7.勉強の成果
「なかなか面白いご令嬢のようだね、アメリア嬢は」
壁に寄りかかっていたグリードが笑いながら言う。
あれから私の護衛と称して私の側にいるグリードは、その気配を感じさせずに部屋の片隅で壁にもたれかかって腕を組んで立っていることが多い。
私たちのやり取りを部屋の隅で聞いていたグリードはアメリア嬢がいなくなると、ゆっくりと私の側にやってきた。
ガビオラ夫人にお茶を勧められて、ソファに腰掛ける。
「確かに、アメリア嬢が言うことも一理あるね」
「悪役令嬢ってこと?」
「いや、そこじゃなくて。
――ナスカ、君は本当にハリーの婚約者として頑張るつもりがあるかい?」
「どういうこと? 私はハリーの婚約者になるためにここに連れてこられたのではないの? 今更、そんなつもりがないというのなら私を村に返してよ」
「ハリーのあの様子だと無理だろうね」
グリードはそういうとゆっくりとお茶を飲む。
グリードがゆっくりと口を開く。
「そもそも、なぜハリーが第一王子なのに夏場にコーンウォルズに行っていたのだと思う?」
まっすぐに私を見つめると、そう問いかけた。
あの頃は珍しい都会の子たちと遊ぶのが楽しかった。
魚釣りも木登りも知らない男の子たちが、短い夏の間に木に登れるようになり、魚釣りができるようになり、一緒に川で泳いだり、野イチゴを探しに行ったり、ウサギの群れを見つけて追いかけたり、そんないつもと同じはずの遊びが、二人増えただけなのにとても楽しかった。
体が弱い男の子だから、夏は北の地方に避暑に来ているんだよ――牧師様はそう教えてくれた。
でも、ハリーは生意気で、負けん気が強くて、一人木に登れないのが悔しくて毎日練習してとうとう登れるようになった。
私と一緒に魚釣りをしていて、私が釣れると心底悔しそうで、倍の魚を釣るまで帰らないと言い張っていた。
そんなハリーの体が……弱い?
今まで気にしたこともなかった。
グリードはレモンを浮かべたお茶を飲む。
「この間のお茶会で知ったけど、これ、なかなか美味しいもんだね。ハリーに出してあげたら喜ぶんじゃないか?」
こちらではお茶に果物を浮かべないことを知った。私の村では季節に合わせてイチゴを入れたり、桃を入れたり、レモンやオレンジもお茶に漬けて飲むのに。
「体が弱いって聞いてたけど……」
私の問いかけに、グリードは目を伏せたまま微笑んだ。
「あの頃のハリーはとても勝ち気な子どもだったよ。誰の手も焼かせるような、我儘を絵にかいたような子どもだった。それを窘める者はいなかったし、持ち上げるだけの奴はたくさんいたけどね。
それがどんな結果をもたらすのかわからないほど子どもだった」
グリードが顔を上げる。
「だから、ハリーがナスカを好きになるのも無理はないと思ってるよ。僕はね」
まっすぐに私を見て、グリードは言う。
それからゆっくりと紅茶を飲む。
「これは、王妃陛下もお喜びになるんじゃないかな?」
うん、と一人で納得している。
「ハリーにとって君は、幼い時のきらきらした思い出そのものなんだ」
グリードはそれだけ言うと、カップを置いた。
「ナスカ。君はアメリア嬢の宣戦布告を受け取るのかい?」
どさっと本が置かれたライティングデスクを見つめる。
「8年かあ……」
ぽつりとつぶやいた私に、「その重みはわかるんだ」とグリードが変なところで感心していた。
「そういうことを全部ひっくるめてナスカがハリーを受け入れてくれるなら、僕としては嬉しい限りだけど。ハリーはナスカに変わってほしいと思ってるわけじゃない。そのままのナスカでいてほしいと望んでる。
それと自分の想いが成就することが、同じではないこともわかってるんだ。
あと二年しか見られない夢を、精一杯足掻いているのかもね」
困ったやつだよ。グリードは笑う。
言いたいことだけ言って、グリードは立ち上がった。さて、そろそろ仕事だ、と一言いうとガビオラ夫人にお茶のお礼を言って部屋を後にした。
部屋に残された私は、茶色い革の教科書を手に取る。書き方の教本から始まって、順を追って理解できるように難度を少しずつ上げてある。
「とりあえず、負けん気が強いのは私も変わらないのかも」
積み上げられた教科書を手に取る。
やってやろうじゃないの。
なぜかわからないけどアメリア嬢のあの横顔とため息が頭の中に浮かんでくる。彼女が何を考えているのか、私にはわからないけど、とにかくやるしかないってことだけはわかっていた。
翌日、アメリア嬢の教科書をすべてマスターした私は、目の下に盛大な隈を作って授業に出た。
思わず居眠りしてしまった私を叱る先生に、隣で授業を受けていたアメリア嬢が小さく笑っていた。その笑顔がとても可愛らしくて目を疑った。
あんな風に優しく笑えるんだ。
私にとってアメリア嬢はいつも眉根をしかめていて、つんけんしているような印象しかない。
でも、あんな風に堪えるように笑うアメリア嬢の笑顔は、私の知っているマリーやハンナ達と変わらないような笑顔だった。
「本当に勉強してきたのね、あなた」
今日の口頭試験が終わって、いつもよりかはほんの少し答えられるようになった私に、アメリア嬢が話しかけてきた。今日の試験の内容はこの国の地理だった。
「今日の問題は少しだけ、易しかったわね。それでも、今までのあなただったら答えられるような問題じゃなかった」
アメリア嬢の教科書のおかげだった。アメリア嬢が貸してくれた教科書を順に追っていったおかげか、今日の先生の話は何となく理解できた。今まで知らなかった単語の意味がなんとなく分かってきた。
「あの――ありがとうございます」
立ち上がって頭を下げると、アメリア嬢は机に向かったままの姿勢で私を見上げた。それから表情を緩めると、すぐにその笑顔を引っ込める。
「お礼なんていらないわ。私はあなたがしっぽを巻いて逃げればいいと思っただけだから。勉強してくるなんて、計算外だわ」
そう言って、ため息をついて見せた。