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ダグラス・マッカーサー元帥
米国陸軍で、日本軍を最も苦しめたと言う事で名前を上げるならば、コーンパイプで有名なダグラス・マッカーサー元帥であろう。
昭和19年10月20日、米軍がレイテ島に上陸。マッカーサー元帥にしてみれば、3年前に追われる様に去った、フィリピンへの帰還であった。これに対して日本軍は、大本営で決められた「擁一号作戦」に基づいて、擁一号作戦を発した。フィリピン防衛の司令官である山下康文は、レイテ沖で、米軍を迎え撃つのは、一個師団で足りると思っていたのだが、瞬く間に米軍に瞬殺されてしまう。
「台湾沖航空戦」での誤報が山下大将の判断を誤らせ、マッカーサー元帥の上陸部隊がリンガエン湾から進行して、日本軍の守備隊は背後を衝かれた形となった。その結果、守備隊の多くが、山中に追い込まれてしまう。それでも日本軍は必死に抵抗を続けて、戦線はマニラ市街にまで持ち込まれた。市街戦はマニラ市民を巻き込み約20日間続けられ、米軍により制圧された。




