3.夢じゃなかった
翌日、私は王宮の客間で目覚めた。
「おはようございます」
眠っていた私は、どこからともなく聞こえてきた誰かの声で目が覚めた。
「うわあ!」
人の声がしたことに驚いて飛び起きると、その人たちはなんだか私を見ないように目を逸らす。
ベッド(これがいわゆる天蓋付きってやつらしいんだけど)の脇で3人は恭しく礼を取っていた。
「おはようございます、お嬢様」
お、お嬢様――!?
初めて言われた、そんなこと。
「いえ、あの、私、ナスカっていいます。えっと、あの、あなたたちは……?」
しどろもどろでそういうと、3人並んでいるうちの一人がすっと前に出てきた。
「わたくしは王太子付きの女官でございます。これから当面の間、お嬢様のお世話を殿下から仰せつかりました」
殿下?
ああ、ハリーのことね。
「わたくしのことは、ガビオラとお呼びください。こちらの二人はルシアとベネデッタと申します」
「私のことはナスカって呼んでください」
「かしこまりました」
ガビオラさんは再び頭を下げる。
「それでは、これから王太子がこちらに参ります。至急お支度をさせていただきます。本日のご予定ですが、王太子殿下と朝食を取っていただいてから、王宮をご案内させていただきます。その後は王太子付きの家庭教師に基本的な学問をご教授いただきます」
淀みなくそうすらすら言って、ガビオラさんは部屋の奥にあったクローゼットを開いた。
そこには色とりどりのドレスが並んでいて、眩いほどだった。
「朝食用のお召し物に着替えていただきます。お着替えの手伝いはこの二人がいたします」
ガビオラさんのその言葉を合図に、私は着ていたものを剥がされて、新しいドレスに着替えさせられ、お化粧をされて、髪の毛を結い上げられた。
そんなこと初めてで、どうしていいかわからない。衣装の前後ろもわからないし、お化粧の時は目を固く瞑って、若い二人の女官さんに笑われた。
ガビオラさんが何とか綺麗に髪を結い上げてくれて、渡された手鏡の中に映っていた自分がまるで自分ではないようだった。
「……すごい」
昨日のドレスもとても素敵だったけど、今日のこのドレスも男爵家のお嬢様が来ていたものよりもとても豪華だった。
「おはよう、今日も可愛いね。ナスカ」
背後から突然、ハリーの声が聞こえて驚いて振り返った。
「殿下!」
私よりも早く声を上げたのは、ガビオラさんだった。
「女性の部屋に断りもなく入室するなど、恥ずべき行為ですよ」
目を吊り上げているガビオラさんに、ハリーはまあまあと笑いかける。
「待ちきれなかったんだ。私の可愛いナスカをね。そう目くじら立てないでおくれ、ガビオラ夫人」
――夫人!?
ガビオラさんて、人妻なの!?
「よく眠れた?」
ハリーは大股でこちらに近づいてくると、私の手をそっと取る。手の甲にキスをすると、微笑みかけてきた。
「……不本意だけど、ぐっすり寝たわ」
「ならよかった」
ハリーがにこにこと笑顔で頷く。
そうなのよ、不本意だけどぐっすり寝ちゃったの!
私、これからどうするの? とか、家に帰してくれるの? とか、色々疑問はあったのだけど、とりあえず疲れて眠ってしまったのよ。
「まずは、僕の腹心から紹介するよ。ここにいる者はみんな信頼できる人たちばかりだから安心して」
ハリーはそういうと、ガビオラさんに目配せをする。それを合図に、ガビオラさんとルシアさんとベネデッタさんが並んだ。
「昨日からナスカの支度をしてくれているのが、僕の乳母で、今後ナスカ付きの女官になるガビオラ夫人。マリベル=ガビオラ伯爵夫人。で、二人も王太子宮の侍女でルシアとベネデッタ。それぞれ家は違うけど、二人とも男爵家の出だよ」
ふえ!? 伯爵家のご夫人に、男爵家の御令嬢……。女官や侍女ですら、お貴族様……ですか。目を丸くしている私に、ハリーが私の肩を抱き、入り口に並んでいる男性たちを指し示す。
「彼らが、僕付きの侍従たち。まずは——」
そういうと、一人の男性が前に出て膝をついて胸に手を当てた。
「ナスカ嬢。お久しぶりでございます。フリードリヒ殿下付きの侍従、グリード=フロッグマイアーと申します。以後、お見知りおきを」
ぱっと上げた顔に、見覚えがあった。
「グリード! グリードなの、あなた!」
グリードはハリーと一緒に村に来ていた男の子だった。二人はいつも一緒で、グリードはハリーの家の使用人の息子だと言っていた。
ハリーと一緒にいるから、グリードも一緒に遊んでいたっけ。子どもにとって、特に村の子供たちにとって、主人の子、使用人の子なんて区別もなかったし。
思わず、グリードの首に抱き着いてしまった。
「懐かしいわあ! あなた、すごく大きくなったのね、あんなに小さかったのに!」
グリードはハリーよりももっと小さい男の子だった。ふわふわの金色の巻き毛が教会のステンドグラスの天使様のようで、私は小さい頃、グリードは天使様の生まれ変わりなんだと信じていたくらいだ。
びっくりしているグリードは、目を丸くしてから噴き出した。
「変わらないなあ、ナスカは」
あははと笑い声をあげて、グリードが私を抱きしめた。それから私の体を引きはがすと、
「でも、ここではこういうことはしちゃいけないよ。どんなに懐かしくても。ほら、殿下もお怒りだ」
おどけたようにそう言って、私をしゃんと立たせた。
「まったくだ。不敬罪でグリードを捕えないといけなくなるよ」
呆れたようにハリーが言うと、私を自分の方へ引き寄せる。
「これから、マナーも学習しないといけないな。貴族社会の習慣やマナーはガビオラ夫人にお願いできるかな?」
「殿下の御命令であれば」
ガビオラ夫人が頭を下げる。
「うん。ナスカにはちゃんとしたマナーを覚えてもらわないといけないからね。道のりは長いかもしれないけど、ナスカは素直な子だから」
「かしこまりました」
「それと、ダッドリー=モンタネールとパスカル=アベルティ。二人とも僕付きの近衛隊の隊長だよ。君の護衛も二人の隊に任せることにしたから、何かあったらダッドリーとパスカルに伝えるんだよ」
優しく私にそう言うと、ハリーが顔を引き締める。
「ただし――さっきみたいに抱き着いたり、体に触れたりしたら駄目だからね」
怒ったような表情を作って、ハリーがたしなめた。
「まあ、ナスカがいた村では、それが当たり前だったから仕方ないけどね。でも、これからはダメだよ。僕以外は」
ちゃっかり僕以外はと付け加えて、ハリーが微笑む。
「少し窮屈な思いをさせてしまうかもしれないけど、ナスカには早くここの暮らしに慣れてほしいと思ってる」
ハリーは神妙な顔をして見せた。
ここの暮らしに慣れるって……。
「ねえ、ハリー。私、村に帰りたいんだけど、帰れないの?」
ハリーを見上げる私の表情は、きっと曇っている。私を見るハリーの顔はみるみる眉を下げていき、なんとも悲しそうな表情になった。
「ごめんね、ナスカ。君のお願いは何でも叶えてあげたいけど、それだけはダメなんだ。だから、どうか、僕のプロポーズにイエスと言っておくれ」
悲しい顔のまま、ハリーはそう告げた。