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夢観の八葉

紅い鉄屑

作者: 穹向 水透

十作目の短編です。一作目「仮面の子」の続きのような立ち位置の作品となっています。

 


「ねぇ、これ見てよ!」

 いつになく高い声を出しているのは友人の成上夜花(なるかみ よか)である。彼女の目の前に陳列されているのは見慣れない魚だ。

「変な魚だね。これってあれかな、ナンプラーとかみたいに魚醤にできるのかな?」

「なるんじゃないの?」と言うのは、夜花の彼氏、青浜煌汰郎(あおはま こうたろう)である。

 そして、ふたりと一緒にいるのが、天無弥生(そらなし やよい)である。

「作ってみる?」と夜花。

「でも、夜花は魚介系はダメじゃなかったっけ?」と煌汰郎。

「あ、そういえば」

「そもそも、そんな大きな魚じゃナンプラーもヌクマムも作らないよ。もっと、小魚じゃないとね」

「弥生君は相変わらず色々知ってるね」

「知識は力だよ、成上」

 日々、知識を蓄えようと図書館に入り浸っている彼である。時々、講義の時間を忘れて読み耽っているため、単位の取得が危ぶまれている。

「ところで、ヌクマムって何?」

「ベトナムの魚醤」

 三人は市場を歩きながら、見慣れないものがある度に立ち止まって話し始める。今度はオレンジ色の刺々しい果物の話になった。

「これ見たことあるけど、何ていうんだろ」

「キワノフルーツだっけ?」

「煌汰郎が知ってるなんて意外だな」

「日々、精進してるってことだね」

 煌汰郎は恥ずかしげもなく言う。素直な男だ。

「ねぇ、ねぇ、これってドリアンじゃない?」

 夜花が先程の果物の横を指差す。そこには、薄い緑で、もっと刺々しい果物があった。確かに異臭がする。

「買ってみようよ」と夜花。

「え、食べれなかったらどうするの?」

「その時はその時だよ。そうでしょ、弥生君?」

「君らに任せる」

 夜花は店員を呼んで、値段を訊き、ドリアンを購入した。

「流石、T大生」

「少しだけ大学で噛ったんだよね。役に立つと思わなかったけど」

 三人は木陰に移動して、ドリアンを食べてみることにした。持つだけで漂う異臭に、それぞれ鼻を押さえる。ナイフは煌汰郎が市場で買った、明らかに実用的ではない装飾の多いものしかない。

「これはヤバそうだね」と夜花。

「開くのは成上に任せる」

「え、信じられない。女の子にそういうことやらせるかな?」

 彼は人差し指を立てて左右に揺らした。

「君には彼氏がいるだろう?」

「おい、天無、君ってやつは……、臭いが取れなくなったら数日は恨むからね……」

 そう言いながら、彼はドリアンにナイフを刺した。ナイフの扱いに慣れていないようで、苦労しながらドリアンを半分にした。

「待って、凄く臭いよ」

「それは最初からわかってただろ。何で買ったんだよ」

「異文化に触れて、グローバルな人間になろうとしたの」

 夜花は恐る恐る、ナイフでドリアンを抉り、身を取り出した。臭いに顔を顰めながら、それを口に入れた。しかし、途端に顔を青くする。

 表情が二転三転し、やっとのことで飲み込んだようだ。

「水、水を下さい」

 煌汰郎がペットボトルを渡すと、勢いよく飲み、「私には無理だ」と言って果実を弥生に手渡した。

 彼はナイフで抉った身を躊躇せずに口に入れた。

「臭いは気になるけど、普通に食える」

「どれどれ」と煌汰郎。

 同じように口に入れると、ゆっくりと噛み出した。

「うん、食えるよ」

「味は良い」

 信じられない、という顔で男ふたりを観察している夜花と、美味いと言いながら、ナイフを巧く使いながら食べる弥生、そして、臭いの付着を忘れたように手で食べ出した煌汰郎。市場の活気に紛れる三人であった。





 その後は当然のように、悪臭のする手と戦う煌汰郎の姿が見られた。

「臭いが落ちないよ、なぁ、天無」

「僕に言われてもなぁ……」

「ねぇ、お腹空いたんだけど」

 夜花が言う。

「今、煌汰郎は忙しいんだ。その辺で、得意の言葉を活かして何か買ってきたらどうだい?」

「いじめっ子だ、弥生君は」と言いながら、彼女は市場に消えた。しかし、異国の地で女性ひとりにするわけにもいかない。

「煌汰郎、僕は成上と一緒にいるから、電話か何かしてくれ」

「うん、頼むぞ」

 彼はまだ異臭のする左手の親指を立てた。

 夜花は近くの店でホットドッグのようなものを買っていた。

「それ何?」

「あ、弥生君。ホットドッグだと思うよ」

「思うよ、って……」

「じゃあ、断定しようね。これはホットドッグです」

 彼女は自分の分を頬張り、残りふたりの分は弥生が持っていた。ケチャップとマスタードでは、ケチャップの比率が圧倒的に大きいのが、彼としては不満だった。

「煌汰郎、お昼ご飯」

「おー、ホットドッグ? あ、ケチャップ多めだ、助かる」

「なるほど、君は真逆だな」

「ん?」と煌汰郎は口元のケチャップを舐めていた。

「異臭は取れた?」

「まぁまぁだね。ハンドソープとかがなかったから、あればよかったんだけど……」

「ホテルに戻ってからにしようよ」

「あ、そうだ、ホテルで思い出したけど、ディナーはそこでビュッフェだったよね」

「そうだね」

「じゃあ、おやつはほどほどに、だね」

 こいつって、こんなに食いしん坊だったっけ、と弥生は記憶を漁るが、確かに修学旅行でも食に一生懸命だったように思える。

 昼下がりは、市場からそんなに遠くない歴史的な寺院に向かった。この国名物の二階建バスに乗り、二階の奥の席に座った。そこには、スマホでバカみたいに写真を撮る夜花と、旅行前に新調したという一眼レフで同じくバカみたいに撮っている煌汰郎がいる。

「弥生君は撮らないの?」

「僕のアルバムは脳内にあるから。君こそ、そんなに撮ってどうするの? SNSに投稿するの?」

「そんな、SNSなんて使わないよ」

「夜花の場合、使い方がわからなくて、使えないんだよ」と煌汰郎。

「正解です」

 到着するまでアンコール・ワットのような建物を想像していたので、その寺院には違和感を憶えた。金色の屋根をしており、近くには同じように金色の巨大仏像が鎮座していた。

「見て、僧侶がいるよ」

「そりゃあ、お寺だからね」

 夜花は僧侶たちに話し掛けようとしたが、煌汰郎が止めた。

「修行中だったら迷惑だろ?」

「あ、そうか」

 恐らく、煌汰郎は行動が滞るのが嫌なのだろう。修学旅行でもそうだったが、彼は時間に厳しい。

 寺院の内部にも入ったが、天井には立派な曼陀羅があった。帰国したら絵に描いてみようか、と思って、細部まで記憶しておいた。

 先程の金色の仏像に祈ってから、再びバスに乗り、今度は別の寺院へ向かった。正直、両者に大差はないように思えたが、夜花が「違いがわからないなんて、まだまだだね、弥生君」と煽ってくるので、意地でも違いを見つけてやろうと思った。

「教義が少し違うのか?」

「そうそう。本当に微妙な違いだけどね」

 そういえば、夜花は神話好きなのだ。この手の宗教の話も調べたりしているのだろう。

 ここでも煌汰郎は、我が子を撮る親のような勢いで寺院の風景をカメラに収めていた。こいつは、そんなに宗教や建物に興味のある人物だったか、と再び記憶を漁るが、少なくとも彼の脳内アルバムにはそれらしいものは残っていなかった。

 陽が暮れて、三人はホテルに向かう。ホテルは都市部に位置し、旅行会社イチオシのホテルのようだ。

「凄いね、ネオンの海だ」と煌汰郎。

「綺麗だけど、人工の綺麗さはなぁ」と夜花。

 確かに街は色とりどりのネオンライトで飾られているが、それらの所為で星の灯りは黙殺されている。

「ここだけ見ると、見慣れた景色だよね」

「アジアの途上国は先進国と大差ないよな」

 車の走る音。人の群れる音。

 騒々しいだけで、そこに創造性はない。

「あのホテルかな?」

 夜花が指差した先にあるのは、確かに宿泊予定のホテルがあった。聳え立つそれは、バベルの塔を連想させる。

「ナイトプールが楽しめるらしいよ」

「え、それは夜花だけで行ってね」

「煌汰郎は泳げないもんね……。弥生君は来てくれる?」

「パス。僕も泳げない」

「弥生君、二年生の時、水泳部の助っ人をやってたよね?」

「何で憶えてるんだよ。でも、どっちにしろ、あんまり入りたくないな。どちらかというと、買い物に行きたい」

「仕方ないなぁ……」

 チェックインして、部屋に向かう。部屋は十二階。男女で分けていない辺りが夜花という人物の認識を物語っている。恋人同士で同じ部屋ならわかるが、単なる友人の弥生もいるのは不可解な話だ。

「ご飯行こう」

 ベッドに荷物を撒いてから夜花が言う。

「荷物はそれでいいのか? ぶちまけただけじゃないか」

「後でゆっくりやるから大丈夫」

 三人はエレベーターで一階の食堂に向かう。エレベーターが苦手な煌汰郎が吐き気を催している。

「大丈夫か?」

「キツい」

 そういえば、部屋に着いた時点で顔を青くしていた。何故、エレベーターを使ったのか、と訊くと「荷物が多かったのと、話しながらだったから油断した」とのことだった。

 食堂に入り、適当な席を確保。夜花は颯爽と人混みに消えた。弥生は煌汰郎に飲ませる冷水を持ちに行く。煌汰郎は席で突っ伏している。

 冷水を飲ませると、煌汰郎の顔色も回復し始めた。

「エレベーターが苦手ってのも厄介だな」

「小学生の頃からダメだ。東京スカイツリーってあるだろ? あれに社会科見学で行ったんだが、エレベーターで死にかけたね。頭痛が鳴り止まないし、吐き気は循環するし、夜花が身体を揺さぶるし……。体感的に永遠を過ごしたよ」

「あ、煌汰郎、治った?」

 夜花が大皿を手に戻ってきた。皿には、エビチリ、チャーハン、サラダ、スパゲッティなどとあらゆるジャンルの料理があった。

「食い過ぎじゃないか?」と弥生が窘めるが、「太らない体質だからノープロブレム」と言いながらエビを口に入れた。

「僕らも料理を取りに行こう」と煌汰郎。その顔色はいつもと同じに戻っている。

 料理は世界の様々なものが用意されていた。寿司や天麩羅、ビーフストロガノフ、トムヤムクン、パエリア、ダツィ料理など、有名なものから、得体の知れないものまである。

 弥生は寿司とサラダとローストビーフを、煌汰郎はラーメンと焼売を選んで席に戻った。

 席に戻ると夜花はスパゲッティを食べていた。

「案外、上品な食べ方が出来るんだね。ラーメンとかみたいに啜ってしまうのかと思ってたよ」

「失礼だな、弥生君は。フォークで巻いて食べるのは常識。あ、お寿司、一貫だけ頂戴?」

「いいよ。どれでもどうぞ」

 彼女はエビを摘まむと、そのまま口に入れた。

「醤油はつけないんだ」

「うん」

 煌汰郎はラーメンを啜っている。夜花に焼売が奪われていることは気付いていないようだ。

 それぞれ、皿のものを片付け、デザートを取りに向かう。夜花は各種ケーキを、煌汰郎はプリンを、弥生はコーヒーゼリーを選択した。

「ふたりとも、せっかくのビュッフェなのに、もうちょっと食べないと損じゃない?」

「疲れたから腹が減ってないんだ」

「そういうものかなぁ」と言いながら、夜花はチーズケーキにフォークを刺した。

「やっぱ、もう少し」と言って煌汰郎が席を立ち、戻って来ると、皿にはグラタンが乗っていた。どうやら、完全に体調が戻ったらしい。

 弥生はコーヒーを持ってきて、小説を片手に飲み始めた。

「こんなところでも小説? 弥生君?」と夜花も呆れ顔である。

「心配ない。僕は同時にひとつのことしか出来ないような不器用ではないからね。君らがどんな話を始めようと問題ない」

「まぁ、夜花、天無はこういうやつだってのは高校から知ってるだろ? 今更だよ」

「まぁね、気にしてもいないし」

 夜花は席を立って、コーヒーをふたつ持ってきた。そして、弥生のコーヒーにガムシロップを入れる悪戯を仕掛けようとした。

「ブラック以外は吐くぞ」

「ごめんなさい」

「そういえば天無は、どうしてこの国に来たいなんて言い出したんだ? 前から来たがってたっけ?」

「まぁね。それもあるし、三人で旅行してみたかったってのもある。でも、最大の理由は安かったからだね」

 その後は二十分ほど談笑して、部屋に戻った。夜花と弥生はエレベーターを使い、煌汰郎は階段を使った。

「じゃあ、私はナイトプールに行くからね」

「待って、僕もついていくよ。流石にひとりだけは心配だ。えっと、波とかないよね?」

「さぁ? でも、浮き輪みたいなのもあるんじゃない?」

「それは恥ずかしいかな……。天無は買い物に行くんだっけ?」

 弥生が頷く。

「面白そうなものがあったら頼むよ」

 そう言ってふたりは出ていった。

 弥生は小説を閉じた。芥川龍之介の『或阿呆の一生』を読んでいたが、最近は私小説の類いを読むことが増えたように感じた。

 立ち上がって、扉を開き、外に出る。ルームキーは財布に入れておく。掏られたら、その時に考えようと思った。

 何となく階段で一階まで下りた。

 外は喧騒と湿った熱気に満ちていた。音の静かな高級車に混じって走るバイクと、無駄に大声で話す人の群れが喧騒の原因だ。

 ゆっくりと確実な歩調で、噴水のある広場に出る。噴水の周りは車の往来が激しく、とても、涼やかな水の流れを楽しめるような場所ではなかった。一応、近くに寄ってみるが、綺麗なのは噴き出した水のみで、水面には多数のゴミが浮いている。その大半は煙草の吸殻で、嫌煙家の彼としては最悪な汚染であった。

 広場を抜けて、露店の並ぶエリアへ出る。昼間の市場よりも観光客向けといった感じの場所だった。

 ケバブのようなものを売っている店の横に、幼い子供が立っていた。その子の顔には、木製のカラフルな仮面があった。

「やぁ、君が『ミール』かい?」

 彼が英語で訊ねると、仮面の子供は頷いた。よかった、ひとまず英語が通じることはわかった。現地語ともなると、夜花がいないと会話は不可能である。

「約束通り来てやったんだ。爺さんのところへ案内してくれ」

「いいよ。でも、先にお肉を買って」

「何故?」

「チップの代わりだよ」

 弥生がお金を渡すと、『ミール』は露店の男に話し掛けて、串に刺さった肉をふたつ買った。ひとつは弥生がもらい、ふたりは食べながら路地を歩いた。陰湿な雰囲気の路地を進むと、寂れた建物に着いた。その看板には「Rifle・Bar」とあった。

「ここか?」

「うん、そう」

『ミール』は扉を開けて中に弥生を招いた。ピンク色の光が寂しく注ぐバーの中、カウンターの椅子に男が腰掛けていた。

「久々だな、爺さん」

「歓迎するよ、弥生君」

 男がこちらを振り向く。窶れた顔をした彼の名はロマノフ。弥生の兄を殺した人物である。

「こんな国にまで、何の用だ?」

「……良い思い出作りになったか?」

「お陰様で。あんたが一番安い会社を紹介してくれたからね。気楽な旅行になってるよ」

「『ミール』、そこの棚から、酒と薬を取ってくれ」

 少年が軋む戸棚から酒と錠剤を取り出して、ロマノフの前に置いた。彼は錠剤を口に放り込むと、酒で喉に押し込んだ。

「不健康だな」

「どうせ、長くないさ」

「あの子は?」

「『ミール』さ」

「それは、兄貴が殺したって子供の名だろう?」

 ロマノフは静かに頷く。

「あんたの趣味か? 名前にしても、仮面にしても」

「……君は、天無睦月(むつき)が『ミール』を殺した理由を考えたことはあるかね」

「あるさ。僕の予想だと、好奇心。これに尽きると思う」

「その通りだ。君の兄は、『ミール』の仮面の下が見たいがために殺した。これは自然なことか?」

「不思議はないと思ってる。けれど、兄貴の好奇心が尋常でないことも知っている」

「君は賢いな……」

 ロマノフはグラスに酒を注いで、弥生の前に置いた。強いアルコールの臭いがする。

「サービスだ。毒や薬は入っていない」

「そんなことは気にしていないさ。ただ、僕は酒が飲めない」

「損をしているぞ、弥生君。酒は苦楽の友だ。『ミール』が死んだ時、癒してくれたのは酒だけだ」

「僕の苦楽の友は文字だ。片手に小説さえあれば文句は言わない」

 ロマノフは酒をぐいぐいと飲んだ。

「あんたが子供に被せる理由は何だ? 兄貴のような例を考えると、デメリットしかないように思える。だから、僕はあんたの自己満足だと思っている。……あんたのことは少し調べた。ヨセフ・ロマノフ。昔は大きな孤児院を経営してた慈善事業家だったらしいな」

「あぁ、懐かしいね」

「しかし、ある時、火事で孤児院は全焼。あんたを除く殆どが焼け死んだ。あんたの頬の十字の傷もその時のものだ。そして、あんたは子供が嫌いになった」

「……」

「ここからは想像だが……、隠居したあんたは、雪深い山に住むことにした。そして、『ミール』という少年を助けた。子供が嫌いになっても、慈善事業家としての性かどうか知らないが、助けなくてはいけない、と思った。けれど、子供が嫌い。だったらどうする? あんたは仮面で顔を隠した」

 ロマノフは大声で笑い出し、すぐに咳き込んだ。『ミール』が寄ってきて背中を擦る。

「中々の想像力……、やはり、君は頭が良い。満点だよ。そう、儂は慈善事業家として、『桜の園』を作った。ある時、火事になって燃えちまったがね……。火事の原因は『ミール』という少年の火遊びだ。しかし、『ミール』も死んじまって、生き残った儂が疑われた。儂は世間も子供も嫌になって、あの雪山に隠居したよ。誰にも邪魔されず、好きな狩猟が出来る良い場所だった。そして、ある時、小屋の戸を叩く音が聞こえた。開けると、凍死寸前の子供が立っていたのさ。儂はすぐに小屋に入れ、その子を助けた。けれど、すぐに後悔したよ。そいつは子供だ。しかも、そいつは行き場所がないからと言って小屋に住み着いた。儂は言ったよ。『住むのなら、仮面をしていてくれ。何があっても外すな』と。『ミール』という名も与えた。それから、儂と子供は暮らし始めた」

 ロマノフはグラスに酒を注ぎ、一気に飲み干した。

「儂は一週間単位で、街と小屋を行き来して、肉などを売って生計を立てた。少しは幸せだったかもしれんな。しかしだ、ある時、帰ったら、あの忌々しい男がいたのだ。血塗れでな。そいつは『ミール』の腹を裂き、仮面を外し、顔に包丁を刺していたのさ。儂はすぐにライフルを向けて、撃った。これが顛末の全てだ。君は儂を恨むかね?」

「それは五年前に答えを出してる。僕はあんたを恨まない。……ひとつ、確認したいが、あんたは兄貴の凶行を見ていた筈だ」

「何故、そう思う?」

「あんたは『腹を裂き、仮面を外し、顔に包丁を刺した』と言った。順番を知っているじゃないか。それに、兄貴の凶行の直後に小屋に入るというタイミングも不自然だ。これは想像だが、あんたは、『ミール』を殺す機会を窺っていたが、やはり、慈善事業家。実行には移せなかった。しかし、そこへ来たのが僕の兄貴。彼は好奇心のままに『ミール』を殺した。あんたとしては、願ったり叶ったりだろう。そして、兄貴を片付けてお終いだ。あんたは、『ミール』の亡骸をどうした?」

「……森へ捨てた。お前の兄貴と一緒にな」

「僕はあんたを恨まないが、軽蔑はするよ。慈善事業家の仮面を被った悪魔だとね」

「……」

「孤児院を燃やしたのも、『ミール』じゃない、あんただ。確かに『ミール』は火遊びをしていたかもしれないが」

「根拠は?」

「事件当時のデータだ。当時の捜査の杜撰さがよくわかるよ。『ミール』が遊んでいた場所が最も焼けていた、とある。でも、調べてみると、焼けていた理由は火遊びじゃない、灯油だ。あんたが掛けたのさ」

「流石だよ。ご名答だ。儂に未来があったなら、壁のライフルで君を撃っていたよ」

「そんなことをしなくても、僕は外部には言わない。言ってもメリットがないからな」

 弥生は注がれていた酒を一気に飲み干した。

「酒は飲めないんじゃないのか?」

「単に苦手なだけさ。酒自体には強い」

 ロマノフが空のグラスに酒を注いだ。

「ここにいる『ミール』はどういう素性の子供なんだ? まさか生まれ変わりだなんて言うなよ」

「あぁ、知りたいか? 儂がこの国に来た時、故郷より孤児が多いことに驚いたよ。都市部こそ華やかに飾られて栄えているが、少し外れればスラム街さ。儂はそのスラム街のひとつで出会ったのさ。実はこの子はそんなに子供じゃない。君と同年齢ぐらいかな?」

「病気か?」

「そうさ。仮面の下の顔は、病気の関係で少し歪んでてな。これは正当な理由だろう?」

「あんたは、子供ってのを中身で判断してるのか?」

「そうかもしれないな。まぁ、中身が大人びた子供に会ったこともないがね……。あの『ミール』も中身は幼児と変わらん」

「なぁ」と、弥生は『ミール』に声を掛ける。

「君の本名は?」

「『ミール』だよ」

 ロマノフが渇いた笑い声を上げて、すぐに咳き込んだ。

「名前がない子供なんて、スラムにはざらにいるのさ」

「『ミール』への拘りが凄いな」

「今の儂の原点みたいなもんだ」

「原点……ね」

「そうだ、君に見せてやりたいものがあるんだ」

 ロマノフはそう言って、店の奥へ行ってしまった。

「ねぇ」と『ミール』。

「お爺さんのこと、好き?」

「まぁね。嫌いじゃないよ」

「僕はね、お爺さんが好きだよ」

「それはいいことだと思う。その想いが変わらないことを祈ってるよ」

「うん」

「あったぞ」と言いながら、ロマノフが店の奥から戻ってきた。蹌踉めきながら歩くので、見ていて危なっかしい。

「これを見てくれ、弥生君」

 老人の手にあったのは、赤いような黒いような、ひしゃげた鉄の塊だ。一見、ただの鉄屑だが、弥生にはすぐにわかった。

「……兄貴を殺した弾か」

「そう。儂が彼の亡骸から取り出したんだ。いつか、君のもとへ届けようと思って、ずっと持っていたのさ」

「僕はこれをどうすればいい?」

「どうとでもしてくれ。儂には必要ない」

 ロマノフと弥生は同時に、一気に酒を飲み干した。

「さて、そろそろ行かないとな。土産物を頼まれてるんだ」

「そうか。もう少し、酒を飲みたかったが……。また会おう、なんてことは考えるなよ」

「勿論さ。どうせなら、今、壁のライフルであんたの胸を撃ち抜いておこうか? それで、僕はあんたを殺した鉄屑とこれを交換していくよ」

「悪くないな」

「冗談だ。だけど、兄貴なら躊躇いなく撃ち抜いていただろう」

「あの時、すぐに撃ち抜いておいて良かったと思うよ。こっちまで食われちまったら仕方がないからな」

「じゃあ、さよならだ。爺さん」

 ロマノフは無言で左手を挙げる。

 弥生が外に出ると、『ミール』も外に出た。

「道案内するよ」

「君は、仮面を外すなって言われてるかい?」

「うん、外したら不幸になっちゃうんだって」

 間違ってはいないな、と言おうとして、それを飲み込む。ふたりは最初の肉を売っている店まで戻った。

「ここでいいよ。ありがとう『ミール』」

「うん、また会おうね」

「またいつかな。今度は君が大人になった時に」

 彼は手を振っていた。少なくとも、弥生が彼を雑踏で見失うまでは。

「またいつか、か」

 弥生は噴水の所まで戻り、その縁に腰掛けた。

 手には例の鉄屑。当然ながら、ひんやりと冷たい。この弾の亡骸は、生前、熱を帯びていて、人をひとり殺したのだ。

 兄と『ミール』の亡骸は、雪に埋もれてどうなっているだろう? 獣に食われたか、或いは冷凍保存されているのか。わかることは、そこには墓標などなく、誰も彼らに祈ることはないということだけだ。ロマノフが死ねば、歴史のちっぽけな遺物と化してしまうのだろう。そこに特別な想いはないが、不憫なのはこの鉄屑である。付随する設定が闇に消え、こいつはどうなるだろう? ならば、この鉄屑も消えるべきだ。

 彼は噴水の水面を眺めた後、鉄屑をそっと投げた。それは煙草の吸殻の群れに紛れて消えてしまった。もう二度と出会うことはない。

 彼は立ち上がって、歩き出した。

 変わらない騒音の中を、止むことのない人の吐き出した空気と排気ガスが蔓延する通りを、ゆっくりと歩いた。ホテルへ戻る道、彼の足取りは何故か軽かった。土産物は面白いものがなかったということにしよう。ホテルのロビーを素通りして、階段で十二階まで駆け上がって部屋へ。

「お帰り。あれ? 何だか嬉しそうな顔をしてるね。何かあった?」

 夜花と煌汰郎のいつもと変わらない顔が、彼を出迎える。

 そして、彼は答えた。

Rien(何も)

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