①山科輪廻
1.山科輪廻
天文十七年と言うから、西暦一五四八年初春のことである。美濃国稲葉山城。澄み切った寒空に木星が何度も舞い上がる。疑似木星、荘厳で上質な光沢を放つ鞠、蹴鞠に興じるのは、少し大柄な少女である。彼女は、オレンジと白の格子が定番の侍女小袖に赤い袴、短髪、恥ずかがりやなのだろう、眼の寸前まで前髪を垂らしている。前髪の真下には、つぶらな瞳を目一杯広げ、化粧気のない侍女、緑である。
緑がお相手するのは、緑の主人である斎藤六姫帰蝶。国中から畏れられる美濃国主斎藤利政が六女で唯一の正室小見の方の娘である。
「そーれ。」
と鞠を蹴る度に高音で強気で良く通る声が初春の山々にこだまする。黙々と蹴り返す侍女の緑とは対照的だ。
あたしを信じて、あたしが受ける事を信じて全力で蹴ってくれる。あたしがお仕えする最高のお姫様。あたしは、この先もずっと六姫様の鞠を受け続けることを誓います。
これ程緑の心が躍動していようとは誰が知りえようか、それ程のポーカーフェイス侍女であった。緑がお仕えするお姫様、帰蝶は青地に桜咲く小袖に緑の袴を付けている。
装い“我が身に封じる華”である。装いは、五尺半に到達した育ち盛りの細身を包みこんでいる。長い首に乗っかっているのは、卵型の美人顔。やや釣り上がった細い眉に、涙袋が大きく、二重の力強い瞳、筋の通った鼻、甘い顎線、小さな口、まだ幼い頬、化粧気はなく口紅を薄ら付けている程度である。頭には紫頭巾を付け、御年十二歳で、ドヤ顔で蹴鞠に興じている。
「一姫様、どちらに御消えあそばしたかと思いきや。よりによって、ロクでもないお六の部屋とは、まかり間違ってもあの変髪姫の部屋には行ってはなりませんと申したのに。あたくしが眼を離した隙に、しかも他の侍女も仕事で忙しい時に…。」
一姫侍女頭のやや年配のイケズ声が二人の蹴鞠に差し出がましく響いてきた。緑はちらりと視線を送ったが、帰蝶は構わず蹴りを入れて行く。少し蹴りが速く手厳しくなられたかしら。蹴鞠に集中していると、一姫侍女頭の雑音は遠くへ去り、いつの間にか消えてなくなった。帰蝶の額に汗がにじんでいる。乾いた大地に突如として現れ始めた泉、緑は直感的にそう思った。一姫様の天上に君臨するかのような白い額とは対極的で健康的で自分に親しく近い。そう言えばあたしも体が熱くなってきた、少し疲れたと思っていると、楽な時間が生まれだした。なんと蹴鞠の面子が一人増えていた。帰蝶や緑より頭一つ高い六尺余りある上背にポニーテールを翻し、長卵顔に釣り上がった眼、眼に負けじと釣り上がる細長い眉、高い鼻、大きな唇、上半身はスリーブレスだが太股が隠れる位まで長い鎖帷子に赤に黒い縁取りのある陣羽織を付けている。膝を守る黒いサポーターを付けている。誰なの。
帰蝶は一瞬眉と口角がポジティブに動きすんなり彼女を受け入れた。帰蝶や緑が少々乱れた蹴りを入れても彼女は長い足で素早く動き巧みに蹴りを入れた。顔を見ると年齢は帰蝶と同じくらい、緑より少し上位である。
蹴鞠は、仕合でもない限り、ボレーである。長身の彼女が入り三人になると、間が長くなるせいか、驚く程続いた。平安貴族も顔負けではないかと思う位である。四半刻打ち続いた所で休憩となった。
縁側には長い黒髪を金の元結で留め、頭には梅花四輪の簪でアクセントを添え可愛さを爆上げしている。ダイヤ型の顔相で顔のパーツは小粒で、眉はつぶらな眼と同じく少し垂れ気味である。小さな鼻の下は、右手の白い扇で隠している。
装いは、赤系の打ち掛けを表に羽織り、中に小袖を何重にも着込んだ一姫が笑みを浮かべている。着物の重みは過重負担となり、一姫はほっとけば廊下に溶けて水溜まりにでもなってしまいそうだ。笑みがいっそ痛々しい、そんな一姫が融解しないように支えている大人の女人がいる。彼女は極めて大柄、大柄な上にソバージュのの掛った黒い髪に所々金糸が流れている。浅黒い顔に強い眼力、少し太く釣り上がった眉、跳ね上がった睫毛、濃い桃色紅を差している。紅の下には、女人らしからぬ、がっちりした顎が支えている。季節は早いが、向日葵を連想してしまう。
彼女は、後ろで膝を付き一姫の肩を揉んでいるのだ。肩揉みが、長女であると言う使命感と世間体の為に悲鳴を上げている両肩に安らぎを与え、同時に一姫自身の融解化を寸での所で止めていた。
帰蝶は、縁側に興味を示し、少し幼さが残る声をかけた。
「一の姉に深芳野じゃない。珍しい組み合わせね。珍しくないか、この場合久方ぶりと言った方がいいのよね。」
深芳野の向日葵が大きく頷いた。
「一姫様が肩に奉仕的な愛撫をお与えなさるとは姉御は一姫様と百合の仲でありんすか。」
六尺ある彼女は廓言葉で喋った。帰蝶は、廓言葉の巨娘も気になって肩越しに視線を移したが、今一番興味ある御仁の元に軽やかに掛けて行って縁側の左隣に小さな尻をテンと載せた。そう鞠が弾むように。
「一の姉、今年初めてよね。床上げしたんだ。良かった今年も会えて。」
一姫は首を傾げ今の感情を懸命に表情で表した、そして帰蝶の両手を取った。冷血なのは相変わらず、でも
「お六、ねえお六。お六に逢いたかったの。それに深芳野さんが五月蠅い侍女頭を追っ払ってくれて、あなたの蹴鞠たっぷり見れたの。私とっても嬉しいわ。」
とお姉様声を跳ねさせた。蹴鞠ができない一姫にとって、どこか自分の面影のある六姫は、まさに自分自身のアバターであった。六姫を通して一姫も蹴鞠をやっている気分になったのである。
私を見て、これ程悦んでくれる姉や、城の者がいようか。
帰蝶も満面の笑みで返した。そして、視線は自ずから膝立ちしている高上背の深芳野に行く。顎を微妙に艶に動かしながら笑みを作っている。どうしたのかしらって時の面様、帰蝶は過去の深芳野顔例から答えを導きだした。
「将軍御世話役の“競り”が今麓の本屋敷で行われているわ。お六ちゃんがお山に居るのは意外だったわ。上洛の際、御世話役に付く護衛女官選びを御館様よりわたしが承っていたのだけれど。」
案の定。どうしたのかしらの発句は将軍御世話役か。
深芳野の長い睫毛と深遠な眼が帰蝶と緑の背後に立つ六尺超えの遊郭娘に注がれた。
「御世話役護衛女官を玉の緒の限り尽くす所存のマツでありんす。」
とペコリを頭を下げた。
深芳野は護衛女官に選ばれたマツの面通しを兼ねて、井ノ口の本屋敷にやってきた。“競り”は、室町御所から管領と兵部が来て、御館、正室たる小見の方立ち合いの元開始された。立候補した利政の娘が、大広間で管領、兵部相手に芸を披露するのだ。
将軍御世話役の話、昨年末、美濃に持ち込まれた時点で真っ先に手を上げたのは一姫(胡蝶)だった。一の姉が行きたいのならと、妹達は譲り、六姫はさして興味を示さず、年が明け正月行事が一段落した途端、“競り”となったのである。利政が、健康面を憂慮した、小見の方が、難色を示したとも、一姫が妹達にも機会を与えたい、御所側が他の姫も見てみたいと言った等説が井戸端合に流れた。
深芳野は、嫡男義龍の生母であり、一姫の生母逝去以来十年後見を勤めている。深芳野は、一姫の思いを尊重すると言う立場を一貫して取っており、将軍御世話役に関しては私見を全く挟んでいない。
小見の方も、“一姫御世話役に難色を示した”説が井戸端合から出た時は、即座に否定した上で静観の立場を取っている。
井戸端合の話題は、“競り”でどの姫が選ばれるかだった。結果的に一姫から五姫。六姫帰蝶の姉姫全員が参加することになった。深芳野は、“競り”前日迄に花弁摘み(諜報)を行いある程度事実を掴んでいた。
年末、四姫(春蝶)が、麓に降り、利政に直談判した。大晦日の挨拶で、麓に降りた際、ニ姫が直談判。妹達の雰囲気を感じ取った一姫(胡蝶)は、元旦利政が稲葉山城に上った際に、妹達に機会を与えたいと密かに申し出たのである。結果、三姫、五姫(華蝶)も参戦。六姫(帰蝶)だけが、興味を示さず。となったのである。
“競り”の当日。室町御所から管領と兵部卿が到着。利政、正室小見の方、随分衆明智光安、深芳野が出迎えた。大広間で管領、兵部卿から、御世話役の説明を受けた後、“競り”開始。一姫(胡蝶)が自作の漢詩を披露した。ここで、衝撃的な事が起こった。小見の方は視線を逸らし静観していたが、深芳野は、目を見開き凝視するといった対照的な反応を見せたと言う。
一姫は、漢詩を通し赤心を吐露し、将軍御世話役を辞退したのである。漢詩を通し元気な妹達に譲ると宣言したのであるが、深芳野にとっては衝撃的であった。しかし、流石深芳野、すぐに心立ち直り、一姫の意思を尊重するとして、その場を引き上げたのである。実は、深芳野が去る寸前、小見の方も場を去っている。正室の存在が、娘達に圧力を与えると言うのを理由としている。なぜ一姫の時は居たのかとは深芳野は突っ込まない。
深芳野は、侍女頭が随行していたものの、
「わたしが居たら、姫達に圧力となるでしょう。わたしの場合、柄が柄だけに。」
と笑いを取り一姫達と共に稲葉山城に登ってきたのである。一姫の後見とはいえ、嫡男義龍の生母であり、麓で義龍と住んでいる為、月数度程度しか上がることはない。
深芳野は、一姫が辞退したことにより、ニ姫~五姫誰が選ばれたら良いと思っているのだろうか。将軍御世話役は、昨年宣下を受けた十三代将軍足利義輝、御年十三歳の世話をするのである。代々将軍家正室を出してきた日野家は斜陽しており、お手つきとなれば、正室になる可能性、つまり出世する可能性が多分にあるのである。
一姫が辞退したのは、責務の重さや健康面ではなく、将軍の年齢を聞いたからではないかという考えもある。この時一姫(胡蝶)は十八歳であった。
新将軍は十三歳ねえ。
深芳野は一姫に当たらないよう、首を15度右に傾けて吐息した後、若干アルトな大人の声を奏でた。
「あなたが残っていたのは本当に意外。小見様なら姉姫方押しのけてでも御世話役にねじこんで上洛さすと思ったのに。ならマツがあなたとの最高の相方になったでしょう。なぜなら彼女は運動高扇だから。」
帰蝶は少し眼を宙に浮かせ、紫頭巾をぱっと通った。すると、鞠と同じ木星の色、荘厳で上品な質感を湛えた当時としては短い髪が肩まで流れた。マツ、引き目を開眼し、口を抑える程の美麗さ。まなじりから生じる天使の輪は、まさにその名の通り天使の輪。
「これ程天使の輪と言う名が相応しい姫様は他にありんせん。」
深芳野は誇らしげな笑みを浮かべ、一姫は羨ましさと懐かしさを合わせ持っていた。
あたしから見れば大地をしっかり踏みしめた姫様、大地から浮いた屋敷を御出にならない一姫様の方が余程天使なのです。
「年が明け、一段と美しさが増したわね、ねえ。お六。」
「なんて言ってくれるのは一の姉だけよ。嬉しいわ。小見様や、他の姉や、その侍女から、見たら美濃の恥さらし。井ノ口に下ろすのも憚られる。まして都なぞに行けば、その耄者(愚か者)振りで、どれだけ斎藤家の恥をさらすことになるか。私は、一生、稲葉山で蹴鞠してたら良いの。そして、時折父上のお招きで、天変の“とりわけ”をして、空蝉達に喜ばれる。それが相応で、孝行じゃないかしら。深芳野、私に何を焚付けようとしているの。」
と自慢の錫髪を右人差し指でさり気なく指している。陽光に煌き銀髪に見えるが、より荘厳な錫髪である。
帰蝶は、飢饉の折、稲葉山の中腹から自らの錫髪を巻いた鞠を天に向かって蹴り、雨雲を呼び込み、美濃を救っていた。偶然なのか、“とりわけ”力は分からない。利政は、これを“とりわけ人”であるとし、斎藤家は特別な家であり、美濃国主としての正当性を訴えていた。未だ燻る土岐一派は度重なる飢饉を二代に渡る“国盗り人”利政の責任にしていたのである。
クスッと深芳野は右拳を口に当て笑った。
「親孝行なお六ちゃん。他の子供達も見習って欲しいわ。」
「深芳野、兄上も孝行息子じゃないの。」
「あの子は嫡男だから、嫡男を演じているのよ。御館様は、お六をこのまま、天変の“とりわけ人”として、神棚に飾ったおくつもりかしら。勿体ないわ。私も黒髪じゃないわ。でも世間闊歩してるわよ。」
深芳野は肩揉みを一時中断し、指で耳の後ろの茶髪を自慢気に巻いてみせてた。
「神棚は、私の方がふさわしいのに、私に“とりわけ”力があればよかったのに。今からでも念じたら、錫髪になるかしら。」
一姫も“競り”の疲れが取れたのか張りのある声で冗談を言うようになってきた。
「お六ちゃん、幼い時は黒髪だったのにねえ。いつの間にか錫髪、錫眼、錫歯。」
「一の姉は、黒髪、黒目、真白な歯が美しいんだから。私みたいに醜くなっちゃだめ。」、、隣に座るマツが帰蝶を横向かせ、両肩をがっしり掴んだ。
「醜くなんてありんせん。」
「美しく生きるつもりよ。この稲葉山と言う蠱毒で。」
六姫は、唯一正室小見の方の娘である。故に一姉以外の姉達の壮絶な“可愛がり”や“お戯れ”を受けていた。深芳野も一姫も分かっていた。たまに、“お育み”と称し上がってくる小見の方は、何処まで感知していたかは不明である。帰蝶の異常は、侍女頭の不徳、不始末のせいと受け取っていた。侍女頭に対する小見の方の風当たりは強く、帰蝶の乳母である先代侍女頭は、案外早く亡くなった。
「ねえ深芳野、選ぶのは、室町側なの。それとも、美濃側どちらなのかしら。私は、お六を推したい。芯の強い、お六じゃなきゃだめ。神棚で終わらせたらいけない子よ。」
「わたしもそう思うわ。二姫以下五姫は一芸を持っているとはいえ、人間的に彼女らは斎藤家の恥よ。そ、選ぶのは、両者協議の上じゃないかしら。」
「小見様が推薦しない以上は、俎上にも上げられないのかしら。」
一姫の眉がハの字になっている。妹達の可愛がりから抜けさすには、御世話役しかないの。
お六が都に行って何しでかすが、わたし見てみたい。動機不純かしら。
「そう、わたしから御館説得しようか。別に小見様と喧嘩になっても構わない。あなたはこの城で終わってはいけない子なの。小見様は嫁にも出さずこの城でお六を終わらせようとしている。そう、それは悲劇以外何者でもないのよ。」
「止めて深芳野。小見様と喧嘩ってそれ、美濃二つ割ることだって分かってる。しかも、私を深芳野側に引き込んで小見様と喧嘩って有り得ないのよ。そうなったら、私腹切るしかないのよ。」
寧ろ、あなたがその年で、この頂きに居て分かってるの、わたしと小見様との御関係。お六ちゃん、錫眼って千里眼なの。
一瞬会話が空いた、その時、一人の狸顔の侍女が廊下を通って縁側に姿を現した。
「ハナ、どうしたの。息切れてない。」
帰蝶の侍女頭のハナ、背丈は帰蝶の肩位帰蝶の乳母の娘である。乳母亡き後二代目侍女頭となっている。姉達の防波堤となり、時折下山して小見の方の意向を伝えたりしている。緑は、侍女で一年未満の新参で一番下っ端だが、唯一、蹴鞠の相手が対等にできるので、帰蝶と一番仲良くなっていた。
ハナは、ぽちゃぽちゃした頬、脂肪をたっぷり蓄えた大人の女人、御年二十四歳である。肩で息をしている。
「別に走ってきたわけではないのです。気ばかり急いてしまって。」
「突発的な事件ね。危機に弱いのよハナは。大袈裟に右往左往するのよ。」
と帰蝶は笑っている。一姫は扇でまず深芳野の再度の肩揉みを遠慮してから、返す扇で鼻から下を隠し心配そうな目で帰蝶、そしてハナを見つめている。まるで稲葉山以外の世界が焦土と化しているかのような、一姉の眼。
「一の姉が又床に戻っちゃいそうだから早く言ってハナ。青白い方じゃなく紅潮してるから良い知らせよね。」
頬で判断するでありんすか、マツは二人の信頼関係に感心している。
「どういう風の吹き廻しか知りませんが、小見の方様が麓の本屋敷におよびです。御世話役“競り”に出なさいとのお達しです。」
深芳野と一姫がハイタッチ。庭では帰蝶と緑、マツがハイタッチの杯を交わしている。最後に帰蝶は一姫そして深芳野とハイタッチ。
「ねえ、お六、運が向いてきたわね。やっぱり行きたかったんじゃないの。」
蠱毒から脱出する機会、逃さないで。
「小見様の思し召しに喜んでいるだけじゃない。」
「孝行娘の鏡ねお六ちゃん。そうお六、この運気、掴み取るんだよ。」
小見様。もったいぶったのかしら。先に二姫から五姫の醜態を晒させ、最後に策を与えて勝ち取る。小見様ならやりかねないわね。わたしは、娘産んでなくて良かったわ。それこそ御世話役巡って美濃二つに割っていたわ。でも、面白くなるわ、都へ降臨すれば。どうせ、御館じゃなく小見様が呼んでるんだから、決着出てるわよ。
一の姉と深芳野のこんな笑顔見たことあったっけ。本当に二人とも喜んでくれてるんだね。私を応援してくれた。幼白髪で白内障で、黄ばんだ歯の私を。
「光安殿が馬で御待ちしてます。六姫様、本屋敷に参ります。」
光安殿とは明智光安の事であり、肩幅が広く帰蝶は蟹将と呼ぶ剛毅木訥な斎藤道三に忠実な侍大将である。小見の方も、帰蝶の乳母もハナも明智一族である。
「蟹とは一緒しないよ。山の馬を出すよ。」
「六姫様は私と行きます。安心なさい。でも光安殿はあなたの馬の師匠なのですよ。」
「今は単に蟹将だよ。将付けて上げただけでもありがたく師匠振る舞いしな。」
このやりとりに一姫と深芳野は受けている。後の事を緑に任せて帰蝶はハナと麓の井ノ口、本屋敷に下りて行った。
あたしの御役目はここまでです。御吉報お待ちしております、あたしのお姫様。
あの御姫様の護衛女官になれたら、これ程の誉れはありんせん。
馬に乗る際、身の回り三人の侍女が帰蝶に耳打ちした。丁度ハナと光安が黒雲のような髭を揺らしながら話している隙を付いたのだ。三人とも、帰蝶が背丈で追い越している。
丸顔と四角顔と白菜顔である。オレンジと白の帷子をオレンジ帯で留めている。
「二姫から五姫の心証が管領様にはあまり良くなかったみたいよ。花弁(情報)舞い上がってきたの。」
「でもそれとは別に小見様が使いを本屋敷によこして、まだ娘がいると“競り”にねじこんだみたい。湯気が湧いてきたのよねこれが。」
「管領様は色髪の姫を探しているみたい。今迄の三氏、波多野、赤松、山名の姫も色髪の噂を聞き、管領自ら出向いて選ったみたい。単に噂よ。ね緑って緑居ないし。」
「つまり今回もってことよね。でもその事とは無関係で小見様が私を推したって何、二姫から五姫が恥晒して斎藤家に泥塗ったから私って事。該当なしで管領が帰京すると言う恥晒しを避けるためかしら。」
ヒソヒソ話のつもりが、主帰蝶にモロ聞こえで、三人一様に驚いてる。帰蝶は三人の背をここニ、三か月に追い越しており、下から上への声は通りやすいのである。
そこへ、ハナがやってきて、侍女達との話はそれで終わりになった。
天文十七年(一五四八年)中春斎藤軍千、明智光安を大将として上洛、半月かけ山科に到着。山科を発って半日で着く筈が。
「ハナ、まだあ。昨日山科を発って、半日で着くと思ったのに一日かかって、又山科って所。山科っていくつあんのよハナ。」
二双立浪の白抜き黒屋根、八人担ぎの輿から、帰蝶の気だるい声がハナの耳に聞こえた。ハナの耳所ではない。帰蝶の声は、板をもろともせず少し暖かくなってきた空気を貫き森林に響き渡った。帰蝶は一姫プレゼンツ紫頭巾を付け、緑の小袖にシャクナゲの桃染め、赤紫の袴。小袖には斎藤家紋付きである。装い“姫の威厳”。
輿に付き添う市女笠の下に狸顔、オレンジと白の格子柄の小袖に茶袴姿、籠手に杖、御年二十四歳の侍女頭がハナである。ハナは、滔々心の軋みに限界が来ましたか、と眉を顰め一つ溜息を付いた。
「山科は一つです。昨日は道に迷ってまた戻ってしまいました。今日は明智殿も気合い入れてますので半日で着きます。着く筈です。着くと思います。ううん着くよ。きっと着くわよ、信じましょう。」
ハナは、額に垂れてきた一筋の前髪を厄に喩えて払った。
「なんか語尾に行くに従って危なかしいわね。大体ね先手侍大将に光安蟹男を選ぶからいけないのよ。横歩きしかできないから着かないの、縦に歩きなさいって言ってきて。」
先程の鬱な怒り声で発散できたか、若干トーンは落ち付き、しかし退屈そうな声を響かせた。
蟹男光安とは斎藤家重臣明智光安の事で、美濃統一の為、お館道三の元で槍を片手に縦横無尽に斬りまくり、筋骨逞しく蟹体型になったのだ。
「言って着けるものならそうしますよ。上洛への道を知っているのは明智殿だけなのですから、頼るしかないでしょう。もう六姫様が将軍御世話役なんてお受けしなければ、こんな目には…。
六姫様が自ら進んでお受けになられたとか。母孝行な六姫様らしいけど。この話、命を賭して断りたいと仰られればわたくしも命を賭して跳ね付けたのに。」
ハナの声も思い切り疲れ気味。ハナだけでなく軍そのものの雰囲気が著しく重い。
「所でマツ、いる。ハナ。」
帰蝶は護衛女官のマツの名を呼んだ。
澱んで神仏に遮られるわたくしの声と違って、澄んで神仏が賞賛し、迷わず世間に広めようとする声、なんてよく通るのかしら。マツ、それでも聞こえませんか六姫様の声、何処まで行っているのですか。
「忘れて。(居ないのね。山科の宿客に色目線送ってたものね。多分、出るだけ出て又戻ったってとこね。夜は夜でいなかったし、一夜旦那で済ます所が、やっぱ忘れられないって朝、もうひと逢瀬って、男の何処がいいのやら。)」
男の何処がいいのやら。三日前、今浜で泊ったおり、帰蝶は琵琶湖へ行きたいとだだをこねた。湖賊と言う賊が居て危険なのです、とハナが止めたが止めるわけがない。
「賊が何、そのために千人の兵がいるんでしょ。」
と護衛兵を含め数人徒歩で湖畔へ向かった。叢を分け入り松林を抜けかけた所で白馬と茶馬二頭の馬が枝に止められているのを見つけた。
この中で一番年長なのは二十四歳の侍女頭ハナ。ハと成人女人の勘が閃き。
「賊です帰りましょう。」
と帰蝶の手を引っ張った。だが、方便聞きたくないとその手をパンと払いのけ、枝を潜り抜け湖畔に視界を広げた。湖まで三十メートル程続く砂浜。砂浜の中ほどに人影。
賊じゃなさそう。水練を終えて、布で体を拭く髷姿の男二人、背が六尺位ののっぽともう一人は童と帰蝶は見た。童は目に入らない。帰蝶の視線を釘付けたのは六尺位の方、水練を終えて、つまり裸。筋骨隆々の肩、背中、そして…、届かない手を伸ばす。
「おほおおおおお。(何あの堅そうな御身の輪郭、逞しいの意味がそこにある。)」
下帯すら付けていない筋肉質の臀部、割れ目丸見え。だが、寧ろ下手に衣があった方が無粋だろう。それほど完璧に鍛え上げられた肉体美。夏の美濃が田園でみる下帯一つの百姓の体とは大違い。美濃の百姓なら、せめて下帯程度付けといてだが、眼の前の裸体は下帯など付けて美を損なわないで。
帰蝶の感嘆声に男二人は振り返った。童は視界の外、六尺位の方は気品漂う長細い顔、二重瞼に尖がった鼻、均整の取れた顔立ち。
帰蝶の視線を一人占め。六尺男は怒るどころか前すら隠さずニカと笑った。
私とは違う、純白の歯。あなた、その歯で物噛んでないでしょう。それ、女に見せる為の観賞用の歯でしょう。さらに、
「あはあああ。(胸はあれほど、厚く盛り上がるモノなの、女人の膨らむとは全然違うじゃない。最早別の生き物。)」
顎を動かす力すら視神経と伸ばす手に使ってしまい、言葉を作れない。それほどの感動を帰蝶に齎した。左右に割れた腹は作品と言ってよかった。帰蝶の視線は、そこから下へ折りかけた所でハナが帰蝶の前にしゃしゃりでた。勿論測ったわけではない。
「申し訳ございません。琵琶湖散策をしていました所、迷って出てしまいました。わざとじゃありません。」
と笠を取り深深と頭を下げた。そして、帰蝶の手を引っ張って退散。
「待って。」
と言う追い言葉が後ろ髪を引いたが、ハナは握る手の力を弱める所かその逆、走る速度も倍増した。そのまま宿に帰って、ハナから大目玉。
「よろしいですか。わたくしの言う事を聞いてください。わたくしを小見様だと思って聞いてください。」
「ハナはハナじゃない。」
「わかりました。ハナと思ってハナの言う事聞いてください。」
「最大限努力しよう。」
「どこでそんな漢語憶えたのですか。」
「極力努力しよう。」
「努力するつもりないのですか。」
「気が向けば努力しよう。」
「努力するつもりないのですね。思い出したら、聞いてください。」
「善処しよう。」
「もういいです。勝手になさい。」
あれ三日目だったっけ。いやもっと経ってるか。あの後ハナに怒られたから、忘れちゃったじゃない。“男”で沼からジュワと湧き出るみたいに思い出すなんてね。でもあんな整った顔、完璧な御身って美濃にいないよね。天下では当たり前なのかしら。でも結局そこまでね。その内忘れちゃいそうね。
帰蝶の思春期は未だ未だ先のようである。しかし相手方はどうであろう。
天正十六年(一五四七年)夏六角家の力を借り足利義輝は室町御所奪回。三好家を駆逐して、ようやく
入京した足利義輝は六角だけでなく他の大名家の力を借り三好を牽制をするため将軍御世話役を考案。大名家が娘を上洛させ将軍の御世話をするのだ。御世話とは即ち閨。将軍側にとっては足利家繁栄の嫁選びの場となると共に、人質となり送り手の大名家を味方に付けることができる。当然娘の護衛と称し千人以上の兵を擁して上洛となるので、将軍家警護と都の治安維持に貢献してくれる。
送り手の大名側は、娘が将軍に見初められ、子をなしたとなれば外祖父と共に御所内での権勢が高まり官位も上がり威信も上がることになる。まさにウインウインの関係。
将軍御世話役募集の御教書は全国の諸大名に送付された。因みに上洛滞在期限は半年。
領国を不在にできる限界であろう。
室町御所の権威下がったと言え官位授与役職の人事権など未だ価値を見出す大名家、又四国から畿内へと強大になりすぎて三好家への牽制の意味を見出した大名家がこぞって参加表明の手紙をよこした。
御世話役初代は丹波の波多野家。だが、不可思議な事に滞在期間は一年ながらも一月でお役御免。なぜお役御免と分かったかと言うと、波多野軍千が引き上げ、二代目山名家が但馬から入ったからである。その山名家も半月で軍を但馬に引き上げてしまった。つまりお役御免と言う事である。そして、次にやってきたのは播磨国赤松家。赤松家に至っては七日で引いてしまった。次にやってきたのが遠方の駿河今川家。今川家は三家の倍近く千数百の軍勢を率い海路陸路を攻め上洛。任期の半年間滞在した。だが、結局おめでた話を聞くことはなかった。問題は今川家の次ぎ、任期ニ月を切った折から参加表明の手紙をよこした各地大名家に御世話役任命の御教書を送ったのだが、財政難、一揆、年頃の姫が不在との理由で辞退が相次いだのである。将軍御世話役が僅か八ヶ月で挫折すれば十三代将軍の権威は地に堕ちる。困り果てた御所は、参加表明をしてない斎藤家に御世話役を依頼した。
斎藤家は将軍御世話役募集の御教書を受け取ったものの無視した。美濃一国をほぼ安定させ、余裕はあったのだが、御所改築費を出し、その見返りに官位も得ており、これで十分、さらに六人の姫の内一人を送りと兵を出してまで御所から得るものなしと美濃国主斎藤利政が判断したためである。
そんな稲葉山城麓本屋敷に居を構える利政の元に師走早々管領細川晴元、兵部大輔細川藤孝が直談判。その際持参したのは千人が上洛一月滞在するための金銀。未だ出家してないが、スキンヘッドを撫でまわし、髭を弄る利政。六か月の内一カ月分割引ますよと言っているのだ。管領家が直々に下手にでての来訪、利政は受け入れざるを得なかった。年が
明けて再度管領と兵部が来濃。“競り”と言う名のトライアウトには一姫から五姫が受けた。
三十六畳敷の大広間で一姫が漢詩を披露して、辞退したのは前述の通り。小見の方と深芳野が去った後、二姫以降の“競り”が年長順に行われた。
其々、楽器、華、歌謡、絵画等を披露した。皆、師匠に付いて習っており、見事な出来栄えであった、年端もいかぬ兵部藤孝は、賞賛していたが、管領晴元の表情はさえなかった。
「娘はこれだけか山城殿。」
と傲慢に呟いた所で、正室小見の方が使いを本屋敷に寄越し、“自称本命登場”御札を切ってきたのだ。それが帰蝶の“競り”参戦へとつながった。
管領晴元は銀色の狩衣に折烏帽子、それ以外は、白い顔にお歯黒である。上座に座り大柄で胸を張り腹を突き出している。口から都奪回、将軍室町御所鎮座の自慢話を思い切り話を盛って喋っている。そして管領代になった六角を思い切り過小評価している。隣の兵部藤孝はぶかぶかの緑の狩衣に大きめの折烏帽子を頭に乗せている。天文三年(一五三四年)生まれの為未だ少年で晴元の肩程の背丈で小さい。七歳で、和泉半国守護細川元常の養子に入っている。
下座には山城守利政が奇想天外過ぎる話が退屈で下を向いたり天井を見上げてたりしている。そして、帰蝶の参戦に首を伸ばし、開けっ放しの廊下に視線を送りその兆しを待ち詫びている。半刻程待っただろうか。直参明智光安が黒雲髭を揺らし廊下にやってきて座し、帰蝶がやってきた事を伝えている。その直後、とはる気配に左を向き、膝立ちして、慌てふためいていた。予期せぬことを帰蝶がやらかしたのである。そう、なにやらバウンドする音がして、蟹体格の光安が掴もうとする手や肩を乗り越え、カーブを切り三十六畳敷きの大広間に入ってきた。その球体は錫鞠であった。そう、帰蝶の錫髪で表面を調えた荘厳な木星の趣を湛えた錫鞠である。
管領は、口をパクパクさせながら、その不思議な色合いの鞠を、目を鞠に疑似しながら追っている。
その鞠は畳の間を三度跳ねて、傲慢管領晴元の方へ、なんと膝に当たってしまった。
管領は意に返さず、鯉のように口をパクパクさせている。
お六がやってきたか。小見は幼く、振る舞い未熟な上に、容姿、表に出せるに能わずと嘆いていたが、公式の要請となると受け入れるじゃないか。だが、斎藤家の秘密兵器として押し込んでいたお六御札を小見はなぜ切ろうと掌返しをしたのか。儂は花弁(情報)を流していない。花弁が元でないなら、実は迷って迷った挙句、将軍家の御台に我が娘がなるかもしれない栄達に賭けることにしたのか。娘を神棚に置くより、都にあって、名を上げ、そのたらちねと賞賛される札を選んだか。その判断は尊重したい、儂は花弁を知った以上…。
「今川家でジエンドってなれば、フロップのチャージはゲッタウエイできないかと。」
鞠が当たるや否や傲慢だった晴元の態度が変貌を遂げた。急に緊張が漲り、顔が固くなり、なぜか紅毛人の言葉が混じるようになった。そこで分かった事だが、話は御世話役創設の話に及んでいた。そう、退屈なので利政は耳の機能を停止させていたのだが、晴元はずっと話し続けていたのである。
深緑の狩衣、折烏帽子の藤孝は晴元の急変を横目で確認しポーカーフェイスを装うものの背筋を凍らせた。
どういうことじゃ、あの鞠が当たった瞬間、管領の威厳が保てなくなり、異人の言語が混じると言う悪癖が出るようになってきた。何処で仕入れてきたか、将軍御世話役をやりはじめてから突然顔をだした不可思議な悪癖じゃ。
それ都の新語と聞く利政の声も耳に入らない晴元、途中で言葉が止まってしまった。
なんで、ここで悪癖が顔を出すのじゃ、しかも柄にもなくおどおどしだして、鞠が管領様には鬼や蛇に見えたのか。
晴元は小刻みに震えている。膝に当たっている鞠を退けようともしない。道三と藤孝は、鞠と緊張して白い汗をにじませる晴元を交互に見ている。藤孝がようやく鞠を自分の方に寄せた。晴元が少し落ち着きを取り戻し白い汗が引いたところで道三が返答を始めた。
「だが、一点伺いたい。初代御世話役から三代迄、一カ月、半月、七日。確か当初の約束では半年の筈、この短さの理由はなんなのかな。」
流石、世事に通じておられる殿様じゃ。当然突いてくるじゃろ。
藤孝は内心唇をかみしめ目玉だけ動かし右手に座す管領晴元の動向に注視した。
「先方のアフェアーズによりブリーフリーに…(だめだ、あの鞠はなんだ。なぜ癖が出てしまう。)」
「(だめじゃ。多分こういうことじゃろ。)先方の事情により短くなってしまい申した。それ以上は分かり兼ねまする。しかし今川家は任期残す所あと一月、無事全うすることは必定。」
その時、
「六姫様でございます。」
とハナのソプラノだがあまり通らなそうな声が響いてきた。その響きをお囃子にして帰蝶が登場した。
青地に桜咲く小袖、緑の袴、装い“我が身に封じる華”はそのままである。細身、涙袋の大きな、二重の力強い瞳、筋の通った鼻、甘い顎線、声量の割に小さな口、まだ幼い頬、紫頭巾を付け御年十二歳である。
「六姫だ。唯一の正室が娘で特技は蹴鞠じゃ。管領様が御相手して直々に腕ならぬ足を試されるのが宜しいかと。」
と利政は反対側の庭に視線を送り帰蝶と蹴鞠の一勝負を持ちかけた。所が、管領は首を横に振った。この娘の鞠か。俺の風体を失わせた原因!
え、やんないの、蹴鞠は京の武家公家の必須趣味じゃなかったの。
「ああら、小娘の私に負けるのがお嫌?管領様は、御顔も引き締まり体もスとしてお腹も出てない、やれる口だと思うのだけど。」
なんと、これが帰蝶の管領評。廊下に座し待機している光安とハナが顔を見合わせている。デブで下膨れな蹴鞠とは程遠い体型の管領様にしか見えない。
「ちと世辞にしてはキツ過ぎないか六姫様。」
「やだ皮肉。誰が教えたの。わたくしじゃありませんわよ。」
ハナは光安から早々に視線を逸らすと袖口を唇に持っていき帰蝶を案じている。
ワシとあんま年変わらんじゃろ。未だ世辞や皮肉など言えまい、まして姫身分なら。
藤孝は眼を剥き、管領を横目で凝視する。
角度によって、そう見えるわけではないようじゃ。小見の方に、一瞬の内に教授されたか。いや、付け刃にしては、噛まず詰まらず澱みなく言ってのけたぞ。
利政は、斜め前にいる帰蝶に視線を送った後ホと息を吐いたあと笑いを爆発させた。
「世辞を言うようになったとは、お六も成長したのおお。」
手を叩き、腹を抑え一人大受けしている。その豪傑笑いが私見たまま言ったのだけどと訴える帰蝶の本音を打ち消してしまった。それを聞き逃さない藤孝ではない。
なぜ、そんな真反対の体に管領様が見えんのじゃ。膝に当たった鞠と関係あるのか。
管領は白い汗を流し出した。南蛮風の曼荼羅ハンカチを出して顔を拭いている。異国との関係は濃いようだ。利政から見れば、管領相手に帰蝶が一本取っているとしか見えなかった。以外と気が小さいのか管領。ここで場の主導権を握るしかあるまい。
「御蔭で管領様も蹴鞠の作法すら忘れ、槍を持ち、弓を射るのが日常となっておる。平安京とは願いを込めた名前であって、その実魑魅魍魎鬼天狗が跳梁跋扈し生き馬の眼を抜く都だ。儂は、乙訓郡で生まれ妙覚寺で得度を得たから、都の事はよう知っておる。
妖怪と人間界が交錯する都、実際波多野、赤松、山名それぞれ任期半年に対して皆一月たらずで国に引き上げて…。」
「え、都って、魑魅魍魎鬼天狗が跳梁跋扈しているの。ねえ、父上。」
話が切れるまで待ちきれない、帰蝶が利政を見返った顔ときたら、瞳が凛々輝いていた。
幼い頃から、世の中を達観したような、大人びた目をしていたが、しかも白内障だし、お六もそんな童みたいな目をするのか。利政は驚いた。しかしその伏線が魑魅魍魎鬼天狗だと。
「ああ、そうだが。お六よく聞けよ。うさぎさんや亀さんじゃない。魑魅魍魎鬼天狗が跳梁跋扈する恐ろしい場所だ。」
だが、帰蝶に取って、一姫以外の姉姫やその侍女と言った現実の人よりも、魑魅魍魎鬼天狗の方が余程魅力的に思えたのだ。
「面白いじゃない。私は姉や姉の生母、侍女と言った鬼との“御戯れ”に四六時中対峙しているの。退治したいが、流石にできない、中身はなぜか人だから。でも都の本物の鬼、天狗、魑魅魍魎なら退治しちゃっていいんじゃなあい。」
と言って隠す扇は仰ぐ扇に、大口開けて大笑い。そんな帰蝶、さらに一歩書院の奥に進んだ。上座の管領と利政のほぼ真ん中あたり。
「私、その将軍御世話役の話…」
「(この姫が鞠の持ち主。俺は三十代の筈。)キャンセルと言う事でよろしいですかな。」
「きゃん競る?競るつまり“競り”にキャン言わすから、お流れということですな。話が分かる管領様、先代が任期を全うできない御役目に我が娘をやるわけにはいきません。(小見、ごめん。何かで埋め合わすから。畿内の姫で続かぬ役目、儂の姫をそんな死地にやるのは忍びぬ。)」
となんと管領と利政の間で話が仕舞いかけた所で、一国の姫君が立位のまま言葉を被せた。
「受けてやると言っているのよ。私が将軍御世話役をやってやるわよ。」
「え、行くのお六ちゃん。鬼よ天狗よ魑魅魍魎よ。誰も守れないよ。」
利政が慌てている。話を持ちかけた管領もなぜか慌てている。
「斎藤家の方々にガードにコンフィデンスがないとなれば、来て頂いても仕方がないかと…。」
藤孝は焦った、管領様にあるまじき失言。
話を仕舞いかけた天下の管領相手に言葉を被せたのは先手侍大将の明智光安だった。
「行っても仕方がない。都に行っても役に立たないと申されますか。いくら管領様とはいえ聞き捨てなりませんな。この斎藤軍に対する侮辱。」
明智光安、堂々と蟹の肩を張り言ってのけた。流石先手侍大将というハナの合いの手も入る。
う、と焦る利政。この者達は花弁(情報)を知らないのだ。おい黙れと喝を入れ、管領の顔色を覗う。ハンカチで汗を拭っている。武骨な光安の一喝に肝を冷やしたとしか見えない。
管領から見れば同じ部屋に座することができない程、下位の陪臣、その陪臣に肝を冷やす管領、鞠が膝に付いてから言葉遣い含めて模様が一変していた。
聞き流しとけば、話も流れるのにと利政は光安を睨みつけ、ようやく光安の勢いをそいだ。だが、助け舟が。
「管領様、わたくしも斎藤家の端に座する者として聞き捨てるわけには申しません。斎藤家ののモノノフは自信がない弱腰の人など一人もおりません。このハナが保証致します。又モノノフだけでなく六姫様を護る自信がない侍女など惟一人もおりません。この侍女頭ハナが保証します。」
ガードやコンフィデンスの和訳が分からなくても話振りや脈絡から分かるのだ。国主ゆえ、国や家臣をどう守るか、価値があるかないかと言う計算から入る利政と違い、侍大将光安と侍女頭のハナは威信から思考を組み立てるのだ。
「バット、御館様がリジェクトしておられるのを無理矢理…。」
と話を仕舞いかけた天下の管領相手に年端もいかぬが、職務を持つ兵部大輔が、
「(リジェクト?知らん。)管領様、紫頭巾の秘密を知らずに引きあげるのですか。御世話役の裏基準は敢えて明かしますが、色髪姫だった筈。美濃斎藤家を選んだのも色髪姫の花弁(情報)掴んだからじゃろ。(あ、為口なった、まいいじゃろ。)だから、四人の姫君には芸を披露させて貰って悪いが管領様は興味を示さず他に娘はいないのかと言ったのじゃろ。その娘が眼の前に居るかもしれないのに何故引こうとするのじゃ。せめて紫頭巾の中を見てからにしてはどうかと思うのじゃが。」
藤孝は手元の鞠を帰蝶に投げ返した。扇を帯に仕舞い左手で受けた後、両手で抱え持った。十二歳ながら、五尺半程の位置に紫頭巾を被った頭がある。鞠が自分の近くから去り、管領は少し落ち着いている。だが、少しだ。
あの鞠の表層は人の髪の毛だ。黒ではない人の女人の細い髪の毛、その所有者は言わずもがなだろ。
「姉姫達から散々からかわれ恐れられ、忌み嫌われている私の髪。両親からは伝家の宝刀として扱われているの。伝家の宝刀は空蝉(領民)の為だけにあるのではない。私の道を通す為に抜く時があっていい。管領が拒否ろうと、私は兵部の赦しを御所の要請を捕らえ、頭巾を取る。伝家の宝刀が御世話役の条件なら、抜くのが当たり前であろう。」
帰蝶は鞠を光安の隣に座すハナに渡すと、左手で紫頭巾を掴んだ。
「ちょっと待って。」
と利政、晴元が同時に言ったが、間に合わない。
「良いわ、よく見なさい。これが美濃が伝家の宝刀よ。」
帰蝶がぱっと頭巾を取った。
わあああと武者達の叫びが当たりに響いた。その中には利政や光安もなぜかいた。そう黒髪が実験失敗後の科学者の如く爆発していたのだった。
「管領殿、ご覧のような道化姫じゃ。とても将軍御世話役など勤まりますまい。どうぞお引きとりを。」
と最初に正気に戻った利政が、管領晴元に辞退を申し出た。
まったく悪戯お六にへそ曲がりのおまけつき。
晴元は息を吐いた。安堵?黒髪かと言わぬばかり。
「美濃斎藤家に珍髪の娘有りと言う噂が都にも聞こえておっての。公方様は珍髪好みなのだ。」
いや公方じゃないだろ、管領様が強く押して公方がそうなのかと丸めこまれたのじゃろ。
「斎藤家に敬意を表し、六姫殿には辞退して頂き、できれば珍髪の姫を出して頂きたい。もしこれが単なる噂なら、この話はなかったことにぃ…。」
と一旦盛り返した筈の晴元の口が凍り、顔が固まり、体が震えはじめた。藤孝の眼が飛びだした。帰蝶は黒髪をバサと下ろした。そう髪の毛全部を引きぬいて畳に叩きつけのだ。そして、輝く頭が姿を現した。
「今のは余興よ。私の真を見なさい。」
藤孝も晴元も一瞬、道三と同じ光頭と思ったがそうではない。何か生えている、肩までしかない。しかし、それは荘厳で重い金属の光を放っていた。濃い茶色にも見えるし銀色にも見える不可思議な錫色の髪、錫髪ショートヘアだったのである。
「珍髪を探してたって失礼ね。せめて秀髪とでもよんだら。尤も私は錫髪って呼んでるよ。なぜ短いかって。姉姫達に引っ張られたり、寝ている内に斬られたり。ま、隙見せた私が悪いんだけどね。」
「なあに虚言言っている。儂が雨乞いで使ったせいだろ。」
「あ、そうだったわね。」
そうだろ。人聞きの悪い冗談、管領の前で言うんじゃない。小見が時折、山に上がった時なんか言っているが、離れている分、被害妄想が強すぎるのだ。ま、正室唯一の娘だから仕方がない。第一、長姉お一とは昵懇じゃないか。他の姉姫達共。姉妹の仲はいいんだ、それは揺るぎないと利政は自分に懸命に言い聞かせた。
藤孝は、どうするんじゃ、問題ないじゃろと管領に振った。
「確かにノープラン。」
「(意味分からんか没問題と言う事じゃろ。)山城殿、六姫殿でよろしいな。」
兵部藤孝は上座から頭を下げた。
年端もいかぬとはいえ、室町御所の兵部卿をここまでさせて、しかも管領共々手ぶらで返すわけにはいかぬ。小見の意向は無視できぬ、“競り”に後からねじ込んだ以上、絶対選べよと言う事だ。他の姫を選ばなくても該当なしでは、小見は面目を潰されたと思うだろう。それは避けなければならん。小見なりのたらちね離れ即ち“巣立ち”なのであろう。
光安、ハナ、深芳野の護衛女官もいる、他家のような無様はあるまい。
「分かった。そなたなら魑魅魍魎、鬼天狗など敵じゃないだろ。六姫、そちを将軍御世話役に任ずる。巣立てお六。」
あまりの雷声に落雷かと烏帽子を抱える管領晴元。替わりに、
「しかと承りました。」
と兵部藤孝が返答した。藤孝の横目に反応して、管領晴元も。
「大和撫子から程遠い姫なれど、毒もまた乙也。将軍御世話役として承り申す。」
威厳を無理矢理保とうとするが、手は袂で隠し通せるとはいえ、膝だけは如何ともできなかった。
「(以外と小心なのだが管領。故の公家化粧。)儂の娘の器量に何か問題でも。」
「は、大和撫子って条件なかったじゃろ。公方様からの希望は珍髪だけじゃろ。(六姫は私の真を見せると言った。そしてあの鞠、鞠の色は六姫が髪の色。真を暴く錫髪なのか。管領様は見掛け倒しで実は小心と暴いてしまったと言う事なのか。)」
「だから珍髪っていうな、見たまま錫髪って言えって。」
帰蝶の鋭い視線と扇の先が藤孝を襲っていた、その凄みは利政を超えていると藤孝は思った。
「何も問題はない。見事は錫髪、公方様もお喜びなされるだろう。承諾した。」
と言って一カ月後の上洛を告げ慌ただしく立ちあがる晴元、廻れ右をすると座布団が餅で膝にくっついている。剥がすのに、兵部の手を借り一苦労。襖が開くと、上から蒟蒻。右に出て廊下を歩くと、油で滑り込み。腰を打って、イタア。そんな晴元と後に付いて行く藤孝を追い掛けていた帰蝶、最初は、それは三姫の案、蒟蒻は四姫の策とか追っかけ手を叩いて大笑い。帰蝶は、悪戯御札斬りまくり、通りまくり痛快。キャッキャ飛び跳ね手を上げ笑っている。
だが、玄関でた後の深さ一尺の落とし穴にあっさり落ちる当たりになって遂に、
「此処まで悪戯御札が切り放題って言う間抜け振りもどうかと。あなたほんとに管領。武家の偉い人が見え見えの餓鬼の悪戯に悉く引っかかってどおすんのよ。姉のせいにしたけど、ネタ晴らし全部、私の策。仮に御所とはいえ、敵か味方か分からない相手に策を講じて構えるのは当たり前でしょ。後になって、御所の方から来ましたなんて言われた日には。」
と呆れていた。藤孝も、
「わしも同感じゃあ。こん所の管領様、甘いぞ。」
と同意していた。
「甘いとか言ってないで助けろ兵部って、何この甘い香。」
落とし穴に堕ち慌て蓋めく緊迫した顔が和らいだ。帰蝶の顔が近付いてきたのだ。帰蝶の扇子がなんと管領の顎を捕らえた。
「げ、六姫様、童の戯れとはいえ、それは余りにも無礼かと。」
今度は見送りに付いてきた光安が引き攣る番だ。当の管領は無礼と怒りる所が帰蝶の甘たるい香に酔いしてている。
「何か扇子で良かったなどと安堵してるみたいね。鞠ぶつけた方がよかったかしら。」
晴元は首を振っている。鞠が嫌なのか、ぶつけられるのが痛いからか。
「管領とやら、永正十一年の産まれにしては、ちょっと老けているわね。でも堀は深いし、殿方としては上等と言ったところかしらね。都で再会することを楽しみにしてるわ。:」
微笑という名の残影を残し、甘い香りは去っていった。代りに匂ってきたのは鼻が曲がるかと思うくらいの武士の汗臭さと蟹の挟みにやられたかと思うくらいの肩の激しい痛み、光安が両手で晴元の肩をグイと掴み穴から根こそぎ持ちあげたのである。
こうして斎藤六姫帰蝶の十三代将軍足利義輝の御世話役が決定し、管領と兵部は帰国。帰蝶は一ヶ月後先手侍大将明智光安の先導で千の兵を率い上洛することにあいなったのである。
ニとか三とか四とか五姫とその生母に侍女という人の面被った鬼相手するのも飽きてきたしね。この辺で都出て行って本物の鬼や天狗、魑魅魍魎、相手するのも楽しいかと思ってさ。勿論、第一は小見様の推挙に答える為よ。
帰蝶の脳裏に“競り”三日前の“御戯れ”が蘇った。夜遅くまで隣の廓から四姫の笛の音が聞こえてきた。上手いのだが、流石に就寝する時間迄となると、耳障り以外なにものでもない。直談判を主張する帰蝶を抑えてハナがそれとなく障りになると伝えた所、障りなるようやってるのよと、生母に返され、挙句、談判するなら、小見の方様を呼べとまで言ってきたのだ。つまりこの程度の事で麓の屋敷に住まう小見様が山に上がってくることはないと踏んで、五姫の生母は“小見の方”を出して跳ね付けたのだ。
無力感に苛まれ下がるしかないハナであった。雑音と怒りで帰蝶は寝付けず、寝付いたのは丑三つ時頃だった。そして朝起きてみると、錫髪が無残に斬られ残バラ髪になっていた。床の柱には、“ろくでもないお六”と墨字で書かれた張り紙が墨でくっつき下がヒラヒラしていた。筆跡からして四姫。四姫と五姫が結託して、帰蝶の睡眠時間を遅らせ、睡眠が深くなるよう仕向けたのだ。そして、年長で夜更かし上手な四姫が見事錫髪を刈り取ったのである。普段通り寝ていれば帰蝶は気付いただろう。
一応夜通し番の侍女廊下に居た筈なんだけど、侍女じゃ無理ね。でもこれからはマツが護衛女官として付いてくれるのよね。マツが私の側に、これも又嬉し。ようやく私の人生好転上向き目界宜し。
「休憩よ。腹減った休憩にして。(何処の“とりわけ人”よ。“山科輪廻”って御札切ってきたのは。)」
私も錫を属性に持つ“とりわけ人”、同種同士会ってみたいわ。
帰蝶が輿の窓を開け行軍の停止を命じた。四本足の止木が直ぐに用意され、輿は止木にのせられた。輿を下ろす際、帰蝶の頭に悪影響を及ぼさない為である。
「昼休憩を先程とったばかりではありませんか。その際しっかり御食を御取りにならないからお腹が減るのです。しかも腹減ったって、空蝉の童じゃないのですから。」
とハナ。
「ったく又説教狸は勘弁してねえ。昼は乾飯ばかりで飽きたのよ。」
とハナとは逆の窓を開ける。
そこには馬上の女武者。ポニーテールを赤リボンで結び、面長の顔に赤のアイシャドウ、赤い紅。背はスラリと高そう。膝上まである鎖帷子に赤い帯、黒の陣羽織の背中に太刀。深芳野が採用した護衛女官マツである。
「マアツ、いる?」
「いつも護衛女官故、姫様の側に仕えてやす。」
「ん、(戻ってきてたのね。ちょっと前、ハナにがみがみ説教食らってたのにね。肝心な時居ないって。今回のはこの山科輪廻の苛々も手伝って、結構ひつこかったから、流石に切れて又出奔かと思ったけど残ってたのね。)いつもいてくれてありがとう。」
「御意。(皮肉じゃない、姫様は妾が時折出奔してること黙認してるでありんす。黙認して何も言わねえ。それどころか感謝されてやす。)」
マツが斎藤家に来る前の遊郭。身受け以外、一切の外出を禁止され鍵で世間を隔絶されていた。だが、元々根無草のマツは、それでも外出した。
「毎夜毎夜薔薇は飽きたでありんす。百合を香りに行きんす。」
未明皆が休む頃を見計らって街に出て、夕方遊郭が開く頃に滑り込んだ。上手くいく日が続くと五日に一度の外出が三日に一度になりやがて日課となった。そして、いつしか自分はばれないと言う何の裏付けのない自己暗示的な自信がつき、気も緩みだす。
マツ秘術“一見さん、たをやかに妾の僕になりんす。”
空に舞っていた大鷹が降りてきた。マツは、鳥の目を通し、脳を支配し、下僕化する“とりわけ人”である。“支配系“とりわけ人とも称せられる。
いつもの大鷹の背中に乗り込み、マイ遊郭に近づいた。一瞬、嫌な予感がした。このまま蓄電しようかと思ったが、稼いだ銭は、遊郭にある。我が身を削って稼いだ銭、手放す選択肢はない。今迄安全牌だったでありんす、今宵も二階の遊女控えの間に滑り込んだ。
用が済むと、術を解き大鷹は飛び去っていった。
畳を踏みしめて襖を開け板の間に出た時、巨大なガマガエルと出会った。いや、元締めとであった。元締めは昼夜逆転の生活をしており、まだ寝ている時間の筈だった。そし血の臭いがした。床には顔を腫らし、口から鼻から血を流した裸のカムロが三体瀕死の状態で横たわっていた。マツの身代わりにマツの床に入って寝た振りをさせていたカムロ三人。マツの袂は身代わりお礼の饅頭が六個入っていた。一人だどばれるので、三交替にしていたのだが、
「俺っちをペテンにかけるとはええ度胸やな、お。おマツ。」
汚くドス黒い声。原始、男は外で狩猟と隣村への威嚇に使われた時の怖色そのもの。耳障りな声でありんす。対して女の声は、耳に心地よい、なぜなら子供にとって心地よくなければ子は親に懐かない、子孫を育てることができんせん。
「二ケ月でばれるなんて、ドジ踏んだでありんすな。」
マツの背後には元締めの配下の用心棒達が四人、退路を絶っていた。カムロ達すまない、三人の事は一生忘れないでありんす、勝手ながら、そに屍越えさせてもらうでありんす。
マツの引き眼がカッと開眼、白目が血に染まる赤夜叉の眼。
“一見さん、激しく妾の僕になりんす。”
マツの視線が屋根裏越しに蝙蝠の音波を捕まえた。次の瞬間、薄い天井を破って急降下。元締めはガマのように大きな下袋の顔を上げたが最後、吸血蝙蝠の巣となってしまった。
「こなくそ。」
と四人の用心棒が刀でマツを斬りつけに来た。マツの赤夜叉の眼が用心棒を捉える。蝙蝠が数匹づつ、用心棒達を襲う。蝙蝠を掴んで顔から剥がそうとするが、鉤爪と吸盤のような口がくっついて、激痛が走るだけ。マツはもがく用心棒の脇を抜け襖を頭突きで破り、元の畳の間に、空には幸いにも大鷹が旋回していた。
大鷹も予感したでありんすか、いや妾の悪寒を感じたでありんすか。
“一見さん、いつまでも一見では礼ありんせん。常連さん、たをやかに妾の僕になりんす。”
迫る大鷹の影、マツはフワと大鷹に乗り込み飛び立った。だが、次の瞬間、ダンと銃声が。元締が最近、鉄砲なるものを高値で掴まされたことは知っていた。ばったモノじゃありんせんか。
大鷹は懸命に向かいの商家の屋根を目指した。次の弾を撃つまで若干時間がある。遅い、常連さん、あなたの屍も越えさせてもらうでありんす。皆妾の記憶で生をつなぎんせ。
マツは、大鷹の背を踏み台にして商家の屋根へ幅跳び。屋根の頂を掴み、落下は避けられた。その直ぐあとニ発目。マツは確かにみた。大いや常連さんは空を向き体全体でマツを護るようにして銃弾を受けた。マツは、脳だけでなく心も掴んでいたのだ。マツは屋根に登りきり、そのまま熱い物を流し放題にして懸命に走り去った。ほぼほぼ一日中走った。
草鞋は朽ち果て何処かに捨ててしまい裸足だった。旅人が行き交い、何処かと思ったら、稲葉山が見え、美濃井ノ口だった。あんな高い所にお城が…と、稲葉山城を見上げていると、ある御仁と正面からぶつかった。大きな漢と思ったが、柔らかく桃の香りがする、その上額にほんわりした胸心地。
「妾を凌駕する女人が居りんすか。」
「ああら、あなたも大きいのね。それに私より若い、その内、抜かれそうね。」
笠の下、金糸のストライブがあるソバージュが流れ浅黒く丸顔に桃色の紅。マツの事を怒りもせず、包み込むような笑み。取り巻き侍女達の謝罪を要求するなんて怒号など耳に入らない。
なんて優しそうな目、妾に大人が優しそうな目を向けるなんてことは産まれてこの方皆無だったでありんす、妾にイケズをかまし、蔑み、憎しみ、いたぶった挙句目先の金銭が為遊郭に売ったふたおやしかり。
「あなた、瞳に血の毛が多い(血管が多い)。支配系の“とりわけ人”でしょ。」
「いつの間やら“とりわけ人”。鳥なら自在で操れるでありんす。」
「わたしは深芳野。斎藤家嫡男義龍の生母よ。」
「妾は、マツでありんす。遊郭を出奔した、素のマツでありんす。」
「では、挨拶替りに草履を買ってあげるわ。」
芸は身を助くでありんす、この特技の御蔭でこの優しそうな大尽に妾は救われるでありんす。
それが深芳野との出会いで、“運命の出会い”御札は帰蝶へと導かれたのである。
遊郭の元締達と比べハナさんはともかく、主たる姫さんは護衛女官なのに自由放任な御方でありんす。なんたる度量の深さ、痛み居るでありんす。それとも稲葉山での虎を刎ねつけ、蛇を蹴りあげ、熊をけたぐった修羅場と比べてたら些細でありんすか。紫頭巾の奥には虎蛇熊の楯となり切り縮められた錫髪、しかし、それを感じさせない荘厳な錫髪があり、持ち主の姫様も修羅な生きざまを微塵にも感じさせない佇まい。もう百合薫りの出奔やめりんせ。次は妾が、姫さんが越える屍になりんせ。
「獲物は何を御所望でありんすか。兎、狐…。」
胸を張り、顔を上げ、嬉しさを押し殺すように、でも声が上ずってしまう。
背丈の割に幼い声、大人びて見えるが実年齢では帰蝶と同じである。
「思い切り質素に焼き鳥といこうか。」
冗談ありんせ。マツは輿を両手でガシと掴み、帰蝶を覗く隙が無い位ガードした。
「本気でありんせ。」
「私は何時だって本気だよ。」
話は御世話役が決まった翌日に遡る。役が決まった祝いに深芳野がマツを連れて現れた。
わざわざハナが居ない侍女は緑だけの蹴鞠の時間に庭を訪れた。場の廻りは木が並び、声を遮り、姿を隠すには十分だった。
「品物はないわ。護衛女官マツで十分でしょ。」
「ありんす。」
と深芳野の隣でマツはポニーテールの頭を下げた。
「マツには護衛だけでなく副賞が付いてるのよ。攻撃は最大の防御とはよく言ったもの。」
シビアな話だが、深芳野の柔らかい笑顔を見ていると、そう思えない。
マツは此処で、止まり木の十姉妹を秘術で呼び寄せ、帰蝶の左肩に乗せてみせた。帰蝶が右手で鷲掴みしようとしても逃げない。帰蝶は鷲掴みせず、ソと頭を撫でた。
「人生初よ。十姉妹の頭を撫でるなんて。こんなに柔く潰れそうだったなんてね。でも、この子、眼が死んでる。」
流石お六を深芳野は手を叩いて褒め湛えた。
「妾の目線で十姉妹の脳を抑え、人形の如く操っているでありんす。これがマツ秘術、“一見さん、たをやかに妾の僕になりんす。”でありんす。」
深芳野は去り、その日から、マツは護衛女官として帰蝶に仕えることとなった。ハナも利政、光安を通して知らされていた。
出立の前日未明、帰蝶は、稲葉山城、回廊で繋がっているとはいえ、西の離れと言われる西日厳しい自部屋を脱出した。ハナ、緑、三人の侍女を伴い徒歩での行軍であった。城が見えなくなってから、ようやくランタンに火を付ける徹底ぶりであった。錫眼を持つ帰蝶それにがっしりした緑は昼と殆ど変わらない歩きっぷりであったが、ハナと丸顔、四角顔、白菜顔、三人の侍女はキャキャア言いながら、こけながらの行軍。
前方に人影が見えたのは、五合目まで下った頃だった。自分達を待っている様子だ。
「誰。」
帰蝶の足が止まった。僅かに上背がある緑が帰蝶の前に立つ。先頭のハナが事もあろうに、彼らに手を振っている。
「あら、光安殿。遅いじゃないですか。女子の足で徒歩での下山は大変なのですから。でもなんですか、馬とかお輿とかないんですか。丸腰で来られてもどうかと思いますよ。お体を密着するような、おんぶにだっことか言わないで下さいよ。」
「ハナ、何言ってるの。」
四人は、頷き合うや否や、懐から得物を取り出した。錫眼の帰蝶以外にも視認できる、月光に光る鉈だった。
ハナが夜空に響き渡るような悲鳴を発し、卒倒した、緑がハナを支える。三人の侍女も、ハナには負ける劣らずの悲鳴を上げ、なんと帰蝶の背中に隠れた。
「侍女は、御世話だけなの六姫様。」
「護衛は任務にないの六姫様。」
「そうよねえ緑ぃ。」
帰蝶への角道が空いてしまった。四人は、汚いナリに頭巾、口巾付き、身の丈は六尺はあろうか、帰蝶より遥かに大きく手足が長い。鋭い目線は、帰蝶に向けられている。唯一利点は、山上にいること。マツは居ない。護衛女官の任務は、道中が始まってからなのだ。簡易式弓矢は緑の巾着の中。
隣の緑は失神したハナを抱え両手が塞がっている。錫鞠はどこだっけ。
四人の野党は、凸凹によろけながらも、鉈を持ち帰蝶に迫ってくる。
「この錫髪が目に入らぬか、私を誰だと心得る。」
帰蝶は紫頭巾を取り去った。紫頭巾は、一姫(一の姉、胡蝶)の井ノ口からのお土産である。錫髪の御威光で四人が間合いの寸前で立ち止まった。もう六歩位まで迫っている。
「まちがいね。童白髪、右眼白内障、黄ばんだ歯。」
という嫌なダミ声が聞こえた。錫髪、錫眼。錫歯よ。
四人は、一旦腰を沈み、溜めを付けてから、帰蝶に向かって突撃した。
どうして、今宵、この時、この道、この座標漏れているのよ。
ったく都合よく危機に失神するハナ。頭のハナを優先する緑、姫を盾にして隠れる三人の侍女。
「六姫様お願い。」
「六姫様、か弱い、あたし達を守って。」
「六姫様、頼るなら緑に頼って。ねえ緑ぃ。」
あたしのお姫様、分かってます、分かってます。五姫でダメダメだったあたしを拾ってくれた恩は忘れません。
「あたしのお姫様。あたしの股を見て。今から錫鞠を産み落とします。」
帰蝶は、プリプリした緑の侍女小袖の尻と野盗を交互にみる。彼らは間合い寸前である。野盗の一人が帰蝶に襲いかかる。緑がハナ越しに懐から鉄扇を取り出し、受け流す。帰蝶は一人の野盗の鉈を紫頭巾に跳ね除ける。それなりに厚さのある頭巾なので、登り坂から繰り出される鉈を躱すには十分だった。緑が、がに股に開いた股間から、錫鞠が飛び出した。地面から飛び出た石片にバウンドした、微妙な方向だったが、帰蝶が、体を寄せ、左足を合わす。
利き足じゃないんだけど。緑とハナが帰蝶より左手に居たから仕方がない。帰蝶の左足甲が錫鞠にフィットした。少し遅れてやってきた野盗の右額に激突、横に跳ねた錫鞠は、帰蝶から見て左手に一番遅れて登ってきた野盗の顔面に激突した。さらに、緑の鉄扇に鉈を躱された先頭の野盗の後頭部に思い切りアタックし、野盗を地面に叩きのめした。叩きのめした錫鞠は、左方向に素早く跳ね、帰蝶の間合いから外れてしまった。紫頭巾に躱されただけの野盗が鉈を振るい、帰蝶に襲いかかった。
ハナの重みと草履が滑ったので、緑が尻餅を付きかかる。
あたしのお姫様。ごめんなさい。
帰蝶は紫頭巾を両手に持つが、鉈に両手の力が思い切りのし掛かっているので、今度は破られるだろう。そして、私の頭はザクロのようになる。瞬間そう思った時、
野盗の両足が砕け、仰け反り、その場に崩れ落ちた。
馬の嘶きがした。
「神妙にせい。神妙にすれば、命まで奪わぬ。」
明智光安と郎党達であった。ハナの悲鳴を聞き、迎えを急いだのだった。
帰蝶は、袴の汚れを気にする間もなく、その場にヘタリこんだ。三人の侍女は疾うにしゃがみこんでいる。
野盗の一人は、肩を射抜かれ、体を震わせながら、突っ伏し苦しんでいる。馬上で、甲冑を付け、槍を構える光安、弓兵五名が矢を番え、他の野盗に照準を合わせる。
野盗達は、負けを悟り、鉈を手放した。
ここでハナがようやく気がつき、
「この方は、なんなのですか。あれ、光安殿、何があったのですか。」
「六姫様、大事ないか。」
光安が月夜に戦声を響かせた。逆光になり、黒雲の髭がもこもこした輪郭を作っている。帰蝶は、自分の膝を叩いた。
「助けられてしまった。本来なら、私が、四人全てを倒さなければならないのに。」
と悔しがった。
光安は、この時思った。空蝉なら立身出世して一角の武将になれたものを、姫にしておくのが惜しいくらいと感じたという。
郎党達は、負傷した野盗に、麻汁を嗅がせ、痛み止めとした。そして四人全てを亀甲縛りにして、下山の準備にかかった。
帰蝶、ハナ、緑、三人の侍女は輿に震えながら、乗り込んだ。
「どうして、儂が来るのを待たなかったハナ。」
「六姫が嫌な予感がする、早々に下山した方が良いって仰って。」
姉達の奇襲を恐れて、夜中出立することに決めていたのだが、姉達が、それに勘付いていると帰蝶は感じ取った。その為、下山を急いだのだが、まさかの野盗鉢合わせ。
帰蝶達は、井ノ口との本道を使っており、姉達の誰かに買われた野盗が登山してくるところまでは予測してなかった。
「男を使うなんて、汚い手使って。誰だか予測つくけど。(あの姉姫、見立て通り、本気で将軍御世話役に人生賭けてるわね。将軍つうか、都への憧れだと思うけど。多分、それが、一の姉の決意を揺るがせ、妹達への下賜へと繋がった。只、裏条件として、色髪があった所迄は掴んでなかったろうけど。私も競りの場で初めて知ったんだから。小見様も、その場で知って私に機会を与えたのよ。少し早いけど“巣立ち”だって。)」
帰蝶は輿が揺れるほど柱を叩き、ハナに咎められている。
半刻後、帰蝶達は、井ノ口の本屋敷貴賓の間に静かに入る。宿直の家臣には、御館に伝えるに能わ旨を帰蝶自ら伝えている。自分にできることは、できるだけ自分で行なうのが、帰蝶流である。宿直の御館付き侍女二名が、帰蝶達に白湯を振舞った。
貴賓の間は、床の間があり、目が慣れてくると、十六畳敷に部屋が見えるようになってきた。井草のいい香り、白い壺、そして、ダルマの掛け軸が帰蝶達を睨みつけていた。
「このダルマって、右に寄れば、目玉が右に動き、左に寄れば目玉が左に動くのよ。」
ダルマ見れないわよ、と三人の侍女がキャッキャ言って怖がっている。現実の人の方が余程、夜叉なのに、怪談は怪談で怖がるのね、と帰蝶は面白がっている。
あたしのお姫様。
緑は守りきれなかったことを謝罪している。しかし、予定を早めた私に責任があると意に返さない所か、光安の助太刀を受けた事を悔しがっている。
「頼れる時は頼って下さい。そのためのわたくしたちなのですから。」
正座したハナは、胡座座りの帰蝶の手を握った。暖かい。
「いきなり気絶したハナに言われたくないわ。」
キャハハと最前まで怖がっていた三人の侍女が今度は笑い転げていた。三人の侍女も十代半ば位であろう。二十四歳のハナだけが大人である。
半刻後、肩絹、袴、冠姿に着替えた明智光安が神妙な顔付きでやってきた。主に侍女頭ハナが応対した。
野党達四人は、四姫(春蝶)の生母から通行手形を貰ったという。しかもその通行手形が偽造であった。絵画の上手い五姫(華蝶)が関わっている事は明らかだった。
「どうするハナ。」
光安は侍女頭ハナにまず問うた。
「ようやく、尻尾を出したのです。証拠もあります。分国法にある狼藉教唆じゃないですか。もう“可愛がり”の領域を白波の如く越えています。これを御館様に訴えない手はありません。」
斎藤利政は、山頂で姉妹が仲良く暮らしていると思っている。小見の方は、多少のいざこざは察していたが、“お育み”で帰蝶に対しあなたは唯一正室の娘、姉達に負けるなと発破をかけていた。
頷く、光安に待ったをかけたのは帰蝶だった。
「後を濁さず立ちたいの。(虎の威を借りたくないの。)第一上洛出立前に事件って縁起が悪いし、将軍家の威信を傷つけることになるわ。将軍家の威光に影を差そうとする勢力が斎藤家にいるのかという話になりかねないの。どうせ美濃にも室町の花弁取りとか入ってんでしょう。」
「威光って威信って六姫様、何処からそんな文句をお聞きになったのですか。」
「姉達や姉達のたらちね達よ。私は存在自体が御館の威光、威信を下げているって。」
ハナは視線を逸らし、顔を覆った。
「どうするんじゃ六姫様。今、明智の地下牢に入れているが。」
「まだ、本屋敷に通してないわよね。」
「夜明け早々にもと考えているが。」
「これが、美濃最後かもわからない。綺麗に巣立ちたいの。」
ハナは、赤い眼で帰蝶を見た。十二歳の帰蝶は帰蝶なりに覚悟を決めていると。将軍御世話役は楽な仕事ではないと。
「四人は首刎ねて、遺体は(稲葉)山にでも埋めてきて。くれぐれも御館には悟られぬよう。仏像のように見えて、実は仏像で、空気読むからね。」
光安は黒雲のような髭面の武者顔でハナと顔を見合わせた。ハナは、帰蝶の乳母の娘だが、その乳母と光安がどういう親戚なのかは、聞いたけど、今は思い出せない。
「六姫様。どうして、稲葉山の現状を白日の元にさらす機会なのに。その錫髪、錫眼、錫歯は、不摂生でないことを証明する機会なのに。(それは“お戯れ”と“可愛がり”による心の押拉)」
「ハナの気持ちは分からないでもないわ。乳母が亡くなったことも申し訳ないわ。私の風体で、ハナと乳母が小見様に詰られ責められあまつさえ罪に問われている事も知っているわ。でも、私は私と近しい家族を優先する。それが、家族と侍女との境界線なの。権力者たる御館に訴える事は、四人の姉家族に対する私の負けを意味するの。一の姉は褒め慰めてくれるだろうけど、もう賞賛されない。深芳野の冷笑が目に浮かぶわ。
私は、御館と小見様の前では毅然とした嫡女のまま上洛したいの。」
ハナは、困った狸の顔をして、帰蝶から思い切り引いている。光安は、険しい武者顔をして、
「ま、半年、我らは離れる。四姫(春蝶)母子が恩義に感じてくれたら、半年後には、態度が変わっておろう。それを儂は期待したい。」
光安が立ち上がった。武者の風を黒雲の髭に巻きつけ去っていった。早くしないと夜明けになってしまう。
夜明け。その日は慌ただしく上洛の準備となった。井ノ口は、千人の兵でごった返した。光安の郎党、数名の動きに誰も気付く者はなかった。
利政と小見の方自身が、その日、一日、帰蝶、帰蝶だったのだから無理はない。小見の方は、帰蝶に将軍家への礼儀作法の最終チェックを施した。
夕方になり、少し暇が出来た時に、深芳野が大柄な体格を見せた。六尺一寸とも二寸ともいわれ、ソバージュの髪を払いながらやってきた。赤や緑の重ね合わで歩く豪奢な様は、侍女や家臣達の目を引いた。御館と小見の方が下がった頃合を見計らう所が、機織り衆(武家女)の力関係を物語っていた。
深芳野の御蔭で、連れてきたマツが全く目立たない。鎖帷子に黒に赤い縁どりがある陣羽織、赤い帯を付けている。髪はポニテにして、ピンクの元結で括っている。長卵型の顔に、高い鼻、つり上がった目をしている。手足は長く、帰蝶より頭半分高上背である。
帰蝶が昨晩の話をマツに伝えたのは、出立してからである。深芳野の耳に入れたら、どう利用するか分からない。表向き、仲良くなんでも話しているように見えるが、生母小見の方の政敵であることは既に理解していた。十二歳よりもっと前に。
深芳野が三人の侍女の一人が手に絆創膏を巻いているのを指摘したのには、帰蝶内心驚いたが、ハナがよくあること、とフォローしている。深芳野もそれ以上突っ込まず、マツを置いたまま立ち去った。
「あなたもやっと一人前ね。廓には二度と戻っちゃだめよ。」
「はい、姉御、頑張りんす。」
が別れの言葉となった。
翌朝、夜明け。帰蝶は、御館利政と小見の方に挨拶し、二双立浪の紋付輿に乗り込み、井ノ口の本屋敷を出立した。井ノ口さえ抜ければと誰もが思った。
出立して、三日後、不破関にある二階の宿である。ハナ達、侍女は賄い等で多忙である。帰蝶のお付は護衛女官であるマツに任せている。八畳敷x二のスイートの入口近くには緑が控えている。マツと二人はありがたい。帰蝶は、関ヶ原の話を暫くマツに語っている。古代、大海人と大友という二人の皇子が天下覇権を争った場所だと。私は、勝者大海人皇子(天武天皇)の皇后である持統天皇を尊敬していると赤心迄語った。この話は枕である。
「妾は、鳥を下僕化できる“とりわけ人”でありんす。」
帰蝶は、例の稲葉山下山の惨事を明かした。
♫「不破の関 名にしおわばは 今昔 卵つつきし 松の巣篭もり」
「妾は、姫様の盾にも矛にもなりんす。」
「いつまで、姉達にやられっぱなしのお六じゃないの。ロクでもいないお六なんていう口あってはならないの。」
「御意でありんす。」
「四姫(春蝶)、四姫のたらちね、四姫の侍女頭を葬ってほしいの。覚えているわよね。将軍御世話役に一番執着したのは四姫なの、分かるわよね。失意と恨みは生霊を生み、その生霊は私に取っては、魂魄を奪う悪霊になるの。」
帰蝶は初対面の時、蹴鞠をしたとき、わざと四姫屋敷に鞠を打ち込んだのだ。鞠を探しにいくマツにそっと耳打ちしたのだ。四姫たらちね、四姫侍女頭の人相を覚えておくように。二人さえ分かれば、二人の動きと豪奢な出で立ちから、四姫は自ずからわかるのである。
マツは、二日間、地域の遊郭に無断外泊しており、三度目ともなれば、又かで済んでしまう。帰蝶は、そのように読み切り、マツを送り出した。三刻あれば稲葉山に戻るであろう。兵法“巣立ち後濁さず”である。
その日の姫夕餉の時間である。帰蝶は右錫眼に眼帯を嵌めていた。厠へ行っての廊下で、宿の中居がもつ醤油壺の醤油がはね、帰蝶の右眼にかかったのだ。きっちり蓋を閉めていなかったのが原因であろう。
蹲る帰蝶。驚いた中居は、謝罪もそこそこに逃げ出してしまった。ハナ、さらに先手侍大将で、利政名代の光安が烈火の如く怒り、女将と主人を呼び出し猛抗議した。中居は新人で逃げてしまったと、女将と主人は懸命に詫びた。帰蝶は、不破関の女医師が急行し、失明は免れたが、薬草を浸した綿を目に付け、十二刻眼帯を付けざるを得なくなった。その際、帰蝶は女将、主人、中居を処罰せぬよう申し渡している。
帰蝶の意向を念頭に置きながら、光安とハナは、主人と切腹と中居の捕縛を迫った。迫った所で、逗留代無料を勝ち取っている。雨が降り始めており、二泊分タダにしたのだ。「災い転じて福となすよね。中居仕込んだのかと思ってしまうわ。」
「六姫様を危険に晒してまで、そんな狡猾な事致しません。斎藤家は、ケチなのかと天下に広まってしまいます。」
と言いながら、ハナは暖かいお茶の入った湯呑を膳に置いている。
部屋の隅では、三人の侍女が膳を横に並べ食事を取っているが、それは帰蝶が今から取る夕餉と同じ献立である。言わずと知れた姫の毒見である。帰蝶に障りがあったので慎重になっている。
さわらの煮付けに、人参、ほうれん草が添えられている。しじみの味噌汁に玄米である。味噌汁も冷め、煮付けも冷たくなるが仕方がない。さわらは、夏になり、産卵期になると食べられなくなる。今一番高価な時期である。
帰蝶がお茶だけで、空腹を紛らせていると女将がお詫びに、音曲を披露すると言ってきた。ハナは断ろうとしたが、
「お詫びと言っているだから、受けてあげなよ。」
情状酌量したお礼であろうと帰蝶は考えた。三人の侍女は美味しいを連発して、次次頬張っている。姉達が味に仕掛けをするので、味には敏感である。度々帰蝶を助けており、一姫(胡蝶)が、姉妹水屋侵入禁止令を公布して、彼女達も懲りていた。ハナも三人の侍女の様子を見て、女将のもてなしを受け入れた。
楽士は、薄い桃色の頭巾を付け、顔半分隠した若い女子で琵琶を持っていた。春らしいクリーム地に桜咲き誇る小袖を付け、赤い帯を付けていた。赤い打掛を羽織っている。
床の間を背に片膝立てて座り、琵琶を備え、撥を懐から取り出した。一礼した後、哀愁漂う曲を奏で始めた。
「なんか、死地へ旅たつ曲みたいですね。もっと明るい曲の方がいいんですけど。」
とハナは呟いた。帰蝶は、琵琶奏者がもつ手越しにチラチラ見える撥の文様を注視した。
紋様?三階菱に五つ釘抜きって…どこだっけ。三好家よ。
帰蝶は、御館が十三代将軍家に敵対する三好長慶に気を付けろと言った。その三好家の家紋が、三階菱に五つ釘抜きである。
「琵琶奏者さん。あなたは、何処のどなたなの。」
琵琶奏者は、聞こえないのか、弾く手を止めない。琵琶奏者って、“しゃうげ人”って聞いたわ。稲葉山にも琵琶法師が来たことある、でも、そのしゃうげって眼よ。耳のしゃうげ人ってあるの。耳が聞こえないのに琵琶弾けるって何?
帰蝶に甘い香りが漂い、重たい何かがよっかかってきた。
ハナだった。ハナ。危機に弱いハナ。悲鳴すら挙げる間もなく失神したの、流石に三好の家紋に驚いた。寝てるし。気づけば、三人の侍女も膳に顔から突っ伏している。入口で番張っている緑もうつらうつら船を漕いでいる。私も…眠くなってきた。琵琶奏者が立ち上がり、弦を掻き鳴らしながら、向かってきた。将軍御世話役が長続きしないのは、三好の妨害が入るから。そして、今回は、都入りする前から仕掛けてきた。
なんてこと、私は姉達に勝てないまま、逝くの。マツを出さなければ良かった。“とりわけ人”のマツなら、入眠曲なんて効かなかった筈。私も錫眼を痛めさえしなければ。ってそこまで、三好家は花弁(情報)集めているの。どれだけ、花弁摘みの質が高いのよ。天下の魑魅魍魎を垣間見た瞬間逝くなんてありえない。もっと魑魅魍魎見たい。
琵琶奏者は、撥を帰蝶の首に垂直切りしてきた。帰蝶は、左小袖で止めた。金属音が響く。鎖篭手を仕込んできて正解だったわ。そこまでの花弁は得てなかったのにね、稲葉山の麓も又、蠱毒。道中何あるか分からないもの。
帰蝶が立ち上がった。琵琶奏者は、さっと一歩後ずさった。大きく、右足を引き、そして、尻をせり上げる、独特の退き方。帰蝶は閃いた。尻に目を届ける。打掛で隠しているけど、見たことあるでっちり。誰だっけ。でも睡魔が…。
帰蝶は片膝を付いた。マツは未だ帰らない。送り出して何刻経ったかしら。別れ際のマツの言葉を今思い出すなんて。
琵琶奏者が再度近づいてきた。再び、撥を振りかぶった。睡魔で、体が動かないわ。私齢十二。弱いままで終わるの?
その時、目の前を銀色の何かが横切った。
「いいいつっ。」
撥が畳に跳ねている。白い撥に三好の紋が黒く漆塗されている。琵琶奏者は、銀の物、鉄扇を蹴り飛ばした。
あたしのお姫様…。あたしも此処までです。夢の通い路、人目よくらむ 眩んで…。
琵琶奏者は、帰蝶に尻向け撥を拾い、再度正対する。打掛が舞い上がり、小袖に張り付いた尻が帰蝶の目の前に。この出っ尻忘れないわよ。その背丈、最近追い越したわよね私。
左手の宿の格子戸が割れる音がした。黒い何かが入ってきた。黒い何かは、琵琶奏者に襲いかかった。琵琶奏者は反射的に琵琶で我身を守った。
達人の琵琶奏者なら、我が身守るためとはいえ琵琶を破壊するなんて事しないはず。
マツ、何処。マツの最後の会話が蘇った。
「四姫どんの人相分からずとも、四姫どんの手巾や召し物の香りを嗅がせれば、鳥は、そこまで飛んでいきんす。犬と同じでありんす。犬と違うのは、“とりわけ”術を差し込まないと、犬のように、武器のように動かない点でありんすよ。」
琵琶は破壊された。琵琶奏者は、畳に向かって派手にダイブした。
「あなた、さわらで化粧して面白い?」
「あなたもじゃない。脂ぎってるわよ。」
「そういうあなたは、豆腐やしじみつけて。いくら少し肌寒いっていってもねぇ。緑。」
「夢の通い路、吹き閉じて戻ってきました。あたしのお姫様。」
緑が立ち上がり、怒涛の寄りを見せ、ダイブした琵琶奏者背中に上からヒップアタックして座り込んだ。
「緑のでかい尻に敷かれたら動けないわよ。所で、夢じゃなく雲だからね。」
「あ、そうでした。天津風 雲の…でしたね。」
「良いお仕置きよ、なんかかつてあったわよね。ハナ。本当に寝てるの。」
帰蝶はハナを揺り動かし、目を覚まさせた。
「妾、間に合いんしたかしら。」
破壊された格子戸をさらに破壊して陣羽織姿、ポニテのマツが姿を現し、畳に降り立った。黒い物体はマツが放った鷹だった。とりわけ術が解けた鷹を左腕の止まらせ撫でている。
「あなた。」
ハナは、琵琶奏者の前に片膝付いて座した。
「四姫どんの衣を嗅がせて放ったら、まさかの不破の宿屋に出戻ったでありんすよ。」
「四姫(春蝶)、あなたね、此処迄くるかあ。可愛がりの執念には、逆に天晴れよ。」
琵琶奏者は四姫(春蝶)であった。琴、笛を得意とし、御世話役“競り”では、琴を披露した筈である。まさか、密かに琵琶を学んでたなんて迂闊だったわ。
「此処まで追って“可愛がり”なんていい加減なさい。世間様に迷惑かけて迄やることではありません。」
とハナも切れている。
「お黙り侍女風情が。」
四姫は緑の大きな尻に敷かれながらも声を絞り出して抵抗している。帰蝶には似ていない、横長の一重眼が帰蝶を睨みつけている。赤のアイラインと長い付け睫毛で、目を大きく見せようとしているが、コンプレックスであることを周囲に表明している。
「黙るのは四姫、あなたの方なの。三好の家紋付きの撥なんて勝手に使って。公になったら罰当たるわよ。」
「三好なんて知らないわ。これは琵琶の師匠から、免許皆伝祝いに貰ったのよ。それより!
どうして、ロクでもないお六が選ばれるのよ。話があってから、一ヶ月懸命に琴をしばきまわした、私の努力は何だったのよ。」
将軍に逢いたいより都行きたいだったのか。そういえば、四姫って元々都志向高かったわね。理由付けて井ノ口に降りて、都産の櫛や小袖買いあさってたわね。私が、将軍御世話役になりたい。替わってと泣き叫んでいる。二つ上の姉、春蝶十四歳である。
「開けていいかああ。」
右手の入口、襖越しに蟹将光安の戦声が響いた。殆ど襖あってないが如しの声圧である。
「顔拭きなさい。」
とハナが三人の侍女を急かせている。
「良いわよ。誰も脱いでないから。」
と帰蝶が光安に答える。
「なんか、その言い方淫靡でありんすな。」
光安が鋭い視線と黒雲の髭、蟹の肩幅で姿を現した。灰色系の肩絹、青袴、冠の正装である。春蝶は、光安の姿を見て観念した。
ようやく緑の尻圧から開放された春蝶は、洗いざらし話したが、帰蝶に謝罪は断固拒否した。謝罪するくらいなら、首を刎ねよとまで言い切った。
でも、井ノ口まで、琵琶奏者を装って三好家が入ってたことになるわよね。撥にわざわざ三好の紋を付けるなんて、脅しと離間を兼ねてるわよね。
「室町側の種明かしすると、元々色髪目当てだったの。今までの姫も皆色髪姫なの。出来試合。私って決まってたのよ。残念でした。だから交代できません。」
「染めてでも。」
「ひつこい!」
帰蝶の一喝に春蝶は震えあがった。細長い目がより細くなり、低い鼻でのけぞっている。
マツから、兵法“巣立ち後濁さず”の顛末をソソと耳打ちされている。侍女頭は討ち取ったが、生母は、鷹に襲われる恐怖を与える程度にとどめたということだった。
深芳野が止めたわね。
小見の方以外の側室達は味方に囲っておきたいはずである。恩を売っておくには十分だったであろう。マツも師匠の意向に逆らって迄、帰蝶の兵法“巣立ち後濁さず”に寄り添うことはできなかったのでろう。しかし、帰蝶にとっては上々であった。
流石に命迄はね、稲葉山から下りたら冷静になったわよ。でも侍女頭は地獄落ちよ。
光安は、帰蝶に目を向けた。
「この一件流石に内密というわけには参りますまい。」
「首を落として、小見の元に届けな。首だけになって、笑ってやる。」
とか春蝶は自暴自棄になっている。
「光安、任すわ。私もう空腹なのよ。」
騒動にも関わらず膳は無事だったが、味噌汁は冷め切り、さわらもしなびていた。
春蝶は、その日のうちに別の小振りな無印の輿に入れられ、数人の兵と共に井ノ口に送り返されることになった。斎藤利政の預かりとなった。
それが十日前である。どんな旅になるかと帰蝶は暗澹たる気分になるかと思いきや、目をランランと輝かせるポジティブ振りだった。しかし、その後は平穏で、他の姫が追っかけることもなく、事件と言えば“湖畔の君”程度だった。未だ、色気付いてないせいか、帰蝶にとっては、そんな事もあったかしらねえ程度まで重要度が落ちていった。
だって、あの歯って、嫉妬するわよ私と違い過ぎて。
御館が姉達の監視し始めたわね。姉妹喧嘩領外でされたら、どんだけ威信が落ちるかって話よね。それより、姉妹が実は仲が悪かったことを初めて知って衝撃的だったんじゃないかしら。四姫がどういう裁定を下されたか、花弁は入っていない。が、しかし、鬼姉共も懲りたって事じゃない。
余談だが、四姫こと春蝶は、後に室町御所政所別当伊勢氏に嫁ぎ都暮らしをすることになる。
“湖畔の君”や四姫の処遇よりも食欲である。
「私は今焼き鳥を食べたいの。とおおおても食べたいの。」
と言われれば護衛女官、臣下の礼をとるマツは立場上受け入れざるを得ない。
「マツ秘術、“一見さん、たをやかに妾の僕になりんす。”」
マツは瞳孔を開き瞬きすら忘れ集中力を高める。すると、鷺や烏が森の中から寄って来た。鷺や烏と目線を合わせ視線という電磁波を以て脳を一時的に占領隷属化したのである。
満足顔の帰蝶は、輿から降り、弓を構える。矢筒は緑と言う帰蝶より背も幅も一回り大きいが年齢は少し下のおっとり系の侍女緑が携えている。
「帰蝶、帰蝶、可憐な帰蝶。蝶だからって、あなた達の獲物じゃないわ。獲物は集まって来たあなた達。」
と前説を唄い、矢を放った。続け様に二の矢、三の矢。
バサバサバサと山道に討ち落とされる哀れな鳥達。
「結構でありんすな。妾がしたことと言えば、眼力による鳥寄せだけでありんす。客を酔わせたは姫の色気でありんす。」
「おだてるの上手いんだから、マツ。興が乗って来た。ここで焼き鳥宴。いいな光安。」
背中越に後ろにいる光安に同意を求める。
「さあ宴会だ。(有無を言わさぬ六姫様か。この道中、四姫のお可愛がりにも屈しなかった芯の強さが随所に見受けられる。)」
黒雲の髭を撫で右手でビルドアップして先手侍大将明智光安。千の兵達も互いにハイタッチ仕合う。光安は、その千の兵達に視線を撫で回す。
マツは更に鳥を集め、帰蝶が討ち落とす。そして、兵達侍女達がハナの仕切りで焼き鳥バーベキューの準備だ。木を斬り薪を作り、火の準備。包丁俎板調理道具の準備。
宴は一刻半に及んだ。少しだがアルコール分の弱い酒も振る舞われ暫し休憩となった。
光安だけは、迷子の責任を感じ、酒は断り焼き鳥の串だけ咥え都への道を探っていた。
「どうですか明智殿。」
と心配するハナ。
帰蝶の間合いも視界の外、少し離れた、箇所では軽い脅しが行われ、拒否したものは首を刎ねられている。
「四名間者が混じっていた。おそらく他家の者だが、拷問したところで三好とは言わないだろうから、一問だけで首を刎ねた。」
休憩でハイタッチし合った中、万歳つまり両手を上げた者がいたのである。万歳の習慣は、美濃にはない。さらに予め決まった相棒とハイタッチ“嬉しい時の御手合わせ”しているので、その取り決めを知らない者が四名いた。それは間者なのである。
「それは、柴刈り衆(武家方)の話。わたくしは、六姫様の上洛のみを心配しているのです。」
間者は、六姫様の命を狙っているのかも知れぬと言う言葉を呑み込んだ。だな、それはそれがしの役目だ。ハナと相談することでもないし、気を遣われることではない。
「この道で良いと思うのだが、昨日通った道のような気もするし。先程の四名はあっさり首を刎ねられたので、呪術系の“とりわけ人”でもない。」
と光安の返事は重く冴えない。ハナは額に手をやり溜息突くしかなかった。
「道中費は御所持ちと言っても、前払い制で、予め貰った中でやりくりしないと超えた分は当家持ちなのです。従って、これ以上道中費は使えません。」
行軍会計を預かるハナにとってはストレスでしかない。なんと言っても道中、歳入が増す事なく、歳出だけが増えていくのだから。
不破宿の二泊分のタダなんてあっと言う間。予算オーバーと言っているのだ。千の兵の宿泊費。山科の宿場町ほぼ町全体貸切状態になり一泊するだけでも費用は馬鹿にならない。
林の中では、光安が首を刎ねた間者、四人の身元改を担当兵に聞いている。鍾馗の顔になったかと思うと、空也の立像のようになっている。
輿の近くで、ハナはマツを呼んでいる。
「マツは、どう見てますか。」
「恐らく三好でありんしょう。御所の守護兵と御世話役に目付入れるのは当たり前でありんす。」
マツの目下には、狸顔で思い切りムっとしたハナが居た。
「この山科輪廻、マツはどう見てるのって皆まで言わなければなりませんか。余計なことに気を回すことなく、あなたは、六姫様の身の安全のみに注意を払えばいいのです。ただでさえ、わたくし達は、あなたの“夜の雲隠れ”を黙認しているのです。」
この説教癖なんとかなりんせんか。
「都へ行く道がありんせん。一本道で都に付くはずがこのままだと又山科のお宿に戻っちまいましんす。」
緑はとわざわざ背後に付けさせた緑に振ると、頷き、同意であると意思表示した。ハナも炊事の指示を出しながらも道を探る素振りを見せている。
床几は三席用意されていた。緑は帰蝶テーブルのサービスの為立っていた。炭の匂いとともに香ばしい匂いも漂ってきた。まずは主賓から。緑によって直径一尺の紙皿に盛られた鳥肉の串刺しが大量に運ばれてきた。
マツが帰蝶の左の床几に腰を下ろす。マツが縦長の尻を乗せると布のたわみが帰蝶のそれより深かった。ま、背丈は妾の方がありんすから。
「マツ、あなた尻好き?」
「いや、姫様軽いでありんすなって。」
「御所入り、公方様お世話しなきゃって眉間にしわ寄せてもね。どんな方か、どんな所か、まずどう対応しおうかって事考えるのは初日でやめたの。百聞、千考も一見にしかずだもの。頭疲れて寝れないし。」
体重の話をしたでありんすが、通じてなかったでありんすな。斎藤家の方々ともっと意思疎通を取った方がいいでありんすな。
「ハナさんは、我関せずでありんすが、三好の妨害も気にした方がいいでありんす。」
「姉の侍女が、私の動向を壁や障子、廊下の角から伺っているのと同じよ。知らない振りをするか、炙り出すか。炙り出す方法を今回採ってみたけど。」
「“山科輪廻”に変化はありんせんか。」
「…。」
帰蝶は鶏肉の串を持ってマツを見ている。美味しいわねととか言っている。
「姫様も“とりわけ人”。“とりわけ人”を見分けると言いんす。そういう妾は、あの四人の糸を辿れないでありんす。」
「黒幕は多分、その辺にいないでしょう。定期連絡が途絶えた所でわかるってことじゃない。」
「上手いでありんすな。」
マツも頬張っている。
「山科輪廻は姉の妨害かと思ったけど、姉達そこまでゴツくないしね。ここまでの力があれば、私は疾うにこの世に居ない。穿った味方をすれば、言霊があればと考えると思い浮かべるのは、一の姉(胡蝶)なのよね。この話が最初に会った時、まず御館は一の姉に振ったのよ。一の姉は乗り気だったわ。でも、箝口令敷いても、漏れるものなのよ。密かに下山して御館に直談判した姫がいるとか。妙な空気を察した一の姉は、一応妹達に聞いてみてって御館に言ったのよ。」
「妹思いの一姫様(胡蝶)らしいでありんすな。」
「私は興味なしって態度で見せたわ。小見様からの推しもなかったし。一の姉に御館が最初に話持っていって、興味を示したのであれば一の姉が行くべきだと思ったし。」
「姉思いの六姫様でありんすな。」
「“可愛がり”の盾がいなくなるのは、私にとってはきついけど、一の姉の人生を私が潰すわけいかないもの。」
「所がでありんすな。」
「二姫から、五姫達は、我先にと手を上げたのよ。無節操で無粋よね。恥だと思ったわ。たらちねが違うとこうも違うのかと思ったわ。」
「さすが、唯一の御正室小見様の嫡女でありんすな。」
「その自尊心は必要だと思っているわ。」
床几は三つある。帰蝶とマツが座り、緑は帰蝶の世話なので立位である。が、しかし、席は埋まっている。
「ま、今回色髪姫と言う条件が合った事で六姫様に機会が回って来たでありんすな。」
「結果的に私が一の姉の思いを奪ったように見えるけど、その色髪姫と言う条件が稲葉山迄伝わてっているかなあって。」
「師匠の耳に入っていれば、伝えていると思いんす。」
「だと言いんだけど。言霊があるとしたら、一の姉の想いが、山科輪廻を引き起こしていると言えなくもないのよね。」
「口では六姫様を応援しているけど、妹達に機会を与えたことに実は悔いていると。」
「もし、そうなら、髪を染めてでも、一の姉と交代しようかと考えてしまうのよ。」
「御所を誑かすものではありんせん。染め残し、サボり、染料の香等で、毛染めは直ぐばれちまいましんす。」
「そうよね。御所側から見ると処罰ものよね。尤も私も替わるつもりないわよ。小見様の御意向に背くわけにはいかないもの。」
いかにも武家のお姫様でありんすな。忠孝梯を地で行ってやす姫様。
と言いながらも食が進み四半刻が経過した。ハナは、緑以外の侍女や明智家が派遣した兵担当の侍女に指示したりして戻ってこない。鶏肉を口にしているだろうか。床几は三つある。帰蝶の左にマツがいる。おっとりしているが芯の強い緑は立位で帰蝶に鶏肉を取り分けている。しかし、床几は三つ全て埋まっている。
誰でありんすか。妾も常時同行してんせんが、溶け込んでいるでありんすな。ここでつっこみ入れると、知らない事を責められそうでありんす。
床几は三つあり、残り一つをおかっぱ頭に黄地に赤の格子がある膝上三寸の帷子を赤の帯で縛った娘が占領し、両手に串を持ちバクバク頬張りながら、緑に話かけている。
「なあ、姫はんのそれ、うちらのと違うやん。それ頂戴なあ。」
とオカッパ娘が万を持して帰蝶に絡んできた。
「だめよ。これは姫用で雉なんだからさ。」
「ずるい。なんか美味しそうや。」
妙な言葉使いに耳をぴくっとさせたハナ。帰蝶から少し離れたところで、石に座っていたのだ。石から腰を上げ、狸顔を帰蝶達に向けた。隣の大石に光安が座し、黒雲の中に小さな焼き鳥を放りこんでいる。
「なんか六姫様と親しそうですわね。明智にあんな人いたっけ。もし前から居たら失礼だだし。他家の方の侍女かと考えていたのです。でも、先ほど飛び込んできた言葉。その言葉、美濃でもなければ近江とも違う、聞いたことないですわよ。」
と光安の袂を下から引っ張っている。光安の頭はハナの遥か上、体格も数倍大きい。
「上方の言葉のようだが。斎藤家に上方下りの侍女っていたっけハナ。」
“嬉しい時の御手合わせ”から、差ほど時は経過してないはずだが。
「知らないから頼っているのですよ。」
「ハナ、自信持て。侍女の顔通しは済んでいる筈だろ。(危機に弱い。六姫様を御可愛がりから守れないと、侍女頭には分不相応と卑屈になっているかもしれんが、ハナは超一流の侍女頭だ。)まさか間者。(御手合せの後、ハエのように紛れこんだが。)」
「にしては明白すぎやしないですか。」
と言いながら、二人は立ち上がり帰蝶達に近寄ってきた。その内にオカッパ娘は姫用の雉肉をせしめ頬張りはじめた。食欲旺盛だ。足元の串入れの竹筒には既に十本越えて入る。
「あなた!これ全部あなた一人で召しあがったのですか。」
「いきなり初対面で突っ込むとこ、それ。色気より食い気なんか、斎藤家の女子衆は。」
「は、なんですって。マツ、どうして余所者、六姫様に近づけたのですか。しかもやんごとなき旅籠費やさせて。」
ハナは額に血を思い切り吸い上げた。まるで破れるかと思うくらい赤黒い管が盛り上がっている。
「浪費したってか。えらい言い方やな。」
対して、娘はハナを少し横目で視線送っただけで冷静沈着に答えている。既に手を怒りで震えさせているハナとは対照的である。
変事に弱いハナさんとは姫様よく言ったものでありんすな。侍女だけでなく千の兵を仕切っているお姉さまが以外と小心だったって事でありんす。
マツはにっこり微笑んだ後言葉を紡いだ。
「花弁(情報)持ってきたでありんす。雉肉と交換でありんすよ。」
「花弁とじゃ釣り合い…、」
「花弁って、どんな話でござるか。」
体格と声量でハナを吹っ飛して一歩前ににじり寄る。
「ああ光安はいいから、女子衆の話盛り花盛りに無粋で場違い畑違いな蟹の手突っ込まない。」
帰蝶がピッピと手であっち行けをしながら、さ、もういいでしょと花弁(情報)の提供をおかっぱ娘に促している。オカッパ娘は雉肉が付いていた串を地面の筒にピと正確に投げ入れ、話すかと思いきや腰の瓢箪からの水分補給を優先した。
「あのね。あなた。」
鬼かと思う皺を額に走らせたハナを帰蝶は扇子で仰ぎ冷ましている。、
「将軍御世話役の花弁持ってきたって言ったから接待したのよ。タダで姫用の雉肉食わすわないでしょ。でも花弁の質によっては、ネネ、あなたにとって雉肉が最期の晩餐になるわ。」
と言って扇を広げ先をネネの首先に突き付けた。瓢箪の先を口に突っ込んでいると言う珍妙な座り地蔵になった。
「ネネと仰るのですか。どちらのネネ様でいらっしゃいますか。」
「室町の方から来たネネ様や。」
「え、公方様のお付の方にしては、御格好が安っぽいと言わざるを得ないのですか。」
「人の話よう聞いときや。」
「ハナ。私も人半分(詐欺師)話半分って聴いてるんだから。正体聞かれて、やあやあ我こそは…って真実語るわけないでしょう。室町の方から来たって、私はいよいよやって来たなって嬉しくてしょうがないんだからさ。」
もう、とハナは黙ってしまった。時折、私より大人なところ見せるんだから。あの得体の知れないけど得体は恐ろしく大きな深芳野様の影響かしら。
ネネは水を気管に入れかけ咳こんでいたがやがて落ち着き、花弁を俎上に並べはじめた。
御世話役は帰蝶で五代目やと言うのをまず告げた。帰蝶は先代など興味は無いが、管領一行が帰った後、父道三が、どの御世話役も任期を全うしていないと言うのは頭に残っていた。小見様があなたは、しっかり半年務めるようにと言われたことは強烈に残っているわ。姉達との蠱毒から脱出できたんだもの、半年、一年、永久続けてもいいと。小見様と御館を次期将軍家の外祖父母にしても良いと思い始めているわよ。
「なんか半年の任期、大幅に余らして引きあげたってね。本来なら役発足半年なんだから、二代目の筈なのに私って五代目って何。十三代公方って余程醜漢なのか、助平なのか知らないけど。あるいは変態とか。不安と言えば不安よね。なんか勢いで美濃から出てきちゃったけど。」
「だってしゃあないやろ。来る姫来る姫。おらんようになるんやから。」
「おらんようになる?おらん…という様になっている?お蘭?乱?」
大体察しが付くと思いきや、的外れかもしれないので、帰蝶はマツに視線を送る。マツは、上方の言葉も違和感なく聞き取っている。マツの廓がどこだったか帰蝶は知らない。しかし、廓は旅人も訪れる。マツは天下扶桑全ての言語に通じてると考えて良かった。
「いなくなったって事でありんす。つまり姫様が雲隠れいや、もっと進んで神隠しの類でありんすかネネ。」
「そや。」
「粗野?」
「そやは御意ってこと、つまり御世話役の姫君達は皆神隠しにあったって事でありんす姫様。」
帰蝶の扇が思わず止まる程のS級リークである。
「本当に本当なの。姫君がうたかたの如くってなんなの。それ、姫だけ。姫伴って軍勢丸ごと帰国したってことじゃないのよね。」
「それやったら三行半って言うわ。うちは姫が。姫だけがおらんようになったって言うたんや。(山科関って結構存在でかいな。花弁、あずま方へ通過してへんやんか。それとも美濃斎藤って花弁の扱い方疎いんか。いや疎いんはこの姫はんなんか。)」
「ネネ、花弁の根まで抜いて見せて。それ位は賄いさせたわよ。」
有無を言わさない、怜悧な眼と語勢の強さ、勿論やとネネは平静を装いじわじわと扱う花弁の根を見せ始める。
ネネの話によると最初、波多野の姫君が来たが数日でいなくなり…。
「そうかて、兵部はんや御伽衆が大騒ぎしとんやから都の何処おってもわかるわ。」
次に赤松の姫君が御世話役でやってきたが、これも確か四日で。
「いや姫身分が打掛の重ね合わせで洛内うろついてたら、大騒ぎなるで。洛内どこにも痕跡すらない。当然、烏丸の女郎屋にも隠密に手え入れてるがな。おらんのや。勿論家帰ってないで。足があっても厠行く位しかでけん、お姫様が一人で国帰れるかいな。」
「まさかでありんすが、南蛮人に売り払ったとか。それやれば、管領家や現将軍は大名方々から輪姦されるは必定でありんすが。」
「南蛮人って何よ。マツ。」:
「南蛮人つうのは、ありんす。」
「南蛮人見たことないんか。美濃の田舎には未だ行ってへんか。」
「田舎は余計よ。南蛮北狄東夷西戎は知っているわよ。その内の南蛮よね。」
「碧眼金髪や。」
「総金髪なの。縞模様なら、深芳野がいるけどね。」
「毛、言う毛全部金や。」
「全部見たでありんすか。」
「誰か見るかいな。けど髪や髭が金やったら。髭、金やったかいな。」
「話逸れてるよ。」
「堪忍、南蛮人に拐われて商品化されてないかって事やな。一応、堺、大津、うち探り入れたで。それはないな。なかったで。」
とネネは手を振っている。具体的に堺や大津の商人の名と商家の様子を話している。でまかせでない事を証明するためだが。斎藤家側に堺を知る者は居ない。大津は一泊したが、一泊で見れる場所は知れている。室町の方から来たと言う、帰蝶の話半分体制は継続する。
自ら堺、大津まで春売りに行ったと、ネネ誰かに買われているでありんすな。御所。それとも、各姫の大名家?この花弁売り、ガセネタ売りの空腹満たしじゃありんせん。
「波多野、赤松がそないになってるなんて露知らぬ飛んで火に入った山名に至っては僅か一日で雲隠れや。公方様曰く手ぇ付ける間もなくおらんようになったって。」
「はあ、波多野や赤松の姫には手付きした上でっていうの。しかもどんどん速くなってるし、山名に至っては手を付くのもまどろっこしくなっていきなり初日食っちまったっていうの。」
はあ、そう解釈したの六姫様と言う顔で皆帰蝶に向けた。周囲にはハナや緑、侍女達、光安始め兵達もバラバラと十数人聞き耳を立てていた。
けどこのぎざぎざした香なんなんや鼻にツンツン来るわ。美濃人やない、姫はんだけや。口か。貴人は、話す時も扇で口を隠す、けど食事時だけは別や。
ネネは、上目遣いで、帰蝶の雉肉を噛み砕く口を注視した。お歯黒!いや、ちゃう。歯自体が錫でできてるやんか。この年で総入れ歯しかも錫造りって聞いたことないわ。
帰蝶が、食べきった串を足元の筒に投げ入れるのと、ネネが視線を逸らすのが同時だった。
扇で隠す歯が錫造り、なら紫頭巾で隠された髪はどうなってんねや、興味あるわ。錫属性は聞いたことないわ。
けど、それ以上に興味があるのは、自分が今から就こうする役目の先代姫達が皆短期間で失踪してるつう話を聞いても食欲が落ちず、それどころか、より旺盛になってるってつうこっちゃ。理解でけてるか。
その時、帰蝶が突如立ちあがった。
床几からスと立ち上がる、蹴鞠それに弓を嗜む為、腹筋が強いのだろう。
腹拵え済んだことやし、美濃帰国宣言って所がオチやろ。来る姫、来る姫、全員失踪言う話聞いたんや。この先進む選択肢はないで。
いきなり、扇を口に当て爆笑したかと思うと、
「面白いじゃない。鬼よ。いや、鬼や天狗や妖怪が跋扈する都って言うけど、公方自らが鬼じゃない。そうよね、妖しの都だから、その頭が鬼っていうのは言わば当たり前よねええ。」
面白いと両腕を上げキャットファイティングポーズを取ったかと思うとキャッキャ飛び跳ねて手を叩き喜んでいる。皆あっけにとられていた。一番驚いたのは、ネネ、姫身分なら姫消失を聞けば踵返しは当たり前と思っていたからだ。帰蝶に右手親指を向けたあと、マツの顔色を覗っている。
「斎藤家やったっけ、変な姫さんやなあ。怖ないんか。」
「妾もこの旅が最初でありんせん、分かりんせ。」
マツは、そう語りながら、はしゃぐ帰蝶を槍を手に護っている。周りでは片付けに入っていて家臣や侍女達が忙しく動いている。今斎藤家は迷っている。迷っている中でのネネの来訪。ネネを陽動御札化して襲ってくる間者を警戒しているのだ。護衛女官の任務、ネネの尻触って(にい)るのは誰でありんすか。
「所でネネ。赤松家の後、今川家はどうなったでありんすか。もう半年経ちんせんが。」
三家の後、今川家が御世話役を半年務め上げた。そうよ、今川が任期全うしそうなのは言ってたわよね。
帰蝶もはしゃぐのを止めネネの答えに注目する。
「伝聞やけど、着いたは着いたんやけど輿、空やってんて。」
それを聞いて帰蝶大喜び。マツは凍りついていたと言うのに。
「すぅごい。遂に姿を見る前に食べちゃったってこと。輿を開けたら、空で、あれ姫はと皆大騒ぎしたら、鬼公方が、あ、もう待ちきれなくて時間も空間も飛び越えて輿の中にいる内に食べちゃったってことじゃない。面白い。じゃあ、そろそろ来るかしらね鬼公方。半年間姫食ってないわけだからね。山科輪廻も公方?都で千の兵で騒がれても事だからって。」
帰蝶は天を仰いだ。鳥がパパパアと飛び去った。攣られてマツは空を警戒するもふと疑問がわいてネネに視線を移した。
「で半年間、公方様は姫日照りでありんすか。」
「いや、今川家は慌てて付き添いの侍女七人を御世話代役にして公方様に差しだしたんやけど。」
「今どうしてるでありんすか。」
「その御世話代役は未だにおるわな。そう言えば。でも身分が違うといえばそれまでや。少なくとも姫身分の御世話役は波多野、赤松、山名。今川に至っては顔すら拝むまもなく神隠しに遭っている。踵を返すのが身の為やって警告しにきたんやけど。」
「多分、その七人は色髪じゃなく黒髪だったのね。管領や兵部の話から察するに、鬼公方は、色髪姫好みとか。その七人は姫身分じゃない故に黒髪、二つも拒否条件が揃えば眼中に入らないのは当然。御世話役には、付随の兵による御所の警護という重要な役目もあるため今川軍を帰国さすわけにもいかない。職務上止むなくの姫日照りを受け入れたってっことね。」
「波多野、赤松、山名が色髪ってのは知らんかったわ。てことは直に管領や兵部が折衝にいった斎藤の六姫様も表現は適当かどうか知らんけど、相当な色髪姫ってことやんな。」
三人の姫が色髪姫と言うのはこのネネ知らなかったでありんすか。表情、気配からして本音でありんす。て事は、このネネ、御所を主戦とする主忍びではなく、一仕事のみを請け負い雇い主を渡り歩く流れ忍びの類でありんすか。ま、飯のみを求める振る舞いからして下忍の類とは思ってたでありんすが。
京雀に広がる三姫の噂のみを売りにきて善意の撤退をお節介しにきたとの解釈も捨てきりんせん。しかし悪意に考え、ネネの尻撫でてる御仁が、最低限の花弁のみ、尻に貼り付けて送り出し、最重要花弁は手元に置いたとも考えるのが普通でありんす。目的は何でありんすか。ネネの言動から美濃帰国させたい様でありんすが、姫が上洛したらまずいのか、斎藤軍千が都に出張るのが嫌なのか分かりんせ。
帰蝶は胸を張り、息を吸い込み、鞠を挟み腰に手をやり堂々仁王立ち、右手に持った扇の先を胸にソっと当てる。
「色狂いの鬼公方、餌はここよ。お腹すいたでしょ。さっさと食らいにいらっしゃい。」
「いきまり色狂いって強烈な拳ぶつけてったで。奇天烈な姫はんやな付き合いきれんわ。雉肉美味しかったで、おおきにな。うちは一食儲けってことで。一応警告はしたで、あとはどうなっても自己責任ってことで。うちはこれで下がらせてもらうわ。」
「道中気を付けて…・」
と言いかけた光安が凍ってしまった。同時に帰蝶の扇が眼の前に立ちふさがった。
「私が奇天烈だったら、ねねは破廉恥だよねえ。」
ネネはなんか後ろが涼しいと思わず尻に手をやった時、もろ手が尻肉に触ってしまった。帰蝶と年端が変わらないネネ。白い横長のピロンとしたハート型の赤い尻が丸だしだった。
動転して振り返り帯に挟まれた帷子の裾を慌てて直し、
「なにすんねん。」
と激怒したものの、視線の先、武士達の夥しい眼線がそこにあった。殆ど異性で自分の生尻を頭に叩き込んだのは明らかである。その恥ずかしさに赤面し動悸し顔を両手で覆いその場に座り込んでしまった。消えたい。嘘だと誰か言って。
「うちかて好きでこんな短い帷子穿いているわけないやろ。ほんとは姫はんみたいな袴着て笠も被りたいし小袖も羽織りたい。扇も持ちたい。見てくれや身分やったら罵ってくれたらいい。食いしん坊と蔑んでもうてもええ。でも体の恥だけはやめてええ。」
と号泣してしまった。
「もう六姫さま。オイタが過ぎますよ。ここでは姉姫様達の業にはできませんからね。」
ここで、変事に弱いハナ、炊事と片付けを仕切って威厳を保つものの、ネネに対してはどこの誰と警戒するだけだったが、ようやく出番がやってきた。その“どこの誰”がパニックに陥った分、自分が落ち付きを取り戻したのだった。
ハナは駆け寄り懸命にネネを慰めはじめた。一方の帰蝶は、扇を口に当て、
「間者にしては間抜けね。花弁並べや食うのに夢中になって尻ががらあきになってるなんて。仕込んだのは結構前だったのよ。別れるまで気がつかないなんて思わなかったわ。でも御蔭でその花弁、模造品じゃないって明かされたわ。六角や三好といった大名の間者でないってこと丸わかりじゃない。あの大食振りから見て。新たな将軍御世話役が来る花弁を聞いて、喜びそうな花弁売って食い物にありつけようとした。丁度いい匂いさせてたしねマツ。」
と言い終わるや否や広げた扇の先をマツに向けた。マツは答えなければならない。
「嘘泣きで隙を作ってる様子も皆無、でもこのまま帰す手はありんせん。」
と言ったものの女の涙は、どんな矛より恐ろしいと言うでありんす。ま、妾が蝋燭になって蝋でネネをいたぶって姫さんを護りさえすれば問題ありんせん。
ネネの尻触っている御仁は最終的に六角、三好といった大名まで達すると姫様は見てるでありんすか。帰国を示唆している事から察したでありんすか、彼らにとっては御世話役の付随として都に外様が軍勢を入れてくるのが嫌な筈。しかし、単に善意の帰国奨励の線も捨てきれんせん。
「分かってるわよ、上方言葉も耳に心地いいね。私は気に入った。鬼公方の花弁も忝い。
暫く食わしてやるから都まで案内しな。聞いたネネ。泣いてる場合じゃないわよ。兎に角今日中に私達は御所に着きたいの。(私を上洛させたくない者、いや物の怪がいる。)」
帰蝶は扇を広げ目を地平線に浮かべ先端をネネに向けた。有無を言わさぬ姫号令である。
ハナの慰めでようやく立ち上がったネネ。目は真っ赤、瞼が腫れている。本当に恥ずかしくて悲しく泣いていたのだ。
「花弁聞いても行軍は止めんて。御所でどんなめに遭ってもうち知らんで。一応警告したからな。」
とヒックヒックしながら帰蝶に気勢を懸命に張っている。悪い事したと露とも思わない姫身分の帰蝶、既に次の思考に行っている。
「どんな目に遭うか、まるで私が上洛したらまずいみたいじゃない。雇主に私を怖がらせて上洛さすなってとでも言われているの。」
結構図星でありんしょ。
「雇い主なんておらんて。色髪、知らんのが証拠や。流石の京雀も上洛して直ぐおらんようなったから三人の姫が色髪やったなんて誰もしらん、けど三人の姫が失踪した案件つうたら京雀誰でもしっとる。でもわざわざ山科まで来て次の御世話役に知らせてくれる奇特な京雀はおらん。うちは、遥か彼方の姫身分からしたら底辺やけど同じ女子や。波多野、赤松、山名、今川も入れよか。さらなる悲劇を見とうないんや。それでも上洛したいんやったら、したらええ。ただ、覚悟を決めなってこっちゃ。ま、でも腹減ってたんは事実や。雇い主なんておらんで。」
誰より先に反論したのがハナだった。
「此処まで来て引き返すなどできませんよ。御世話役前提の支度金なのですから、御所に返さなくてはいけません。大赤字じゃないですか。精鋭の美濃兵、ちょっと心配だけど、都に出しても引けも取らない侍女と護衛女官なのですから。」
美濃へ帰るなんて道はありんせん。ハナさんに女漢を見んした。
「土岐の随分衆たる明智光安…。」
二番煎じは不要とばかり、帰蝶の扇が雲を散らす朝日の如く光安の見栄を遮ってしまった。
「私はネネ買収御札を切ったの。だからさっさと御所への道案内して。」
「頼もしいこっちゃな。御所への道って直ぐそこやんか。なんでこんな所で飯食うとんか思たけど、迷てたんか。迷う程の道でもないやろ。」
とネネは尻を抑えたまま再び帰蝶に背を向けた。
なんだ、行けるじゃない。結局光安が方向音痴なだけじゃない。と誰もが思った。
そして再び首だけ帰蝶に振りかえり睨んだ後もう一度前をみた。ニ、三歩進んで見た。さらに左右キョロキョロし始めた。
「あの獣道でも構いませんよ。わたくし達は都にさえ到着できれば宜しいので。」
とハナが声をかけたが返答はない。草鞋を直し、前方へタタと走ったかと思うとまた戻っていた。
「明らかに悶えて(まよって)いるでありんすな。いやそう思わせ振りをしてると言うべきでありんす。どうしても姫様を公方様の閨に招き入れたくないでありんすか。妾からすれば憂いしかありんせん。」
いやと帰蝶が六尺の高上背のマツの肩をポンと右手甲で叩いた。
「山科輪廻。真剣迷っているんじゃない。喩え鬼公方が口を開けて待ちかまえていたとしても、今ここで逢ったばかり。その上尻晒しと言う辱めを受けた相手にそこまで拘る義理はないでしょ。」
「でもあんな素肌(花弁)見せられたら(聞かされたら)、普通閨入り暇もらいってなりんす。姫様が公方様の閨に潜りこまれたら、困る有象無象がネネを高背位から襲いかかっていると考えた方が良うのうござりんすか。」
帰蝶はすたすたと前進していく。マツも置いていかれまいと続いた。目の前には明らかに困惑しているのに、それを隠して目を泳がせながら懸命に道を探しているネネ、そんなネネを祈るように見守る光安、心配するハナがいた。
帰蝶にはハナは心配する振りをして別の事を考えていると感じた。目線がリアルタイムでネネを追い切れていないからだ。遅れてしかも雑に追っている。
ハナが帰蝶の接近に気付き振りかえった。
「ハナ。何時になく真剣な狸の表情ね。」
「狸は余計です。天の差配、神仏の導きを信じますか姫様。」
「狸が何言っているの。」
「だから狸は余計です。前言撤回します、このまま美濃へ帰りましょう。天の意思には天下の公方様んの意向も管領様やお館様の命令も無力です。きっとご理解いただきましょう。遠征費の赤字は仕方ありません。御館様のお怒りはわたくしが身命を賭して楯となりましょう。そもそも六姫様が、管領様に悪戯されるのが悪いのです。聖上になりかわり政を執り行う室町の管領様に悪戯なんて、天のお怒りもごもっともだとわたくしは思います。」
上洛できないのは天命だと言っているのだ。天命には逆らえない。
帰蝶、そしてマツが凍った。帰蝶の味方であり、侍女頭ハナが主張を翻し美濃帰国を進言した。現状、そして、ネネの齎した花弁から判断すれば、その選択肢もありうる。
まさかハナが美濃帰国を言いだすなんて。私が御所の役目を貰い一緒に上洛することを誰よりも喜んでいたハナが美濃帰国。
しかし…。私に!“ロクでもないお六”に次いで“ケツ割れお六”なんて言う三つ名を貼り付けるつもりハナ。
私が管領やネネにした悪戯なんて可愛いものよ。姉や姉の侍女や姉の母達の殺気がかった悪戯。そんな稲葉山に戻る位なら鬼や天狗、魑魅魍魎と食うや食われるの駆け引きをした方がどれだけ楽しいか。上辺だけの興味本位や御所の恋なんていう浮かれた気持ちじゃないわ。
と言う言葉を帰蝶は呑みこんだ。
姉姫達の“御戯れ”。姉姫の生母や侍女頭は、ハナが抗議しても、“御戯れ”を真剣扱いするなんて、なんて大人気ない侍女頭だこと、流石末子の侍女継頭として一笑に付され、さらなる“御戯れ”が量にかかってきた。姉姫の生母や侍女頭は、ハナがハナのたらちねの死により後を継いだ故経験不足と一段下に見て侍女継頭などと揶揄していたのだ。
私の厠の天井に餌くっつけて百足の巣にしたのはニ姫、尻に堕ちてきた百足に咬まれた右の尻肉が思い切り腫れて暫くハナに小袖の裾もって尻肉に布がかからないように歩いたの忘れた。そんな私を見てからかいにやつくニ姫の顔見て、あ、ニ姫が侍女使ったなって分かったわよ。その上ニ姫の母がやってきて、とろい、どけって私の痛い方の尻わざと蹴るのよ。痛いのなんのって転げまわって。あら、御免遊ばせってそのまま行って。ハナは仕方がない侍女だから頭さげるしか。
部屋に入って、痛すぎて気が変になりそうだから、着物全部脱いで素っ裸になったわ。ハナがお薬と言うのも聞こえたけど聞こえない振りして兎に角裸で飛んだり跳ねたり、柱蹴ったり、ぎりぎり障子破いたり、襖蹴ったりは避けた。
さらに三姫…、これ以上思い起こすのは気がどうにかなるから止めましょう。
「天が邪魔するなら天を蹴り上げ、神仏が足に縋りつくなら、蹴飛ばして奈落に落としてやろう。狸が立ちはだかるなら頭突きを食らわそう。私は鬼公方に逢いに行く。」
「わたくしを頭突きしてでも上洛すると言うのですか六姫様。:」
「ハナ、やっぱ狸なの。」
「何時も喩えているじゃないですか。わたくしが言いたいのは、ネネさんの話が本当なら、波多野…・」
「本当ならってほんまやん。知らんけどなって言うてへんやろ。つうことは、真実や。
うちは嘘つかんで。」
「ごめんなさい。波多野、赤松、山名の姫君は神隠しにあっています。美濃にあって姉姫様達、そして御台様がお相手なら、わたくしがなんとでもいたしましょう。体張って命かけてでも。でも都の鬼、天狗、妖怪なんて手が負えません、わたくしの力を以てしても六姫様を護りかねます。それでも私を張ってでも上洛いたしますか。鬼公方様にお会いしたいですか。」
「そんなに狸に喩えもらいたいなら、今後も狸狸って言ってあげるわよ。でも狸じゃなく寸前に狸と見間違えたハナだど分かれば頭突きはしない。私は鬼公方に逢いに行く。小見様の御導きがあり、御館と管領が約束を果たした時点で私は御世話役だから。神や仏が邪魔しようとも、これが私の今成すべき事果たすべき事だから逃げない。これが私の”巣立ち“なのわかって。」
既に自分より顔半分背が高くなっている帰蝶、見下ろされる気分は微笑ましくさえもある。そして、扇を握り、錫歯を惜しげもなく晒し、眉間に皺を寄せ、剥きになり訴える様、わたくしと真剣に向かい合い自己主張している証拠、”巣立ち“とおっしゃいましたね。何となく出立した時から分かってましたよ。御館様と小見様、一姫(胡蝶)様、深芳野様から巣立ち、都に有りて美濃の為に忠孝梯に尽くす。退路を絶って出来ていたのですね、二度と戻らない。任期は半年、されど、将軍家の御台様となれば、その限りではありません。半年後、自分は将軍家御台として収まり、美濃へ帰国する光安始め兵達を見送ることも可能でしょう。
しかし、わたしくはわたくしは産まれた時から、六姫様を見てきました。お髪が錫色に替り、お口が錫歯に蝿変わっていくのも具に見て参りました。“可愛がり”“お戯れ”は苛烈、最低限命さえあれば良しとしました。結果、“とりわけ力”が付き、空蝉達の賞賛を浴び、御館様と小見の方様の信用を得ましたし、何より六姫様は今生きてらっしゃいます。最悪の内の良です。
侍女頭は、単に御世話するだけが役目じゃありません。危機から逃れさせ生き延びさせることも大役。鬼が口を開け待っている都に餌を与えるが如く六姫様を連れていくことはできないのです。それと六姫様の“巣立ち”を考慮に入れた最前の策は…。
「わかりました。美濃帰国は下げましょう。」
帰蝶の肩の固さがフと抜けた。
ったく脅かさないでよね、ハナは私の最大最長期間の味方なんだから。
「かと言ってこのまま鬼の棲家へ上洛と言うわけにも参りません。」
「どうしろと言うのハナ。」
「あの湖畔の君を縁御札化するのも一つの手とわたくしは今思うのです。風情から見て恐らく畿内の大名級の若様かと思われます。山城守様が山城への道を確保するためとの婚礼で御館様を納得させることもできようかと思います。」
縁御札化。つまり婚礼。急展開な事を考えるわね、ハナ。でも、湖畔の君って煽っているけど、侍女達が盛りあげているだけで、当の私は何とも思ってないのよ。
“山城守様が山城への道を確保するため”って何でありんすか?
「寧ろそう言うハナに御縁御札授けたい気分よ。護衛兵何人か付けるから戻ってみる。」:
「何をおっしゃって…。」
ハナは頬を赤らめ単純に怒気を発している。
「美濃を“巣立ち”した私は、上洛するしかないのよ。美濃帰国もどこの馬の骨か分からない“湖畔の君”への輿入れなんてのもあり得ない。
上洛して、兎に角、将軍の目前に私は行く。そして三色髪姫失踪の件を問いだ出す。真、鬼から、鬼がこの国を布武なんてこと赦しちゃいけない。私が鬼退治して替ってもいいとさえ今思っている。御館の代行ではない。御館と関係ない斎藤帰蝶が将軍になる。北条政子様以来の前例があるんだし可能よ。その為の千の兵じゃない?」
光安の武断の世に生きる武家の血が滾った。
「六姫様、分かって言っておられるのか。姫様は、今、斎藤家に繋がる兵站線を絶ち、公儀転覆を狙う謀反軍と宣言されたのだぞ。」
「ったく蟹の脳味噌なんだから、先走り過ぎなの。ハナは狸の脳味噌で、チラと見た馬の骨を“湖畔の君”と囃したてるし、光安は公儀転覆。それは将軍家が鬼だったらの話。鬼に将軍家が、乗っ取られてたら、陪臣として討ち取るのが忠義ってもんでしょ。で成手がいなければ私が暫く代行するって言っているの。…てことだから森の精よ。」
帰蝶は突拍子もなく森の精の言いだし、その妙な言霊が光安の血の気を冷ました。
一瞬千の軍勢を以ってして、都を分捕りとも面白いかと思った矢先である。ようやく帰国できると喜んでいる今川軍は厭戦気分が蔓延し公儀側に付かないだろうと迄計算していたのである。
「やはり公方は鬼公方なのかしらね。森の精が私を鬼公方から守ってくれようとしている。
でもね、御世話役を受けた以上、美濃を巣立った以上、行かなければならないの。私にとって、ケツ割お六なんて蔑まれる方が余程地獄なの。」
姉姫達と半分血は同じだから、分かるのよ。
帰蝶は自分たちに迫ってくる楠を見渡している。そんな帰蝶の袖をハナがキュっと力を込めて掴んだ。
「わたくしは、六姫様と一蓮托生です。」
帰蝶の隣には長身のマツのポニーテールが靡いている。帰蝶は道案内のネネに近づいて行く。
「ネネ、迷ってんだろ。はっきりしなよ。狸に買収御札切られたわけじゃあるまいし。それとも、鬼公方だから“抜け駆け蟻地獄”なんて鬼御札切って姫食っているとか。」
凛とした気勢。これが姫身分の威厳ったやつか、さすが美濃一国の姫君だけあるな。膝ががくがくするわ。けどその抜け駆けって何やのん。姫だけが抜け駆けできるって言う意味。
「ネネ、何膝震えてんのよ。手で裾掴んで、帷子めくりなんて餓鬼遊戯しないわよ。せめて肌付位穿いときなさい。買えないなら私の上げるからさ。」
「え、肌付きってなんや、姫身分はなんぞ穿いてんのか。」
「その話は後で、それより迷っているのね。」
「迷っとんのは道やない。このまま姫はんを導いてええんか。」
というネネの視線は主に右に向いていたが、右の道は著しく細い、一見一本道だが、東海道にしては細すぎる、こんな道通ってきたっけと疑問に思っているのだ。
「(山科輪廻とネネ御札、敵は二つ御札切ってるわね。それとも金城湯地を、謀反姫から守ろうとする敵は二人。)そこから道細くなってるでしょ。このまま行くと又山科の宿に戻るのよ。(ネネ、いい加減尻尾だしてくれたら、楽なんだけど。その餓鬼丸出しの尻触ってるの誰。)」
帰蝶がネネに助け舟を出した。
将軍御世話役を押し付けながら、拒否されたと怒って斎藤様が将軍討伐軍を起こすって事でありんすか。
「あな、恐ろしきでありんす。」
「安心してマツ。皆も、御遊びはもう終わり、雲行きから言って下り坂。早く山越えしないと雨に遇うのは明白。ここで昨日は曲がって戻っちゃったのよね。」
と指さす帰蝶は真っ直ぐにしか見えぬ道の左の藪、そして奥に森。不思議そうな顔で藪そして奥に森を見つめるハナ、光安、マツ、さらにネネ。
「この道ってな東海道やで。うちが来たんは精々一刻前や。その間に道がなくなり挙句森になったなんてことない。」
この先に道があるとするなら、ネネが何処かの間者で妾達を迷わせて奈落に誘おうとしてる線は消えるでありんすな。
「緑。」
帰蝶より一回り大柄で小太り、笠を被り眼の寸前で前髪が切り揃えられている緑がのっしのしと悠然とやってきた。
本当の危機で頼るのはあたしなんですね、嬉しい、あたしのお姫様。ポーカーフェイスで全く心中は分からないが内心は上へ下への大喜びなのである。
帰蝶は緑を直傍に呼び寄せ、紫頭巾をぱっと剥ぎ取った。その紫頭巾を両手で丁寧に受け取り素早く畳み、懐に仕舞う。その緑、小さな口をホっと開け、丸顔、小ぶりな鼻、そして小さな目を眩しそうにした。緑の視線の先、曇天の中、太陽が地に堕ちたのか思うばかりの輝き。緑、つぶらな瞳を小さな手で擦ってよく見ればそれは荘厳で重厚な光、光源は帰蝶の髪、それは錫髪。錫髪帰蝶、ここに観音開き。
帰蝶の錫髪に釘付けとなった斎藤兵千、既に頭脳は停止し、言葉は奪われている。帯から小刀を取りだした帰蝶は、左耳元の錫髪数本を小刀で斬る。
驚いたのはネネ。
なんて荘厳で有難い髪なんや、神様って拝んでしまいそうになるわ。知らんで、千里眼に順風耳の京雀の誰も知らん。第一逢うてきた兵部はんが蛇が猛り狂う爆発頭って言うとったんやからな。初物に驚いて詩的に表すつもりが墓穴を掘ったって奴やったんか。どっちゃにしても天下の歴史開闢以来初公開や。
このネネの極自然な驚き、やはり公方の色髪好みは知らないみたいね。単なる餓鬼の使い?
「六姫様、まさか雨乞いの儀式を。天なのに雨乞い。雨を案じておいでじゃなかったのか。」
と光安、口あんぐり。
「蟹の脳みそって、やっぱその程度なのね。」
冷たい視線を光安に投げ、ヘと言う声とともに光安凍りつく。緑が袂から鞠を取り出してきた。緑がしっかり持ち、帰蝶が先程斬り落とした錫髪を鞠にしっかり巻き付けた。
新たな髪を鞠に巻き付け錫鞠力を強化したのだ。
「やっぱ私だけなのね。危うく抜け駆け蟻地獄で一人だけ都という鬼の口に引き込まれる所だったじゃない。引きこまれるなら皆一緒。運命共同体。千で引きこまれたら御札はずたずたよ。
皆、一つ上の次元に気付きなさい。すれ違いできない、鳥獣戯画の蛙と兎じゃないんだから。
帰蝶、帰蝶、綺麗な蝶には鞠がお似合い、“妖言は続かないわよ。皆に真を明かしなさい。”」
前説を唄い飛ばし、藪に向かって蹴り飛ばした。鞠は荘厳な錫色の軌道を残して繁みに飛び込んだ。繁みが錫色に一瞬輝いた。
「ありいこんな所に道が。」
光安、黒雲をまぶした顎が外れんばかりに口あんぐり。なんと幅四間の整地された街道が現れた。役目を終えたかのように鞠はバウンドをしながら、帰蝶の手元に戻って来た。器用にも逆スピンをかけたのだ。
「そや、この道や。これが東海道や。この道通って風の噂の斎藤家探しにきたんや。」
「こんな大きな道が見えなかったのネネ。道シカトして山科の宿連れてって又宿代せしめるつもりだった。」
と言う帰蝶、小首を傾げ痛快と言う眼でネネを見ている、口元は錫鞠でしっかり隠されている。緑が、帰蝶に背後から紫頭巾を付けてあげている。
「知らんでそんな話。」
被り気味に鋭くネネは否定した。
「姫様、妾は人の心を掴むのは苦手でありんすが、ネネ本人も妖しの都に騙されていたでありんす。」
抜け駆け蟻地獄は冗句。誠が見える錫髪だからこそ見えた。マツも言うし支度金目当てと言うセコイ線もなしか。惟敵が二派と言う線は残ったね。一人がネネ騙して二重に仕掛けた線もある。私が錫髪って事知らない。いや知ってるけど、輿から降りないと見た、実際昨日は一周廻ったわけだし。外の世界を極端に嫌がる箱入りならぬ輿入り娘の家なら多分帰国よ。でも私は“巣立ち”してきてるの、退路は絶ってきてるの。
姉達の可愛がりが届かない高見に上る。
敵は誰。
見事見事と兵達から拍手が沸き起こっていた。謎解きを一休みした時、ようやく帰蝶の脳漿に届いてきた。次に歓声が起こり、流石六姫様の声が飛び交った。マツも手を叩き感心している。
「見事でありんすな。」
「それとも見えない振りして。わざと私の錫髪と錫矢見たさに仕組んだとしたら怒るよ。しかも一日無駄に時間といくら御所持ちとはいえ大事な金子使ってさあ。」
「姫様、最初から、この道見えてたでありんすか。真が見える錫眼でありんすか。」
御館は干ばつの時によく私の鞠を使ったわ。皆が見上げる中、頭巾を取り、新しい髪を斬って巻いて、稲葉山城のお社から空に向かって蹴り上げるの。錫色の軌道を描いて鞠はまっすぐ上に飛んでいく。新しい髪を巻くとまっすぐ上に、どこまでも上に飛んでいくの。最高点まで行って鞠は雨天を伴って落ちてきた。つまり空気を変える“とりわけ”力がある。人の空気も変えられるかと思ってやってみたら、皆やっと東海道に気付いてくれたね。たまたま、この幅四間の大道が皆の盲点に入っていたのかしら。それも不可思議な話だけど、それも含めて、錫鞠が場の空気を払い潮目を変えてくれた。まさに私の破魔鞠。“妖言は続 かないわよ。皆に真を明かしなさい。”
でも管領や兵部との再会、鬼公方と逢う前にまず都よ。何か盛りあげる口上が要るわね。
「私は桃太郎じゃないけど、鬼公方退治と洒落こもうじゃない。」
皆無駄話を一斉にやめ帰蝶に注目した。後光が差している。自然と後光が差す位置に立っていること含めて、これが姫身分なのかしらと緑は思った。その上鬼退治、兵達の士気は否応なしに上がった。
「波多野、赤松、山名、今川。遺体があがってない、骨が発見されてないって事は未だ生きているんじゃない。生かして縄で縛りつけ蜜を吸ってるかもしれないよねええ。」
「蜜って意味分かっていってるでありんすか。(多分喩えで深い意味はありんせん。)」
とマツが合いの手を入れ兵や侍女達の笑いを誘う。
「真実を明らかにして姫達を助けるのが私の都での使命。その為にはるばる美濃からやってきたのよ私は。さあ、斎藤のツワモノ達よ、私に続けえええ。」
オオオオという歓声が空を覆った。長旅の疲れなど皆吹っ飛んでしまった。
流石あたしのお姫様、あたしには到底なれない身分ってこういう差なのねと緑はうっとりしていた。
帰蝶は鬨の声を終えると皆の歓声の中、輿に柔らかい肢体、丸みを帯び始めた腰から滑りこませた。それが合図となり皆定位置に着く。
担ぎ手が輿を支え、支え木が外された。案内役を買ってでたネネの横にハナが位置どり、後ろに騎馬兵光安が立ち、いよいよ出立。峠を越えてからは暫く下りが続く。
帰蝶の輿の横には緑、他五尺位の小柄な三人の侍女。そして馬上のマツ。帰蝶は窓からなんとなくマツを見ていた。
ポニーテールが左右に揺れるマツの右肩に真っ白な鳩が舞い降りた。
「馬上の女武者に白い鳩一羽、絵になるわね…って。」
伝書鳩である。深芳野が使っているのは知っている。姉達の可愛がりを文書で伝えようとする深芳野を何度止めたことか。絶対、御館と小見様には言わないで、私の問題は、私が何とかする。ひまわりのような笑顔で頷いた深芳野を忘れない。
鳩は、マツの耳元で囁いている。馬のヒズメや草ずりの音で、何を伝えているか帰蝶まで聞こえない。たまたまハナが居ない方の窓を開けていたこともあって、丁度事情を侍女で唯一知る、信の置ける緑だ。緑は帰蝶が直々にスカウトした侍女である。
「緑!」
緑は帰蝶には視線を向けず、伏し目で首を振るのみだった。その振りって、聞こえないってことなの…それとも。
鳩はマツの肩から飛び去り、その一瞬後、マツは馬から静かに降り立った。そして手綱を持ち、少し減速し、輿が追い付くのを待った。
「小見の方様、御懐妊でありんす。」
帰蝶だけに聞こえる声で言った筈である。しかし、後ろで光安達ら兵達がワアアアと盛り上がっている。白い鳩は、稲葉山城公認伝書鳩である。深芳野だけが使っているのではない。光安の元にも白い鳩がやってきて、小見の方懐妊を告げた。
「小見の方様御懐妊でございます。約十年の御休みを経ての御懐妊おめでとうございます。」
「私も嬉しく思う。」
千の兵の手前、極めて社交辞令的なやりとりになってしまう。
これが武家でありんすか。吉事か凶事かは、今の稲葉山、他の武家が示してるでありんす。必ずしも同腹が味方になるとは限りんせ。
暫くして、眼下に都の町並みが見えてきた所で行軍は再び停止した。
帰蝶は、扇子で思い切り窓枠を叩いた。
「いつまで止まっているのよ。日があるうちに上洛を終えたいのよ。」
ハナの即答が帰って来た。
「十字路で媼達が横切っておられるのです。暫しお待ちあれ。」
帰蝶は窓を開け、進行方向に視線を投げかけた。
丁度、参詣帰りの媼の一行六人と其々に付く付添の女人に出くわし、光安が道を譲ったのだ。媼故杖を付き、動きはのろい。視界には先手侍大将の光安の背中も見える、馬から下り、会釈をして敬意まで表している。ハナも笠を取り、他の侍女達にもとるよう促している。
「成程媼ね。六人だっけ。腰が醜い程曲がり、みすぼらしい白い髪、皺だらけの汚濁極まりない、あれ顔?いくら妖しの都だからって、妖しに気を使う事ないのよ。私達は将軍御世話役で上洛してるのよ。この日、どの来客より私達は賓客の筈じゃない。」
「思い上がりは慎みなさいませ。」
ハナが声を潜めやんわりとしかし有無を言わさず帰蝶をたしなめた。
「相手は妖しよ。人なら兎も角。」
「冗談は大概にして下さいませ、六姫様。」
帰蝶は籠内にある矢筒を取り、逆側の戸を開け、緑に渡した。察した緑は、籠下にある草履箱から草履を出し、地面に置いた。
気配を察した数メートル先の先頭にいる光安が背越に声をかけた。
「挨拶をなさいますか六姫様。」
「勿論、御丁寧に御上洛の御挨拶を御差し上げようと思ってね。」
袴姿の帰蝶が籠から降り立った。
緑は矢筒を持って立っている。緑の隣には下馬し口を取っているマツが居る。
「何か余興をなさるのでありんすか。」
と言うくらい殺気はない。
「姫様、止めりんせ。」
殺気の炎が帰蝶全身が沸き起こったをマツは感じ取ったのである。
「六姫様。」
ハナは帰蝶に駆け寄ろうにも、長い輿の棒が邪魔で直ぐには廻れない、それでも背後から廻ろうとする。光安は振り返った。緑は、六姫様命なので、帰蝶が取りやすいよう矢筒をポーカーフェイスに傾けている。
帰蝶は一度に三本矢を取った。嫗一人一人に付く侍女を慮った。妖しから精力を吸い取られて、行く末短し侍女達を助けなければならない。嫗は若い侍女を食いつぶし、又若い侍女をこき使い食いつくす。
この逆鱗は、ストッパーを外すに十分だった。三矢打ちは見た事はあってもやったことはない。だが、怒りでストッパーが外れた帰蝶には御家芸になっていた。
「六人の娘達を妖し嫗から解放す。」:
細い肩と腕、何処にそんな力が、帰蝶は僅か数秒の間に二度矢を速攻で放った。
何が…を刮目する光安の頭の右、馬を挟んで左を三本づつ計六本の矢が飛んでいった。光安が嫗を振りむいたのと、娘が異変に気付いて左、斎藤軍側を向いたのが同時、その一瞬後、六本の矢は六人の嫗に見事命中した。
「相手は誰だろが関係なし、大名娘傲慢極まれりの無礼打ちとはいえ、一人時間差三本打ち全て命中とは、見事でありんす。」
と小さく拍手する程だった。ネネは嘘やろっと、この急展開に呆気に取られるだけだった。
六人の嫗は、矢を横腹や肩、首に受け、その場に倒れ込んだ。介添えの娘達は顔を覆い頬を挟んだりしてうろたえた。
ハナが光安の元に走った。
「公家の嫗様ならなんとなさいます。いや公家でなくても、これから御世話にな都人、光安殿、どうして体を張って御止にならなかったのですか。」
西風に乗って帰蝶やマツやネネ、緑達の耳にも通らないハナの声が届いた。
「流石御館様の御娘としか言いようのない不意打ち、見事としか言いようがござらぬ。後の責めはこの先手侍大将が負いまする。」
と皆に聞かすように豪語した後、
「止めようと思えば、ハナの方が近かったのでは。」
と小声でささやく。
「わたくしと逆方向から出られたので、それとも、前から廻ってわたくしが体を張って止めよと。」
「それより…。」
光安が眼の前の嫗と介添え達の姿に釘付けとなった。光安だけではない。マツ、ネネ、緑ら侍女、千の兵達も伸ばした首がそのままになった。
六人の嫗と娘達の姿がフウウと消えてしまった。かき消えた。まるで幻だったかの如く。
「妖しでありんしたか。見事、さすが“とりわけ”姫様見抜かれましたか。」
安堵したマツに呼応して、同じく安堵した光安が、
「流石、山科輪廻に続いて、挨拶替りの妖しを見抜かれるとは御見事でござる。(一瞬乱心かと思った。)」
と帰蝶に向き直り拍手した。ハナも戻ってきた。
「六姫様の“とりわけ”力、錫通力には何時も驚かされます。(一瞬狂乱あそばされたのかと思ってしまったわたくしを恥じます。)」
「金城湯地を護っている割にはなんて柔い妖しなの。拍子抜けよ。」
と扇で顔を仰ぎ、高笑いした後、そそくさと輿に収まった。高笑いの時は敢えて口を覆わない。