豊田副武海軍大将
太平洋戦争末期、治三郎の前に連合艦隊司令長官の任務についていたのが、豊田副武海軍大将である。
彼は、戦史においても歴史上でも、そこまでのキーパーソンには成り得なかった。しかしながら、唯一存在感を発揮したのが、戦艦大和を使用した沖縄への水上特攻作戦(沖縄水上特攻部隊第2艦隊)であっただろう。
昭和20年4月7日午後2時過ぎ、鹿児島県坊ノ岬沖で米軍の猛攻撃を受けて、大和以下6隻が沈没。午後4時39分には、伊藤整一大和艦長が、突入作戦中止の命令を出している。この沖縄への水上特攻作戦においては、第2艦隊の死亡者は伊藤整一大和艦長を含む約3700人に上った。
この戦死者数は航空機による特攻隊の死亡者に匹敵する。日本海軍の伝統と栄光の為に、無謀な殴り込みの特攻作戦は、沖縄に辿り着く事無く完全に失敗に終わった。
豊田自身、この作戦が失敗する事など、ハナから分かっていた。それでも苦心の末に作戦決行に至った。それは日本海軍のプライドを守る為の仕方無い犠牲と言わざるを得なかった。




