4.新たな生活
王宮へ連れてこられてから、一週間が過ぎた。
怒涛のような一週間だった。
私には新たに家庭教師が付けられて、勉強を教えてもらっている。その他にもガビオラ夫人から貴族のマナーを叩きこまれていて、毎日覚えなければならないことが山ほどある。食事やお茶の作法だけかと思ったら、歩く時の歩幅まで決められていて驚いた。
朝昼晩のドレスの選び方、話し方、仕草、立ち居振る舞い、歩き方、髪の毛を触る回数、私のすべてがダメで、全てを叩き直されている。
「いけません! ナスカ様!」
私が何か粗相をしてしまうと、ガビオラ夫人にそう言われ、手をぴしゃりと叩かれる時もあった。
私には時間がない、とガビオラ夫人は言う。
ハリーは18歳になったら国王として即位する。それまでに何とか私を王妃にふさわしい女性に育てなければならない、それがガビオラ夫人の言い分だった。
――だけど、息が詰まる。
正直、何も考えている暇なんてない。与えられたものをこなすことだけが精一杯だ。
「お疲れ様、ナスカ」
午後のお茶の時間にそう言って部屋に訪れたのは、ハリーだった。
「疲れたなんてもんじゃないわよ……」
ソファに座った私は天井を仰ぎ見る。ハリーは笑いながらそんな私を見ている。
「勉強もマナーのレッスンもがんばっているんだって?」
にこやかにハリーが私の隣に座って、問いかける。ここしばらく忙しいらしく、ハリーに会うこと自体一週間ぶりだった。
「ナスカ様は覚えがよろしゅうございますよ」
お茶の準備をしながら、ガビオラ夫人がハリーにそう笑顔で伝える。
「そのようだね。フレッド先生からも聞いたよ。勉強もなかなか進みが良いようだ」
ガビオラ夫人が入れてくれたお茶を飲みながら、ハリーは満足げに言う。
「マナーのレッスンも、まだまだではございますが、筋はよろしいですよ」
「ならよかった。実は、王妃陛下からお茶のお誘いがあった。アメリア嬢がナスカに会いたいと王妃陛下に申し入れがあったそうだよ」
ハリーは温かいお茶を一口口にすると、にっこりと微笑んだ。
――アメリア嬢? って、ハリーの婚約者だった人だ。
「今、婚約破棄の後始末に追われている。アメリアに瑕疵があって婚約を破棄するわけではないからね。あちらには誠心誠意尽くしてわかっていただこうとは思っているよ。
だけど、アメリアは3年間僕と婚約していたわけだから、やはり心情的にはいそうですか、とはいかないらしくてね。
ナスカ、君に会いたいらしい。君という人を見定めたいと言っている。どうする?」
「無理よ。第一私には、貴族のお嬢様とお会いできるような身分はないわ」
私は平民で、本来なら村の領主様とも直接お話しできる立場ではない。まして貴族の最高位の公爵家のご令嬢なんて、本来の私の人生でお目にかかる機会なんてあるはずもなかった。
「うん。そうだね。僕の婚約者だけど、君はまだ“コーンウォルズ村のナスカ”でしかないからね。そこで、君に然るべき家の養女になってもらいたいと思う」
ハリーはまっすぐと私を見つめると、当たり前のようにそう言った。
婚約者――そう言っているのはハリーだけで、正式には私はただのハリーの客人でしかない。この王宮では、ただ宙ぶらりんな存在だ。
「君が暮らしていたコーンウォルズの村は、ワイヤック州の中の一つの村だ。そこで、ワイヤック州を治めるミレーネ候の養女になるのが、一番いいと思っている。幸いミレーネ候には男子しかいない。侯爵家ならば王家と縁続きになることに問題もない」
うんうんと納得しながらハリーは言う。私は、自分のことなのにどこか他人事のようにハリーの話を聞いていた。
頭が追いついていかない。
ハリーは私のことを勝手に決めていく。
私が侯爵家の養女? 本当にそんなことができるの?
「アメリア嬢と会うのは君が正式にミレーネ候の養女になってからだ。その前に、ミレーネ候に会ってもらわないとならない。
そして、侯爵令嬢の身分になってから、母上と父上へ拝謁をしてほしい。国王陛下、王妃陛下には結婚を認めてもらわないといけないからね」
ハリーがそれだけ言うと、グリードがハリーに何か耳打ちをした。
「ナスカ、ゆっくりしていきたいけど、ごめんね。公務に戻らないとならない。また、ゆっくり話をしよう。じゃあ、勉強がんばってね」
ハリーは私の額に軽く口づけをすると、立ち上がった。
「そうだ、ナスカ。こういう時は、行ってらっしゃいって言ってくれると嬉しいなあ」
ハリーはそういうと、へにゃあっと顔を崩す。
「――行ってらっしゃい、頑張って」
一言そう告げると、ハリーは満面の笑みを浮かべて、私を抱きしめる。
「可愛いなあ、ナスカは。もう公務になんて行きたくない。ずっとナスカの側にいたいよ」
私の横髪にそっと触れ、一束取って口づける。離れたくないなあなんて言って、見つめてくるから照れてしまう。
「ナスカが頑張ってって言ってくれたから、頑張るよ。ああ、でも行きたくない」
ハリーは子どものように駄々をこねながら、なかなか離れない。
「殿下――」
地の底から怒りがわいてきそうなぐらい、力の込められた“殿下”の言葉を発したのは、控えていたグリードだった。
「お時間がそろそろ」
グリードにそう言われて、ハリーは深いため息をついて私を離す。
「名残惜しいけど、グリードが怒ると怖いからね」
そういうと、グリードに目配せをする。
今までへにゃへにゃと崩れていた顔が一瞬で、王太子の顔になる。
「グリード、行こう」
そういうと、振り返った。
「行ってきます、ナスカ」
最後にやっぱり、へにゃあっと相好を崩してハリーは部屋を後にした。
部屋に残された私は、ガビオラ夫人が入れてくれたお茶を一口飲む。ハリーがいなくなった後、ルシアとベネデッタがくすくすと笑っていた。
男爵令嬢だと聞いた二人を、ルシア様ベネデッタ様と呼んだたら、ガビオラ夫人に怒られて、二人は使用人の立場になるのだから様をつけてはいけないと口を酸っぱくして言われた。おかげで、二日目には様が取れた。
「殿下のあのような姿、初めて見ました」
「本当。あの殿下がナスカ様の前ではあんなお顔を崩されるなんて」
クスクスと笑う。
「でも確か昔は、あんなに愛情表現は素直じゃなかった気がするんだけど」
すると二人は顔を見合わせて、驚いていた。
「そうなのですか? あんなにナスカ様にデレデレなのだから、昔からそうなのかと思っていました」
そう言ったのは、ルシア。
「私、よくからかわれていたけど」
「あら、それが愛情表現ですよ。好きな子はいじめるとか、よく言うじゃないですか。やっぱり殿下は昔からナスカ様のことを好いていらっしゃったんですねぇ」
楽しそうに笑っているのはベネデッタだった。
昔は人のことを山猿だとか、かかしだとか、散々なことを言ってくれたっけ。
「でもやっぱり、昔から強引で我儘なところは変わっていないかもねぇ」
昔からこうしたいということを曲げたことはなかった。とんだ我儘な子だと思っていたけど、ハリーの立場なら頷ける。
今だって結局、私の気持ちなんてお構いなしに物事を進めていこうとしている。
私には不安な気持ちしかない。今だって、ただの村娘が侯爵家の養女なんて務まるのだろうか。そんなことをするなんて、誰かを、何かをだましているような気がして、いや、私自身が騙されているような気がして不安だった。
これは夢です。そう言われてさっさと夢から覚めればいいのに――。ここに来てから、ずっとそう思っている。