6.お妃教育とアメリア嬢
「これはどういうことですの? フリードリヒ殿下」
ボールネ公爵邸の応接室で、震えながらまっすぐにフリードリヒを見ているのはアメリア公爵令嬢だった。
アメリア嬢が怒りに震える気持ちはわかる。
私も聞いたときは、驚いたなんてものじゃなかった。
ハリーはボールネ公爵邸でアメリア嬢と対面するなり、王妃教育を私にも一緒に受けさせてほしいと、アメリア嬢にお願いをした。
「お断りいたします」
アメリアはきっぱりと言った。
「そう」
ハリーは一言だけ、そう返した。それまで笑顔だったハリーの表情がすっと消える。
「アメリア嬢、それがあなたの返事かい?」
それまでとは違う、硬い声だった。
「いくら殿下の頼みでも、引き受けられることと受けられないことがございます。なぜ、平民出身のそちらの方とこの私が、共にお妃教育を受ける必要があるというのでしょうか!?」
「わかった。では、お妃教育を共に受けさせることは止めよう」
ハリーがそういうと、アメリア嬢はほっとした表情を作る。ハリーはそれをまっすぐに見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「アメリア嬢、あなたに施されているお妃教育と呼ばれるものは、全て王宮で手配したものだ。全て引き上げることにしよう」
「え……?」
ハリーの言葉に、アメリア嬢が固まった。
「あなたにつけている家庭教師や講師たちはすべて、王宮から王族となるのに必要な教育ができる人材をあなたのために派遣していた。だが、ナスカが私の婚約者になるのならば、アメリア嬢、あなたにはこの教育は必要なくなる。
――私の言っている意味がお分かりか?」
ゆっくりと語りかけたハリーの言葉に、アメリア嬢の顔の色がみるみるなくなっていった。
「ボールネ公は、あなたとナスカが共に王妃教育を受けることを了承した」
「脅しですわ!」
「脅し? 嫌だな、本当のことを言っているだけだよ?」
ハリーの笑顔に、アメリア嬢は唇を強く噛みしめていた。
「わたくしは、断ることもできない――そういうことなのですね」
「断っていただいても、構わないよ。断ることができないのはそちらの事情だろう」
鷹揚に言うハリーに、アメリア嬢はそれ以上の言葉を発することはできなかった。
それから私の身柄はボールネ公に預けられることになった。
ボールネ公爵邸はさすがに大貴族のお屋敷って感じで、私は客間の一室を与えられた。隣の部屋には、グリードが詰めるらしい。
次の日から、お妃教育が始まって、私とアメリア嬢はボールネ公爵邸のサロンの一室で勉強をしている。部屋の隅にはグリードが壁にもたれて、腕を組んでその様子を観察していた。グリードはどうやら私の監視係らしい。そう言ったら、笑って、違うよ、お守だよなんて笑っていたっけ。
一緒に勉強しているんだけど、もちろん講師の言ってることが全然わからない私は、ただ黙って先生とアメリア嬢の話を聞いていることしかできない。
こうして見ていると、アメリア嬢はとても努力家だった。先生の言うことに耳を傾け、すぐに紙に書き留めている。わからないことは熱心に質問しているし、お嬢様なんて真面目に勉強しないのかと思っていたけど、意外だった。
私とアメリア嬢は全く同じ授業を受けているけど、正直私にはちんぷんかんぷんだった。当たり前だ。
これは意地悪の一種か? と恨みがましい目で先生を見るけど、どこ吹く風だった。毎回授業の終わりに口頭試験をするのだけど、アメリア嬢がほぼ満点なのに対し、私はといえばほとんどが答えられなかった。そのたびに先生はため息を吐く。
「……あなた」
ため息交じりにそう呟いたのは、アメリア嬢だった。
「あなたには、この教科書は難しいのではなくて?」
とんと、教科書の表紙を指ではじく。
「……」
アメリア嬢は深いため息を吐いた。
「あなた」
アメリア嬢はくるっと振り返ると、グリードを見る。グリードは自分を見るアメリア嬢に驚いた様子で姿勢を正した。
「この方が本気で学びたいと思っていらっしゃるなら、こんなやり方はよろしくないのではなくて」
そういうと、もう一度深いため息を落として「ごきげんよう」と部屋から出ていった。
午後のティータイムが終わる頃の時間だった。
部屋を訪れる人がいて、ベネデッタが「あら?」と少し驚いた声を上げた。
「どうしたの?」
「いえ、ご来客でございますわね」
ベネデッタはそういうと、入口へ行った。
来客? 私に?
ボールネ公爵邸に身を寄せるようになって、来客は初めてだった。
「ごきげんよう、ナスカ様」
そう言って入ってきたのはアメリア嬢だった。
「アメリア様!?」
まさか、部屋まで文句を言いに来たのかと身構える。
アメリア嬢は私の部屋をぐるっと見渡すと、ライティングデスクに侍女に持たせた本をどさりと置いた。
「これ、私が幼い頃に使っていた教科書なのですけど、よければお使いになって」
皮の表紙に可愛らしい星の紋が入っている。いかにも貴族の子供向けの本だった。
「え?」
驚いたのは私とガビオラ夫人だった。目を丸くして顔を見合わせた。
「フリードリヒ殿下が何をお考えになっているのかは存じませんけれど」
アメリア嬢はそういうと、机に置かれた教科書をパラパラとめくる。
「あなた、読み書きはどこまでお出来になるの?」
「帳簿をつけるくらいのことは……」
教会で簡単な読み書き計算は教えてもらった。でも、私にできるのはそれくらいだ。
「そう……」
アメリア嬢は頬に手を添えると何かを考えるように呟いた。
「あなたがこれから身につけなければならないお妃教育は、私が8年かけて身につけたものよ。それも、貴族だからこその基本的なマナーはもちろん出来ていることが前提で。それをあなたは、二年でやらなければならないの。あなたに、その気概はあって?」
私の顔をまっすぐ見て、アメリア嬢はそう言った。
この国の王族として恥ずかしくない教育を二年間で。
その言葉に、とてつもない重責がのしかかった気がした。
それを、この人はハリーの婚約者になるために努力してきたんだ。
黙り込んだ私に、アメリア嬢はため息を吐いた。
「なぜ殿下があなたを選んだのか。わたくしには、わからないわ」
「……残念ながら私も同意見だわ」
そういうとアメリア嬢がぷっと吹き出した。
「あなた、それでよくって?」
「とおっしゃいますと?」
「ずいぶんと正直なのね。あなたのような方の立場だったら、何が何でも王太子妃の座を狙ったりするものではなくて? そんな物語が、流行っているでしょう?」
ああ――王都で流行っている劇団のお芝居にそんな話があったっけ。コーンウォルズの村は王国の北の端に位置しているから、劇団がやってくるのも王都で流行ってからもう何年も興行したものがようやく入ってくるような状況だ。
「真実の愛に目覚める――ってやつでしょう? 私も村で見たわ」
アメリア嬢の言葉に笑いながら返してから、はっとお互い動きを止めた。
「真実の愛――」
アメリア嬢が空を仰ぐ。
「わたくしは、『悪役令嬢』というものなのかしら、あなた方から見たら。ねえ?」
悲しそうに呟いた。
「お嬢様がた、よろしければお茶になさいませんか?」
ガビオラ夫人が声をかけてきた。
「ああ、私は結構よ。この方に教科書を届けに来ただけですから。世間話をしたのは、物の弾み――ですから。では、ごきげんよう」
すぐに表情を変えると、アメリア嬢は片手を上げてガビオラ夫人を制すると、共に連れてきた侍女に合図をして「ごきげんよう」と部屋を後にした。