伊藤整一海軍中将
大和と心中した男として有名な伊藤整一中将は、昭和16年9月~昭和19年12月まて、軍令部次長。山本五十六のエピゴーネンとして、山本五十六とは海軍大学校時代から関わりがある。
霞ヶ浦航空隊副隊長、米国駐在武官、海軍人事局長等を歴任して、レイテ沖海戦の後、第2艦隊司令長官になる。愛妻家としても有名で、当初は「そんな馬鹿な事は出来るか!」と、沖縄水上特攻には反対だったが、特攻強行派の神重徳等が出てきて作戦を強行するよう迫る。
結局作戦中止の命令を途中で出した為、死しても二階級特進とはならず、一階級昇進であった。大和出撃時に伊藤整一中将が残した家族にあてた手紙が、日本人的で世間に評価される。軍人は死ぬ事で責任をとれる。
若い人間を助けて、自分だけ死んだ事により、チャラにする。その様な第一線で死に場所を与えると言う海軍中央や、参謀での伝統を体現した人であった。
「有益な人材を殺す事は無い。」
と、総員退避を命じると言うエピソードは有名だ。名将と愚将の差は、紙一重であると言えるだろう。




