め付けには緩いなどキツイなど五月蠅い真帰蝶だったので、その調整は慣れたものだった。ムラメカス帰蝶は少し小首を左に傾け眼を細め口角を少し上げ心地良い様子だった。

良いって考えていいのね。反応が薄いのは、六姫様の性格を知らない造り主が理想の姫様像を思って創った為だろうと緑は解釈した。フト、脱衣場の棚で気付いた事がある。

ムラメカス帰蝶の召し物は畳んであったが、マツ自身の鎖帷子や陣羽織、襦袢、晒は籠に乱雑に突っ込まれていた。急を要したのは察せられるが、それでもムラメカス帰蝶の小袖、襦袢が皺にならないよう畳んだのは、マツの仕事に対する繊細さが見て取れた。それもこれも六姫様…真帰蝶の“巣立ち”天馬行空を護るためである。あたし達も…と緑は改めて誓った。

一方、失神した、ハナはどう扱われたか。他の侍女二人が白とオレンジの格子柄、侍女小袖を締め直し、肩を貸し寝室に向かった。二十四歳と大人だが、自分達と同じ位小柄なハナで幸いであり、入洛レクチャは自然と御開きとなった。

 なんか面白くなってきたね。天下の将軍様、管領様相手にペテン演じるんだもの。それが六姫様“あたしのお姫様”の為。

 などと緑は明日の入洛に前向きになった当にその時、真の帰蝶が、なんと帰蝶誘拐の罪で御所に捕縛され、管領邸に入ってきたのだ。自分誘拐の罪で捕縛され裁かれる。本人はどう思ったか、縄はかけられないが藤孝と共に馬で連行された、帰蝶、管領邸に入るまで、兵部藤孝に何も語らず、何も答えず。そのまま地下牢に入れられたのだった。

 地下牢で入って木枠越しに藤孝は問うた。

「何を見た。何をされた。言ってみよ。悪いようにはせん。緑色の髪の姫はいなかったか。」

 藤孝は、十兵衛の店、祇園全てを疑っていた。斎藤兵に姫を浚う瞬間を見られ、三色髪姫失踪案件の尻尾を遂に掴んだと思っているのだ。管領が十兵衛に帰蝶を入洛さすな、なんて話は知らない。知ってるのは、ここ四日で、鬼公方が御世話役の姫を喰っているという京雀達の噂だ。

「他に色髪姫は見なかったか。」:

 この噂の出所も祇園、十兵衛の店じゃろ。犯人を公方様にして、自分達はのうのうと御世話役を遊女として働かす。妖術系と支配系の“とりわけ人”十兵衛、記憶や容姿を改竄する力も持っているのじゃろ。眼の前のこの者から何か聞きだして、必ず近日中に祇園を暴いてみせる。

 真帰蝶は意識あるものの広い座敷牢でぐったりと座ったままの無反応だ。藤孝は舌打ちをして、背を向けた。

この一件速やかに静かに光安へ報告は入ったが、当然ネネ捕縛と報告された。

「ほう筋を通してくれたか、偉い。足利御所再興の日は近いか。」

 因みに公方義輝は酔い潰れて馬の上で寝てしまい、そのまま御所に帰ってしまった。翌朝、今日の正午御世話役入洛と聞かされることになる。

「面通しだけお願いしたいのじゃ。」

 細川家小姓より報告が来た後、兵部藤孝自ら、光安に会いに来た。

「面通し、面倒でござるな。確かに誘拐はされたが、一晩で姫は戻ってこられたし、無事で怪我もしていない。生娘のままだ。ネネも食うためだったのだろう。美濃一国の大名が上洛して些細なことで京雀の方を御所に訴えその上罰を受けさせたとなら、上洛早々聞こえが悪い。放免でいいでござるよ。」

「分かった。だが、これは今後の十三代公方体制の挨拶替りの意味もあるんじゃ。祇園不入の権を今後は赦すまじという。体裁だけでも、祇園に御所が武装して入って式目破りの狼藉者を捕縛したという事実が欲しかったんじゃ。ネネは形式だけの取り調べと御裁きやって直ぐ返す。その取り調べの前に被害者側に面通し、ネネ本人かどうかの確認がほしいのじゃ。(察せよ。公方が御世話役を喰う鬼と言う降ってわいたような疑惑を払しょくするためじゃ。協力してくれ。いや木枠の向うの者を協力させてくれ。)」

 帰蝶に仕込まれたメタタグを取り払ってくれと藤孝は言っている。メタタグの向うに失踪した御世話役色髪姫が居ると踏んでいるのだ。

 そういうことならと光安は真顔で納得した。蟹将光安、裏の意味を果たして理解できたかどうか。

 その直ぐ後光安は、藤孝に連れられ、地下に降りて行った。地下牢といえば冷たい石垣に囲まれ、百足がうようよいて暗くじめじめして寒い牢屋というイメージがあるが、管領邸の地下牢はそんなイメージを覆すものだった。第一、屈むことなく普通に木製の階段を下りていく。灯が左右交互に点けられ、その間隔も狭く以外と明るい。木のぬくもりに囲まれ廊下を歩いて行く。木の格子に囲まれた部屋が左右に存在する。仕切りを越えた右の二つ目の部屋に帰蝶はいた。広いとは述べたが正確には八畳敷きの部屋。その奥に帰蝶は白襦袢の上に赤襦袢を重ね着し足を投げ出し座っていた。天井付近に小さな長い窓が部屋の端から端に切ってあり、そこから月光が入って来た。だが逆光だ。灯も届かない。

「面通しと言われても、これでは通しようがないでござるよ。」

「そうじゃな。近うよれ。」

 と言っても反応がない。仕方ないと兵部は南京錠を開け、光安と共に入っていった。左右の部屋に南京錠、十兵衛の店と同じだか、違う点は畳なく板の間ということ。これは冷える、女子にはキツイ。

 光安は、得体のしれないネネと意識しており、腰の得物に手をかけ警戒した。偽ネネ真帰蝶に近づくとアンモニアの臭いがした。右隅の甕からしている。

「早速足したのか、足したら、蓋しめと言ったじゃろう。」

 微動だにしないので、兵部自ら、甕の隣に投げだしてある板を広い、蓋をした。一日一回甕を取りかえるらしい。

「悪いがちと顔を上げてくれんか。」

兵部は臍を曲げられると事なので、少し丁寧な良い方をした。偽ネネ真帰蝶が顔をあげた。

兵部は灯を当て、顔が分かるようにした。熱さと眩しさで顔を顰めた。

 光安は足を広げた偽ネネ真帰蝶の顔を右から斜めに見下ろした。自然と閉めていた雲髭を纏った口が少し開いた。

 帰蝶と分かれば、光安どうでる。詳しい話や帰蝶の心の綾は分からない。

ただ明智光安、斎藤道三の先手侍大将。今回の役目は斎藤六姫帰蝶を将軍御世話役として御所、足利義輝に無事預けることである。眼の前にいる罪人が、真帰蝶と分かれば、階上にいる帰蝶は偽物と言う事になり、新たなる案件の発生ということになる。そうなればなすことは偽帰蝶を捕縛して、真帰蝶を地下牢から解放し、明日の入洛は真帰蝶を出さなければならない。

 藤孝は、それを待っている。メタタグが外れ真帰蝶により十兵衛が店の秘密が暴かれ、三色髪姫失踪案件解決に大きく動くと考えている。

 真帰蝶は何も言わない。

 甘いか。こ奴をネネとして差し出したのは十兵衛本人。わしが斎藤の者に引き合わす事も想定して妖術を仕込んでおるのじゃ。

 眩しそうな顔の帰蝶は何かを訴えかけるように目を開け光安を見ようとする。話そうと思えば話せる、声を出そうと思えば出せる。だが真帰蝶は何も言わない。

「そち、自分の名を申してみよ。」

何か言いたいのか。藤孝が真帰蝶に声をかけた。真帰蝶は黙ったまま。

「分かった、もういい。」

 光安は大股に一歩後ずさりして、踵を返した。相手が誰であろうともどんな瀕死であっても間の内では背を向けないが武に生きる者の鉄則である。誰の間、真帰蝶それとも光安からすれば三色髪姫失踪の疑惑もあり敵か味方が不明な細川藤孝。

 光安は頭を下げ、座敷牢の木枠を潜り出て行った。藤孝が後に続き、南京錠を閉めた。光安は自分だけスタスタと階上に上がっていった。そして玄関の石畳みの広間に出た。小走りで追いついてきた藤孝が尋ねた。

「どうじゃ。ネネか。」

「と聞かれても、数日前に数刻一緒にいただけだ。それもずっと顔を拝んでいたわけではない。若い女子の顔を拝み過ぎると気味悪がられるからな。寧ろ一緒にいた侍女頭ハナに確認させてほしい。」

なんと光安は帰蝶と分からなかった。薄暗い中、見にくいのもあるが、それほど醜く変貌を遂げていたのである。帰蝶もなぜか自分が帰蝶であると訴えなかった。このまま大人しくしていれば明日の夜には十兵衛の店に帰れる。そして放蕩三味。鬼に食われるかもしれない将軍御世話役斎藤六姫であることより放蕩三味を選んだのか。光安はハナとの面会を希望したが、緑に既に御休みですと跳ね付けられ、明日の朝出直すと言って退散した。

「明日の朝は入洛なのは先手侍大将殿もご存じかと。その準備でハナさん忙しいかと…。」

と蟹の背中に語りかけた緑が言い終わらぬうちに再度振りかえり、

「(話なげええんだ。簡潔にさっさと言え。元居た五姫の生母って深芳野側よな。)その準備の前、朝一で時間を拙者にお貸し願えないか。頼む。」

といつになく真剣な顔で合掌して再度背を向け自室に帰り、そのまま休んでしまった。

 

 一方、藤孝は、斎藤家を理解しかねた。なぜ侍女頭に委ねるのじゃ。女子の事は女子で決めることになっているのか。ネネかそうでないか、分かるだろう。それとも、本当に面相が分からなかったのか。確かに、数日で其処までブタるかと言う位ブタったが、分かるじゃろ、使えねえ蟹将じゃ。

 藤孝は門柱を蹴って帰ろうとしたが、管領邸であることを思い出し、もやもやを発散できぬまま引きあげた。


 次の日の朝、緑、夜明け前には起きるような習慣になっている。オレンジと赤の格子、フォーマルな侍女小袖を身に付け、障子を開け、陰鬱な気分になった。激しい雨音。本降りの雨だった。

「憂鬱な雨ね。皐月に入ると雨が多くなるわね。」

「…。ろ…」

「六よ。」

「六姫様ではと言おうとしたのです…。」

「あなた、おっとり、ゆっくりね。」

「はいよく言われ…。」

「どこの侍女なの。」

「五姫様の…」

「いけずだけで飽き足らず助平に悪戯瘤が付いた五つ姉。でも絵だけは負けるのよね。私に画力があれば超えられるんだけど。あの画力だけは尊厳に値するのよ。」

「はあそうです…。」

「五つ姉とはちょっと間が合いそうにないわね。五つ姉だったら“はあ”で切られるわよ。聞いてられない待ってられないって。じゃない?あなた私とこ来ない。私ならはあそうですまで待ってあげられるから、ちょっとは不満が和らぐでしょ。」

 緑の前に小さく綺麗なおいでおいでが示された。何時見てもあたしより少し小さく、ほんの少し小さく愛らしい末の御姫様。

「あの一月程前の雨の日にも同じ事(言われたのですが、まだ実現していません。)」

「ハナに話し通しとくわ。五つ姉んとこの侍女商い出してって。」

と言ってスタスタと帰蝶は去っていった。ハナに話しって洒落じゃないわよっ。

 前よりは大きな手に、錫髪も一層輝かれて、それに侍女連れじゃなく一人でいらしたのですか…。つってあたし何、立ったまま夢見たの。

 それにしても、なんて雨、庭が見えない位の豪雨。認めなさい!緑の脳の別の領域から声がした。この豪雨は私の目の上から奥から下から溢れ出ていた。

 いま、此処にいる六姫様は人あらざる偽物、六姫様はこの世に唯一、あたしにとってかけがえの無い御仁。あたしは、また何時ものように上の人の言い付けのみを聞き、周囲に流された。何処かで抵抗すべきだった。常に目の届く範囲に入れ、腕を引っ張り肩をお抱きし、あたしの懐に抱きとめておくべきだった。あたしは、あたしの人生に於いて最も大事な御方を失ってしまったの。遺憾千万!

 緑の膝が崩れた。支える自信がない、支える価値がない私の上体、このままだと床に這いつくばっていただろう。その寸前、ムサイ臭いの主に額からドンとぶつかった。それは光安だった。夜が白んできた頃合い。こんなに早くどこに行くのかしら。その疑問がネガティブからポジティブラインに心の針を揺り戻した。

 あたしが此処で崩れて、どうするの、誰か助けてくれるの、五姫様の元に居た時にように呆れ果てられるか蹴飛ばされるだけじゃない。

 緑は一礼して、侍女頭部屋、ハナの個室に急いだ。管領邸に入ってから、ハナは斎藤家全体の仕切りで忙しく単独の部屋を宛がわれていた、いや自分が決める立場だから、強引に帰蝶の部屋数を削って一部屋自分が独占したのである。

 六姫様、いえ元六姫様と呼んだ方がいいのかしら。

 元六姫様ならハナが一部屋って偉くなったものねって言いながらも許したでしょう。元六姫様、やっと最後にあたしの名前憶えてくれたのに…。今頃、又あたしを忘れて天馬行空を謳歌しているのでしょうね、あたしは広い都で狭い斎藤家の中で元六姫様と比べたら些細なことで格闘してます。

 そうあたしたちはマツさんと秘密を護り、ハナさんを騙して行かなければならない、

 緑は、障子を軽くノックして来客があることを告げた。

「こんなに早くからなんですか。まさか六姫様の内弁慶から内が抜けて絶好調とか、それを天が憂う雨なのですか。あ、でも六姫様は雨を降らす方でしたね。この所、曇れど雨まで至らない日が続いてたので髪を斬らなくてもすんだと喜びはしゃぎすぎて転んだとか。 にしても、早起きはあまりしない御方でしたのに。で珍しく早起きされましたと言う報告ならわたくしは怒りますよ。」

朝から絶好調なのはどちらなのと言いたいのよあたしは。

「御来客があるのですが。」

「未だスッピンピンのピンなのですから勘弁してくださいな。」

「あの、明智殿なのですが。」

「光安殿ならスッピンピンのピンでもいいわ通して。」

「拙者ならいいんかい。男扱いされてないのか拙者は。」

「違います緊急なのでしょう。開けて緑。」

 気心知れた仲だからこその軽妙か掛け合い。帰蝶の生母であり正室である小見の方は光安の妹であり、ハナの生母は光安の従妹に当たる事を緑は思い出していた。

 緑がそうと障子を開けた。布団は上げ、緑と同じ侍女小袖を身に付け、書見立を置き、その前に片膝立てで座していた。顔洗いは済まし、くっきりした表情で今日の入洛の段取り、公方様との対面式の段取りを書いた台本を読み、頭に叩き込んでいたのだ。首から上は怖くて見れない。二十代も半ばに差しかかったハナさんの素顔、狸そのものかもしれないし、どちらにしてもぞっとしそうだから、そのまま頭を下げて退散した。緑は真帰蝶より一年ばかし下と見られているが、誕生日を祝う習慣は当時まだなく本人も正確な生年月日は知らないし興味がなかった。

 緑は廊下をスススと足袋で滑る様に通り抜け、雨音を恨めしく思いながら三つばかり部屋を通った所で侍女部屋に戻って来た。

 部屋に戻ると、同じくフォーマルな侍女小袖に着替え身支度を済ませた三人の侍女達の囀りが始まった。丸顔、白菜顔、四角顔の順で会話を回す。

「起きてたハナさん?」

「でも化粧してなかったんじゃない、ね緑。どんなだった。」

「まさか。狸丸出しだったとか。」

「案外自分狸だから、六姫様が蝶だってわかっても、あらそう程度で済みそうじゃない。」

「まあさかああ。じゃあ、昨晩卒倒したのなんだったのよ。」

「蝶と六姫様が繋がってなかったのよ。首が落ちたり、肌から無数の口が飛び出したりして、姫様、妖怪かああって。そっちで驚いたって。」

「だから、全身蝶だったってわかったら、何も言わないし普段通り進むって。知らんけどな。」

三人爆笑し、乙女会話花盛り、おっとり緑も何か言いたいが突っ込む間が開かない。それより、帰蝶様。マツさんは後一刻半。帰蝶様は、そう半刻で起こしましょうか。

 乙女会話は、ほっとけば何時までも続く。帰蝶付きになった時、緑が一番感じた事はハナが手取り足とり口出しし過ぎるため、平侍女達が自分で考えず指示待ち侍女になっていたことだった。その為おのずと緑が二番手になってしまった。その事にハナは気付かず、緑も差し出がましく指摘しないので、ハナは緑を警戒していた。次は自分を越えるつもりかと。その上、五姫様のたらちね様は深芳野様派よねとか、あなた出自は?とか。あたし知らないわよ。

 緑もハナが持っている指示書と同じものを支給されていた。三人に帰蝶様の身支度の準備を支持し自分は膝の上に指示書を置き眼通し始めた。あたしも昨晩寝てしまったしね。

 その時、隣の姫部屋の襖が開いた。それは、眼の下に隈作ったマツだった。

 白菜顔、四角顔、丸顔の順で会話を回す。

「せめて、そのクマとってから出てきてよ。ね緑。」

「初めて早起きできたんだから褒めてあげなよ。」

「二度寝はダメよ。あったし槍刺しとくね。」

「槍って、爪楊枝位にしてあげなよ。ね緑。きゃっははは、」

 冗句毒舌の餌に噛みついてこない。

「あ、二度寝していいよ。クマあったら、なんか色々まずいんじゃない。ハナさんとか、公方様とか管領様とかハナさんとか。」

「ハナさん二回でてき…。」

「マツさんどうしたの。入ってきて。(自分が遮られるとへこむから、ま、諦めているから、他人だとへこむか怒るか悲しむか三択だと思うから間を待ってたけど、この子達ってネタ尽きない子達。)」

「帰蝶様が変でありんす。」

一瞬の間。

「肝心のマツさん、一晩寝てこの激動の四日間を忘れちゃったとか。」

「人じゃない、ムラメカス帰蝶様だと隠してたのはマツさんだよぉ。」

 マツは、引き眼をカと見開き、大きな手と長い腕でバと襖全開した。


 一方、ハナは、光安に導かれ玄関にその小さな姿があった。同じ背丈の小さな兵部藤孝の折烏帽子がある。光安の蟹体型が殆ど異世界の怪物に見えていた。

「面通しを願いたいのじゃ。明智殿に昨晩してもらったが、暗さと接触の少なさで確認できてないのじゃ。間違いと言う可能性もあり面識のある被害者側の方々に頼んでおるのじゃ。」

 ハナは背中を向け、貝殻を取りだし化粧の真っ最中。

 全く兵部様が来てるなら来てるって言って下さいませ、一瞬とは言え(ただ)(かお)を見られたじゃないですか。

「わかりました伺います。でも少しお待ちを。」

 ハナは縁に座り、二人に顔が見えないよう横座りして、眉を描き紅を差し急いで整えた。四半刻会話なく手持ちぶたさに待たされた二人、ハナだけが疲れる位急いで、ようやく藤孝の先導で地下牢、面通しに向かった。憮然とした光安、緊張した面持ちのハナ。光安はハナに詳細は伝えていない、とにかく暗くてよく見えないと。化粧、化粧によって女子は変わる。四日間で変貌し、さらに姫化粧すらしていないとなれば、光安が真帰蝶と認識できないのも無理はない。唯顔を知らないのだから。だが、ハナなら。

 地下牢への階段を降り、薄暗いが、階段の上下にある鏡で雨天にも拘わらず雲を突き抜けなんとか届いた朝日を上手く取り入れ通行には支障なかった。晴れていればもっと明るかっただろう。その為通路にはカビ一つ生えてなかった。

 そして、地下牢通路も鏡効果と地下牢上部にある窓で日光を取り入れていた。だが今朝は雨、薄暗さは仕方がないが夜よりは大分ましである。構造がはっきり見えるなどと光安が感想を述べるが、二人にスルーされていた。

 そうですね、とか同意してもいいだろ。妙な緊迫感が漂っていた。

 つまらん話に付き合えるか、こっちはさっさと公方様への鬼疑惑晴らしたいんじゃ。鬼の十三代と言う落書が朝早々室町近くで見つかったばかりである。ご丁寧に雨の当たらぬ廃屋の軒下に扉一杯墨で描かれていた。鬼公方噂の出元は祇園じゃろう、あの十兵衛の店が思い切り怪しいんじゃ。侍女頭なら、十兵衛の仕込んだタグ(妖術)破ってくれるじゃろ。

 真帰蝶の牢の前に来た。真帰蝶は部屋の奥にいた。壁を背に頭を垂れていた。自分が帰蝶と訴えるか。それとも、ハナが気付くのを待つか。

「ハナさん、結構近くで行動を共にしたとか聞いているのじゃが。あの者がネネで間違いないじゃろか。」

 ハナは斜めから見て、それから正面、そして木枠にかじりついて見つめた。朝日が差していれば逆光で暗かったもしれない。顔は下向きだが、かなりはっきり見て取れた。ふっくらした体型も。藤孝は声をワンと響かせた。

「起きているんじゃろ。ちょっと顔を上げ、目を開けてくれ。」

 反応はない。さらに言いかけた兵部をハナは左手で制した。鋭い視線で真帰蝶を見つめた。言葉はない。眼を閉じ言葉は無いが、右手が動いていた。何かを探る動き、何かを探す動き。眼は閉じたままだが、その動きは錫鞠を求めていた。連動してハナの唇が動いた。

「では戻りましょうか。」

 ハナはさっさと階段へ向かって行った。

‘’な‘’兵部は年上だが自分と背丈が変わらぬ大人なハナを足早に追っかけた。結論は出たと光安はのっしのっしと後を追う。

ハナは途中立ち止まり、顔を袖で隠し、手で指図して、兵部と光安を先に階段に行かせ、自分はまた最後尾から階上の玄関へ戻っていった。牢に一瞥すらせず。

 玄関、ハナは光安に向かって頷いた。

「ネネだ。間違いないでござる。ハナが言うのだから確かだ。」

 ハナでも分からなかった。それほど変貌しきっていたのか。帰蝶のお産にも立ちあい、乳母の子と言う立場で常に面倒を見て一緒に遊んできた。そして、侍女となり、自分の母である乳母が亡くなった後は十八歳で侍女頭に就き、帰蝶の御世話を四六時中滞りなく務めてきたのである、誰よりも帰蝶を知っているハナ。そのハナがムラメカス帰蝶を真帰蝶と信じ、四日間離れ五日目の朝、本物に再会したのに認識できなかった。

 斎藤家という冠があっての帰蝶だったのだ。姫身分が落ちた途端、ブタり、侍女にさえも認識できないほどオーラが削げ別人になってしまったのである。

 一方で、ハナは三色髪姫失踪案件を真ネネから聞いて以降、なんとか帰蝶の上洛を思いとどめようとした。湖畔の君との婚礼まで、公方が誠鬼なら飛んで火に入る所だったのだが。帰蝶を失踪案件から避けるために真帰蝶だと理解しながらネネと言った可能性も否定できない。

 もし、そうだとしたら、祇園の十兵衛が怪しいと睨む藤孝と共闘する可能性を自ら絶ってしまったことになる。

 お互い建て前論に終始し、腹を割れなかった所に悲劇がある。三色髪姫失踪案件の解明は遠ざかった。藤孝の見立てが正しければ、十兵衛の店に戻され、真帰蝶は三色髪姫同様失踪する事になる。だが鬼公方が正しければ、これはハナの判断により三色髪姫失踪案件に巻き込まれることなく助けられた事になる。地下牢に居る者はネネであり、御世話役として入洛させられないからである。

 藤孝は厳しい表情で、

「では管領様に報告して、今日は入洛故、明朝木端役人(モン)が引き取りに参る。御所で管領様が御裁きになる。それが終われば帰していいな。簡単な注意勧告で終わる筈だ。つまり人身売買などから足を洗い真っ当に生きよと言って終わりじゃ。それで元の遊郭に戻す。」

「御裁きは、こちらでやればお宜しいのでは。」 

 ハナは管領晴元が自邸つまり正室の居る邸宅に近寄らないことを皮肉った。御所に誰か囲っているのかと疑われても仕方がない。実は管領正室(三条公頼長女)侍女頭より、六角家娘である側室以外に新たな妾、そんな疑惑に御正室様は心痛していると言う話を聞いていたのである。六角家娘は政略だけど、もしそれ以外に女人を御所で囲っているとしたら、それは本気、もう半年も管領様と会っていない。室町御所とは通り一つ隔てた近所にも拘わらず管領は自邸に帰っていないのだ。

 “管領謎の帰邸拒否”

この話も又、怪し過ぎ、当に妖しの都は的を得ていた。

御正室は、側室の拒否権を持つ。つまり、管領が室町で囲っているのは、恐ろしくて正室に紹介できない女人と言う事になる。

「色々あるんじゃろ。ワシもよう知らんのじゃ。それじゃ。」

 天を見上げながら、上りかまちを越えようとした時、

「ちょっと待って頂きますか。」

とハナが声をかけた。雨音にも拘わらず、石造りの玄関に上手く響き、兵部を振りかえらす事ができた。通らないわたくしの声が届いてくれました。

 所が兵部が振り返るや否や今度はハナが踵を返す番。兵部はハナの橙色の結び目を見る事になる。横長でこんもり盛り上がった臀部が大人を感じさせる。イカンと視線を逸らし、

「なんじゃい。」

 と悪態を付いてみる。

色気付いたのを恥じる兵部は気に止めず、ハナは背を向け、光安と密談し始めた。光安が腰を折り曲げて、ハナが伸びしてやっと額を付き合わせている。

「密談は密室でやってくれ。」

 と言う藤孝の独り言を雨音がかき消す。最悪じゃ。四日間晴れてたのに、その間に入洛を済ませてしまえばよかったものを。正午を機に晴れたらいいのじゃが。

 !!理由付けて日延させたのは管領様じゃ。何故じゃ。まるで、公方様が鬼で御世話役を喰ってしまうのを懸命に避けているように見えるじゃないか。いや、それと、あれ程色髪噂を聞きつけ喜々と乗り込み美濃へ乗り込んだのは良いものの、当の帰蝶を見てからの管領様の狼狽振り。悪戯好きだったが、大人の管領様が怖がる代物じゃない、第一管領様の御世話するわけないじゃろ。この二つって繋がるのか。

「ハナの声は通らねえええ、兵部殿!」

 と言う光安の声が藤孝の背中に聞こえ、すまんじゃったと振り返った。ハナの少し怒った目と膨れ面に罪悪感を感じながらも、丸で狸じゃと言う感想が別脳域から湧いて出た。

 ハナは光安に目配せ。光安が口を開いた。

「前言撤回でござるよ兵部殿。」


真帰蝶は錫鞠を追う仕草で真帰蝶であることをアピールしながら、なぜ目を閉じたままだったのか。夜が明けても悪天の為薄暗い地下牢。時間的観念がなくなり、寝て起きてすぐ寝る夢うつつ定かなる状態に陥っていたのである。ハナが来た時は丁度、夢を見ていた。美濃や上洛途中の夢ではなく、最前、十兵衛の店でネネと語らう夢、三日目の出来事を思い出していた。

「でも姫はん残念やわ。新しい室町御所って、旧斯波邸を斎藤家が寄進して創りなおしたんやで。知ってっか。」

「知ってるわよ。どうせケチな御館だから殺風景な御所になったんじゃないの。美濃じゃ、火鉢一つ買うのも大事なんだから。三つも四つも見積もり取って。安い店選ぶのよ。」

「と思うか。そう思てくれたら話甲斐あるわ。それはもう豪華絢爛を絵に描いたような新御所や。黄金の屋根に朱塗りの柱。きらきら輝く石畳み。屋敷の中には南蛮の装飾物で一杯やって。」

「見る機会ないからって言いたい放題吐けばいいってもんじゃないわよ。そんな金銀美濃にあるわけないじゃない。しかも確か普請は二ケ月じゃなかったかしら。二ケ月で確か戦場になった旧斯波邸が豪華絢爛になるわけないじゃない。都に美濃は伝わらなくても美濃に都は伝わるの。」

「見せてあげたいわ。」

「なかなか嘘って白旗あげないわね。じゃあ聞くけど普請主は誰よ。大工の親方よ。」

「よう聞いてくれた。大和出身の松永弾正はんや。」

「聞いた事ないわね。出まかせ言ってんじゃないの。錫鞠ネネに当てるわよ。あれ、鞠…鞠が…。」


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