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放校(退学)
喧嘩に明け暮れていた治三郎は、学校を転々とする。旧制宮崎中学から、東京に出て来て成城中学を卒業するが、都会の暮らしが肌に合わなかったのか、鹿児島第七高等学校へと進学する事になる。
しかしながら、元来の性格と生活は変えようとしても、性格は簡単には変えられなかった。喧嘩に始まり喧嘩に終わる。そんな生活を治三郎は繰り返していた。白黒つけたがる性格が災いしたのかは、分からないけれども、喧嘩以外に個人を表現するものが無かったのは、治三郎にとって辛いものであった。
あれだけきちんと取り組んでいた柔道も、遂には辞めてしまうのであった。喧嘩も柔道も紙一重のものなのかもしれないが、方や殴り合いドつきあいに対して、柔道はスポーツである。何をやっても許される訳では無い。当然世間の印象もえらく違う。
結局、治三郎は鹿児島第七高等学校を放校(退学)になってしまう。無論この時代には、中学卒業者は当たり前の様にいたから、別に危機感など欠片も持っていなかった。