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バイバイ、またいつか

作者: 穹向 水透

61作目です。シリーズの3作品目に当たります。



 視界がぼやけている。きっと、コンタクトレンズがずれているのだ。でも、それでいい。ぼやけたままでいい。世界を直視したくないから。鮮やかな色なんて嫌いだから。

 世界なんて終わってしまえばいいのに。

 葉夏一華(はな いちか)がそう心の中で呟いた時、チャイムが鳴って四時間目が終わった。彼女はノートにぐちゃぐちゃと書いた言語のようだけど意味を為さない文字群を塗り潰す。今の時間は数学だったようだけれど、話は何も聞いていなかった。考えることに夢中だったからだ。

 考えることは楽しい。何かを考えていれば大抵は時間が過ぎている。体調が悪くたってどうにかなる。思索の海を泳いで、辿り着ける陸でさえも無視して泳いで、何処にも行けない自分が好きであり、嫌いだった。

 一華は眼を擦って、視界を少し晴らした。まだ違和感はあるけれど差し支えなかった。ノートの頁を捲って、一応、板書を書き写すことにする。灯袋蛍(ひぶくろ ほたる)が席を立ってこちらに来るのが見えたからだ。

「購買行くよ」

 蛍は言った。いつも通りの凛とした彼女だ。灯袋蛍という人間の軸がぶれるのを一華は見たことがなかった。それが単純に羨ましかった。一華の場合、デフォルトで軸が歪んでいるからだ。

 表に出しているのは裏で、裏こそ表の一華だ。

「ちょっと待ってて。あと少しだから」なんて嘘を吐いて、視界の右端に映った文字を書き込んでノートを閉じた。

 廊下に出ると湿っぽくて温い大気が一華を包んだ。途端に心拍が大きく聞こえて、体調が下降しているのがわかった。環境の変化に頗る弱いことは自覚していた。それでも蛍に心配をかけたくはなかったので、彼女の言葉に適当に返事をしながら購買に向かった。

 購買で一華はクリームパンをひとつ買った。

「今日は体調がいいんだ?」

 蛍が訊く。別におかしくはないし、寧ろ妥当だ。大抵、一華は昼食をジュースだけで済ませるからだ。

「うん。いつもよりはね」

 一華は微笑みを作って答える。本当は何も食べたくなかった。でも、蛍に心配をさせるのは嫌だった。折角の友達に心配をかけることがどれだけ罪深いことだろう。

 心配をかけさせるくらいなら死んでしまいたい。それなら、どうして友達なんて作ったんだ。一華にはわからなかった。

 彼女は思索を繰り返しながら教室に戻った。そして、窓際の言ノ葉舞音(ことのは まね)の席に向かった。既に麻宵(まよい)あせびもいた。蛍が適当に椅子をふたつ用意したので、それに一華は座った。

 座った瞬間に身体から力が抜けるのがわかった。本当は体調が悪い。倒れてしまいくらいに悪い。机に置いたクリームパンが吐き気を誘う。

 ただ、顔に出してはいけない。心配してしまう。だから、できる限り涼しい顔をして、黙っていた。みんなの話は頭に入って来ない。

「一華、今日は体調はどう?」

 不意に舞音が訊ねてきた。きっと、ずっと黙っていたから心配して訊いてくれたのだろう。一華の心にざわざわと悪いものが蠢いた。

「至って元気だよ」

 なるべく普段通りを装って返事した。

 本当は視界がぼやけにぼやけてぐるぐると回っている。プラネタリウムみたいだ。ちかちかと光も明滅している。

 自分はみんなと一緒にいたいのに。

 それを自分自身が阻害する。

 みんなの話を聞きたいのに、どの声もノイズが喚くだけのようで、言葉として耳に入って来なかった。唯一、舞音の声で「……は泳ぐだろうけど、一華は?」と訊ねられたのだけ聞き取れた。

 一華は鈍足の頭で何とか考えて、「私は見学かな」という答えを出した。その後も普通に会話が続いていたので、きっと正解の返答だったのだろう。一華は自分を細やかに褒めた。

 相変わらず、声にならないノイズばかりが響いていたけれど、みんなが笑っていたので、一華も笑っておいた。

 やがて、昼休みも終わりに近付き、各々が自分の席に戻った。一華はできる限り背を正して、真っ直ぐに歩くことに注意しながら席に戻った。吐き気はクーラーの所為だろう。頭痛もそうだ。次の時間は見学なんかしているより、保健室で横になっていたい。でも、そんなことをしたら心配されてしまう。心配はされたくない。心配されるくらいなら消えてしまいたい。一華はぼうっと前を眺めつつ思った。

 不意にノイズが走り、スピーカーから音が聞こえ出した。ちょうど、頭痛の波とマッチしてしまったようで、一華はただ鈍い痛みと吐き気に耐えるしかなかった。

 段々とクラスでノイズが大きくなって、何かがあったのだと知った。一華はただ呆然と前を向いているだけだったが、教室を駆け巡った報せがよくないものであることは何となくわかった。

 そして、それについては心当たりがあった。

 浮草のように根を張っていない心当たりだ。

 きっと、世界が終わる。

 そういうことだろう。

 知っていた。

 そんな夢を見たから。

 バチカンがファティマの第三の予言を開示した。

 ホワイトハウスが形振り構わず発狂しながら伝えた。

 電子の海は終末の色に染まった。

 それは大きな大きな隕石の到来。

 知っていた。

 そんな夢を見たから。

 一華はまた吐き気を覚えた。明け方に見た下らない夢が事実かもしれないことが怖かった。なるべく平静を装って、呼吸を整えたが、心拍は恥知らずの太鼓のように跳ねて五月蝿い。

 不意に誰かが頭を小突いた。

 ゆっくりと振り返ると、舞音がいた。隳突していた吐き気は何もなかったかのように消え失せた。

「舞音ちゃん……」

「帰ろう」

 彼女は優しく言った。

 一華は悟った。

 明け方の夢が虚しいことに間違っていなかったと。このまま大きな大きな隕石とぶつかって世界は終わってしまうと。

「世界……終わるの?」

 一華は知っていたけれど訊ねた。

「そうなんだって。あんまりにも急だよね」

 彼女は何もかもを受け入れたように微笑んだ。

 一華にはその表情が衝撃的だった。

「終わるってことは死ぬってことだよね?」

「そうだね。でも、ひとりじゃないからあんまり不安じゃないかな。どうせ誰も生き残らないんだろうから……」

 舞音は言った。飄々としていた。命に執着が感じられなかった。

 一華の心を刺のある塊が転げ回った。どんどんと苦しくなっていく。心配させたくない。本当は今すぐ臓物から何もかも吐き出したい気分だ。みんなが死ぬ前に死んでしまいたい。

 彼女の心のとりわけ繊細な箇所を刺が突いた。

 その瞬間、何もかもがどうでもよくなった気がした。一華は帰宅準備に取り掛かった。どうせ死ぬなら何でもいいかもしれない。

 四人が外に出たところで、唐突に舞音が「今日、最後の思い出作りでもしない?」とみんなに言った。一華は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。蛍とあせびも同じ反応をしていた。

「いいね、そうしようか。でも、何をする? カラオケにでも行く? 買い物? 誰かの家に集まる?」とあせび。

「いやぁ、最後だからさ、いつもはできないことをしたいなぁって」

「いつもはできないこと?」

「そう。星を見ようよ。学校の屋上から。そうしたら、四人で揃って死んじゃおうよ。隕石が落ちてくる前に」

 舞音はそう言った。

 狡いなぁ、と一華は思った。

 もう死ぬまで仄暗い一本道だと思っていたのに、そんな目映い灯りの灯った道が選べるだなんて思わなかったからだ。

「賛成」とあせびが言ったので、一華も頷いた。

 一華は三人と約束をしてから別れて、帰路に着いた。バスに乗り込み、いつものように一番奥の座席に腰掛けた。こんな世界最後の数時間前でさえもバスが動いていることを不思議に思った。

 約束。

 友達とした約束なんて初めてかもしれなかった。

「あぁあ、終わっちゃうんだなぁ」

 明け方に見た夢のように。劇的に来訪するただただ白い光球に包まれて、地球の意識は暗転する。永遠を思わせるほどの時間を経て、どうせまた蘇るのだろう。改めて、人間の小ささを思う。

 後悔について考える。

 一華は胸に手を当てた。

 穏やかな心拍。血がゆっくりと押し出されている感覚。自分が生きていると思うと吐き気がする。けれど、今だけは大丈夫。

 生きていることが普通ではなくなってしまうとわかっているから。

「後悔かぁ……」

 彼女は呟いた。くすんだ窓ガラスに傾いて、流れてゆく景色を横眼に、一筋の涙が流れ出したのを理解し、眼を閉じた。

「約束、しちゃったことかな……」

 やっぱり、今すぐ死にたい。約束なんてしなければよかった。どうせ、行けやしないのに。行けなかったら、きっと心配を掛けてしまう。

「馬鹿だなぁ。馬鹿だなぁ。馬鹿だなぁ。はぁ」

 一華の自分を罵る声はバスのアナウンスに重なって掻き消された。無機質に思える運転手の声が次のバス停を告げた。

 ここで降りなければ、みんなのところに行けるのに。

 一華はそう思ったけれど、気付けばバスを降りていた。

 もしも奇跡がひとつ起こるなら、世界が救われることよりも起きて欲しいことがある。そんなことを考えてしまうくらいに今は終末だ。



 バス停で足が動かなくなる。家に帰りたくなかった。何でバスを降りてしまったのだろうと後悔する。でも、知っている。後悔は役に立たない。そして、後悔は後ろ向きには進まない。確実に前へ、悪い結果を齎すべく進んでいく。こちらの意思など知らずに、いや、知っているのかもしれないが、進んでいく。

 一華は溜め息を吐いた。

 空を見上げた。

 青空は好きじゃない。

 あまりに広過ぎる。高過ぎる。深過ぎる。曇っていたらいいのに。ずっと、灰色の雲が低く押し潰すように垂れ籠めていればいい。

 自分は透過性が嫌いなのだろう。

 一華は思った。

 人だってそうだ。

 きっと、底抜けに明るい人とか、心に一点の曇りもない人なんてのは自分とは馬が合わないだろう。

 三人はどうなのか。

 舞音もあせびも蛍も、一見すると裏側がなくて、暗い部分なんて持っていないように思える。でも、自分が付き合えるのだから、きっと、そんなに真っ直ぐじゃないのかもしれない。

 或いは……何だろうか。

 一華は眼を閉じる。

 瞼の裏側で光がパチリと弾ける。

 手足を動かす。

 右手、左足。

 左手、右足。

 自然と交差する。

 生き物の構造の美しさ。

 死ぬために生まれることの美しさ。

 ならば、自分も美しいのか。

 美しさとは何だろうか。

 世界最後にはわかるだろうか。

 手足を動かすと歩ける。不思議だ。実に不思議だ。いつもこんなことばかり考えている。こんな些細な考え事が楽しい。考えなくていいことを考えるのはとても楽しい。

 足がゆっくりと進む。

 逃避の意識。

「アネモネ様?」

 足が止まる。止めてはいけない。止めなければ、運命は変わっていたかもしれない。一秒毎に運命は変動する。人生はギャンブルみたいなものだ。その人生の中で、一番最初の大切なギャンブルに負けたから、私はこんな人生を送っている。

「アネモネ様、どちらへ?」

 一華は振り返る。スーツを着た男がふたり。一華は唇を噛んだ。

「お迎えに参りました」

「……ありがとう」

「今日は大切な日ですから」

「……そうね」

「アネモネ様がいないと世界は救えないんですから」

 男は微笑んだ。透過性の高い笑顔である。一華を疑う心を持たない笑顔。本当に大嫌いだ。

 一華は男たちの後を歩く。

 逃げられない。

 自分の運命から。

 神様なんていない。

 だから、運命なんて変わらない。

 神様は人間の形をしている。

 だから、私が神様にされた。

 一華の唇から血が滲んだ。



 一華は門を潜った。この門が嫌いだ。だって、いつもみんなが頭を下げるから。みんなに心配されているみたいだから。

 今日もそうだ。

 一列に並んだ人々が練習したように頭を下げた。

 嫌いだ。本当に嫌いだ。

 一華は無理矢理に表情を無にして、人と人の間を歩いていく。

「お帰りなさいませ」

 扉の前に立っていたスーツの男が言った。長身且つ肩幅の広い男でよく目立つ。元レスラーだと聞いたことがある。名前は知らない。

 一華は扉に入る。結んでいた髪を解いた。

 ホールは仄かな灯りがあるだけで薄暗い。敷かれた赤いカーペットが悪趣味だと思う。ホールの奥の荘厳な扉が開かれて、そこを通る。扉にはアネモネの花を象った彫刻が施されている。

 一華が部屋に入ると、扉が閉ざされた。スーツの男は部屋には入らない。何故ならここはサンクチュアリだからだ。

「お帰り、アネモネちゃん」

「その名前で呼ばないで下さい」

 一華は攻撃的な口調で言う。

「……その名前は私が好き好んで呼ばれているわけではない」

「うふふ。そうね、一華」

「お母さん……」

「見たよね、ニュース。今日で世界は滅ぶんだってね。隕石だって、隕石。信じられないわよね」

 母親は言った。彼女は派手な化粧をしている。

「ここまで生きてきた意味って何なんだろうねぇ。ここまで教団を育ててきた意味ってさ。なかったよね」

「……人はいつか死ぬ。それが偶々今日だっただけ」

「うふふ。あんたは、いつもそうよね。冷めてんのよね。消極的なのよね。私、そういう子に育てたつもりはないんだけど」

「お母さんが望む、偶像としての私にはそういう機能(感情)っていうのは邪魔だったでしょう? 何かを望むことだって邪魔だった筈。神様は無垢じゃないといけない。そうなんでしょう?」

「今日は随分と食って掛かるのね」

「それはそう」

「運命を知っているから?」

「死ぬという運命をね」

「そう。あなたはみんなより一足早く」

「神様として」

「そう」

 一華は唇を噛んだ。

「私が神様として死ぬことに何の意味があるの? 世界は滅ぶのに、何をしたって……」

「滅ばないわ」

 母親は一華を遮って言った。強い口調で、自信に満ちていた。

「滅ばないわよ。隕石が当たる確率なんてゴミよゴミ。私は科学なんて信じないの。あんなのって人が言ってるだけ……」

「神様だってそうなのに」

「黙りなさい」

「黙りません」

「……本当に嫌な子。いいこと? 世界は滅ばない。明日になってもケロっとした顔で晴れてるんだから。でも、それだけだとつまらない。だから、あなたが犠牲になるの、一華」

「……私を人柱にして、それで世界が救われたと流布するわけね。それで教団を更に発展させたいと……でも、それだと偶像はいなくなる。私の死体でも吊るしておくの?」

「うふふ。偶像なんて要らないわ。イスラムだって偶像がなくても発展したじゃない。神様に必要なのは姿形じゃない。その評判よ。評判の悪い、或いはない神様は廃れてしまう……当然よね」

 母親は微笑んだ。

「あなたには記憶の中で生きてもらうの」

「それは死んでいるって言うの」

「いいのよ。そうなった時、あなたは死んでいるんだから」

 一華はまた唇を噛んだ。金属の味が口に広がった。

「唇を噛まないで。傷がつく」

 母親は冷たく言った。

「どうしたの? 本当に、あなた、今日は馬鹿に噛み付くわね。何? 何かしたいの? 何処か行きたいの? あなたがここまで反抗するなんて、幼少期の駄々っ子以来かしら? いや、そんな時期もなかったわね」

 彼女は嘲笑うように言った。

 瞳を見ればわかる。

 この(ひと)は自分を微塵も愛していない。ただの道具だと思っている。

 そんなことは知っている。

 でも、辛い。

 世界最後の日だからだろうか。

 彼女もまた透過性が高い。

「……部屋にいます」

「ああ、そう。その時が来たら呼びに行くわ」

 一華は部屋を出る。外で待機していたスーツの男がふたり、後ろを着いてくる。一華は自分の部屋に向かう。一華の部屋は離れにある。そこに向かう廊下から先に護衛という名の監視が来ることはない。

「ねぇ……」

 部屋に入る前に一華は振り返る。

「あなたたちは、何かしたいこととかないの?」

「えっと、何かしたいこと、ですか?」

 護衛のひとりが訊き返した。

「そう。世界最後でしょう?」

「ああ、心配要りませんよ。世界は終わりませんから。アネモネ様がいらっしゃいますからね」

「……あなたたちはビジネスに荷担しているだけだと思ったんだけど。別に気を遣うことないのに」

「気を遣う……? 何故です?」

「いや、いいわ。気にしないで」

 部屋に入り、扉の鍵を閉める。

「可哀想な人たち……」

 一華は鞄を机に置き、ベッドに横になる。途端に気分が悪くなる。気が張っていたのだ。心配を掛けたくない。弱いところを見せたくない。

 自分は矛盾している。

 偶像としての自分が嫌いだ。

 でも、偶像としての自分を全うしようとしている。

 吐きそうだ。

 吐いてもいいだろうか。

 どうせ、今日という日が終わる時、自分はいない。

 枕に顔を埋めた。呼吸が止まればいいのに思う。

 約束のことを思い出す。

 忘れていたわけではない。

 でも、忘れたかった。

 憶えていたら辛くなる。

 思い出したら辛くなる。

 自分は矛盾している。

 矛盾を掻き集めるとひとつの人生になるらしい。

 本当にそうかもしれない。

 だって、実際に自分の人生は矛盾だらけだった。

 愛されたいのに心配を掛けたくない。

 ひとりでありたいのに人と繋がりたい。

 死にたいのに生きていたい。

 みんなと星だって見たい。

 でも、今はここにいる。

 自分の役目を果たさんとしている。

 一華は身体を起こした。眼が熱い。喉の奥で渦巻くものがある。心音が嫌に大きい。視界が濁っている。

 ここから出たい。

 みんなのところへ行きたい。

 涙が落ちる。シーツに染みができた。

 眼を擦る。

 眼元が赤いと心配させてしまうだろうか。

 でも、化粧をするだろうから心配ないのか。

 扉が叩かれる。

「一華、出て来なさい。そろそろ準備するのよ」

 一華はゆっくりと歩き出して鍵を開ける。

「時間よ。あなたの人生最大の晴れ舞台ね。ちゃんと綺麗にお化粧して、綺麗な衣装に着替えるのよ。あら、泣いてたのかしら?」

 母親は一華の顔を見て笑った。

「悪い?」

「うふふ。悪くないわよ。ただ……あなたでも泣くのね」

「世界は終わるんだから。感傷にだって浸るのよ」

「世界は終わらないわよ」

 一華は部屋を出て、母親の後ろを歩いた。

 渡り廊下から見た空は少し赤らんでいた。きっと、もうみんなは学校の屋上にいるのだろう。そして、自分のことを待っている……のかもしれない。待っていてくれなくていい。心配なんかしなくていい。でも、約束をしてしまった。

 ホールを通過して、別の部屋に入り、その隅にある螺旋階段を上る。一華は螺旋階段が嫌いだ。理由はわからない。不思議と好きになれなかった。生きているとそういうものがいくつかあるものだ。

 螺旋階段にはアネモネを象った彫刻が散見された。これも含めて嫌いなのだ。アネモネなんて花は大嫌いだ。

 二階の冷たい廊下を通る。二階に一般の信徒は来ない。いるのは新興宗教というビジネスに従事する人々だけだ。ある意味で一階より心地が好い。何故なら、ここにいる人々は、葉夏一華が担ぎ上げられただけの無能な人間だと知っているからだ。

 神でも何でもない。

 普通の人にすらなれないような出来損ない。

「化粧をしてやってちょうだい。とびきり綺麗にね」

「了解しました。アネモネ様、こちらへどうぞ」

 一華は言われるがままに椅子に腰掛けた。

「今日はいい日でございますね」

「そうだね」

「言われた通り、とびきりのお化粧を……」

「ねぇ」

「何でございましょう」

「あなたは、何かしたいこととかないの?」

 そう訊ねた一華を母親が睨んだ。

「したいこと、ですか……そうですね、アネモネ様の晴れ舞台を見ることでしょうかね。きっと、さぞかし美しいでしょうから」

「……あぁ、そう」

 一華は溜め息を吐いた。

「では、まずはお顔から……髪を……」

 声が遠くなる。一華の意識は現実から剥離していく。

 これは逃避か。

 そうだ、逃避だ。現実に居場所はない。前にも行けないし、後ろにも行けない。剰え、ここに立ち止まることさえ許されない。じゃあ、夢に転がり込もうか。でも、意味がない。今更、幸せな夢なんて見れそうもない。だって、世界が滅ぶことは知っているし、星だってみんなと一緒に見れそうにない。自分はここで死ぬ。

 葉夏一華としてではなく、アネモネ様という架空の偶像として。概念として消える。所詮、名前の違いで、名前なんか概念だと言われるかもしれない。でも、それは違う。

 呼び名が違えば、人々の認識も違う。

 新興宗教の神格であるアネモネ様と、ごく普通の少し虚弱な女子高生である葉夏一華の違い。絶望的な溝があるではないだろうか。

 舞音、あせび、蛍。

 大好きな三人の顔が浮かぶ。

 こんな自分に優しくしてくれた。

 もう諦めているんだ。

 諦めているんだ。

「アネモネ様、終わりましたよ」

 声が届いた。

 眼の前の鏡を見ると、真っ黒な、ゴシック・アンド・ロリータというジャンルのドレスを着た自分がいた。人形のような、息が詰まるような、そんなひらひらした服装。

 真っ黒で、アネモネの花を配ったカチューシャ。

 底の厚い、つるつるした黒い靴。

 動かすのに不向きな黒い手袋。

「可愛いわよ、アネモネ様」

「……あぁ、そう」

「あら、不満? あなた、こういう格好は好きじゃないのかしら? 昔はたくさんしてたのに。お姫様になりたいって言ってたじゃない」

「偶像になりたいとは言ってない」

「残念だけど、お姫様だと儲からないのよ。麗しいお姫様はあくまで憧れの対象。憧れるだけ。でも、神様は違うわよね。崇める対象なのよ。実際、神様は儲かったでしょう?」

「嬉しいのはあなただけ」

「そうね。うふふ。でも、私が良ければいいの。子供って道具なんだから。親を幸せにさせるのが用途でしょう?」

 彼女は冷たい笑みで言った。

「ほら、行くわよ。もうみんな準備は終わってるの」

 一華は部屋を出て、螺旋階段を下った。外に繋がる扉の向こうにスーツの男が四人いた。一華が外に出ると、男たちが彼女を囲うようにして歩き出し、母親は斜め後方で神に仕える役目があるように、淑やかな振りをして歩いていた。

 会場は敷地内にある別の建物だった。一華と男たち、そして、母親が扉に入ると、歓声があちらこちらから上がった。巨大なホールには何百人もの信者がいて、前方のステージには意匠の方向性がわからない松明がいくつも並んでいた。それに囲まれるように寝台がひとつあった。祭壇と表現した方が明瞭だろうか。

「アネモネ様~!」

 あちこちで湧くように聞こえる呼び声。

 吐き気がする。

 一華は黙ったままステージに立っていた。すると、母親が一華の前にやって来て、「今からアネモネ様は仮の姿を脱ぎ捨てて、真の姿にお戻りになる。我々はその偉業の助けをしなければならない。そして、アネモネ様が真の姿にお戻りになった暁には、世界は救われるのだ」と語った。

 また会場が耳を聾するような歓声を上げる。

「さぁ、アネモネ様、寝台にどうぞ」

 一華は言われるがままに寝台に横になった。

「子羊たちよ、ただ今より儀式を執り行う。この神の僕たる私が行う。アネモネ様のこの世での身体に別れを告げる……それには、この神聖な銀のナイフを使って、心の臓を抉り出すのです」

 心臓を抉り出す? 冗談ではない。

「さぁ、見てい給え! 奇跡を起こすトリガーを!」

 母親がナイフを態とらしく振り翳した。その瞬間に一華は身体を起こして手を伸ばし、母親の手首を掴んだ。

「一華!」

 そして、一華はナイフを奪い取り、母親の腹部に刺した。どうせ世界は終わる。これくらい些細なことだ。

「一華……この期に及んで、裏切るっていうの?」

「もう今しかないでしょう?」

 一華は松明を蹴り倒した。床に敷かれたカーペットに火が移って、信者たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「台無しよ」

「台無しね」

「死ぬじゃない」

「死ぬね。みんな死ぬの」

「親不孝者」

「そうね」

 一華の身体に痛みが走った。

 母親がナイフで一華の胸部を貫いたのだ。

「……はぁ、最悪」

「こっちの台詞よ」

「星、見れなかった」

「知らないわ、そんなこと……」

 母親が蹌踉めいて、倒れた。彼女の身体はステージから転げ落ちて燃え盛るカーペットの上に消えた。

 今や、会場は真っ赤だった。鮮やかで、美しい。炎はそうだ。

 一華は呼吸の苦しさを感じた。

 ナイフの傷の所為か。

 炎の所為か。

 約束を守れなかった後悔の所為か。

 舞音。

 あせび。

 蛍。

「ごめんね……」 

 眼が熱い。

 息が苦しい。

 肺が溺れる感覚。

「約束、守れなかった。みんなのところには行けない……星、見れないよ。ごめんね、本当に、本当に……」

 許してくれるだろうか。

 許してくれなくてもいい。

 矛盾だらけの自分の問題だ。

「バイバイ、またいつか」

 真っ赤だ。

 何もかもが真っ赤で、そのうちに黒くなる。

 思い出みたいだ、と思ううちに意識が遠くなっていった。

 エラー。

 信号消失……。

 信号消失……。

 信号消失……。

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