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②プリンセス・ロンダリング

2.プリンセスロンダリング


「では行くとするか。」

 帰蝶が素早く輿に収まったのは早く行けと言う事である、光安はハナを見た。ハナも頷いた。光安は改めて出立を宣言した。峠を越え、遂に都入りすることになる。

帰蝶は、窓の御簾を下ろし、輿内に物思いにふけっている。

 確かにあれは妖し、魑魅魍魎の妖精型の妖しが集合して嫗と介添えを形造っていた。

山科輪廻”“幻嫗”、どうしても都に入れたくない者がいる。鬼将軍に食われる私を助けようとしている、善意に受け取れば。悪意に受け取れば、私が将軍御世話役になっては困る者がいる。

誰唯一その鍵を持っているのがネネよね。

 帰蝶は窓を開けた。

「ネネ、都はやっぱ、あんな魑魅魍魎多いの。」

 そのネネはマツの馬によっかかるようにして、懸命に歩いていた。先導が船頭になっていない。顔も青白い。

「怪談話は山のようにあれど、見るのは初めてのようでありんす。で、気分悪いって妾の愛馬に付き添って貰ってるでありんす。」

 とマツが答えた。“幻媼”に恐怖した?

 何処まで信用できるのやら、本当に恐怖したなら、尿チビって腰抜かすわよ。

 大体…侍女も兵達も美濃で人の生き死にの修羅場を越えてきているから、揺るがないわよね。左側の輿屋根に寄りかかる力が。

「ハナ乗る。」

 危機、突発的な出来事に弱いハナが気分を害し、輿を支えにしているのだ。否定するかのように輿から力が抜けていく。

「いいのよ。寄りかかるだけ寄りかかって(重いのは担ぎ手の兵だし。)あなたには今後も私を支えて貰わなくてはいってもらわなくてはならない。入口ですら、あんな幻嫗が足止めしてくるんだし。御所に行く迄位、私の輿を支えにして。」

 帰蝶は輿の壁に背持たれた。帰蝶の気持ちが力になったのか、それから四半刻後、ハナの足取りは確かなものになった。そして、左から

「六姫様、紆余曲折を繰り返しようやく四通八達の都に到着致しました。」

 と言うハナの元気な声が聞こえてきた。

 碁盤の目の如く区切られた通り、二階建ての瓦葺きの家屋が整然と並ぶ都の街が視界に入って来た。窓の御簾を半分開けた帰蝶は感激した、稲葉山の麓の数百倍、数千倍の規模かしら。地の果てまで、この街が広がっているかのように見えるじゃない。そんな街から京雀がワと道に溢れ出てきた。な、なによ。斎藤家上洛の噂は既に耳に入っていたのだ。待ちわびて皆キリンになっている。

 京雀を品定めする気もなくピシャと扉一体型の窓を閉めた。

 斎藤家の姫様と言う声が通りの両脇から聞こえてくる。錫髪の情報は流石に入っていない。

ったく私は早く御所に辿り着きたいんだから、相手する暇なんてないわよ。

京雀の歓声を潜り抜け緑の幼いが誠実な声が耳に入って来た。ハナと違い以外と声通るわね。

「姫様あ。」

「何緑。」

「御機嫌うるわしゅう。」

「だから、どうして、そこで格式ばった挨拶。」

「姫身分の方に改めて問いかける時は、謙譲語を使って…。」

「私の侍女なんだから、無礼者なんて言うわけないんだから。簡潔に言って。(都に来たからって 余所行き様式になるんじゃないわよ。緑らしくない。らしくない様式になるからこそ都だって。)」

 京雀は都深く入る従って増えてきた。二重三重の人垣ができている。マツは人人人と都人の熱気に酔ってきている。まずいわねマツの事を言いたいの緑。

「ネネさんにさっきから虫が時々ぃたかっているのですが…。」

帰蝶、輿の中で滑って、後頭部を撃ちつけている。一姫の高級紫頭巾で守られたものの。

「こんな時に何ぼけたこと言っているのよ緑。あの裸に帷子一枚しか持ってない貧しい娘よ。湯なんか浸かっているわけないじゃない。かろうじて若いから余り臭わなかっただけで、垢だらけよ。蝿やらなんだかたかるのは当たり前よ。」

「蝿のようには…。蝿じゃなくは…。」

「は、蝿の発音悪かった私。」

 姫、姫と言う京雀の声、目線、指さしが嫌でぴしゃと帰蝶は窓を閉めた。既に喧騒レベル。なにどれだけ人がいるのよ都って。この熱気なに。そと窓の隙間を開け、マツの様子を見上げた。

 マツの眼は血走っていた。口を引き締め、全神経を京雀漁りに集中している。集中する先は若い男じゃなく娘だった。マツは道中でも度々軍を抜けだして百合薫りに精をだしていた。不幸にも死においやったカムロの影を追い掛けていたのである。死を確認していない。生きてあの遊郭を抜け出して天下、都に出てきてるかもしれない。似てる娘でもいい。そんな娘に優しくできたら、罪滅ぼしになるのではないか。

 マツが高上背なのは馬上からでも分かる。男は勿論の事、娘からも声がかかるようになってきた。その中にカムロの影を見つけたか。

 何かに惹きつけられた目、否定するかのように首を振った。欲望と役目が天秤かかっている。天秤に掛けられた時点で結果は分かっている。所詮、私との関係は役目、信頼関係で結ばれているのは私ではなく武芸の師匠たる深芳野、帰蝶は御簾を閉めた。

「あああ。マツさあああん。」

 緑の叫び声。太っ腹を響かせるので、案外よく通る声である。おっとり緑のここ一番である。マツ遂に出奔。御簾を全開しなくてもわかる。護衛女官のマツが離脱した。

 付き合い短かったわよね。

異様な行軍が続く。兎に角入洛よ。

京雀には全く興味は沸かず、御簾を開けて見物する気もない。ただ、御所に早く着くことを願うのみ、鬼の噂は有れど、御所に入ってしまえば、と帰蝶は理由なき確信に至っていた。鬼公方に食われると言えど、第一簡単に食われる気ないし。相手は一人。斎藤軍は千。今は、これ万はいるわよね京雀、千の軍の十倍以上じゃない。

京雀達の声が罵声に聞こえる。拍手が威嚇に聞こえる。マツが去った影響が早速、遂に輿を叩く音がし出した。兵達が止めろと怒声を発し、京雀を懸命に下がらせようとしている。先手侍大将は何してんのよ、蟹!

 生身の人よね妖しの類じゃないよね。本当に怖いのは妖しじゃなくて、この掃いて捨てる程麓に這いつくばっている空蝉(庶民)の群れよ。

 都に興味を持ったのは、鬼、天狗に魑魅魍魎。生きている人よりも、見てくれしてから妖しい、この者達の方が裏表なく信用できるから、怖い物は柄からして怖いって分かるから。今、廻りにいる者達は、一人、一人はどこにでも居る空蝉なのよ。それが…。ガンなどビンなど言う響きと圧力が帰蝶の輿にかかる。

空蝉風情が障っていい姫の輿じゃない。 障るどころか叩いてるじゃない、この無粋者。マツはいない。

「緑大丈夫。」

 私は大…。丈夫がかき消されて聞こえない。こんな時、こんな苦しい時。姉上達に罵られ悪戯された時慰めてくれたのは、深芳野はたまにしかいない。一の姉は、年中殆ど床の中。

「ハナきてえええ。」

 帰蝶は叫んでいた。籠の中、一人で叫んでいた。涙はない。姉姫やその母、侍女達にどんな理不尽を受けても涙を流さない。そう十歳を迎えた時に誓ったのだ。涙袋は膨らませても潮は溢れさせない。

 そう三姫が作った落とし穴に嵌った時、落とし穴から突き出していたのは数本の槍の穂先。丁度槍の間に足が嵌ったが、一本の槍が帰蝶の股間を目指していた。幸いその一カ月で帰蝶の背は約三尺奇跡的に伸びており特に膝下、それで助かったのだ。だが、すれすれ、その穂先が帰蝶の御蕾様に触れていた…が傷付ける所までは至らなかったのだ。

 ハナアアと叫んだっけ。その後号泣したのが涙を流した最後だ。因みにそれ以来股に晒しの貞操帯が欠かせなくなった。

 貞操を守るのではなく姉達の悪戯からの防御なのだが。ネネには説明するのが面倒だから“肌付き”と言ってしまった。

 今回も泣きはない。しかし途轍もない恐怖を感じた時頼る相手はハナしかいない。

「ハアアナアアア。:」

「いますよ。わたしくしはここにいますよ。」

 帰蝶は左側の御簾を半分程開けた。モワと生暖かい空気が差し込んできて。ハナの狸顔が露になった。目が血走り、頬が赤い、額は汗ばんでいる。

「ハナ、大事ないか。」

「大事ないかって。助けを呼んだのは六姫様ではないですか。涙はありませんね。偉い。ちょっとやめなさい。」

 ハナが男の手を払いのけている。裁縫が得意な細長い手を籠手に通し危機に弱いハナが自分の弱点と懸命に闘っている。杖で相手の向う脛を打ち払いもしている。

その時馬の蹄と嘶く声。

「さがれ。さがれおろう。斎藤六姫様の輿に触れる者はこの先手侍大将明智光安が成敗いたす。」

 泣く子の魂が抜ける戦声を腹から響かせた。流石にこれは肝が凍り付く程効いた。戦経験のない京雀達は一斉に引き下がる気配、帰蝶は御簾を閉め輿に背持たれた。頼んだわよ蟹将。

 ネネが光安の馬の口取りをしている。

「ネネ、御所はまだなのですか。この道で合っているのですか。」

「ん、あああ。多分としか答えられへん。こんなに人手が出るとは思わんかったんや。」

 明智光安は、斎藤家奏者として何度か室町御所を往復している。従って、御所への道順を知るのは、千人おれど、唯一光安だけなのだ。皆、光安頼みで逸れるわけいかないのだ。

「心配ない拙者が馬上から見ている故。ただ一つ右折しそこなった故若干遠回りになったのは事実だ。(しかし御所改築大名斎藤山城家の人気も大したものだ。)」

「光安殿、どうして曲がらなかったのですか。」

「仕方ないだろハナ。曲がろうとしたら四重五重の人垣ができているんだから。我が馬もやや興奮状態だ。京雀達を蹴飛ばしたりしたら大変。でも歓迎される方がいいだろ。」

 黒雲髭を揺らし、未だ笑みを造る余裕があった。

「大体現在地分かったわ。うちに任しとき。」

 アンテナを発信していたネネが光安の馬を先導し先頭立って進んでいった。

「畜生。後ろの兵が烏丸の遊び女に誑かされて列離れている。上洛早々何浮かれてやがんだ。」

「下っ端の足軽よりマツです。やはり昨日今日登用したばかりの女官はだめだわ。何処が護衛女官。いくら深芳野様の推薦があったにせよ、なぜ御館様はマツを登用したのかしら。御館様って本当に機織り衆(武家女)の勢力図って知らないのかしら。(小見の方様と深芳野様が二大巨頭で対立してるってことも。)」

「なんでマツ出奔止めんかったんや。見えとったやろ。」

 ネネが冷静さを失っている。この殺到する京雀達とはまるで関係ないと言わんばかりに。

「道中、何度も出ては戻りを繰り返しているのです。それに、この喧騒、わたくしも六姫様を護るのに手一杯なのです。(マツは、小見様と対立関係にある深芳野様の推薦。度重ねる離脱は、なんらかの意図があるとわたくしは見ています。意図があるなら、もっと隠れてすると普通考えますが、堂々と花弁摘み、花弁運びしそうなのが、深芳野様なのです。)」

「緑、次マツが帰って来た時は気を付けて下さい。」

 ハナは輿の左前から顔を出して、緑に声をかける。緑は輿隅から顔を出したが、少し口を開けただけで返答はない。

 相変わらず聞こえたのか、聞こえてないのか分かりませんわね。でも六姫様の推挙、そしていつの間にか、わたくしも新参者ながら、次に誰と言われれば緑を思い浮かべます。

 行軍は著しく遅くなりながら進んでいく。光安の戦声で一時的に後退するものの、直ぐに迫って来た。徐々に慣れてきたのだ。声だけで、悪さはしない、いやできない。光安も声が枯れてこれ以上戦声は張れなくなった。戦声は腹に空気を為、その大量の空気で声帯を荒らして、相手を威嚇する周波数にするのだ。故に持続性はない。

後は者共頼む。

遂に人を掻きわけ行かざるを得ない状況に。輿を叩く京雀、注意しきれなくなり常態化している。旗鼓堂々としていた軍列は、乱れ、槍の鞘を払おうとする突破者もおり、兵達も我が身を護る事で精一杯となっていった。対兵ではなく対衆にこれほど弱いとは…光安は斎藤兵の狼狽振りに馬上から愕然とした。輿も左右、そして上下に揺れるようになってきた。帰蝶は天井から下がる組紐で、体を支えている。流石妖しの都、大した歓迎ぶりじゃない、嫗が物見で、本軍は京雀だって。大概にしてほしいわね。何処が雀よ京雀。雀が迷惑だろ。

「管領は!兵部でもいい!ったく出迎え位しなさいよ。誰の御世話役だと思っているのよ。」

 帰蝶の苛々も頂点に近づいてきた。錫鞠ならなんとかなるんじゃない。蜘蛛の子を散らすように。帰蝶が腰に付かず離れずの状態に置いている鞠に手をやった時、背後で遂に兵と京雀との間で諍いが起こった。

「光安殿なんとかしてください。なんとかしてええ。」

 ハナが輿に縋り光安に向かって乱心し叫んでいる。もう限界ってとこね。本当の危機になるとハナは動転して弱い。姉達の母、侍女頭に対しても只管泣き叫び頭を下げ謝るだけだったものね。でもだからこそのハナよ。泣かない、屈服しない、正義を貫く、この帰蝶様と上手くつり合いが保たれているのよ。帰蝶は紫頭巾から洩れる錫髪を小刀で数本サクっと斬り、鞠に巻いた。

 そして、出入り口を全開させた。

斎藤家で一番冷静さを保っているのは緑だった。ガタイ太く京雀達に押されても肉で弾き飛ばしていたのだ。窓を開けた帰蝶怒りの摩擦音を拾った緑は、視線を返していた。

「六姫さまああ。まさかまさかのまさか。その鞠を…。」

お城に上がった時、自分が仕える姫様の事を悪く思ってはいけない、姫様の言う事を聞いておればいい。前に仕えた五姫様(華蝶)の侍女頭から最初にそう言われました。

 でも、今の侍女頭ハナさんから言われた事。

「侍女たるもの、姫様を諫言してこそ侍女なのです。相手は姫身分とはいえ童なのですから。五姫様の侍女頭さんから最初に何か言われたって…、諫言は侍女頭たる自分の仕事だから取られたくないのです。六姫様の部屋は、武断政治。侍女頭は一応今わたくしですが、取れるものなら、取って下さって結構です。新人の緑、あなたでも取れるものなら取って見なさい。よって、身分の掟を破り諫言して下さって結構です。いえしなさい。それが双方の為なのです。」

 そう諫言。“嫗幻”嫗さんの時は、あたし得意の弱腰が顔を出し止める声が出せなかったわ。でも、結果よしの妖しで何とかなったけど、あの不自然な登場の嫗幻と違って、今度の京雀さんは、普通に自然すぎるの。今度こそ姫様暴走阻止するのよ。

「あの無礼な京雀に喧嘩売るのよ。そして命で払って貰うのよ。」

「うちも気位だけ高うて不作法で偉そうな京雀にええ加減腹立ってたんや助太刀するでえ。」

 やる気満々なネネ、光安の馬からいつの間にか離れ帰蝶の輿迄来ている。ネネは、言葉遣いから、都ではなく上方であろう。

 あ、また瞳孔開帳させて思い切り楽しそうな笑顔、新しい悪戯を考えた時だわ。

「待ってください。お気は確かですか…(あたしのお姫様)。」

「至って大丈夫だよ。輿を止めなあ。」

帰蝶の号令なので輿は止まる。緑がダメと言っても止まってしまう。

「ハナさん。しっかり侍女頭の御勤めを…。」

と言っても逆に緑ぃとへなへなと頼られる始末。遂に輿の戸が開いた。

「おおお。マムシで名を馳せる美濃斎藤山城家の姫君、遂に遂に都に降臨いいいん。」

と雀の声楽家がバリトンを洛内に響かせる。帰蝶が頭を見せる、手には新髪を巻かれた錫鞠。なんと既に紫頭巾は取られている。

「でたなんと遠来の姫君は錫髪だあああ。荘厳にして優雅、錫髪姫の上洛だあああ。」

とバリトン声楽家が音頭を取り盛り上がる。

 若白髪と言わないだけましよ。

帰蝶の気勢に負け、緑は下駄を懐から出している。都は石畳が多く下駄を持ってきたのだ。

 姫様は熱心、侍女頭は放心、一介の侍女に過ぎないあたしは心身共に役目に徹するしかないのよ。

「緑袴姿錫髪の鞠姫、今都の地に降り立ったあああ。脇に控えるはオカッパの帷子姫ねねえええ。」

「は、あなた、この声主の知り合いなの。それとも都ではまさかの著名人?」

「へ。」

と何故か凍りつくネネ。本来なら突っ込みどころなのだが、それより帰蝶はここではじめて京雀達を自身の全視界に捉えたのだ。帰蝶は鞠をもったまま小躍り、眼はきらきら。

「なああにこれええええ。え、声主以外全部、妖しの都って、ほぼ妖しだけの都なの。私達ってひょっとして鬼公方と言う妖しに支配されてるの。それも又一興所の騒ぎじゃないわよ。眼の前、魑魅魍魎跋扈って何これマジ面白いんだけど。」

興奮しているのは確かなのだが、ネネも緑も帰蝶が何にどう興奮しているかよくわからない。帰蝶の眼には人型の百足、蜂、蝿、蚊、げじげじ、ミミズと言った虫類のモールが一杯蠢いている様に映っているのである。

 光安はその内の蜂のモールと戦っているが、槍で突き刺しても。突き刺した部分だけ蜂が避けるのでダメージを与えられない。要するに蜂にスピードで劣っているのだ。その内に蜂に次ぎ刺され始めた。

「いて、いて。なんで刺しているのに無事なの。その小袖って万能なの。その上ビンタの早業、神の如く。顔がいてえよおお。」

モールから離れた数匹が光安を尻の針で襲っているのだ。

「光安今助けるからね。」

「あ、ほんとに蹴るの姫はん。京雀にもしもの事があったら一大事やで、武士と姫とは立場が違うんやから。」

と言うネネの声もシカト。

「いいじゃない。やらしてみましょうよ。どうせ相手は京雀、雀です。人じゃないでしょ。」

「じゅ、十兵衛はん。」

 例のバリトン声楽家がネネの背後に来ていたのだ。ネネは、心地良い声色だと感じている。十兵衛と言うらしい。茶色系の肩衣、袴を身に付け、総髪スタイル五尺七寸位の背丈、太い眉、甘い二重瞼、直角△定規のような鼻が座り、しっかりしたエラと顎、浅黒い肌、整った若い顔立ちをしている。

 帰蝶は既に鞠を両手に持ち上鞠の態勢に入っている。もう緑もどうにもならない。

 「帰蝶、帰蝶、綺麗な蝶には鞠がお似合い、“妖言(およづれ)は続かないわよ。(まこと)を明かしなさい。”」

 帰蝶の籠手から鞠が放れ、鋭い蹴りが入った。蟹だけど先手侍大将光安を助ける。思いを込めた錫鞠が音を置き去りにして、一秒半時速百三十キロの錫色の軌道を創り、数多の京雀を瞬間凍結させ目当ての京雀に命中。その衝撃で錫粉があたりに飛び散った。

「えええ、なんなん。そうなんの。人の体がそないなんの。」

「おお、姫は偉大なり。雄大なり。豪傑なり。斎藤山城様はなんとも奇天烈な姫御札を切ってこられた。我ら京衆はどう切り返しましょうか。」 

 二重瞼の目が爛爛と輝き、十兵衛、自分開闢以来の蹴力目撃に感嘆する。

 錫鞠がミートした瞬間、体がぱああと無数のドットになり周囲に飛び散った。

「なんと聴力、人の数千倍の蜂が鞠の摩擦音を聞き分けられなかった。人の数万倍の動体視力が鞠の軌道を捉えられなかった。人の数億倍の瞬発力、反応力でさえも対応できなかった。」

 と言いながら、ネネの懐に手をつっこんだ。

「十兵衛はん、いきなり何すんね…。形からして金子。銀ちゃうな。」

 驚いたのは光安も同じ、眼の前の敵が一瞬にして散ったからだ。宙に弾かれた鞠を掴む光安、新髪が巻かれた錫鞠を確認した。六姫様有りがとうございます。守るべき拙者が助けられるとは。ん、眼の上前方にある影はなにかな。

「おおおわ。」

 それは蜂の大群だった。帰蝶の錫鞠に撃たれた京雀のなれの果てだ。さらに地面には、

ゲジゲジ、毛虫、百足の大群が。さらに蝿も大群がブオン、ブオンと兵の間を飛び交ってる。別な意味でのパニックに襲われた斎藤軍だったが、各種虫の大群は潮が引くように朱雀大路からいなくなっていった。寂しげな石畳が後に残された。

 光安はようやく、やっと謝意を示さなければならない相手の居る場所に意識を移した。少し時間が経ったからか、目を動かす、首を動かす、体を動かす、廻す。

 ???何の冗談?何時もの悪戯?

 六姫様がいない。京雀達はいない。錫鞠で真を示した通り、悉く虫の化身だったのか。

 顔だけは帰蝶の輿に向く。輿は下ろされたままである。何度馬を扱ったか、雰囲気だけで馬の轡をむんずと掴み、光安は足早に輿に向かう。輿の周りには担ぎ手四人にハナ、緑それに三人の侍女が呆然としている。さらに通りの遥か向うには途中まで追っかけた兵達が息を切らして膝に手を付いている姿も見える。光安は思わず本当に思わず天下の空に響かせた。バリトンとは対極になる、ガラガラの掠れた戦場声であった。

「六姫様あああ。」

 帰蝶消滅。因みに声楽家十兵衛、それにネネも同時に雲隠れしていた。

「今川家と同じじゃないですか。御所に着く前に輿が空。」

「ハナ、これは鬼いや十三代公方様の仕業と思ってよいのか。」

「御世話役の到着が待ちきれなくて浚って行ったとか、そんないい話選べるならわたくしだって縋りたいですよ。掴み取りたいですよ。奪い取って離しませんよ。でもそんなわけないじゃないですか。そんなわけありませんよ。小見様に、御館様になんと報告すれば。」

 そこまで言って胸を抑え、輿に寄りかかって肩で息をし始めた。侍女三人がハナの背を摩ったり手を握ったりして介抱し始めた。

「この話を推された小見の方様に報告できないじゃないですか。消滅なんて。」

「重大なのは小見の方様への報告みたいよ。」

「忌みじげなのは六姫様の消滅。」

「まずは室町御所方への一報が筋よね緑。」

 ハナと同じ位の背丈帰蝶より小柄な三人の侍女は視線の杯を交し合い、最後に一回り大柄な緑に杯を差し出した。緑は、その杯をしっかり受け取った。侍女頭ハナが帰蝶消滅のパニックに陥った今、仕切るのは自分だという杯、名実ともに二番格侍女になった瞬間だ。

 六姫様の部屋は武断政治、侍女頭が獲りたければ何時でも獲りに来なさい。遂に眼の前までやってきた。

「六姫様が上鞠された時、近くにはネネさんと十兵衛さんと言う京雀さんがいました。六姫様が明智様と闘っている京雀を撃ったのを見届けて、十兵衛さんはネネさんの懐に金子を入れ、ネネさんは六姫様をスと抱きあげ何処からともなく現れた鹿に乗って去っていかれました。十兵衛さんも別の鹿に乗り、同方向へ去って行きました。」

(十兵衛さん、体の重みによる判断かしらね。)

童の発表のようだが、おっとり緑が最後まで喋りきった。金子は“買収返し”。十兵衛が斎藤家からネネを買い戻したのだ。

「その時どうして六姫様を護らなかったの、守りきれなくても追わなかったの。」

 輿をパンと叩いた勢いで振り返ったハナが真っ赤な白目、焦点が外れた黒目で緑の胸倉を掴んで揺さぶろうとしている、が、どっしり体格の緑を華奢なハナが喩え十年年上でも揺さぶることはできない。手を離し、ハナは顔を覆った。そして光安の元にフラリと歩いて行った。

「三国の守護今川も姫不在ながら約束の半年間御所を守ったのだ。我らも姫不在で御所に乗り込むしかない。波多野、赤松、山名ら小大名が選んだ帰国の道を我らは歩まない。

 心配するな、最前、ハナは思い切り否定したが、案外これは童将軍の手が込み大掛りな悪戯かもしれんぞ。十兵衛なるものは御伽衆かもしれん。」

と言ってカカッカッカと笑ったが、風が落ち葉を舞い上げるだけで冷たい雰囲気が漂っていた。最前までの喧騒が丸で嘘、幻。光安は、錫鞠を空の輿に虚しく返した。光安を助ける事を優先し逆スピンをかけなかったのだ。それが心に痛み入る光安であった。

「管領様と話しないとなハナ。」

「そうですね、まずは管領様と。十兵衛なるもの、それにネネを知っておられるかどうか。」

 御年十三歳の童将軍故、政務は管領細川晴元が仕切っている。兎に角管領と話通さないとこの不祥事どうするか全く先が見えないのだ。何度か上洛したので、この辺の地理は知っている。先手侍大将の明智光安は馬上の蟹となり空の輿と千の兵を率い管領邸に向けて舵を切った。

 六姫様失踪、あたしの失態なの。五姫様の侍女だった頃、あたしが上手くお仕えできたわって所は他の侍女に持って行かれ、他の侍女の失態をあたしに押し付けられ、あたしは侍女頭や五姫様から叱責された。立場と今後を重んじたあたしは理不尽な叱責を甘んじて受けたの。六姫様付きになってからは、理不尽な目に遭う事もなく、働き口を得たと思っていたのに。

「緑のせいじゃないよ。」

「マツさんが最初に消え、ネネさんと意気投合した六姫様って所が重要。」

「ハナさん危機で動転しているだけ。皆、あなたの味方よ、ね緑。」

 暖かい目線が下から、そして三人の口角が一様に上がり、チラ見した歯が自分に向けて光ったかのように見えた。

 あたしは、此処にいていいんだ。

 と緑は三人に救われたと思う一方、あたしのお姫様は、既に鬼に食われたのではないかと戦慄した。

帰蝶は果たして今どこに。


 此処は祇園社の門前町、通称祇園と呼ばれる歓楽街で、飲食店や色街が狭い通りの両端に忙しく並んでいる。正真正銘の人の京雀達が忙しく生き交っている。その一角明風の遊郭兼料理屋、開けっ放しの玄関を入ると、八人掛の丸テーブルが四つ置かれた広い食堂部がある。一番置くの席に座って山のように盛られた料理に賤しい程がっついてる娘がいた。オカッパ頭のネネだった。そのネネの目前に声楽家十兵衛、その左、ネネの右になんと帰蝶、そう斎藤六姫帰蝶だ。頭巾が脱げてしまった錫髪モロ晒しの帰蝶がいた。今日二度刈り取った為か乱髪になり毛先が尖がってさえいる。

 ネネの左には顔が長く髪を纏め上げた二十前後の娘が二人金の紋章模様が蠢く明国衣装を身に付けている。一人は赤地、その右の娘が緑地だ。食べているのはネネだけ。帰蝶も眼の前に出された炒飯には手を付けていない。

「六姫様、身供があなたをお買い上げしたのです。買ったということは、身供が主人なのです。身供の言う通りなさい。その炒飯を召し上がりなさい。」

「何様のつもりなの。買ったの主人だの。私が認めたわけではないわ。」

「あなたが認める認めないは関係ありません。繰り返します身供が買ったのです。その炒飯を直ちに摂取なさい。体力を付けて貰わないとさしつかえます。」

「さしつかえるって、何に。」

「仕事や、その錫髪でタンと稼いで貰わんといかんからな。」

「ネネ、なんか打って替って偉そうじゃない。」

「ここではうちは売主。十兵衛はんは買い主、姫はんはもう姫はんやなくて、姫属性の遊び…。」

「ネネさん口にしなくても、直ぐに察するようになります。女子とは、その覚悟はいつもあるのでしょう。」

「城の中で箱に入った姫身分にはない。だからこそウブな姫属性に客は萌えるんちゃうの。」

「じゃあ、余計言わない方が宜しいのでは。」

「魑魅魍魎見れたのは嬉しいけど。これだけでも妖しの集う都に来た価値があったというものだけど…。」

「あん、魑魅魍魎って、わてらのことぉ。」

 金髪をみつあみに垂らした赤地の衣装女子アベジャがまず反応した。

「いやあんたはんだけおす。うちは雅にどっぷし浸ってるさかい。」

 と緑髪ツインテールの彼女ホラーが答えた。緑地の方だ。

「あん、一人だけなんで御たかこうとまっとんのやろ。:」

「一人ちゃいます。五千匹おすえ。」

「あん、差は三千やね。」

「わああああなんやあ。」

と驚いたのはネネ。突如部屋に蜂の大群が訪れたのだから無理はない。

 三千の大群がアベジャを襲ったか思うと彼女の背丈が伸びた。幅も少し。

「ああ、余り大きくしないでください。お客をとれなくなります。」

 シンギュラリティ(技術的特異点)を越えては、身供がアベジャに使われることになります。

と品よく注意した後十兵衛は素早く帰蝶に視線を移す。錫を体に多く宿し、錫髪を有する帰蝶の真が見れる瞳に興味があるのだ。

「あなたには身供達とは違う像が見えているのでしょうね。」

「今大きくなったアベジャだっけ。そいつらは蜂の集合体。もう一体のホラーとかいったわね。そ奴らは蝿の集合体。膳の観賞物とは最悪、そんなもの見ながら食欲湧くかつうの。ネネには賞賛の言葉を送るしかないわ。食えるなら何処でも食おう生きるため。」

「虫一体一体の知力は小さい。しかし数千匹単位になると、ほぼひと一人に匹敵する。足を繋ぎ固まりとなり脳波を繋ぐ事で知性を人並みに引き上げているのです。“ムラメカス”と身供は呼んでいます。その脳波は内部ではなく外部にいる生物にも影響し、彼女らは娘に見えています。そしてここ遊郭ではアベジャは刺し属性で客を快楽に導き。ホラーは舐め属性で客をイかしているのです。」

 ムラメカスはブロックチェーンのように次次虫を連結させ、情報を共有することができる、情報集合体生物である。十兵衛は、彼女達を差配し組織する支配系“とりわけ人”である。

「快楽などイカスなどよくわかんないわね。魑魅魍魎は分かったから、私は次鬼に逢いたいのよ。正確に言えば鬼公方。鬼公方を平伏させて、未だ食われていないことを願って信じて波多野と山名、あと…、そあが付くのよ。赤松の姫達を助けるのよ。」

「勇ましいことですね。まるで桃太郎みたいですね。」

「ま、太郎じゃなくて姫だけどさ。」

「鬼退治の桃太郎はなぜ桃太郎か知ってますか。」

「桃から産まれたからじゃない。」

「なぜ論点をずらすのですか。桃の方じゃありません。流れからして太郎の方でしょう。」

「は、棘るねえ十兵衛さん。所詮そちは虫を纏め上げるしか能がないんでしょうよ。」

「でも身供は男ですよ。」

「それが何。」

「鬼退治ができるのは男だと昔から決まっているのですよ。」

「性別で異性を蔑むの、美濃でもそんな事言う武者や百姓が居たけど嫌われてたわよ、女から。あなた顔は確かに活かすけどモテナイんじゃない。」

「身供は性別的役割を言っているのです。この世は男が動かしています。悪い男を善い男が討つ。頼りない主を頼り甲斐のある男が討ってとって替る。」

「じゃ、女はどんな役割を果たすのよ。」

「男の為に化粧をし御洒落をして、男を悦ばすのです。」

「なんかつまんない。つうか腹だたしいい。」

「何を言っているのですか、裏で操ることができるのですよ。女は美を磨き、より優秀な男を捕まえ、美体を出汁に自分の思い通り働かせることができるのです。極端な例で言えば、今晩私を抱きたかったら、あの者を殺害しなさい。男はあなたの敵をあなた自身の手を汚さす男の手を使って亡きものできるのです。」

「そういう女もいるかもね。いや多いかもね。実際多いし。兵士は大概男だし。女は城に祭り上げられ閉じ込められ。まるで蠱毒なのよ!簡潔に言えば、それが嫌だから御世話役を受けたのよ。小見様に薦められ、私は切腹か受けるか考えて、稲葉山城を巣立つ将軍御世話役に生きる道を見出したの。」

「でも所詮御世話役、将軍という男の世話じゃないですか。(受託しからずんば死ですか。まさに武家社会は、男社会と言うのは分かってないのでしょう。)」

「…。(そう言えば役目の具体的な中身って考えてなかったわ。)」

「十兵衛はんの勝ちやな。わても異論唱えたいことはある。けど、力では女は劣ってしまう。だから力のあるモンに取り入るしかない。その力のあるモンつうのが、大名、武将、結局男やん。男に取り付いて意のままに操るのも生きる術やで。そういう面では姫はん、将軍御世話役って将軍、動かせんねんで。天下意のままや。」

「世辞越えてからかいの域じゃない。十兵衛、あなた曲解してない。」

「比喩しているのは姫の方じゃないですか。波多野、赤松、山名の姫を御世話役として侍られそれでも足りず斎藤家の姫まで手を出す。なんて手の早い公方様。手あたり次第ってもっと一人の女子を大事にしなさい。私が痛い目にあわして考えを改めさせる。そして、私が替って唯一の御世話役になって次代の将軍を産む。それがあなたの人生設計では。女子の短い人生ではそこまでできれば十分じゃないですか。」

「御世話役なんて口実よ。元々世話なんかするつもりじゃない。鬼、天狗、魑魅魍魎が跋扈する都を見たかった。もう稲葉山で女子同志角付き合っているのは御免だったのよ。そう十兵衛、あなたの言う通り、女子は城、男は外なのよ。」

「角ですか。若いいや幼いあなたは母上や姉上、乳母傅役の言う事を聞いていればいいだけではないですか、なぜ角を出し突きあげるのですか。うちにもナメコというナメクジのムラメカスがまとわり属性で働いてくれますが。」

「ナメコ以下は聞かなかったことにするわ。自我を殺せと。それじゃまるで奴隷じゃない。そんなの生きてきた意味ないじゃない。」

「親の言う事を聞き、親の為に尽くして親を喜ばせるそれが孝じゃないですか。人がもっとも重んじなければならない考えですよ。」

「だから、小見様の差配で将軍御世話役で来てるじゃない。」

何、揺さぶりかけてんのよ、私の心底探ってない。恐らく忠孝梯の六姫って花弁は入っている筈、ムラメカスを通して。本音かどうか探り入れてるわよね、ヤラシイったらありゃしない。

「忠孝を重んじるなら、梯も尚更と思いますが、あなたが梯を重んじれば、姉上達も優しくしたかと。」

「付け焼い刃の花弁で私を論じるんじゃないわよ。姉上も五人も居れば色々居るわよ。生母の身分に対する負い目から、五人の内四人迄は私の生まれながらの敵。味方も居るわ。一の姉(胡蝶)よ。味方がいる以上、私の落ち度はない。寧ろ、四人の姉に妹への慈しみはないのかと文句を言って欲しいわ。」

 十兵衛は、蜂のろしを使って花弁を得ていた。

羽根の震えを利用して見たり聞いたりした情報をリアルタイムで、アベジャ本体に送り、本体が動画にして、十兵衛の脳裏に送っていたのだ。情報を記録した羽根の震えが届く距離は数キロに及び、美濃から都まで、二十匹程度で網羅できていた。

「あなたは、さしずめ、仲介人ね。その上に依頼主がいるわよね。早々に売り渡すつもりじゃない。この店では、そう足代なことだけ教授して。」

十兵衛は、顔をずらし、横目で帰蝶を捉える。

「買った姫を売るようなことはしません。タンと働いて貰わなければなりませんから。」

「買った。誰からネネよね。相手ネネなら二束三文よね。十兵衛とやらの旦那からは、もっと高額な金子が十兵衛とやらに流れてるよね。言いなさい。」

釣り上がった凛とした目、広げられた扇の先端が十兵衛に向いた。姫命令の扇、知らない十兵衛でも十分圧殺する迫力があった。

「身供にとやらは付きません。」

と言うのが手一杯、だが、明かさなければ、居心地が著しく悪い、この扇と目力から逃れられない、逃れたい。それは、或る意味裏切り…しかし。自白強要の錫目。」

「身供は管領様より、次の御世話役を上洛しないように最低限入洛しないようにしてほしいと依頼されたのです。」

 と雇い主を吐いてしまった。三姫失踪案件の解明につながれば…。

 その言葉にエエと素っ頓狂な声を上げ驚いたのはネネだった。

「なんで管領様や。うちは三色髪姫失踪案件があるから、四姫目にならんようにという親切心から御所の誰か憂国の士やと思とったんや。管領様って確か美濃まで行って姫様決めてきたお人そのものちゃんうんかいな。」

 あっさり吐いてもたで。真実を白日の元に晒す錫眼の“とりわけ”力か。

「そうです。三色髪姫失踪案件もあり、身供は祇園の方々と美濃へ立つ際、管領様、兵部様御一行二十数人を見送りました。馬上の管領様は、失踪案件など無かったかのように堂々しておられました。失踪姫を詰問する野次も飛びましたが、その野次に向かって兵達に槍先を向けさせる程でした。」

 ところが…、十兵衛は、間を取り目前にあった茶をすすった。手にすっぽり収まる程位の陶磁器で白地に赤や青の実が描かれミカンの外観である。

「管領様は美濃から帰国早々、私を御所でも自邸でも祇園でもない某所に呼びつけ、仕事を依頼されましたが、何かとても怯えておいででした。細川京兆家の長者として三好を都から追いだした歴戦のツワモノが…手を振わせ、唇を変色させ、時折言葉を詰まらせ。あの意気揚々とした出立とはまるで正反対の怖れよう、まるで美濃で妖しにでも遭ってきたかのような御様子でした。」

「妖しに遭いに上洛してきた私が妖しだって言いたいの。でも色髪姫の噂を元に喜々してやってきたのは管領よ。二姫から五姫の無駄芸に全く興味を示さず、私の錫髪に注目したのが、その証拠。」

十兵衛は、茶を又すすっている。

「話を受けてから、身供は美濃アベジャに調査依頼しました。失踪三姫も色髪姫、今回も美濃の色髪姫を聞きつけて喜び勇んで足を運び、父君である山城守様の赦しを得て御世話役を決めていた。それが帰国早々、上洛阻止。理由は言わない。調べるのは当りまえ。なんとも厳かな色髪姫。」

「アベジャ、湯浴みとか覗いてないわよね。私、今はないけど、外では殆ど頭巾被っているんだけど。」

 アベジャはいきなり振られ、背中から肩から腕から蜜蜂を十数匹飛ばしている。

「人の恥辱の線引きは教授してあります。問題ありません。」

「まあ。信じるわ。蜂が一匹でも厠や湯屋に飛んでれば分かるものね。」

「身供は、はっきり言って三色髪姫失踪案件を放置したままの御世話役続行は反対です。それは祇園の衆も同じ。このまま姫失踪が続けは、再び、都が火の海になるのは必定だからです。御世話役を推す管領様自から、この話を頂いた時は、驚きましたが、上洛阻止など何時でも可能です。」

「は、よく言うよ。どんな自信過剰家よ。“山科輪廻”や“嫗幻”はあったけど、私達は上洛して入洛寸前まで行ったのよ。“嫗幻”ってあなたよね。他にムラメカス遣いの“とりわけ人”なんていそうにないから。」

「“嫗幻”はあなたの思想を確認しました。忠孝梯の姫は真か否か。」

「拘るわね。」

「姉君や姉君生母の憎悪は年長者全体の憎悪へと広がっているのでは懸念いたしました。しかし、錫は真実を見せる効果があるようですね。この確認はできませんでした。」

「だって妖怪じゃない。」

「はん、全部私え。けど妖怪呼ばわりキツイえ。」

 文節の区切りごとに毒を含んで帰蝶に向けるが、はんなりした京言葉では帰蝶には毒にも薬にもならず、彼女は炒飯を匙で口に運んでいく。

ホラーが仕掛けていたのだ。

 何だかんだ言いながら、斎藤家と引き離されながらも私は生きている。捜索はしているだろうけど。捜索は、捜索で勝手にやってもらって。私は何しようかしら。

都と言う懐に入った以上、三色髪姫失踪案件を解決することじゃないの。それで十兵衛やネネ、祇園の民とも共闘を図ることもできる、味方にすることもできるわけだし。将軍御世話役は未だ生きている、あれは私個人への公方様からの命、生きて鬼公方の前に立ち、屈伏させ三色髪姫を助ける。

 ネネが小袖の袖を引っ張っているのを帰蝶は今気付いた。装い“姫の威厳”。十兵衛は“山科輪廻”を聞いていたのだ。帰蝶が考え事をしていると判断したネネは“山科輪廻”を説明していた。

 どうやら、”山科輪廻”は十兵衛とは無関係らしい。無関係なの!確かにムラメカスの“とりわけ”力じゃないわよね。

 一応、十兵衛を信用するとして、物事は複雑怪奇になってきたわね。ネネ越しに十兵衛が仕掛けたきたってわけじゃない。って誰よ。錫力を使ってしか真が見えない、普通の色髪姫なら真が見えなかったと言うことなら、鬼公方が、兵は要らない、姫だけ蟻地獄確保したって線もなくなる。そもそも経費室町持ちの御所護衛兵が要らないってのも変だし。

誰よ。管領は、私の上洛阻止の為十兵衛に“お仕事依頼”御札を切ってきたわけだし。

 十兵衛は、“山科輪廻”にはそれ以上、追及せず話を元に戻し、管領の帰蝶上洛阻止の依頼を受けてからの話しをし始めた。

「身供は、三色髪姫失踪案件はあなたの言う通り鬼公方で将軍様が首謀者、管領、兵部は仕方なく従っているという仮説を立てました。

 斎藤六姫は他の三姫とは違い気性荒く、たやすく公方様の魔手に陥る者に非ず。身供達祇園の衆も協力する故、入洛させて泳がせてみてはいかがですか。身供達も入洛することを管領様が許して頂けなければなりませんが、三色髪姫失踪案件が解決し、御所の信用も回復するかと思いますと掛け合いました。ネネを御所に行かせたのです。彼女なら御所内を探ることもできますから。時系列では、斎藤軍が稲葉山を出立した後で、その報告を兼ねました。」

 ネネによれば、管領は興奮して兎に角止めろ、上洛さすな、兵は要ると言えば要るが、最低限、あの姫は入洛さすなと言う顛末だった。因みに、細川真之とか言う苺鼻の若い御伽衆が付いて廻り、あまり探れなかったが、それでも隙を見て障子に目を通したりしてみたが、三姫の痕跡は全く皆無であった。

 あの管領ね。帰蝶は十兵衛と同種の湯呑から茶を飲んだ。喉にしみわたる爽快な味、初めて味わう烏龍茶だった。さすが都ね、舶来物のお茶が普通にある。

「多分、個人的に私嫌われたんじゃないかしら。あぁ、悪戯よ。落とし穴とか取り餅ケツにくっつけたりとか。姉姫達の“お戯れ”から比べたら幼児並よ。私が上洛したら、毎日毎日悪戯に苦しめられるって思ったんじゃない。」

ハとネネが手を叩いて喜んだ。

「武将って戦場では凄いけど平時では肝が小さい、そんな人もおいでですから。」

暫く難しい顔をしていた十兵衛も吹き出した。なんて御茶目な笑顔、氷の面が瞬間溶けたと帰蝶は思った。ネネも同じ思いで、上方言葉でからかっている。

「十兵衛はんも、そんな顔すんねや。」

「大人は特に管領ともなれば政務に多忙なのですよ。政務の際にいちいち悪戯を仕掛けられたらたまらないですものね。悪戯への警戒が政務の遅滞を引き起こすとも考えたのかもしれませんね。でも自分の御世話役じゃないのに。」

 管領様御自身は斎藤六姫の気性を理由に反対ながらも、公方様の好みと合致していた為、兵部卿も推し、六姫も希望し、山城守も認めた為、渋渋同意した。話は管領様の意に反してまとまり、一カ月後上洛となった。しかし、事故があって御所入りできないとなれば公方様も文句の付けようがないと言う事ですか。

 真実を審らかにし、あるべき道に戻す錫力。引っかかるのは、この点、管領様は美濃で斎藤六姫を直々に目撃して、この力が公方様にとって良くないと判断したが一つ。

 あと一つは、良心の呵責、錫力を備え干ばつの際雨を齎すなど民衆に善政を為す、錫髪“とりわけ姫”を四番目の犠牲者にするのは美濃だけでなく天下にとっても損失と考えた事。

 いずれの二点も、管領様でさえ、飼い慣らす事のできない、姫を見れば欲望を制御できない鬼公方と言うことになってしまいますが。三色髪姫は、堺で南蛮人に売り飛ばされた痕跡がないばかりか、御所すら出た形跡がない、或る朝忽然と消えて御所が大騒ぎになった…つまり、鬼公方は姫を夜の内に骨も皮も髪の毛一本残さず喰ってしまったと言う事なのですか。なんと恐ろしい。

 後一点気になるのは、“山科輪廻”その術を破ったのが真を明かす帰蝶の錫鞠と言う事実。つまりかけられていた“とりわけ”術を破った。“とりわけ”術をかけたのは誰、管領様は“プラン(二重)B(依頼)”御札を切った。

「一旦、三色髪姫失踪案件はほか置いとくで。将軍と姫さんは年齢近いから一緒になって悪戯されると思ったんちゃうか。」

“プラン(二重)B(依頼)”御札、管領様、いささか身供に対して失礼かと。誰に御依頼された。

「え年齢近いの。」

“とりわけ人”、身供も“とりわけ人”なれど、幅四間の大道をまるまる消せる“とりわけ人”とは誰。十兵衛が思案している間にも帰蝶とネネの話は進んでいく。

「は知らんの。去年代替りした十三代は十代前半つう若さやで。」

「だってさ、興味ないと言えばないもの。」

「信じられんわ、仮にも閨やら湯屋やら世話する相手やで。」:

「だってとりあえず蠱毒から“巣立ち”して、公方の元に収まる事だけを考えてやってきたからさ。そうよね、役目の深い処まで考えてなかったわ。」

 帰蝶は愕然とした。稲葉山の姉達蠱毒から“巣立つ”ことに必死で、肝心の公方様に対しては全くもって情報盲目興味すらなかったのだ。“山科輪廻”でネネとの出会い、三色髪姫失踪案件を聞き、御世話役の姫を食らう鬼ではないかと推測は付いたが。

 所で御館はこの話知っていたのか。“競り”の場、しかも私の登場寸前で聞いたのが関の山じゃない。なんか、拒否ろうとしてた見たいだから。でも、小見様の要望の強さを優先した。私が望んだことも多少あったかも知れないわね。小見様は当然知らないわ。

小見様が、この話に動いたのは、十三代公方が、色髪姫を欲していると聞いたからであろう。稲葉山の神切り札として生かすしか止むなしと思った所に飛び込んだ、嫡女の活かし方であった。十四代の外祖父母となれるやもと言う野望を描くのは自然である。


「もし、出立前に御世話役の姫を喰らう鬼公方と知ってたら拒否った。」

 って言うネネに私は答えてやったわよ。

「喜んで御世話役を引き受けたわよ。結果同じよ。三人の姫達の命さえ取り留めていれば懲らしめ程度で赦してやるけど、真喰ってたら退治してやる。」

 アベジャとホラーは身震いして何匹か背後に頭上に飛ばしていた。ネネはワと拍手して喜び、十兵衛は、ニヒルな笑みを浮かべていた。

「ま兎に角あなたは身供が買いました。お受けした管領様の仕事を完結するためです。ここで姫属性として働いてもらいます。(三色髪姫失踪案件を解決の鍵を握る“斎藤六姫”御札は手に入りました。管領様、お仕事忝く思います。この御札で、この案件解決させ、祇園の皆を安心さす。それが身供の使命。それが管領様の為にもなりますよね。)」

 但し、もし姫の眼が真実を見る目ではなく、ムラメカスホラーを嫗と見て身内でもない無関係の嫗を無礼討ちしたというなら、この御札は破り捨てていた所でした。

 十兵衛が帰蝶に視線を送ると、ガクと乱髪の錫頭を垂れ炒飯碗に顔を突っ込んでいた。腹が減っていたのは確かで、いつの間にか炒飯は空になっていた。

 十兵衛の遊郭を逃れることができないと消沈したのか。

「まさか完食するまで眼り薬が効かないとは思いませんでした。まやかしごまかしが効かない娘いや姫なのですね。身供も姫身分の方というのは皆何か特別な能力を持った“とりわけ人”なのかと思ってしまいましたよ。いや現実に持ってますよね。荘厳上品な錫髪。波多野、赤松、山名の姫達も色髪、失踪は色髪が関係していると思わざるを得ません。管領様は、他の三色髪姫失踪から学びせめて錫髪姫だけでも救おうとした。御世話役の話自体は公方そして仲の良い兵部卿の力により抑えることができず、斎藤家も又、実行された。   いくら、最高権力者の意向とはいえ、それでは長幼の序もなければ京兆家の軍事力が泣いてしまうではないですか。それとも、斎藤の姫が言うように誠に新将軍様は鬼とか。身供も虫達を飛ばして新御所(旧斯波邸を改築)を探らせましたが、御伽衆の虫採りに遭うなどして戻って来たものは極僅か。まるで蒸発したかのように姫達は消え去り、その痕跡すらない。骨や肉一片すら、勿論外出した形跡もなく、堺、大津から南蛮船に売られたてこともない。しかし鬼なら、血肉を貪り、骨を砕き、一層固い頭蓋や骨盤は鬼の脂で鎔かして食うことも可能でしょう。」

 十兵衛の言う事は途中から一人言と見なしたネネは立ち上がり帰蝶に寄り添った。そして身の廻りを体をくねらせ確認した。皆の眼を覚まさせる錫鞠がない。

 錫髪を生やし、錫歯を砥ぎ、そして錫鞠を持った。その錫鞠が私の懐にない。私を支え助けてくれた錫鞠が…。それに今頃気づくなんて自分で自分が信じられない、虚脱…、頭が熔ける…。

十兵衛は人相の悪い用心棒を呼び、帰蝶を運ぶよう指示をだした。

「ネネ。これからも帰蝶さんの話相手になってください。食事は保証します。」

「おおきに。やっとうちも旦那持ち(定職)になったってわけや。」

 鬼公方疑惑が濃くなったに次いで、管領はんの二重依頼疑惑浮上や。“プラン(搦め)B(手)”御札切ったって十兵衛はんの面目丸つぶれや。けど、誰やねん、山科輪廻仕掛けたの、管領はん誰に頼んだんや。うちもそないに顔広うないし、なんや背筋ずくっとするわ。けどそんな石橋叩いた管領はんの柵を突破して上洛した姫はんも見事、けど“プラン(十兵衛)A(案)”は上洛(肉を)して(斬ら)から(せて)の(骨を)本土(絶つ)決戦(作せん)やったってこっちゃ。ま、その御蔭で三色髪姫失踪案件解決の帰蝶はんと言う御札が手に入ったんや。此処で一生遊女って事は(まぁ)ないやろ。何処でどう切るか見物やで。

「さて、管領様への報告ですが。」

 ネネは帰蝶付きにしてしまったので、残りはアベジャとホラー。しかし二人とも首をう横に振った。これがNOの仕草だと既に学習している。ムラメカスを形成する仲間を何人も御所で叩かれているのだ、流石に総意はNOであろう。

 自分も又、貴重な御札を置いたまま動きたくない。結果、管領への報告は後廻しになった。

 玄関ホールの飲食部の奥に赤紫の両開きの扉がある。扉一つ隔てた向こう側が中廊下式の遊郭部になっている。

人一人通れる程度の廊下を挟んで両側に部屋が複数ある。壁に部屋を示す灯篭が点いているが薄暗く部屋数が明らかになるのは、もう少し先になる。

帰蝶は八畳一間壺厠付きの部屋に運ばれた。消臭の香炉が焚かれている。鼎型で、唐草模様のくり抜き火傷防止ドームが付いている。瓦葺きの店だが、瓦の組み合わせで煙が外へ流れるようになっていてCO中毒することはない。窓のない部屋で外から鍵がかかっており、客が来た時のみ開かれる。なんと斎藤家の六姫帰蝶、斎藤家から“巣立ち”遊女となる。斎藤六姫帰蝶、最初の“プリンセスロンダリング(遊郭飛ばし)”である。

 目を覚ました帰蝶、部屋に一人。ハナも緑もマツも三人の侍女もいない。美濃を出た時、稲葉山の姉姫達、その生母侍女頭達の“お戯れ”“可愛がり”から解放されてどれだけ楽だったか。マツやハナ、あとあのぽっちゃりした侍女そう緑そして三人の小さな侍女達に囲まれて、あと蟹将もね。そして懐には寄り何処たる相棒錫鞠。頭には一の姉プレゼンツ(の贈り物)紫頭巾。

 私の好きな者達や御宝まで奪わないでええ。と叫んだ。山科での無限輪廻もさることながら私は余程都に嫌われたみたいね。ここって遊郭、マツの言う廓よね。ここで芸を披露しながら男の慰めものだって。姫身分がすることじゃいでしょうよおおお。

 錫鞠を失ったショックが、荘厳な錫髪を湛え、凛とした芯の強さで理不尽や妖しと干戈を交わす帰蝶をただの自活できないお姫様に落した。

「マアアアツ、その辺に居るんじゃないの助けに来てよおお。」

 涙は出さない。代りにガアアアアと叫んでみた。返答はない。本当に短い付き合いだったわね。

 斎藤家から”巣立ち“して遊女、遊女しながら、三姫失踪案件の解決に十兵衛やネネと共に努めると昨晩覚悟決めたつもりだけど、いざ現実を目にしてみると、この狭い部屋に孤独感は辛いわね。

 もう一回寝よ。寝て起きたら御所でハナや緑が居て脇息の隣に鞠が転がってるなんて展開有りじゃない。帰蝶は再度布団の住人となった。遊郭に漂う胡弓の哀しい調べが帰蝶をより虚しくさせた。


 時間は、帰蝶が失踪した時間に遡る。斎藤軍は、主無き空の輿を引きづるように御所に向かって行く。室町御所近くまで来た時、先頭の光安の馬が止まった。前方に要人を発見した体。細川家九曜紋をふんだんにちりばめた、赤紫色の大紋、折烏帽子姿の若き武将が乗馬で現れたのだ。従者口取りと槍持ちが一人づつ。大紋姿の武将は、蟹将光安の姿を視界に捉えると馬を下り、礼儀を示した。苺鼻の若者で、眼付が悪く顎が長い。腰に大小を付けこちらに近づいてくる。光安も下馬した。流れる動きで馬を兵士に預けた。光安の元に空輿に付いていたハナがソソとやってきた。ハナの背後には緑と侍女三人が取り巻いている。

「九曜紋と言えば細川家、管領様の一族ではないですか。」

「おそらくな。出迎えに来たのか。参ったな、先に拙者とハナだけ入内して先手を取りたかったのだが。姫様、失踪案件を探る意味を兼ねて。」

「まさか光安殿、御所の方、相手に六姫様が事伏せるつもりだったとか。」

 光安は、視線だけ、ゆっくり歩いてくる苺鼻を捕らえ、顎だけハナに向け頷いている。」

「光安殿は体は大蟹のように大きいですが、頭は小賢しいことばかり。千の軍と申請しておいて、この軍容を見ればおかしいとすぐ分かります。(支度金中抜き疑惑!?できるならやりたいわよ、どれだけ利潤稼げるか。)」

 実は千の兵の内七百を帰蝶捜索の為、通りや辻に割き、光安の後方には三百の兵しかいないのである。

 ハナ、腹決まったか、名も知らぬ行きずりの者の嫁など、何を世迷言をと思ったが、長年仕えてきて愛着が沸かぬほうがおかしいわな。だが、我らの主は妹だが事実上の氏の長者たる小見の方だ。小見の方が姫を御札化すると言ったら、その通り動かなければならぬ。それが土岐随分衆たる明智家栄達に繋がるからだ。

赤紫九曜紋の武将は、十三代将軍御伽衆細川六郎真之と名乗った。光安は、将軍御世話役斎藤六姫が上洛後、京雀達の喧騒に巻き込まれ、拉致され浚われたと述べた。

緑が語ったネネが帰蝶を鹿に乗せ立ち去ったと言う花弁、その話しを光安は真之にしなかった。帰蝶侍女の中でただ一人明智家でなく帰蝶が五姫侍女からスカウトした緑。五姫部屋とは横のつながりがなく、緑の素性は光安もハナも把握しておらず、素性の知らぬ緑の花弁を鵜呑みにできないと口にしなかったのだ。そして七割の兵を割いて捜索中であることを告げた。

真之の眉は少し動いただけで、御所には未だ今川兵が残っている故、管領邸に入られよ。と述べ、案内すると告げ背を向けた。管領の使い役の為、余計な事を言うなと伝えられているのだろう。真之は馬に乗り込み、出立し、口取りの者を報告に走らせた。真之の先導で主のない斎藤家一行は管領邸に向かう事になる。光安は、捜索隊の分隊長に管領邸に向かく旨の伝令を走らせた。

 管領細川晴元は御所の奥に潜んでいた。心なしか猫背になっていた、管領は、真之の口取り(伝令)がやってきた時、思わずピンと背筋を伸ばしたという。そして、帰蝶が浚われ、斎藤軍内に不在であることを聞き一時安堵したと言う。一時安堵したと言うのは、そこで報告が終わってしまった事だ。どう言う輩に浚われたという報告がない。真之の口取り(伝令)は、何も聞いてませんと言うばかり。怒りが込み上げてきた管領はもういいと太い手を振り下がらせた。この時、帰蝶は十兵衛の店に着いていたが、十兵衛から外部への報告はない。

 斎藤家の報告をまともに取り上げるならば、歓迎した京雀との混乱の隙に、丸太買いつまり人身売買業者に浚われたと取れる。一方で“山科輪廻”とそれを突破したってことは都から上洛を妨害する力が働いていると言う事を知っているわけで、その報告と捜索自体が虚構であり偽装と言う考えもできる。

 あの神出鬼没な悪戯姫、今にも、

「将軍御世話役斎藤六姫推参。」

と自分の眼の前に登場しかねないと思うと背筋をゾクっとさせた。

「若殿には何を伝えれば・。」

 扇で白粉濃い顔を隠し考え込む達磨体型の管領に真之の口取りは声をかけた。・

「被害を最小限にして、なおかつ御世話役を遂行してもらうには。分断しかない…、分断さえすれば山城守の怒りは避けられる。」

と呟いた。口取りは聞き取れず、今一度と聞き返した。

 十兵衛の腕を信じるか否か、いや虫の“とりわけ人”十兵衛、アヤツに限りしくじりはない。只、報告に手間取っているだけだろう。しかし、万が一いやしくじりの可能性もいくらか…。

 晴元は思い直した。

「向かおう。今後の事もある。公方様の名代として儂、自ら出迎える。(大事なことだ。口取りに伝えて真之に言わせるなんて危なかしくてできねえ。)」

 細川晴元は腰を上げた。自ら出立して出向くことにした。口取りは、斎藤家は三百程度の軍しか居ないと言った。てことは捜索しているのは事実、斎藤六姫は居ない、空輿だ。

 濃い紫の狩衣に同じ色の立烏帽子を身につけ、腰に太刀を差した晴元は、御側衆五人と小者を引き連れ馬で御所を出た。管領邸は自邸である。一行が自邸に着いてからでも遅くは無い。だが、管領は空を見上げ、時間を確認しながら、急いだ。御蔭で御側衆達は小走りになってしまった。

 そして、先導する真之が自邸に着く前に追い付いてしまった。先頭の馬上の光安も空輿に付くハナも気付いた。管領様が、急いでお迎えに参られた。

「洛内で六姫様が事件に巻き込まれたから当然と言えば当然か。」

「御所内でふんぞり返っているお方ではないと言うことですね。」

「ま、都警備をお願いする立場だからな。」

 真之が光安達に手を上げ、ゆっくり参られよと合図を送り、自身は、管領の元に槍持ちと共に急いで合流した。

 真之はご覧の通りの不測の事態と管領に報告した。真之は、管領が帰蝶の上洛、入洛を拒むと言う意向は知らない様子で、真剣に帰蝶の行方を案じている。

「三色髪姫失踪案件とか妙な噂が京雀の中で流れている事は俺でも知っている。それに便乗した人浚いだ。見つからないと、全部公方様のせいにされちまう。それは避けたい。」

 真之は十三代に心酔しているようである。

 七百で捜索か、祇園に入る道は複雑で余所者での侵入は無理、仮に迷い込んだら祇園不入の権侵犯を大義に斬られるのがオチ。

 祇園には不入の権があり、武士が甲冑槍弓矢等の得物を持っての侵入は禁止していた。武家の争いは断固拒否するという祇園商人の意思表示である。

十兵衛の策が成功していたら、帰蝶は祇園で斎藤家と分断され守られる。

管領はフと上空を見渡し蛾を見つけるが、十兵衛の使いではない。

「蛾が好みなのか管領様。」

「戯言言っている場合じゃない。真之、耳に血を集めろ。」

 真之は遠く北側の雲集まっている空に目をやってから、頭上、快晴の春の空を見上げながら耳に意識を集中させた。

「行軍の不手際を責め、捜索に期限を設ける。たとえば一日、拒否反応を示したら二日待つ。期限内に見つからなければ、御世話役は御破算で軍は帰国して貰う、と言えばどうなるか。(仮に有象無象の丸太買いに浚われたとなれば十兵衛めに責任とらせて草の根分けても探させたらいい。こちらは前金払ってるんだから。)いざとなれば今川の精鋭千に三淵、近江の六角が退路を絶ちなどと脅せば、どう出るかなあの蟹将。」

「ま、こちらとしても捜索名目にあちこち嗅ぎ廻られたらたまりません。京雀の不満は、そのまま十三代の不興に繋がりますからな。十三代が哀しむ姿を俺は見たくない。」

 真之はあくまで十三代義輝の支持率を気にしている。苺鼻、あごの長い向う気の強そうな真之を畏怖させる程の義輝とは。それとも本当に心酔しているのか。

 管領の右後ろには武家長屋があった。普段は明日の仕事に備えて静かだが、昼下がりなのに酒が振る舞われ、唄や踊りの音や笑い声が聞こえてきた。烏丸の押しかけ(デリバリー)遊女(ヘルス)の黄色い声が聞こえる。夜更過ぎには桃色へと変わるだろう。今川家の帰り仕度。

 一方の光安、ハナ。

「これは今川の時と同じ、神隠しではないのか。既に六姫は鬼公方の腹の中じゃあるまいかと切り出してみようと思うのだが。」

「一番槍って掛け声かけてあげようかしら。」

「斎藤六姫を出せ。稲葉山城の時のようにあくまでも白を切るなら。丁度千を擁している、千対千の肉弾戦を行こうじゃないかと脅してみようかハナ。」

「どう言う状況でも出せ、出せば戦は避けられると目で語るのですか。」

「市街戦覚悟の腹の探り合い。そこまでやってやっと腹が割れるというものだ。」

 光安達の左側も又、武家長屋があり、興奮した雄たけびが聞こえてきた。烏丸の押しかけ薔薇衆である。夜更け過ぎにはさっさと帰るだろう。今川家の帰り支度。

「管領様の御成でござる。」

 真之に連れられ、管領がやってきた。官位が下の光安が下馬しようとしたが、管領が手を上げ止めた。

「緊急時故、虚礼は割愛致す。上洛早々大変だったな。海千山千、鬼、天狗、魑魅魍魎跋扈する都だ。御所としても最大限、姫捜索に協力する。」

 と右手で手綱、左手の扇で口を隠し、かくの如く言いきった。厚化粧の奥に凛と輝く瞳は本物、と光安は見た。

「かたじけのう御座います。六姫様は少々悪戯好きな所があり、あまり騒ぎが大きくなり過ぎると出るに出られなくなると言う事がありますので、粛々と探したいと思います。」

「分かった。では我々も目立たぬよう探すとしよう。錫髪の姫など早々おるまい。直ぐに見つかるだろう。」

と管領は笑みさえ浮かべた。

「山城守は真、山城守となる。」

 両モノノフのやり取りを見ていたハナは、小見の方の本音を吐露した言葉を思い浮かべていた。歴史を創るのは女子なのです、でもそれをそのまま書き連ねられたら、嫉妬で、生きていけません。その為、男を楯にするのです。故に史書は北条政子様、日野富子様、数例の例外を残し男の歴史となっているのです。

 開幕戦は探れなかった腹の探り合いで終わりましたってとこですか、わたくしがどうでるかにかかってくるようですね。兎に角今は六姫様の居場所と確保です。

 管領は今川の望郷、厭戦気分で作戦を変えた。

一方、光安は、上洛に際して、数は揃えたものの、大半は訓練は積んでいても実戦経験殆ど無い新兵。しかし、遠征に耐え山科輪廻に合いながらも、無事上洛できたと思ったら、帰蝶消失。休む間もなく七割は帰蝶捜索の為散らせてしまったので、剛毅盛んなん今川兵相手では話に成らず、斎藤軍を外交御札化できなかったのである。

「因みに今川家はなぜ御世話役を浚われたにも拘わらず身分低き代役を立て、今まで護衛の役だけ務めたのですか。」

ハナが声の限り叫んだ。高く細いハナの声でも管領と真之の頭上まで届いたようである。

「浚われたんじゃねえ。御所に着いたら空の輿だったんだ。上洛寸前山科の宿辺りで逃げたんじゃねえか。上洛前にも拘らず御所の責任にされたらたまらない。現に今川家の軍大将朝比奈備中守(泰能)殿は、姫が逃げた責任を取って侍女から代役七人も選ばれ御世話役とし、さらに護衛の役を全うすると自ら宣言されたのだ。十三代様から強いたんじゃねえ。妙な噂流す…(じゃねえぞ。)」

「真之、美濃の客人に無礼だぞ。」

 管領が、ようやく真之の無礼を止めた。

 やはり山科には何か妖しい何かがあるのですか。その妖しと公方様は何か関係あるのですか。関係有る故に真之様はあんなに…。

「真之は、十三代が好きでな。特に京雀達の評判を気にするのだ。勘弁して給れ。その様子だと三色髪姫失踪案件の事も聞いたようだが、京雀達の戯言だ。公方様と合わな…、(真之分かりやすくこっち睨むな。)基、ただ都の生活に馴染めなかっただけの話。もし、御世話役で亡くなりなどしたら、波多野、赤松、山名落ちぶれたとはいえ黙っていまい。今川は真之の言う通り、逃げた。その失踪の件聞いて自分には合わないと思って逃げたのかもしれん。今頃は、どこぞの豪族の嫁にでも密かに収まっているかもしれない。」

 偶然とはいえ、ハナが一瞬揺らぎ血迷った案と合致してしまい、内心赤面した。

「じゃあ、三姫の姫君達は今どこに。:」

「郷里決まってるだろ。丹波、播磨、但馬に行って確かめてくるか。」

と真之は眼付の悪い眼でハナを睨んだあと馬を廻し背を向けた。管領は既に背を向けている。光安がそれまでとハナを制している。

 郷里じゃないですよね、それだけでもこのやりとり無駄じゃなかったですね。アイコンタクトで光安とこの思いを共有できた。同じ明智家であるが故である。

 この後、以外なことに管領は管領邸に戻らず、御所に帰って行った。管領邸には真之が従者二人を連れ到着まで案内した。

 ホーホケキョ!突如光安の頭にうぐいすの鳴き声が響いた。

「マツの“とりわけ”術で、六姫様の居場所と思いますが、違いますわねえ。第一、マツさんは深芳野様の推薦ですから。」

 なんて、ハナは誰もフォローできない独り言を言っている。

 そんな季節か。いや、以前から鳴いていたに違いない。御世話役“競り”の頃から、月日が怒涛の如く過ぎていった。ハナも同じだろう。


 光安は、美濃明智城に小見の方が尋ねてきた丁度一年前の事をフと思いだした。突如耳に飛び込んできたウグイスの鳴き声から思いだした。あの時もウグイスだった。

 小見の方は侍女を連れてやってきた。打掛を重ね合わせした小柄な小見の方は、お雛さまのようであった。

光安の大きな蟹体型は彼の小さな娘二人の恰好の遊び場であり、膝に乗ったり、肩に昇ったりしていた。

「なんとも仲のよいことなのじゃ。きっと長じてから孝行してくれるのでしょうね。それに比べて我が娘と来たらじゃ…。」

 と小見は来る早々溜息を付いていた。

「お館様の娘故仕方あるまい。姉姫達やその生母達の手前、再三麓に下りることはできまいて。」

「だからと言って、妾が山まで上がった時のそっけない態度と言ったらないのじゃ。」

「妾腹の姉達の嫉妬を避けるためだ。」

「嫉妬されてるの。まさか、可愛がりの井戸端花弁って本当なのか。」

「嫉妬を避ける為と言ったろう。そちへのそっけない態度が嫉妬を避け、可愛がりを避ける事に繋がる。」

「井戸端合にありがちな虚言なのじゃ。姉妹は仲よく、姉達も嫡女たるお六を立てているのじゃ。胡蝶の振る舞い見れば、間違いないわよね。」

 小見の方は、時折鼻を膨らませながら口をとがらせている。不満気な時の癖だ、幼い時から変わらぬなと光安は思った。小見の方は三年下の妹なのである。

「孝行をよく口にするが、老後の面倒でも見てほしいのか。」

「まっさか。外交御札なのじゃ。ここぞと言う時に御札として動くのが娘じゃない。妾も、母上の御札として長井新九郎(斎藤利政)の継室に入ったの。ここだけの話、女たらしのあんな男のしかも継室なんて話あって直ぐは嫌だったけど、母上が行けと言うから、娘として孝行するのは当然と納得していったのじゃ。」

「昔話したいわけであるまい。不満があるのか。」

「ハナがきちんと侍女頭やってないのじゃ。お六に対して折檻しているとしか思えないのじゃ。お六ったら、そんなハナを庇って。幼いなりに、一番近く、多く時を過ごす者を守る事が処世術だと心得いるのじゃ。あの髪、眼、歯が何よりの証拠。その副産物で“とりわけ人”になって国を飢饉から救ってると評せられても生母としたら、喜ぶべきものじゃないのじゃ。乳母も酷かったけど、あの乳母の娘だから酷いのは当然なのじゃ。ハナ替えた方がいいんじゃないと思うのよ兄上。」

 どうして、そうなる。見ている世界が違うのか。

 可愛い妹の頼みだが、これだけは受け入れられない。ハナは帰蝶の乳母の忘れ形見である。ハナの弟は夭折したが、帰蝶は乳児期、幼児期を乗り切った。実の姉妹以上の信頼関係で結ばれている。そして、ハナ一族程明智家に大事に重い忠誠を誓っている人達はない。声が小さい、体が小さい、突発に弱いと言う弱点はあるが、拙者が見る限りよくやっている。

「それは駄目だ。いざと言う時ハナは明智家の為働いてくれる。六姫様に対しても体を張ってくれるだろう。明智家、六姫様の為にもハナを外してはならぬ。」

 優しく言ったつもりだったが、気持ちが少し洩れていたかもしれぬ。娘二人はたかっていた光安の体から脱兎の如く逃げ出し、小見は膝を崩し袖で顔を隠し、怯えた様相を見せた。


 あの時は、それ程注視しなかったが、帰蝶の御札化は機会あればと極めて早い段階から考えていたのだな。妹は妹で真剣に考えていた、この混沌の世での斎藤家と明智家の出世栄達を。自分と同じ嫡女の宿命。

しかし、混沌に加えてこの妖しき都で禍々しくも清々しい錫札がどう動くか。

 錫髪、錫歯、そして相棒の錫鞠を持つ姿は、退廃的で禍々しいが、飢饉を救い妖しを破り正しき道に導くとりわけ力がある。とりわけ力を評価したいが、しきれぬ、複雑だな。

「山城守は山城にあってこそ山城守なの兄上。妾が推したのよ山城守。明智の天下が妾には見えるの。」

明智家の天下が見える、壁に耳あり障子に目あり、その時は恐ろしくて聞けなかったが、今持って確実な事は分からないが、知らず知らずの内に拙者は妹の掌に乗って動かされているのではと思ってしまう。恐ろしいかな我が妹そしてハナ。

将軍御世話役、最初に手を上げた一姫様に遠慮したのか、六姫様札を切ってきたのは、色髪姫を聞いてからだったな。切り札を出すのに最高の舞台と思ったのか、我妹よ。


管領邸に着くと、後の事は管領家正室に任せ、真之は帰ってしまった。ハナは仕切りに外を覗っていた。帰蝶の安否が気にかかるのであろう。

「ハナ、今は管領正室様と共に、宿泊先である管領様邸での仕切りに従事せよ。衣食住を仕切る侍女を束ねる侍女頭の役目を全うするのだ。六姫様が事は兵達に任せよ。ネネの足取りも追っておる。」

 光安は膝を曲げ、視線を合わすと、ハナは頷いた。

「ここまで伏魔殿で生き残った力は鬼や天狗が束になってかかってきても萎えることはありません。それどころか妖しと遭うのを楽しみにしていた姫様なのですから。」

ハナは笑顔を創り顔を上げ、腹を決めた。管領家正室が玄関から上がった踊り場でハナ達侍女を出迎えた。

「あなたが当将軍御世話役の侍女頭さん。」

 真紅の扇の上より、赤のアイラインで囲った眼が覗いた。

「はい、斎藤六姫様が侍女を束ねるハナと申します。」

 ハナと緑、三人の侍女は、オレンジと薄い赤が譲り合う格子の小袖でに、紫の袴を付け、フォーマルな装いで向き合った。庭で、幕で囲み、ササと着替えたのである。

四人はハナの後ろで待機している。

 三条公頼の娘である管領正室、長い黒髪を元結で留め、気品溢れる二重瞼の眼でハナを見つめた。赤を基調として金の鯉が舞う打掛を細身の体に纏っている。ハナより二回り大柄で三十歳(アラ)前後(サー)特有の頬のたるみと唇の緩みが女人の色気を醸し出していた。丸眉とお歯黒の公家指向は、主晴元を見ていれば納得である。

「張りはないけど、熟し切った色気って奴。」

「育ちが違うと品が溢れでてるじゃない。」

「どうして、管領様は自邸じゃなく御所へ帰ってしまったのかしら、ね緑。」

「…(そのネタであたしに振らないで。)」

 ハナが軽く咳払いして、自分の袂を後ろ向きに叩き、侍女達を戒めている。正室は、下々の噂など気にしないのか、一瞥すらせず話を続ける。隣の顎が長く鼻が高い四十過ぎの恐らく侍女頭とは大きな違いである。管領正室の左に控えている。表情険しく緑達を睨みつけている。

「上洛早々大変は目に遭いましたね。でも山城守殿が選んだ姫君なのです。きっと自力で我が道を切り開くことでしょう。」

と挨拶を述べ、正室より隣の侍女頭を紹介された。やはり侍女頭だったのだ。よしなにと言って少し品よく膝を曲げ正室は他の若手侍女衆三人を連れするすると廊下を滑り去って行った。

 ハナから少し離れた所では初老の管領家家老から光安が武家長屋と城内の斎藤家の常駐部屋、さらに荷駄を管理する倉庫の説明を受け、去って行った。

 侍女頭は、ハナに斎藤家が使ってよい場所の説明をした。炊事場は、庭にある独立した食堂を使うが良いとコワ面を創って言い放った。あと常駐部屋の場所をかなり早口で説明した。三人の侍女は途中で諦め、視線の杯を交わしたあと、最後に緑に乾杯をした。完敗、緑に丸投げしたと言う事である。

 四半刻後、緑ら四人は食堂にいた。山科の宿で買い足した食材から忙しく夕食の準備に入っていた。土間と板の間を備えており、板の間は三百人が裕に食事できる程の広さがあった。かまども八つ備えてあり、客将用の食堂でもこの広さ、流石管領家と言うところだ。

三百人の兵の分を大釜を使って飯炊きした。これは武家屋敷待機部隊である。次に管領入りの二十人、侍女、捜索隊の分を炊いていく。野菜や猪肉、椎茸を放りこんだ鍋料理になるだろう。大人数になると、細かな料理は不可能である。

 丸顔、四角顔、白菜顔の順で話している。

「六姫様のマツさんやネネさんと仕組んだ壮大な悪戯って説も消えないわよ。」

「でも、やっぱ公方様と六姫様の間に入って管領様が邪魔してるんじゃない。公方様の意向で仕方なく立ち上げたものの、和子が出来て外様大名が外祖父母家となり権威を振われたら管領様にとっては嫌じゃないかしら。三色髪姫失踪案件は尾鰭背鰭が着いた慣れの果てで、実は管領家がこぞっと“御戯れ”して厭戦気分が芽生えて早々に帰国したとか。管領様は稲葉山に来た時そう言ったんでしょ。」

「“山科輪廻”“幻嫗”“魑魅魍魎京雀”誰か仕掛けたのよ。仕掛けた妖術系“とりわけ人”は何人、その操り人は誰。ねえ緑。」

 緑はネギを刻んでいる。少し間が開いた後、

「あたしは、お姫様の無事を祈るだけなのです。」

とだけ言い放った。

 それだけで済むと思う、丁度ハナさんが居ないのよ。米を炊く担当の侍女二人と、猪鍋担当の白菜顔の侍女が緑に視線を送った。あたしの話しっかり聞いてくれるのね。

「妖術系の“とりわけ人”は、ネネさんの近くにいたあの声楽家さんなの。あの人とネネさんだけが人だった。背後は管領様なのよ。推理の枝は三本あるの。

一、“山科輪廻”“幻嫗”の妨害で六姫様の上洛阻止、上洛したらしたで、声楽家さん達の”魑魅魍魎“による六姫様強奪。ネネさん、そして声楽家さんたちは多分遊郭とかいう恐ろしい処と通じていて、そこに売られたのね。御労しや。

妖術系の“とりわけ人”を雇い仕掛けられるのは有徳者たる管領様。管領様が公方様の間で邪魔するのは、

①斎藤家が将軍家の外戚になるのを避けるため。それとも

②鬼公方に喰われないようにするため。これは性善説過ぎやしないか。

二、姉様達の“可愛がり”で稲葉山だけでなく斎藤家がいい加減嫌になっていた。

マツさんとあたしの知らない所で謀り、ネネさんや声楽家さんを巻きこんで管領様の姫様上洛阻止に便乗して、世話になった御台様と御館様だけでなく斎藤家そのもの、から”巣立ち“しようとしたのよ。上洛後、魑魅魍魎、そのどさくさに紛れて、先に外れて落ちていく道を確保したマツさんと共に離脱したの。

 錫鞠で妖術を破って、光安様を助けたのは斎藤家への餞別よ。斎藤家から“巣立ち”為に錫鞠すら手離したのよ。これあたしにとっては最悪の手なのだけど。

 マツさんは馬、でもネネと姫様と声楽家さんは鹿だから、余り遠く行ってないと思うのだけど。道を示したのは、マツさんの師匠たる深芳野さんかしら。」

 話込むに従って緑の喋りは流ちょうになっていた。これだけ長々と自分の話を聞いてもらったのは、城に上がって、いや生涯初めてかもしれない。何時も一歩引いて発言を控えていた緑、自分の話は他人からすれば詰まらない。いつも話始めても被せられて斬られてしまう。三人は、調理の手を止めて聞いてくれた。

 心が熱くなった。でも、その代償がやっと働き口、生甲斐を与えてくれた六姫様喪失なんて。でも

「あたしは三本目の枝、マツさんやネネさんやその主の声楽家さん達を巻きこんだ壮大な

 悪戯説を支持するのです。だから、もうすぐ兵隊さんたちと一緒に戻ってきます。」

「かああ、それあったしが言った説じゃん。長々話して結局あったしの説を取るって何それ、でも嬉しいけど。」

ワアアアを笑い声が起こった所で、ハナが戻ってきた。明智家の侍女達に、光安の部屋に上げた荷物の整理等を指示しに行ってたのだ。光安は、武家長屋の兵士分配等で忙しくしていたからだ。

「六姫様不在がそんなに嬉しいですか。」

 でも笑い声が止まらない。食堂のスライド式の戸を思い切り閉めて、乾いた耳障りな音をパンと出した所でやっと止まった。

「それとも、わたくしが居ないことが嬉しかったのかしら。緑、あなたが珍しく輪の真ん中にいたようですけど。」

 緑は包丁の手を止め、直立不動した。でもハナは、それ以上咎めず、板の間に置いてある膳と食器の点検と称して調理場から離れていった。

「千切りしたネギ、大鍋にいれていいですかあ。」

 緑の腹から通る声がハナの背中に響いた。わたくしにあんな声が出せたら。

 先輩侍女三人は明智家の者、緑の出自って。そう言えば元々お絵かきが上手いけどイケズな五姫様(華蝶)の侍女だったのよね。…。わたくし知らない。おっとりしているから、全く今まで意識してなかった。六姫様の推挙だからって、そのまま通して。御荷物をただで引き取って貰って感謝していますって五姫様の侍女頭に皮肉たっぷり盛られたっけ。

最初はおどおどして、憶えも悪いし、機転も利かない。わたくしよりもアガリ性でどうなるかと思ったけど。あれから約一年。知らない内に信頼してて、なんかわたくしの次席に収まっている。しっかり出自を聞いとくべきだったわ。深芳野様とは無関係だと思うけど。露骨に深芳野付きのマツは光安殿に言って目付してたけど、遊郭出身なのに童女好みは驚きでした。緑は迂闊でした。マツもあの妖しげな魑魅魍魎に乗じて上手く巻かれて逃げられてしまいましたが、と言う事は六姫様の悪戯なのですか。二人年が同じせいか仲良いですものね。悪戯は即ち御札化への悪あがき、訴えなのですか。わたくしの良心が痛みます。

 光安は、管領邸内の自部屋を本陣として捜索隊の報告を待っていた。やみくもに探しているのではない。姫を捕らえたらまず遊郭、都の五花街を中心に捜索していたのだ。烏丸など、祇園を除いて面改めは終わっていた。唯一祇園のみが不入の権を主張し、甲冑、得物備えての踏み込みを拒んでいた。上洛早々事を荒だてたくない捜索兵達は、踵を返して光安にまず報告する選択肢を採った。祇園への道は複雑怪奇で余所者は近づけぬと管領は踏んでいたが、斎藤兵はあっさりと八坂神社、門前町で歓楽街の祇園を探しあてていた。

限りなく怪しい、しかし丸腰で行けと新兵に言えるか。先手侍大将の光安は親御さんから預かった兵達の命を護る責務も負う。

 ハナは、炊事場を暫し緑以下に任せて、庭を横切り、管領邸の光安のいる仮設本陣にやってきた。既に日が傾きかけており、本陣の廻りの庭では松明が焚かれ出した。勿論、管領家家老の許可済みだ。

「どうですか。」

 ハナは草履を脱いで縁側に上がるなり、部屋内の床几に座る光安に問いかけた。甲冑姿に黒に銀縁のある陣羽織を付け股を広げて座る姿は、蟹を思わせる肩幅もあって威風堂々としている。

「祇園が怪しいと睨んでいる。祇園には変態趣味的な店もあると言う花弁も入ってきているでござるよ。魑魅魍魎と繋がらないか。尻を公然と丸だしするネネが働いていてもおかしくない。

だが不入の権があって甲冑得物備えで踏み込めないので案じている。拙者が丸腰で突っ込むべきか。」

だが、ハナはそんな話には興味を示さず、光安に問いをぶつけた。

「緑の出自ご存知ですか。」

 一瞬見当違いの質問と思ったが、

「知らぬ。それが何か。:」

「侍女達とは結構、積極的に喋る姿を見てしまいました。わたくしの前では虚構を創って油断させ何かを探っているのかと。」

 女子とは元来そう言う生き物なのか。それを女の腐った奴と言うんじゃなかったか。

「探られて困るような物はないだろ。」

「小見の方様の六姫様御札化の件、何処まで緑は知っていて、何処まで六姫様に洩れてるのかと。六姫様は拉致されたのでなく、逃走したのではないかと。洩れていなくも、勘の良い六姫様なら自身が御札化されている事も察しているかと。血肉の半分は小見の方様なのですから。小見の方様が考えていることも分かろうかと。」

「御札化の何か嫌なのだ。今更だろ。六姫様は好んで、自ら進んで受けたのだ。見てたたろうハナ。御世話役を受けると言う事は手付き挙句将軍家正室になる可能性を持つと言う事ではないか。」

 光安はハナに話かけているが、視線は、庭にで松明を設置している兵士や、廊下に控えている小姓や侍女を一回りしている。

「山崎の関には走らせましたか。(勿論騎兵ですよ。)」

「走らせておる、(騎兵と言うまでもない。)まだ報告はないが。あと、(ハナにだけ伝えておく。)」

 アイコンタクトを理解した、ハナは、陣羽織からほつれが、と光安に近づき、糸先を切る振りをした。

「あと侍女にも疑いの眼など向けぬように。緑はもうそなたの替りが務まるのではないか。」

「何をおっしゃって。おっとり緑がわたくしの替りなど務まるわけありません。」

「そなたは忙し過ぎる。(忙し過ぎて無駄が意外と多い。)落ち着くのだ。」

「わかりました。しかし、六姫様が御札化を知り、御札化を実は嫌がっていてマツと共に逃走した線も棄てきれません。」

「娘にとって御札化とは名誉な事ではないか。自身も将軍家御台に収まることができる。」

光安は、周囲を固める明智兵の顔色を見ながらハナに語りかけている。

「しかし三色髪姫失踪案件を聞き…流石の六姫様も、狼狽したのはわたくしでしたね。」

と小さな手を胸元に当て落ち着こうとしている。深芳野様は何処まで…、六姫様は何処まで知り得たのかしら。

「兎に角、不入の権を楯に我らの捜索を拒む祇園が怪しい。六姫様だけ行き先が見えた“山科輪廻”錫鞠でなく、自ら歩いて行っていたらどうなっていたか。まさに蟻地獄。“幻嫗”で行軍阻止、上洛してからは“魑魅魍魎”で陣斬り。それに三色髪姫失踪案件を持ってきて六姫様の動揺を誘おうとしたネネ。祇園にいる妖術系の“とりわけ人”がネネや術を使い六姫様奪取に動いたのだ。六姫様は祇園にいる。」

「だとしてもでも山崎の関、鞍馬、宇治それに淀川辺りが怪しいと思います。」

「淀川か、祇園から堺へ流すか。分かった。だがもう日が暮れる。見ず知らずの地で松明行軍は危険だ。新兵を失っては美濃国人衆の反感を買う。明日、金子を握らせ、山崎の関、鞍馬の民、宇治の民、淀川の渡しに当たってみよう。

祇園で対峙している者達も、これから客が増える故、騒乱の元だ下げよう。全ては明日の朝…。いいいつえええ。」

 光安は向う脛を蹴られた痛さでハナを見た。どうして蹴るの、何怒っているの。声量の無い声の為、物思いに入り過ぎると耳に入らなくなるのだ。

「明日では遅すぎます。邸内の明智家の兵を使って下さい。兎に角六姫様を確保しないとどうしようもないのです。御札を失ったまま今晩眠れるのですか。“山科輪廻”で一瞬ぶれましたが、もうぶれません。わたくしも覚悟を決めました。だから明智惣家の光安殿も覚悟決めてください。」

 光安は向う脛の痛みに顔をしかめながら、大きな左手を上げ分かったの合図とした。

「わたくしは食堂に戻ります。侍女達が遊んでるか、夕餉を焦がしたり台無しにしてはしないか案じられますので。」

 ハナは踵を返した。甘い香りが光安の鼻を癒し、向う脛の痛みが吹き飛んでしまった。

 普段香はしないんだか、怒りで発汗させちまったな。

 六姫様、庶民とは比べ物にならない位の上等な身形、食事ができ、趣味に没頭でき、侍女を使う事が出来る。それもこれもお館様と小見の方様の元に産まれたから。姉様達の“お戯れ”“可愛がり”は大人になる為の躾とわたくしは、常々言ってきました。

 六姫様も見事に耐えられました。ネネから三色髪姫失踪案件を聞いた時もあなたは鬼公方退治を主張して息巻きましたよね。一瞬でも六姫様逃亡なんて負の意見を考えた事を自戒します。

 やはり怪しいのは深芳野様。護衛女官としてマツを送りこむ。毎晩しけこんだのは、百合道だけ?鳥を下僕化するだけですか、マツの“とりわけ”力は。六姫が将軍御世話役になって一番困るのは深芳野様。お手つきになり将軍家御台所となれば、小見の方様は次期将軍の外祖母。さらに追い打ちをかけたのが、小見の方様御懐妊。深芳野様の勢力は下り坂になるって考えてもおかしくない。笑顔が印象的な深芳野様も暴虎化し、馮河を渡ろうとしても不思議ではありません。

 わたくしの家に忍びでもおれば深芳野様身辺に捻じ込んでおく所を明智惣家も甘い。

 ハナは、スライド式の食堂の戸を開けた。

「ええええ、深芳野様。」

 ハナは、くらくらして、その場にへたりこんでしまった。

「あれえ、深芳野様なんて何処にもいませんよぉ。」

 緑の声だ。緑が侍女の一人を肩車していたのだ。日が傾き、灯篭の火がともされ、暗くて見間違えたのだろう。

「上の戸棚から鍋借りようと思っただけよ。」

「いくら深芳野様でも此処まで高くはないでしょうよ。」

「それとも、ハナさん、深芳野様の悪い噂してたの。ね緑。」

「あたしに振られても困るのぉ。」

「ハナさん深芳野様が裏で糸引いてるとか。」

「いくら、深芳野様が巨人だからと言って美濃から操るなんでできっこないでしょうよ。」

「単にネネの遊女勧誘が強引過ぎたってことよね。緑。」

「だから、あたしに振らないでぇ。」

「あ、ずるいよ緑。」

「深芳野様はチャフ、六姫様は人浚いに浚われたのです、早く助けて。」

「チャフ?」「らふ?」「かふ?緑」「変な事言った、ごめんなさい。」

 あたし達は隔岸観火しているのではないのよ、今は捜索兵の皆さんを精一杯賄う事が六姫様発見奪還に繋がる、そう願掛けするしかないのよ。

 料理は既にできあがり、待機組に運んだり、帰還した者から順に膳を取って行った。


 同じ頃、マツはどうしたか。ハナや光安の思惑と違い、帰蝶とは合流していない。しかし、実は帰蝶の近くにいたのだ。祇園の門付近で、斎藤兵が軽く揉めている事など露知らず。

同じ祇園の料理屋で娘ではなく、いつ捕まえたのか、京雀の若い男数人捕まえて座敷で大宴会と盛り上がっていた。一通り飲み食いしたあと、柱に背を預け胡坐座りのマツが徳利を天井に掲げた。陶器に映る蝋燭の灯が場の空気を変え、着物の合わせの緩んだ男数人の思考と嗜好を一時中断させている。マツから見て彼らは、マツの今一時の居心地を埋める存在でしかない、故に姿に興味は無い、別れれば海馬から率先して消えさるであろう。

「飲み比べで妾に勝ったら、妾が全脱ぎするでありんす。でも負けたら野郎共全脱ぎでありんす。(好みの娘には逃げられるし、男弄って憂さ晴らすしかありんせん。)」

 わああああと京雀達は早くも諸肌脱いでいる。

「負けてからでありんす。」

 なんで、この世で男という生き物が存在してるでありんしょ。

 マツは、そう思いながら、懐を触った。持ち合わせが殆どない。は、無いが意見の総じまい、何処が。こういう時に集る為に男は存在してりんせ。

 と結論つけると我慢することはない。マツ風が廻りの男達の鼻を刺激し、視線を虜にした。立ち上がり、腰に手を当て堂々と徳利酒を一気飲み、それでも顔色一つ変えず下半身も揺るがない。柱を背にするのは、背後の襲撃を警戒しての癖である。

若いながらもマツの酒豪振りは底なし、京雀達は次々潰れ、脱ぐ間もなく生ける汚物と化していった。実は、宴会中からマツは右肩を時折引っ張る力をなんとなく感じていた。気のせいと始末していたが、段々強くなっていた。気の精、男の精いや男のせい、

「いい加減にやめりんせ。」

と振り返るが誰も居ない。持たれていた柱だけ。“山科輪廻”“幻嫗”“魑魅魍魎”なんでもありの妖しの都、木の精とかでありんすか。気配は柱ではなく背後に廻っていた。首だけ廻すマツの視線の先、陣羽織の右肩に長細い女の髪が一本引っかかっていた。マツの眼は刮目し瞳孔が開いた。錫髪!姫様の髪でありんす。

 あ妾何してるんでありんすか、なぜ都にいりんす。

 思い起こせば上洛の道すがら、帰蝶付護衛女官と言いながら、美童女がいると聞けば、あっちふらふらこっちふらふら、美少女を眼の端に捉えたら、ほっぽりだして、馬飛ばして抜けだしたでありんすな。“山科輪廻”で二度と離れまいと誓ったにも拘わらず、上洛の喧騒に戸惑い、たまたま現れた美童女を言い訳にしてしまったでありんす。

なんとも意志の弱いことでありんす。姫様。上洛さえすれば、御所は眼と鼻の先、無事着いたことでありんしょ。ちょっと待っておくんなんし、御所に入れば入ったで、鬼公方。

 ネネが齎した、波多野、赤松、山名、御世話役三色髪姫失踪案件を思い出した。

「大丈夫じゃありんせん。」

「エ、マツもう飲めへんの。」

とか酔っ払い京雀は裾の乱れも気にせず、とろんとした眼、赤い鼻、頬、鼻の下伸ばしてマツに視線を流す。呼びかけも恰好もこれ程間抜けではマツの気を惹くなんてことは到底できそうもない。

 マツにくっついた錫髪がマツの肩を引っ張っている。妾は“とりわけ”姫様の“HELP(感情遠隔連結) CALL(錫髪)”を切られたでありんすか。

 命の恩人であり武芸の師匠たる深芳野様が結んで下さった斎藤六姫様、その姫様の鬼公方退治いや対峙は、妾の護衛前提だったでありんせんか。

「こうしちゃいられないでありんす。暫く都いるからケツ頼みんせ。」

 マツは陣羽織を翻した。京雀達は身の丈六尺、遥か高位置にあるマツの鎖帷子越しの尻に視線を送っている。ケツとはツケの事だ。だが、酔いが回っていても、そんな小ネタで隙を作る京雀ではない。

「飲み逃げは赦さへんで。仲間呼んでマツはん脱がすまで続けるんやから。」

と言い終わらぬうちに皆マツの長足から繰り出される、ヒール風車蹴りで板の間に突っ伏していた。

 マツは暖簾を爪で斬り裂かんばかりに払いのけ外に出た。馬場に行ったが、馬衛も馬もない。

「流石、都、生き馬の目を抜いてくるでありんす。」

 風もないのに、陣羽織の肩に引っかかった錫髪が揺れている。

「揺れる方に姫様がありんすな。」

 祇園の街中、ダアアと半月に向かって走りはじめた。しかし、灯篭が並ぶ通りは不夜城、人通りが絶えない。絡んでくる酔人も居て、その度に蹴りを入れている。しかし、暴力的な事をやっていると当然祇園の守なる者達が出てくる。六尺ニ寸超えスキンヘッドに着流し、胸毛丸だしといったでっぷり力士達がマツの周りに湧き始めた。

 巻き舌で何か凄みながら、マツの腕を掴んだり腰に手を廻してくる。蹴りやひじ打ちを浴びせて抵抗していたが、徐々に動きが封じられていく。マツもその頃にはわが身の危機を感じキャアキャア喚いている。

 その時、

「ケシだあ。ケシがでたああ。」

 思春期前の童の声、次いで通りで客引きやってる遊び女達がキャアキャア騒ぎ始めた。マツと祇園の守の側をケシつまり怪が通り過ぎた。

 おかめの面を付け全裸で股間を立烏帽子で隠した筋肉質の若い男が走り過ぎて行った。祇園の守のマツを掴む手が緩み、ケシに気が取られる。その時、マツの手を低位置から引っ張る力があった。その力でうまく祇園の守から擦り抜け、その低位置の手に引っ張られるように足の歯車を廻し始めた。低位置の手の持ち主は童だが烏帽子を付け狩衣姿、色は深緑のようだ。

「不逞娘待ちやあああ。」

と言う巻き舌の怒号がマツの背中に突き刺さる。深緑烏帽子は、遊び女と客のツガイの前にスとマツを連れていく、次の砌右側の路地にパと入った。その路地の灯篭の下に座るよう勧め、マツは頭を両手で覆った。怒号は過ぎ去っていった。だが、怒号に代って(ケシ)と言う声が。

「うわ予定より早いんじゃ。」

と深緑烏帽子が驚いている。例の全裸に股間烏帽子、おかめ面の怪が入っていった。

「わあああはなんでありんすか。」

とマツ、指銃を上下に振って大受け。だがその笑顔は瞬間冷凍した。過ぎ去ったはずの祇園の守が突進してきた。マツにとっては妖しの方がまだまし、祇園の守は現実の脅威だ。既に肩の錫髪はない、姫様の事忘れたわけじゃありんせん。

「早いんじゃあ。」

 と言いながら。深緑烏帽子がマツを引っ張った。怪は全裸だが、太刀を帯で腰にくくりつけていた。

「武家それとも公家でありんすか。」

 深緑烏帽子とマツ、怪と祇園の守との夜中の駈けっこが暫く続いた。祇園は広い。

 未だ祇園抜けないでありんすか、灯篭で夜陰紛れができないでありんす。なんて考えた時、深緑烏帽子が人にぶつかった。ぶつかった者は、背丈はマツより少し低く整った顔立ち。所謂普通の娘さん方の言う美漢でありんすな。パリとした茶色系の肩衣、小袖、袴、同じ茶色を濃淡で使い分けるセンスを持っている。これは身だしなみからして有徳者でありんす。

 マツ、目を潤ませ、口を緩め、顎や肩を艶めかしく揺らした。

「マツ好みの美漢でありんすな。」

だが、一睨みするだけできつく結んだ口元は微動だにない。心と裏腹、商い言葉と見抜かれているのだろう。

「悪い。銭払うから店入らせて。」

とマツの横に追いついた怪が叫んだ。美漢は、

「ササ、御客様どうぞ。三名様来店。」

 と暖簾を上げ、店の奥に向かって声を張った。どういうわけか祇園の守は、その店の前まで来なかった。それは営業という名の結界。祇園の守は営業妨害はしないのである。

 マツと緑烏帽子に次いで怪も入って来たが、入った時には漆黒の立烏帽子狩衣姿。六尺三寸の匂い立つ若武者になっていた。二重瞼の眼が店主より大きく鼻も高い、口も大きく顎もしっかりしている、少しだがマツより背が高く、店主より、かなり若い。太刀に手を添える姿が映える。

「太刀持ってんだったら、あんな怖い連中斬りんせ。」

「伝家の宝刀は抜きすぎると忝さの潮が引いてしまうんだよ。」

 漆黒の立烏帽子は少し幼さが残る声で答えた。

白い歯が煌めいているでありんすな。

店主は困ったような顔をしている。

「あの、二人で籠りたいでありんす。」

 黒烏帽子はマツに秋波を送った後、店主に正対した。

「店主、一番安価な囲炉裏(へや)を頼む。」

「かしこまりました。」

などと営業用の一礼、ちょっと待ったを懸けたのは鼻をふくらませ額に血管を走らせたマツであった。釣り上がった目の行きつく先は漆黒の立烏帽子だ。

「どうして妾に秋波を送って期待させて一番の安廓なんて吐息するでありんすか。」

「いや秋波を送ったものの、懐には秋風が吹いててな。」

「は、流し(遊び)女の連れ込みじゃありんせん。妾への御ひねりは要りんせん。」

「いや、その分策に入れなくても懐の秋風は止みんせん。」

 黒烏帽子は御茶目にマツの廓言葉を真似ている。マツを見下げる二重瞼の眼が妙に甘い。妾を見下げるなんて、深芳野様以来でありんすな、しかも未だ若年。

「何処かの上流公家か大名家の御曹司と思ったでありんすが、見かけ倒しでありんすか。その格好も古着屋で安く買っての偽公家でありんすか。」

と顔を彼から背けながらも流し眼を送り思い切り皮肉ってみた。

「ぶ、無礼じゃ。」

とかなり下から声がした。マツと漆黒烏帽子からは折烏帽子すら目にはいらない。

「大事な用忘れてるじゃろ公方。」

「用も大事じゃが。」

 あん、くぼう、この童、今くぼうって言ったでありんすか。都にくぼうと呼ばれる御仁は公方一人しかいない。店主もフクロウのように目をカッと開け驚いていた。なんと怪の振りして祇園を徘徊していたのは十三代将軍足利義輝だったのだ、小さな折深緑烏帽子は兵部卿細川藤孝である。生年は藤孝の方が一年九カ月早い、この背丈の差はなんであろう。

 店主の瞳孔は狭く消え入る位小さくなり、眉を額に皺が寄る位寄せ、その御姿を凝視した。そして、香を味わい、顔を緩ませた。そして、その品に白旗を上げるが如く、うやうやしくお辞儀をした。それは吐き気がする程やってくる対客用のそれではない。

 そして、十兵衛と名乗った。なんと、マツはよりにもよって、いや錫髪一毛の導きか、帰蝶のいる十兵衛の店に飛び込んだのである。

 近江坂本で将軍となり潜伏生活から上洛を果たしたものの、京雀達に歓迎されたわけではない。直ぐに投げ出すか都を出て行く腰掛け将軍との誹り、罵声、争いを齎す者との烙印を押された挙句の投石は茶飯時だった。草茅危言と割り切り心を強くし民を護るにはまず自分が強くあらねばとさらに武芸に没頭するようになったのもこの頃である。

 十兵衛は、初対面にも拘わらず、自分を十三代将軍と疑いもなく敬い礼節を尽くしてくれる。

「宝刀を抜くしかあるまい。麗しき鞘を用意して頂ければありがたい。」

 遊女をお礼に買うなどとリップサービスを発している。

「別懐、奥の手用の玉袋、とか言うでありんすか。」

 と左眉を寄せ驚くマツに対して十兵衛は頬を赤らめ困惑していた。

「身供は十三代公方様に初めて御目にかかるので礼節を示した次第、当店の遊女を催促したわけではありません。」

 つい先程まで童だった風情、しかし、その爽やかな瞳と自信に満ち溢れた口元、毅然とした鼻と顎の線。観賞用と思う位の美しい歯牙。そして、六尺を裕に越える武人然とした体躯。身供としたことが、男惚れしそうになりましたよ。いや上辺に騙されてはいけません。帰蝶の言うように色髪狂いの鬼公方と言う線も生きています。現に髪に拘らなくても救った女子だけでは飽き足らず遊び女などと色好みの気は見せているではありませんか。

 天井にあるシャンデリアの廻りを飛ぶ、蝿や蜂、蝶、ムラメカスの一部も一様に警戒していた。爽やかな童程恐ろしい者はない。籠に入れて餌をやっていたかと思うと、いきなり命を奪いにかかるからだ。

 三色髪姫失踪案件、此度の管領様の斎藤六姫御世話役遮断。色髪姫に狂う鬼公方を管領様が体を張って阻んだという人道線も生きています。

 真、鬼公方かどうか確かめますか。大好物が棲む櫓に腹を空かした色髪狂鬼を招いてさし上げましょうか。

 十兵衛は管領の依頼を思い起こし吟味した。契約違反にはなりませんよね。

斎藤六姫を御所に近づけるなと御云いでした。公方様と逢わすなとはおっしゃっていなかった。

「店主、背中に小さな珍客がデンしているでありんす。」

十兵衛の背中に張り付いた小さな紙切れを見てハとしたマツ。“HELP(マツ六) ME(はここ)”御札でありんす。

“マツ、六はここ”

と書かれていた。十兵衛は取ってくださいと言ってカムロに取らせていた。カムロとは十兵衛の店等遊郭で下働きをする童女の事である。

「あなたも気づいていたなら教えるか、さりげなく取ってください。」

カムロがハッと体を引く位の声圧だった。

「文字は書いてまへんでしたえ。」

と短髪のカムロは拳を握り必死に訴える。十兵衛は、ハっとわれにかえり、

「きつい言い方になりました。お詫びいたします。」

 などと謝っている。マツは一瞬、カムロ達に辛くあたるガマ元締を思い出して、心中で合掌していた。何処かで生きていてと祈りながら、長い指の籠手をカムロに差し出した。カムロは迷いながらもスとマツに渡した。人指指と中指で挟み鼻にもっていくと独特の甘くてツンとした香がした。これって姫様の蜜の香でありんす。

 マツは彦根で湯を共にした時を思い出した。何の拍子か忘れたが、顔が帰蝶の股間に入ってしまい、その時、薫った匂いと同じ。…でありんす。ツンと鼻を付く金属臭が独特である。

“マツ、六はここ”

 月光により、文字は錫色に輝いていた。月光で浮かび、マツの視線を数秒浴び続けた後、その文字は薄くなりやがて消えた。帰蝶がマツをおもい浮かべて書き、そのマツの目のイメージが文字に移り、帰蝶のマツへ届けたいと言う思いが達せられた時を持ってめでたく 蒸発したのだ。

 どうして、此処に居るでありんすか。遊郭は娘を買うだけでなく、時には浚うでありんす。あの騒ぎのどさくさで浚われたでありんすか。この一見上品な店主、結構商売には強かでありんすな。

 姉様蠱毒からの“巣立ち”は、斎藤家からの“巣立ち”つまり独立自尊まで進化したでありんすか。ネネと共に斎藤家の追手を怖れ、この遊郭を潜伏先にしたでありんすか。

一瞬“HELP ME”御札と思ったマツだが、居場所を知らせているだけで、助けろとは書いてなかった。

 もう一度紙を見直した、裏も見たが、もう何も書いていない。あれが全てあでありんすか。まさか白紙を眼光紙背せよとかでありんすか。できんせん、でも

「なんとも色んな引き出しを持っている姫様でありんすな。でも全ての源はあの錫髪。我が蜜と錫髪が混ざった故の技でありんすな。」

 とカムロに呟いた。カムロは、少し首を左に傾げ?マークの輪を廻している。

 でも錫鞠を転がすと言うもっと分かりやすい手もあったのではありんせんか。単に居場所を知らせるには。この時、マツは、帰蝶が錫鞠を手放した事を未だ知らない。

 まさか、やはり売られて観念するまで監禁されているとかでありんすか。

遊郭ではよくあること。外へ逃げだすより、遊郭の結界で守られた方が、この世の中、安全だと徐々に分かってくる。マツのように遊郭から逃げ出し、深芳野という実力者に救われた例は希有だ。“とりわけ”力を有用性を見出されたからであるが。

「パッと僅かな刹那、汀で遊びたいのだ。」

などと公方は十兵衛にお願いしている。兵部が公務中と止めているが、本来なら閨の時間だと聞かない。

 まずいでありんすな。姫様は鬼公方を討つなんて言ったでありんすな。今、思えば御所転覆とう恐ろしき謀議でありんす。しかし、この容貌を保ちながら閨で鬼とは、見かけ騙しの鬼公方でありんすか。その白過ぎる歯って、容貌全てが着ぐるみでありんすか。

 姫様の怒りは、一人の女としての怒りだったでありんす。斎藤家から離れているとはいえ消えてるとは考えられんせん。鬼公方討ちの可能性は大でありんす。一方、鬼公方も色髪を見て、さらに今宵御世話役に来る予定の錫髪姫となれば喰う可能性は大でありんす。純白の入歯が外れて、鉈のような牙が現れるとかでありんす。

 謀反姫、餌食、男閨は気乗りありんせんが護衛女官として遭わせるわけには参らせんせ。

「遊び女買うって、妾と縁を結びながら、今宵一人寝さすって無礼でありんしょ。」

「別に、そちも余とともに楽しめ。遊女と干戈を合わせ良き宵にしよう。」

 うわ、なんか当たり前のように切り返されたでありんすな。流石天下人と関心している場合じゃありんせん。

「主、廓を用意して給らんせ。妾一人で十分、天下の公方様を桃源郷に誘うでありんす。」

「それは大鉾に値する程頼もしい。だが、客将はもう一人、この兵部がいるだろ。これで弐対弐の公平戦になるのだ。」

と公方は、ひょいと小柄な兵部藤孝の脇を支えて持ち上げた。

 兵部藤孝は、餓鬼扱いするなと足をばたつかせている。

 「いくらマラ座りがいいからって、下帯を見せないで下さいませ。」

 マツ、笑顔を保ちながらも内心ムとしている。独特の遊郭廻して都合と良い時だけ藤孝を担ぎ出すなと言っているのだ。

 一方十兵衛は、この御方が十三代公方様。生まれながらの将軍様はやはり違う。十三代積み重なれた、譜代の気品というものがお有り。身供では到底太刀うちできない。なんといいますか、惚れてしまいそうになる、身供は若衆好みの気はない筈なのに。だからこそ、疑念は強くなる。一旦閨に入れば妖しと化し、血肉を貪り、骨を砕き、更には脂で溶かし、一切の痕跡すら残さず腹に収めるのか。

 管領様の苦悩が少し分かったような気がしてしまう。兵部は言わば将軍様の目付、目付が付いてきた以上、美濃では噂通り将軍好みの色髪姫であった斎藤六姫に御世話役を薦めるしかなかった。姫も望み、山城守も小見様も望みめでたく決定した。だが、管領様は、これ以上外様大名家の色髪姫を不孝にしてはいけないと葛藤し、身供に仕事を依頼した。御所に入れるなと。

 だが、鬼公方様の嗅覚は鋭い、錫の匂いを嗅ぎつけたか。外では斎藤六姫失踪で騒がしい。失踪は鬼公方様の知るところになり、見かけの品の良さとは裏腹に意馬心猿に自ら兵部様を連れて探しに飛びだされ身供の店を嗅ぎつけられた。

「ご主人様、顔が赤うなったかと思うと青うに。わたちの事それ程に迄御怒りで。」

とカムロに頬の体温変化をずばり指摘され、コレからかうことなかれ、と再度叱り飛ばし、また飛ばしてから反省している。

 マツが懸命に公方の遊女指名を断念すべく努力している時、同じ屋根の下にいるネネはどうしていたか。

 中廊下式の遊郭部、蝋燭が均等間隔に壁に掛けられてはいるが、薄暗く、人一人分やっと通れるくらいの狭い廊下を歩いていた。

 十兵衛から起きる頃を見計らって斎藤の姫君の様子を見に行ってくださいと頼まれていたのだ。目を覚ました時、やはり遊郭に売られたのは夢ではなく現実なのかと打ちひしがれ舌を噛み切って自決するのを恐れているのである。

 そんな柔い姫とは思わんけどなと思いながら足音さえ消しネネは進んでいく。

 数秒後、帰蝶の部屋の南京錠が外され、ネネが入って来た。

「姫はん、あれ。まだ寝てんのかいな。しかも体ごと布団被って。顔むくれるで。」

 ネネは狭い土間で履物を脱ぎ、座敷に上がり、盛り上がった布団をばっと取っ払った。

「え、おらんってどうことやのん。」

ネネは周りを見渡した。帰蝶は居ない。布団以外は小ぶりな鏡台と煌々と輝く四本足の箱型行燈のみ。押し入れはない。

「何処行ったんや。いや行燈がついとったということはこの部屋におるってことやんか。しかも起床した状態で。」

 ネネは肩をぞくっと竦ませた。行燈には蛍が二十数匹入っており、人の目線からでる電磁波に反応して蛍光部位を光らせるよう十兵衛が調教しているのだ。

 その竦みが動機だったかのように鈍い金属の光がネネの背中を襲った。金属の光が背中を刺す寸前、いや正確に言えば背中に触れた瞬間、ネネの体はドット化した。敷き布団一面蟻の群れ。三色髪姫失踪案件を帰蝶に伝えたネネは人ではなく、まさかの蟻のムラメカスだったのか。蟻の群れは敷き布団に突き刺さった刃物から一斉に全速力で引いて行く。そして、部屋の隅の隙間に入り込み潮が引くように消えていった。

「いやあ、天井の隅に張り付いて短刀投げるって。それってもう姫はん違て、立派な“くの一”やで。ひゃあおとろし。おとろしいわあ。」

なんと入口からネネ再登場。部屋の隙間から廊下に抜け、再びムラメカス化したのか。

帰蝶が天井の隅から降りてきた。鴨居のわずかなスペースに足を置いて体を固定していたのだ。トンと降りてきた。帰蝶の眼がまず捉えたのは、短刀を見ていたネネの驚いた顔、目を剥き歯をむき出し美人型なしの表情である。

「短刀消えたで。目にもとまらぬ速さで抜いて懐しまったんかい。」

「それよりあなたってアニサキス。それとも娘。」

「いや問いに問いで切り替えさんといてえな。それにアニサキスってなんやムラメカスやし。」

 帰蝶は冷たい視線を上から投げかける、顔半分、帰蝶の方が上背あるのだ。

「わかったわ。本ま、お姫様やな。悪戯好きってのは、ちょっと絡んだだけで分かったからな。先にアニサキス…ちゃうわ。ムラメカス行かして様子観たんや。けど天井の隅に潜んで、その上気配消して短刀投げて、更に短刀消すって、くの一、ニ、三位いくんとちゃうか。」

「いや多分六位いくと思うよ。六姫だからね。」

 六姫と自分で言うと“ろくでもないお六”という姉姫達の誹りが蘇ってしまう。失くしたい記憶が残ってしまう私の頭って…。・

「ってやっぱり、うち殺めるつもりやったんか。」

 ネネの笑顔が引き攣っている。騙して浚って遊郭売り飛ばしたようなものだから、恨まれるのは当たり前と考えたのだ。

「一瞬そう思ったけどね。なんかちょっと寝たらさ。こういうのも有りかなって思っちゃってさ。」

「なんやようわからんけど。」

「“山科輪廻”“幻嫗”に“三色髪姫失踪案件”“鬼公方”に“魑魅魍魎その実ムラメカス”、流石妖しの都ね。私も稲葉山蠱毒からの“巣立ち”、すんなり上洛して、公方が超美漢で。姫ずっと心待ちしていた、なんて言ってさ、贈り札“WELCOME(熱烈歓迎の) FLOWER(花束)”切られた日には、逆に面白くねえなって考えが湧いてきたのよ。」

「は、心配して損した。」

「心配して来てくれた…わけないよね。仕事でしょ。」

「当たりや、暫く此処で喰うて生ける。鋭いな。それより短刀や、アニサキスより余程不思議姫やで。」

「だからムラメカスって何度言ったら分かるのこの子。」

「あ、ごめんって逆やろ。最初、アニサキス言うたん姫や。よう考えたら語数と語尾しか合うてへん。まあええわ萬歳やってる場合やない。」

「あれ、武器札“窮鼠(ここから)(かたな)”。」

「ここから刀って何処からの刀や。」

「目線下ずらすんじゃないわよ。逆よ。私の鼻血だよ。鼻の壁ちょっと上から引っ掻いたら、鼻の中が傷ついてちょっと鼻血がでるから、それピと右鼻押してネネめがけて悪戯したの。ネネまで届く間に刃物化して、空気の摩擦で刺さった時には蒸発しているって仕掛け。」

「なんやようわからんけど、だだ言えることは悪戯で済む話しやないってこっちゃ。」

「姉姫達はやってきたよ。“お戯れ”に刃物得物は当たり前じゃない。」

“お戯れ”は愉快な気持ちが入り、“可愛がり”が恨みが入っているのである。

「どんな姉妹や。けど、姫はんの様子見にきたんは、仕事だけやない。共感した部分もあったんや。」

 引眉は騒動により殆ど落ちているが、替りに錫色化した眉が浮き上がってきている。錫毛でない。剃った眉の部分に錫粉が浮き出て眉のようになっている。鋭かった眉線が和らいだ、とネネ感じた。共感がうちらの障壁を取っ払ったか。

雰囲気の和らいだ二人は敷布団の上に座り込んだ。

「うちも家出した口やさかいな。」

「ネネも姫身分なの。」

「姫まではいかんけど武家や。こんな子、育てんかなわんって別家に棄てられて、養家では、うちの方から棄ててきたった。姫はんと違う所は、うちは家も名も棄ててきたってことや。」

「私が棄てたのは、稲葉山の姉蠱毒だけよ。無論一の姉だけは除くだけど。(紫頭巾がないのよ、ごめん一の姉)家も棄て名も棄て乳母も棄て家臣も棄て千人の軍勢も棄ててどうするのよ。思い切全部引きずってるわよ。でも美濃から離れることはできた。この千の軍勢が今私だけのモノになっているのよ。」

「その頼みの千の軍勢何処いったんや。明智とかいう武将、ハナとかいう侍女頭、マツとか言う護衛女官どこ行ったんやろな。それに案外錦上添花の錫鞠簡単に手離したよな。」

帰蝶の右脳の真ん中が光爆した。痛い所を突かれた。正道に導く錫鞠、鞠の核は私の産毛がという。ハナの生母、帰蝶の乳母が百日祝いの時に黒髪だった帰蝶の髪を剃り鞠にしたと聞いている。それから一年毎に錫化する髪を巻いて行き八歳の時に蹴鞠に耐えうる球体に成ったと聞いた。産まれてから常に帰蝶と共にあった不可思議な力の源、錫鞠。

 カンカン照りの青空に私が錫鞠を蹴れば、錫のような雲が湧いてきて恵の雨を降らせた。錫鞠があったから、“山科輪廻”が幻だと皆に示すことができた…、いや錫鞠を持っていたから、私にも誰かしらの“とりわけ”術がかからなかった。

 錦上添花なんて皮肉って、錫鞠あっての私だったって言うの。その錦上添花な錫鞠を手放した今や只の姫いや姫ではなくただの娘。遊女。

「錫鞠は、軍を守る為に犠牲にしたのよ。千の兵も私が知らないだけで探してるわよ。」

私が錫鞠失ったのは、“魑魅()魍魎()”に刺され苦しむ蟹将光安を見るに見かねての事。蟹やハナや緑や侍女達が千の兵を動かして洛内を血眼になって探している筈と当たり前のように思っていたが。声に力が入って行かない。

「探す気配ないで。いや茶濁す程度には探してたんやけどな。」

 現実には今も捜索は続けられている。

「…。」

「大名って案外冷たくてな、諦めも早い。なんでや思う。」

「諦めてなんかないわよ。此処は隔絶されてるから分からないだけよ。」

「いいや千の荒暮れ男達が殺気だって面改めしてみいや、京雀が大慌て、そこら中で衝突起きて、半分戦状態や。こんな静かなことないって。」

 勝ち誇るのはネネの番。帰蝶の今、一番不安な個所をピンポイントでついてきたのだ。果たして光安とハナは探してくれているのか。頼りのマツはさっさと離脱してしまったし、危機すら知らないかもしれない。禁じ手とも言われる置き手紙を十兵衛に付けたものの、祇園に来ているか。自分が居るのが色街なのを幸いとまず遊郭出身のマツに賭けたのである。勿論責任感も含めてだ。道中、百合を見つけては一夜の逢瀬を幾重にも重ねたが、決して次の日、昼寝などして職務を怠ることはなかったからである。

 出奔して戻り辛くて行くとしたら昔取った杵柄遊郭よ。

「あのな、波多野も山名も赤松も一応探したけど神隠しということにしてさっさと領国引きあげたんやで。なぜかって。娘は他にようけおる。娘一人の為に、将軍家や管領家と戦なんかでけん。あっと言う間に全大名から袋叩きや。御世話役で出した時点で死んだものと思えちゅうこっちゃ。万が一将軍家の和子を作ればこれ幸い、温泉や金山当てたようなもんや。」

 流石の帰蝶も衝撃を受けた。自分がいなくなっても娘は残り五人いると御館は考えるだろうか。淡々と考えを固めることはないだろう。だが、六姫失踪を理由に御所に戦を仕掛ける危険を考えると、断腸の思いで諦めることはあるだろう。私失踪が国に伝わった時、姉上やそのたらちね、侍女は大喜び。

「出した時点で死んだものと思てるから、行方不明と聞いても、一応探すけど有る程度しておらんかったら、それで撤収。こうなることは想定内で締める。そして三家とも御世話役を命ずるという将軍からの御教書を後生大事にして威信を高める手札に使っているという話や。“知らんけどな”は、付けへんで。」

これはネネからのでまかせで確証はない。しかし三家の武将が洛内に居ないことから半年前喪失した姫の捜索を今は大々的に行ってないことは確かである。だからと言って諦めたとは断言できない。娘が複数いても一人一人大事な命である。

「斎藤家でも同じやろ。姫はんはここで姫属性として客相手して稼いでいくしかない。ここで稼いで数年経って大夫になったら、ようやくこれで姫はんを虐待した奴らを見返すことができたってなるんちゃうか。斎藤六姫はもう亡くなった。世が明けたら新しい名前貰って芸事の特訓や。」

 でも御館と小見様は、三家の姫が任期初期で頓挫しているのを知りながら、私の押しもあったんだけど、私ならなんとかすると思って指名し送り出してくれた。光安もハナも千の兵も私なら仮に相手が妖しでも大丈夫と思って付いてきたのだろう。だって私は妖し大いに結構望む所と言ってのけたのだから。でもそれが、錫鞠を持った私だからと考えていたら…。いくら先手侍大将が危機だったからと言って錫鞠を手放すか。なぜ何時もの逆回転かけなかったのかとなるのではないか。

 錫鞠を手放した姫なんて護衛しても仕方がない。父に錫鞠を放棄しましたと言えば、行方不明のまま帰国しても許されると思うのではないか。

 ハナは違っても、ハナの通らない声は蟹将の戦声に跳ね返され丸めこまれよう。私は此処に居る、私は錫鞠なくても私だと主張するには鬼公方退治しかないじゃない。

「三色髪姫失踪案件って事実よねネネ。”知らんけどな”は付かないわよね。」

 帰蝶は殺気だった目をネネに向ける。目の血管が錫光している。カラーコンタクトをはめたように眼球まるごと錫光し始めた。

「波多野、赤松、山名いずれも御所入りして短期間で失踪したで。今川に関しては空輿や。」

「私が今宵上洛いや上洛した事は御所に伝わっている筈よね。今川を含めて四人の姫、喰うのが早くなってるよね。」

「いや公方様が鬼公方で御世話役の姫を喰うとは決まってへんで。知らんけどな。」

「決まってるわよ、でなきゃ私の心から鬼公方って発想が湧いてくる筈ないじゃない。」

 アフォーダンス?ネネが吐いた“三色髪姫失踪案件”と言う言霊が公方は鬼公方と訴えたと帰蝶は言っているのだ。

「鬼公方は私を喰いにくる。」

 鬼公方が自分を喰いにやってくる、その興奮が血を高揚させ、帰蝶は我慢仕切れず拳で思い切り畳を叩いた。さらに立ちあがり壁を蹴飛ばした。鈍い音と激しい音が狭い部屋に響いた。帰蝶の眼は錫目化している。荘厳な目線が縦横無尽に光走る。

「うわああ、なんや。どっちが鬼か分からんな。え、ここに公方様が来んの?錫鞠姫は鞠失っても理解でけん。」

蹴りがネネの方にも向けられたが、あっさり読み切って体を折ったり反ったりしてかわしていく。ムラメカスじゃない本物のネネは機敏で柔軟である。

「所で鬼公方退治って、個人的な恨みもない相手を殺めるなんてことできんのか。」

「あるじゃない。鬼公方は三家の姫達を食っちまった。」

「三家の姫と仲ええの。」

「知らないわよ。」

「顔すらしらん姫の為に鬼退治って、その正義感、飛躍しすぎちゃうか。」

「鬼は退治するもんでしょ。」

「今のその怒りはなんの怒りや。」

「移木之信よ。私は、私の千の軍勢を前に鬼退治を言霊化した。言霊化した以上、鬼なら喰いに来る。鬼退治を言霊化した姫が御世話役の色髪姫となら必ず来る。私は鬼退治を成し遂げ、千の兵の上に君臨する事を信任される。」

 ネネが愕然とした。大名家の姫身分の覚悟を知ったのだ。特に出自が明らかでない斎藤家の姫となら尚更だろう。千の兵つうより、前国主土岐氏の流れを汲む明智家を睥睨できるって言うた方が正しいんちゃうか。けど、身分つうたら、

「ちょっと待ったてえな。鬼公方って呼ぶけど、天下の将軍様やで。謀反や。斎藤家は周辺大名敵に回して潰されるで。」

「やれるものならやってみなさい。だって誰がやるの。管領なの。管領は三好家と対立状態、家内に内紛も抱えている。今度こそ管領職を捨てて迄六角家に頼る。都を留守にして美濃なんて攻められない。美濃の周辺に将軍家の命令を聞く大名っているかしら。斯波家なんて落ちぶれまくって尾張は織田家の国よ。将軍家の一族たる今川も御世話役には懐疑的だった。だから空の輿を送りつけたの。元々空だったの。だから将軍家につくなんてことはない。」

 ネネは驚いた。花弁漁りを生業としている自分より、稲葉山に箱入りしていた帰蝶の方がよく世の中を見抜いている。六代将軍義教が赤松満祐に討たれた時より、足利将軍家は弱体化しており、仮に此処で帰蝶が将軍義輝を討った所で室町御所に斎藤家討伐軍を起こす力があろうか。

 その時、ネネにホラーの蝿がたかってきた。鴨居の細工の隙間から入って来たのだろう。 蝿がネネのニの腕を舐める位置により情報伝達が可能なのだ。

 言霊の呼び声に答えたってホンマかいな。

“公方様が来店、遊女を所望している。”ホラーの蝿はそう伝えていた。

 出されへん。十三代公方様は京雀の希望なんや、六代以来という偉丈夫。混沌から秩序をもたらしてくれる唯一の天津星。何もやってないうちから“御隠れ”さすわけにはいかへんのや。

「うち言うたやろ。波多野、赤松、山名の姫は失踪、行方不明なんや。鬼公方に喰われたなんて話なってるけど、それ姫はんの勝手な思いこみや。」

「なんの痕跡もないっておかしいじゃない。堺や大津の南蛮商人確かめても足跡なかったんでしょ。」

「知らんけどな。」

 ネネは言葉に詰まる。御所外に目撃者はなく、手引きした者もいない。神隠し以外に言い方があるとしたら。

「その“知らんけどな”説得力ないよ。つまり鬼公方が食っちまったってことだよ。」

あかん、ネネは開けっぱなしの戸へ急いだ。早く廊下にでて戸を閉めようとしたのだ、

だが、そんな古典的な作戦はお見通しである。ネネが廊下に出た所で肩を捕まえた。

 なんつう力や、都に来てから姫言うたら公家の柔い姫しか知らんけど大名家の姫は武芸とか平気でやってんねや。弓矢に蹴鞠忍びの真似ごと。いや本職以上や。ヒ。

 帰蝶の座った目と目があってしまってネネ凍りついたのだ。

「私に姫属性の遊女やれって。最終的には逢瀬よね。五姫が遊女ごっこ、私の部屋でやってさあ、夕方寝ようしたら、小汚い男が薄暗い中七、八人いたのよ。五姫が商人姿で主役でやってさ。

 さあ、遊女お六の登場だい。さわり放題抱き放題なんて挑発するもんだから、下衆共乗っちゃってさ。ハナも手に負えなくて麓まで光安様って出ていくし、侍女も雲の子散らすし。私、私は本当に怖い時って逃げられないのよ。足が動かないのよ。いや逃げようとしたら、これが現実と認めてしまいそうで、普段通りにすれば、下衆共は異世界が透けて見えているだけで、私の方には決して触ってこない触れてこない、まして抱くなんて。(正常性バイアス)って私普通に敷かれていた私の掛け布団を巻くって。」

「ええ、巻くってどないしたんや。普通に寝たとか。」

「普通に寝たのよ。」

「下衆共は五姫に貰った蝋燭で私を舐めまわるように見つめたわ。ヤラシイ目で。あ、この目がヤラシイ目って言うんだって思ってさ。」

「ちょっと止めて。」

その時、廊下に入る扉が開き誰かが入って来た、廊下には遊女部屋がいくつもありムラメカスや人の遊女が待機している。部屋の前には似顔絵が描かれそれを目当てに客が好んだ部屋をカムロや十兵衛が開けることになっている。空き部屋もいくつかあり、そこは客同士の逢瀬の部屋となっている。

「三人巴戦や四人乱戦も楽しいぞ。マツ。」

 若く少し幼さが残る乱漫な男の声がネネの耳に届いた。恐らく公方様の声、それにマツって。ネネは慌てた。帰蝶の耳にも届いていよう。だが反応はない。

ホラーの蝿が知らせてどれくらい経った。十兵衛はん、抑えきれんかったんかいな。けど、今六姫捜索中やろ。捜索に公方様も協力して、ちょっと一服って気まぐれな若公方様やったら考えかねんな。今ネネは帰蝶に左肩を掴まれている。右腕は帰蝶の左手が添えられているだけだ。利き手が二人とも右手で善かったと言っておこう、ネネが右手で帰蝶の腕を引っ張った。帰蝶の体が回りバランスを崩した。そこをネネ押し、体を離し、さらに突っ張った。帰蝶は土間の角に踵を当て畳みに尻もちを付いてしまった。第二次性徴による肉厚がようやく付いてきた尻でバウンドし、姫身分に不相応な顰め面は仕方ないにしても背中への致命的な障害は避けられただろう。

「堪忍な。」

 ネネは戸を閉め鍵かけた。

「わ、おったんか。」

 アリのムラメカスが再び人化していた。アリのムラメカスは形を色々変える事ができるらしい。今は短髪、一重瞼背は変えられないのかネネと同じくらいのカムロになっている。

 鍵を懸け、ネネは公方とマツが居る逆方向へ逃げた。赤い扉があり向うは遊女達のプライベート空間である。

 灯は蝋燭だけで、薄暗く、誰か居たとは分かったとはいえ、ネネだとは気付かれなかったであろう。

 因みに既に帰蝶の扉にもモノクロ写真かと見紛うような精密な線画がA3サイズで描かれていた。十兵衛がモデルを凝視して、その残像を視線でナメクジに移し、ナメクジがデータ通りにキャンパスを這って作ったのである。十兵衛によればイカスミを餌に与えれば、ナメクジの体液は黒になるそうだ。

「余と手合わせするには、少々足りねえな。」

 公方義輝は線画次から次見ながらパスカード(手合わせ欲求未満に)を貼り続けている。そして、まだ髭もなく綺麗な顎を撫で首をかしげている。

「いい女いねええよ。仕事に戻ろうぜ公方。」

 兵部藤孝が義輝やマツの遥か下で烏帽子を前後しながら懸命に訴えている。

「跳ねるな兵部落ち付け。仕事は斎藤の兵達がこなしてくれている。余はちょっと興味があって乗っただけ。そしてちょっと興味があったから、十兵衛の店に寄った。だって屋根にあんなに虫湧いている店ないだろう。」

「いいいいい、なんとなく出会い頭で入ってしまったでありんすが、この店てそんな気味悪い店だったでありんすか。道理で祇園の守の視線が上向いて引いていると思ったでありんす。」

 祇園の守は十兵衛の店に入ったら手は出せない、商い不介入の原則だ。但し、客が狼藉を働いたのなら別問題。

「魔除けです。あくまでも虫属性趣味にご理解いただいた御客様のみ、お楽しみ頂けるお店。冷やかし、一見の来店は迷惑この上ないので。」

 美漢の公方様を姫さんに討たすわけにはいかんせん。

 管領様の御依頼はあくまで斎藤家のお姫様であり将軍御世話役の方を御所に入れない事。

命令通り受け取れば外部での公方様との接近遭遇は含まれていません。しかし、それは公方様が常時御所内に居て、御世話役を迎える事を想定してのもの。命令は公方様と御世話役斎藤六姫の接触を避けよと言うのが、その実。言い逃れを用意して、身供は今、禁断の掟破りを行おうとしております。美濃で一度会見した兵部様がいる以上、御世話役斎藤六姫と分からないなんて事はありえない。

 ナメクジ達は実に妖艶に遊女達を描いてくれた。実物も又艶やか。殿方なら誰でも興味を、持って頂け、消沈して帰る御客様など誰一人いらっしゃらなかったのに、公方様ときたら。

 左程、女子に対し異常反応することもない、寧ろ薄い位。中には茶髪も居たが興味を示さない。色髪狂いじゃない。鬼公方はやはり帰蝶の突発的は思い込みで、管領様が帰蝶の悪戯を怖れ逢いたくない為なのか。それとも色髪に姫身分を加えないと発情しないタチなのか。

 マツは公方義輝の腕を懸命に引っ張っている。カムロが逢引専用の空き部屋を紹介している。その部屋に連れ込もうとしているが、六尺超え筋肉質の義輝はびくともしない。

 殿方の体躯で鍛え上げればこんなに強くなるでありんすか。

マツはカムロに部屋の南京錠を外させ、扉をスライドさせ、

「おい、いきなり何するんじゃ。」

 藤孝を蹴飛ばして先に中に入れた。その時の目を吊り上げ口を尖がらかしたマツの顔と言ったら美貌台無しである。同じ殿方でもこちらは童、どちらが一年違いか、鍛え方が足りんせん。殿方は将来守るべき女子の為鍛えるべきでありんしょ。

「ほら兵部どんも入ったでありんしょ。相棒が入ったんだから、公方様も妾が後ろから前から相手してあげんす。」

「やっぱ遊女拝みたいだろ普通男なら。」

と所が十三代義輝、親指ビルドアップしてニカと灯篭に純白の美歯を光らせた。

公方様以外なら張り倒してやりたい所だけど、だめでありんす。男は遊郭で嫌になった筈ではありんしたが、体がなより、頭の後ろが熱くなり目が緩むマツ、そんなマツの陣羽織の袖をさっと叩く者が。十兵衛だ。

「公方様のお気に召すままに任せましょう。」

 修羅化するのは、将軍義輝なのか、帰蝶なのか分からない。惟誠、ここで鬼食いして帰蝶を亡きものにするようなら、鬼公方伝説は真実となり、それだけの将軍。逆に帰蝶に鬼公方の疑いを掛けられ討たれ白龍魚服になれば、剣豪伝説は見掛け倒しとなり、そこまでの将軍。ではありませんか。

 義輝はさらに部屋の線画を見て歩いている。

「見事な絵、本物をそのまま映しているのかと思えてしまう。」

「春画の出来に興奮してるでありんすか。」

「在籍している遊び女を全て展開せよ。」

 なんて飛躍、これが妾の問いに対する答えでありんすか。 

遊女全て閲覧したいと言っているのだ。

 行雲流水、これが代々脈々と受け継がれてきた天下を統べる将軍家の仕切り。無駄なく雲が行き水が流れるような無駄なき立ち振る舞い。マツの問いが流れの中の石とすれば、公方様の判断は、石に寄って変えられた自然な美しき流れ、なんて無駄なき判断なのでしょう。

 新将軍に漢惚れする十兵衛に対して、眠っていた女心を呼び起こされつつあるとはいえ、未だ、マツの方が冷静だ。

 どういう経緯があったか知りんせんが此処に姫様がいる。きっかけはあの秘文とはいえ、姫身分独特の気配を感じるでありんす。姫様を知らぬ公方様も魅かれた故、この店を選んだのではありんせんか。

 公方様は御世話役の姫君を助けたい?食べたい?姫様は公方様を鬼退治したい?二人の初対面は、しかるべき舞台が必要なのでありんす。狭い庵では不足なのでありんす。

 玄関の食堂スペースで全遊女を集めることとなった。 

 義輝はさっさと戻り、玄関近い円卓に付する椅子に座っている。狩衣に太刀を備え足を広げ威風堂々とした姿は、まさに天下の将軍様である。

暫くすると開け放たれた扉から出勤している全遊女六人が集まってきた。客を取っている者は一旦中断して出てもらった。マツは藤孝と共に隠し部屋に籠ってしゃがみ目線部分にある隙間から見ている。食堂部からみると右手板壁に虎の皮がかけてあり、その目から飲食部が覗けるのだ。

「ワシを突き飛ばしたかと思うと、今度は引き込む。なぜ隠れるのじゃ。答えろよ。騒ぐぞ。」

「妾も遊女なのわかるでありんしょ。遊女繋がり確執っていう人間縁ってのがありんす。知っている女が居たら嫌でありんす。一応見極めてから考えるでありんす。」

「包子作ってどうするんじゃ。(嘘だと丸わかりじゃ。)」

「…。」

「上手く具包んで小麦粉で包んだじゃろ。(上手く真実を嘘で丸めたつもりだが甘い。)」

「…*。」

 赤心なんてむやみやたらと明かすものじゃありんせん。

ギロリと睨まれた藤孝は押し黙ってしまった。再度隙間を覗き込んだマツ、勢ぞろいの遊び女達を見渡した。円卓に座する義輝の隣に十兵衛が両手を前で結び立っている。公方から見て左手に横一列遊び女達が並んでいる。右まで見渡し、左に戻る。帰蝶が居ない。

 あんれ、ありんせん。既に何処かに転売されたでありんすか。それとも身分、事情を知って隠してるとかでありんすか。

 遊女達は皆、長い黒髪、茶髪、小顔。赤や桃色、青の襦袢に揃いの黄色の帯を付けた者、それにアベジャ、ホラーの不安気な顔も見える。時折長髪の髪を払ったり、顔を振ったりしている。既に女人の癖まで学習している。

 あくまでお客様で公方であることは伏せているが立烏帽子狩衣姿は殿上人の証である。皆或る意味緊張が走り大人しくしている。無礼がないように狩衣姿に対する振舞も学習している。十兵衛は、そのへん、抜かりがない。

 姫様不在って、あちゃあ、外したでありんすか。それともこの紙…。

 マツは、十兵衛の召し物に付いていた紙片を取りだした。既に文字は消えている。

 切羽詰まって外出中の十兵衛どんに付けたとかでありんすか、それとも隠している。

「兵部どん部屋改めでありんす。これで遊び女全部か布団剥いで改めるでありんす。」:

「はあああ、それワシに指図してるのか。どういう立場で指図してるんじゃ。所で成り行き上、縁ができちまってるが、貴様誰なんじゃ。」

 藤孝は、未だマツが帰蝶付き護衛女官である事を知らない。義輝と藤孝がマツを助けたのは、祇園の守に目を付けられ困っていたのを見かねてだ。

「帰属先を持たない流しの遊女でありんす、何かお悪いことでも。」

 またギロリ切れ上がった目を藤孝に突き付けた。

藤孝がやらざるを得ないのかと思った時、六畳の隠し部屋の後ろから声が、ネネだ。

「これで全部や。いくら相手が公方様や言うて、一見さんに大夫は見せんとか。見習いの娘は店の恥なるから隠すとかセコイ真似はせえへんで。今宵出動しているのは六人全部や。」

 マツはポニーテールを翻し後ろを向いた。帷子一枚に帯だけのネネである。天井裏から飛び降りたのであろう。

「ネネでありんすか。天井つたいに気配が湧いてでて、この部屋におりてきたでありんす。降りた音で体の重さ、気配の大きさから、あの帷子一枚の破廉恥娘ってのは分かったでありんす。」

 忍びの心得はありんせんか。それとも気配を消す必要が無い為、敢えて消さなかったでありんすか。

「破廉恥は余計や。うちかて小袖とか身につけたいわ。冬でもこの格好やで寒うて死ぬわ。」

「ネネ、姫様ここに連れて来たんじゃありんせんか。」

「うち知らんで。」

「げお前がネネか。ネネという帷子一枚のケツ丸だしの破廉恥娘が六姫を浚ったってよ。斎藤の者が口々に言ってたぞ。口から々に従って、連中の鼻の下伸びてったぞ、貴様らも男じゃのおって。」

「るさいでありんす。」

 やっぱ主犯はネネでありんすか。都を恐れる話持ってきて、信用を押し売った挙句に御所への案内買ってでる、心に近づき、体で近づき喧騒の隙を見て浚って遊郭に売り付けたって所でありんしょ。

「ああ、ええ。この餓鬼、ひょっとして知識も意志もない公方様の腰巾着とちゃうの。」

「細川兵部卿藤孝じゃ。」

藤孝、ネネを羽交い締め。ネネもさる者懸命にもがいている。マツは餓鬼の喧嘩に付き合えないと隠し戸を開け虎の皮を捲り部屋からでた。

 帰蝶が公方とのファーストコンタクトでどう動くか…、その際に自分の存在は不要と隠れ部屋に潜みいざと言う時出られるようにしていたのである。隠れ部屋の有無の確認は、全遊女展開を公方が命じた後、十兵衛に密かに確認していた。十兵衛は、マツが店内での刃傷沙汰を避けるよう努力すると言う条件で教えたのだ。

 だが、六人の中に帰蝶が居ない以上出て行くしかない。因みに十兵衛に帰蝶の有無は確認していない。自分が売られた姫の出元、斎藤家に縁の或る者とばれてしまうからだ。

この中に化けているってことでありんしょ。いやでもそれなら、ネネは迂闊に妾に醜態を現したりしない筈でありんす。でも兵部どんを見たときの裸を見られたかの様な狼狽振りから察すると…わかりんせん。この店に帰蝶が居る、その確信がかなり揺らぎ始めていた。

「余は此処に参戦しなければならかったような気がする。将軍にも上らなければならなかったのだ。これは天からの導きともいえる。今まず優先的に余がやっていることはなんだ。…兵部は居ないのか。」

 義輝は左右の床を見渡している。

「兵部どんはいくらなんでも床を這うネズミじゃありんせん。妾が替りに答えるでありんす。斎藤家の御世話役を探すことでありんしょ。」

 マツ、公方の横に腰を振りながらゆるりと迫ってくる。頬に垂れる髪を親指で艶っぽく払って。マツは公方に話しかけながら視線は六人の遊女に注がれていた。

この中にいるなら、なんらかの反応がありんしょ。マツです、妾でありんす、姫様。

 マツは垂れ下がって来た前髪を妖しくかき上げた。額を光らせ、引き眼をより大きく見開いた。顔を遊女達に見せつける為である。忘れたとは言わせないでありんす。

しかし、六人に変化はない。

「そうだ。余は今、斎藤家の御世話役を探しているのだ。姫は今宵御所入りする筈だったのに。上洛するや否や何者かに浚われたって。都を預かる将軍として、こんな事許せるか。今宵中に見つけずしてなんとする、出陣だ。

その激戦の最中この店に乱入したってことは、この中に斎藤家の御世話役が潜入しているってことだ。」

義輝は険しい表情と共に握りしめた大きな拳を、十兵衛や遊女達に見せつけている。

なんて、自信、帰蝶がこの店に居ると確信している。

マツ、十兵衛、それに藤孝や羽交い締めされているネネも驚いたのは間違いない。帰蝶から、私はこの店に居ると言うアフォーダンスを受けたのか。

「はあ、公方、ワシ未だ何も報告してないのになんで此処って言い切れるんじゃ。実際に浚ったネネを吐かしてから判断するのが筋じゃろ。」

「なんで、うち未だ正体ばれてないやろ。なんでそう判断できるんや。これが公方の公方たる由縁か。」

 藤孝がネネを羽交い締めにしたまま隠し部屋からでてきた。

 なんてことですか、ネネとした事が大失態。いえネネはあの程度で吐いたりしない。なぜ公方様は事前に分かられた。天下人は天下を睥睨できるのか。

「その洞察当たりじゃ。斎藤六姫を浚ったのがこの破廉恥娘のネネじゃ。この破廉恥娘のネネが十兵衛の店に売りとばしたんじゃろ。な、そうだろ吐け。」

「破廉恥娘って姓ちゃうわ」

ネネは後ろ蹴りで藤孝の股間を蹴ろうとするが足が短くて届かない。

 なんと、御世話役の方が当たりとは。御世話役を浚ったのは、三色髪姫失踪案件に便乗した輩によるものだろう。姫がいなくなったのは、噂を聞き余に恐れをなし逃げ出した、と京雀が勝手に思い、捜査案件に浮上しないと踏んでの事だ。余が御所外に繰り出し、更に怪にまで扮して祇園に斬り込んだは…人面桃花、湖畔の君を探す為だ。湖北の湖岸で余の水練を覗きみたあの娘。あの娘の力強い眼、尖がった鼻、忘れられない。無理矢理連れてこられた御世話役などどうでもいい。皆、伏し目がちで恨めしい目で余を見上げ、直ぐに居なくなる。今川などは上洛前に逃げ出し、斎藤の姫も上洛後逃げたのではないのか。それより、余に真っすぐ熱い視線を投げかけてくれたあの湖畔の君に…余は再度遭いたい。

 あれほどの君なら、女として地位を確立していよう。

 御世話役捜索名目に美女の園その中でも格別と言われる祇園に繰り出せば、遭えるのではと思ったが…なんと当たりは、不入の権を楯に余から逃げおおせてほっとしている御世話役の方だとは…将軍職の霊威など夢幻の如く也。

「これこそ将軍の威厳いや代々の将軍の聖霊を背負う霊威である。」

 と右手で水平を斬り、周囲の者を平伏さすが如く、天下人らしい素振りをして見せた。それが全くわざとらしく見えない。

「じゃあ、その霊威とやらで選んで給らんせ。」

「よし。」

え、選ぶの。皆虫属性遊郭と言う売りらしいが、余はどうして、こんな変態好みの店に入ってしまったんだ。本当に御世話役は居るのか。こんな店に逃げ込んだってことは斎藤の姫もとんでもない変態娘って事じゃないのか。そう言えば山城守もマムシって呼ばれているよな。虫属性そのものじゃないか。

当時は、爬虫類と昆虫の区別はついていない。総じて虫と認識されていた。

 茶髪一人を除き黒くしなやかな長髪を流し、冷たい目、高い鼻、細長い顔に小さな口、体もすらっとした痩せ形で五尺半位。

 なんか見分けつかない。余が興味わかないから頭が見分けられないのか。女と考えたら“湖畔の君”しか思い浮かばない。


 客の好みを具現化したところ、ムラメカス達は皆ほぼ一様の容姿になってしまったのだ。京雀にこんな女子は居ない、がめつい目、低い鼻、丸い顔に大きな口、小太りで足が短い身の丈は五尺未満が関の山。

 このままでは公方様が恥をかきますね。でも恥といっても言わば身内だけですが。

 身内だけの話の筈が夜明けと共に京雀で知らぬ者はおらぬが都。身供の店で、公方様の自信を折るわけにはこの十兵衛参りません。

 公方様に恥をかかさないとなると、斎藤六姫をお選び頂けるよう仕向ける、しかしそれでは六姫は公方様に連れられ、このまま御所入り。御所に近づけるなと言う管領様の御依頼と衝突してしまいます。更にいやそれ以前に六姫の運命は…、まさか、いきなり身供の店が修羅場と化すことも…。三色髪姫失踪案件と絡み、このほろ酔いを何処に落ち着かせましょうか。

 十兵衛、落とし所を何処に見出すか、難しい案件だが、半ば勘頼りであるかのように、即断し、十兵衛は、左肩に乗った蜂に軽くひとさし指で触れていた。

 あなた見てましたよね。蜂は飛んでいった。小さな蜂、天井を飛んでしまえば誰も目にもとまらない。そして一番右端の遊女の頭に止まった。すると黒髪長髪がばさりと床に堕ちた。髪だけでなく襦袢も一緒に落ちた。

「すみません公方様、変装属性の遊女がいましたので、失礼ではと思い直し、本性を審らかにいたします。」

 と丁寧に両手を合わせ、義輝に向かって一礼した。 

 黒髪の代りに現れたのは錫髪、錫髪から覗いた顔は帰蝶だった。まるで、稲葉山での帰蝶の錫髪披露の演出を彷彿させる。情報を掴んで、御札化していたのだろう。

緑の小袖にシャクナゲの桃染め、赤紫の袴。小袖には斎藤家紋付きである。装い“姫の威厳”。

 公方様、あなたは色髪を見て鬼化するのですか、これで三色髪姫失踪案件の秘密が明らかになります。鬼化した場合、守るのは、護衛女官たるマツさんあなたです。花弁(情報)は入ってますよ。

 そんな所に姫様…なんてこと十兵衛どん、モロばれでありんしょ。

 マツは身構えた。錫髪暴露、色髪趣味の公方様は乱心し姫様に襲い掛かりんしょ、いやそれより先にばらされたら仕方がないと姫様が鬼退治に動くでありんしょう。

 しかし、帰蝶は下向き加減、上目遣いで義輝に目線を送るだけで臨戦態勢に入らない。

先程から公方は自分が公方であることを明らかにしている。帰蝶は鬼公方退治を掲げて上洛した。なぜ動かない、理解できんせ。

 マツの背後ではネネが藤孝の羽交い締めから逃れんとさらにもがいている。そして、公方は 帰蝶が現れた時、乱心と言った雄化、十兵衛が危惧した鬼化するのではなく紳士的に目を輝かせた。

 なんという荘厳な髪、そしてまるで何処の世、何処の世界の女人かと見紛うくらいの美しき面もち。…。いや、それ以上に、あの時の…

 義輝の脳裏に数日前の出来事が蘇った。今浜まで遠出して、水練した時の事だ。今浜は義輝を支援する六角氏の息がかかった漁村且つ宿場町で治安がいい。馬や荷物を置いたまま心おきなく水練に集中できる最適の場所なのだ。当然、水練は全裸で行う、一通り泳いで上がった時、覗いた娘がいた。

 目力の強い娘、紫頭巾を被ってはいたが、枝が当たり、少し異形の髪の毛が見えていた。眼の前の錫髪、人面桃花な“湖畔の君”から人面桃花が取れた。

 なんと、あの時の湖畔の君が今度の御世話役だったとは。は、将軍職とはまさに霊威アイテム(職)じゃないか。十三代継承して良かったあああ。

 あの時、あの娘を探せと兵部に言ったら、水練覗きの罪という法度作りますかって呆れられたが。義輝、心中で万歳をしていたが、サイドスト-リーを思い出し、冷静を保った。

「そなたが湖畔の君…じゃなかった。(思わず言っちまったぜ。)御世話役、そなたが斎藤六姫。別にいいよな、明かしても。あの時、湖北今浜でそなたが見た全裸の男が余だ。わっはははは。」

と義輝は照れ隠しで豪傑笑いしてみた。白過ぎる皓歯は灯篭できらきらプラチナのように点滅している。

 帰蝶以外のムラメカス遊女達も呼応して笑っている。客が笑った時は、一緒に笑えと調教されているのだろう。

 そんな出会いがあったのですか。しかも裸なんて。十兵衛は、顔を赤らめ、赤らんだことが意外で少し横を向いてしまった。身供にまさか、そっちの気が…。

 義輝の視線は帰蝶にしか向いていない。

「上洛の草枕(とちゅう)だったのだな。あのまま余が身分を明かし誘っておけば、強奪、身売り、なんて理不尽に遭遇しなかったのにな。」

 帰蝶は下向き加減で反応は極めて薄い。移木の信は何処いったのか、それとも油断さす作戦か。義輝も違和感を感じ取っていた。

 あの時程の強い眼線を感じないのは、余からの逃亡ではなく、人浚いが原因、それとも実は自分が今から世話する将軍だったって驚いている。それとも余が着衣だから。

 鳰の湖がお見合いの話はハナさんより聞いたでありんすが、あの時の殿方だっとはと姫様衝撃を受けているでありんすか。ひょっとして、姫様も実は公方様に好意を抱いていたとかでありんすか。

 義輝は、帯を解き、狩衣を脱ぎ始めた。

「出会った刹那の姿に成って進ぜよう。」

とか言い始めた。驚いたのは、十兵衛とマツ。両手をばたつかせて懸命に止めた。

 やはり、あなたは鬼ですか。衆人環視の元でも欲求は抑えきれないのですか。

 出会った時を再現するって、それは無防備過ぎるでありんす。それは姫様に襲って下さいと言っているようなものでありんす、まさか、それを姫様は待っていたとか。

 義輝は、そうかと言って再度帯を締め直した。脱ぎかけた時の荒々しさとは対照的な佇まい、自分とマツの進言に、あっさり止めたことで十兵衛は又驚いた。あの程度の制止で止めてしまうのですか。

 気を取り直した義輝は、ダっと大きな足幅で一歩駆け寄り、帰蝶の手をむんずと掴んだ。その時の紅潮した顔は一目惚れした湖畔の君に再開した喜び溢れる少年将軍の表情、そのものであった。

 この純真さから残酷無比な鬼公方に結びつきません。十兵衛は二人の逢引に感動していた。義輝は、幼さが残るが強い意志の籠った言霊を発した。

「さあ、斎藤の六姫、我が一目惚れの湖畔の君、御所へ凱旋ぞ。」

 あの美漢に湖畔の君になんて言われたら、百合好みの妾でも薔薇に振り切れるでありんす。姫様も下向き加減で恥じらっていらっしゃる、姫様、それが“初濡れ”でありんす。

 帰蝶の左手を掴んだ義輝、まるで逃避行するかのように、外に向かって奪取した。藤孝に羽交い締めされたネネが右手を突き出す。

「あかんて。」

「店主、祇園の守が凌辱に体張って貰った礼はいずれ改めりんせ。妾は斎藤六姫が護衛女官マツ。」

「あの悪戯書きの宛名の御方ですね。(もちろん、虫達から花弁は掴んでますよ。高上背と茶筅髪、鎖帷子から直ぐに分かりましたとは言霊にはしませんが。)」

「マツ。」

「分かってるでありんすネネ。これだけは店主に言わしんせ。妾は何度も出奔しては戻りを繰り返したでありんす。戻る度に侍女頭や先手侍大将にはなじられ、叱られ、暇出すと脅され。でも姫さんは怒ることすらせず自然と迎えて頂き、暇御札を刎ねつけてくれたでありんす。でもまた上洛の折、百合に惹かれ大事な時に駆け落ちしたでありんす。それがこんな事に…、だから二度と離れないと誓りんせ。」

「三色髪姫失踪案件は知っていますね。残念ながら、真相を突き止める事ができませんでした。(勘ぐれば巧妙な手口と言えなくもありません、心を読めない限りその疑惑は消えません。)」

「妾に任せんせ。公方様、姫様、双方この淫靡な体でお守りせしめるでありんす。」

 マツは懐の短刀を水平に出し、十兵衛に誓いを立てた後、背中の太刀を見せ、義輝と帰蝶を追った。

 兵部藤孝、もがくネネから手を離し、手を広げて待つ十兵衛の元にネネをドンと渡した。

「ワシもおるから大丈夫じゃ。もう失踪は御免じゃ、ほれ店主身受け料じゃ。」

と銭緡を二本袂から出してカムロにわたした。そして外へ飛び出していった公方義輝をおっかけた。義輝は、

「斎藤家のお姫様確保。確保したぞおおお。この公方義輝が確保したあああ。」

と叫びながら去っていった。



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