3.二度目の夕陽
「りゅーさまぁああああああ!」
ワンピースの襟首辺りを持たれて、宙に浮いた両手両足を、じたばたする。
――四歳児の体重で首が絞まらずに済んでるけど、もう少し大きくなったら、この持ち方やめてね、ニーノ。
始めは体力測定だった。鉄棒にぶら下がったり、垂直に飛び上がったり、計器を力一杯握ったり、不思議な器具に触ったり……。鍛錬室からはいつでも竜さまが見えて、呼びかけるとこちらを向いてくれるから、毎回ぽわぽわした。
そこまでは大変よかった。
休憩を挟んで、邸を出た。そして、ニーノは歩き、私は森を走る。ほどなく、ここは熱帯雨林だと把握。珍しい植物や動物に目を奪われているうちは、まだ良かった。岩登りや木登りが始まり、膝まで沈む泥道を過ぎ、からまった蔓をたどって川を越え――。
幼児の体力と好奇心は無限かと思っていたけど、さすがにきつい。
しかし、餌か従者かが、日々の鍛錬にかかっている。
「まだ元気か?」
葉っぱに包んだおにぎりを渡されて、頬張りながら、こくこくうなずいた。
それは、たぶん、純粋に好意だったと思う。もしかしたら、本人の希望かも。
ニーノは私を抱えて、跳んだ。鳥を脅かし、枝を突き抜け、ふわりと停止する。
――浮かんでいた。ドローンで撮った映像みたい。木々の屋根は、十メートルくらい下に見えた。森の先に、邸と、山と、くつろぐ竜さまが見えた。
たぶん邸まで三キロメートルくらいだろう。全然、遠くない。
だが、四歳児は、けっこうがんばっていたのだ。
「りゅーさばぁああぁぁ!」
ニーノに抱えられたまま、決壊した。
「……食べないのか」
落ち着いた声で問われて、おにぎりを口に運ぶ。
おにぎりを食べながら泣き、走りながら泣き、岩を降りながら泣いた。
「はやぐがえりたぁい!!」
――その場で止まらなかっただけ、えらいと思う。
しゃくりあげながら、日が傾いた森の中を歩いた。
邸が見えたところで――ニーノが根負けした。
「申し訳ありません。汗と涙と鼻水まみれの騒音ですが、一刻も早く竜さまのところに参りたいと申しましたので……、やむなく」
床に放されて、竜さまにダッシュする。
たくましい鼻鏡にしがみついた。
「りゅーさまぁ!」
我ながら、よく声がかれないな。
一方で、鼻輪をつけた牛が、ぱっと脳裏に浮かぶ。
――いけない。スケールはいいけれど、竜さまは断固、牛ではない。
余談だが、牛は牛でいい。牛っぽい竜もいい。山海経にいそう。
思う間にも、鍛錬で疲れた手や腕は、すでに握力がなかった。
ぽて、と落ちる。
途端に、ご、ごう、と大気が震え、ぽーんと弾かれた。
――竜さま、笑ったー。
びっくりから一転、にこにこしてしまう。
夕焼けの空と暗い森が、代わる代わる視界に入る。
くるくる回って飛んでるー!
その次の瞬間には、竜さまの目の前に戻っていた。
ニーノに抱っこされている。ぴよぴよする頭に、竜さまの声が響いた。
――疲れたろう。早くお休み。
ぴよぴよしている場合ではない。
「りゅ、さまと、ゆうひみます!」
「今日は諦めなさい。すでに陽は山裾に入った」
ニーノの言葉にぶんぶん首を振って、ぴよぴよが激しくなる。
ふわっと髪が浮き上がって、瞬く。
風が触れた。
少しだけ湿った風。竜さまの鼻から、届いたのだろうか。
――ニーノ。
ニーノはぴくっと体を跳ねさせて、しばらく黙った。
「……承知致しました」
丁寧に、私は竜さまの頭に載せられた。
――角を支えにせよ。
ぽかんとする頭に、竜さまの声が響く。
ぐっと下に押しつけられる。一気に木々の上、飛ぶ鳥の上に景色が移る。
山裾に沈んだ陽が、かっと目を射た。
「りゅーさま! ゆうひ!」
指さして、竜さまの目を上からのぞく。
金の目に、夕陽の朱が炎のように揺れている。
――うむ。これで休めるな?
嬉しくて、幸せで、竜さまにへばりつく。
「りゅーさま、好きー!」
たとえ明日餌になるとしても、この瞬間のことは、絶対に忘れない。
――おや、ニーノ。
竜さまの言葉で左に顔を傾けると、ニーノが浮いていた。
「……エーヴェは落ちかねませんので」
竜さまが笑ったのが先か、握力零の手がゆるんだのが先か――。
私は、頭から滑り落ちた。
すぐさま、ニーノに抱きとめられる。すうっと金の瞳がひきしぼられた。
――先見の明よの、ニーノ。……ふむ。では、こうしよう。
きらきらと夕陽がまたたく。
竜さまの頭の上にニーノが正座して、その膝の上に私は抱えられている。
むやみに嬉しい。きっと“余は満足じゃ”の顔になっている。
沈む夕陽に手を振った。地平線に消える陽は、一瞬、緑色に輝く。
思い返せば、充実して夕陽を眺め、明日が待ち遠しいなんて、本当に久しぶりの感覚で――。
急にあくびが出た。ぽんと頭に手が置かれたので、上を見る。
「夕飯には起こすから、寝なさい」
言われるまでもなく、ひっつきそうな目蓋の合間、ほつりと光る星が見えた。
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