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花の標べ  作者: 一ノ関珠世
第一章
9/30

8 手習い


 次の日の朝もサラはアルの部屋に様子を見に行った。サラが昨日散らした悪夢はすごくねばっこくてしつこい感じがあったので、アルは普段から頻繁に見ているんじゃないかと思ったからだ。

 扉を開くと寝着から着替えたアルが出迎えてくれた。髪も簡単に一つに束ねてある。


「おはよう、アル。もう熱は下がったのね。」


 シャツにズボンを履いたアルは、こざっぱりとして見える。やや顔色は悪いが、表情は明るい。


「うん。今日の朝食から皆で一緒に食べるよ。」


「昨日は嫌な夢見てうなされなかった?大丈夫だった?」


 サラはアルよりも少し上に視線をやりながら話した。アルは穏やかに笑みを浮かべながら言う。


「あ、うん。別に大丈夫だったよ。」

「あら、そうなの。………なーんて言うと思うのかしら。はい、嘘つきー!」


 サラはそう言って笑いながらアルの形の良い鼻をキューっとつまんだ。するとアルはサラの手から逃れるように顔を振りながら後退った。


「ふぇ!ふぁにふるの!」


 鼻の頭が少し赤くなって、不機嫌そうな顔をしたアルがサラを軽く睨む。


「だって天井に薄っすら黒い靄が溜まってるもの。昨日も見たんでしょう?」

「分かってるなら最初から言えばいいのに。」

「ふふん。素直に教えてくれるかどうか試したのよ。」


 サラは腰に手を当てて得意げに言う。


「じゃあ、今日も悪夢を見ました。お願いします。って言えばいいの?」


 アルはものすごく嫌そうに言って、ベッドにポスンと腰を下ろした。サラは先程浮かべたアルの穏やかな笑みよりもよっぽど彼らしいと思い嬉しくなった。


―どうも自分は取り繕ったものを見ると剥ぎ取りたくなる。見たいのは嘘よりも真実なのよね。

そう思い、サラは少し笑った。


「そうね。それが嫌なら自分でやっちゃえばいいのよ。」


 サラはまた昨日と同じように窓を開けて、朝の空気を部屋へ誘いながら、悪夢を散らす。薄い靄はかき混ぜるうちに更に薄まり、サラサラになって、キラキラの光の残像を残して消えた。


 アルはその様子をやや眩し気に目を細めて見ていた。


「さぁ、終わったわよ。」



 アルは途端に少しむすくれた顔をして、ちらりとサラの方を見ると、小声で「ありがとう。」と呟くように言った。


 サラはちょっと苦笑しながら、そんなアルに近づく。


「でもまぁ、押し付けてるみたいでごめん。おまじないって別にしなくても死んだりしないけど、するとちょっと気持ちを切り替えることができたり、楽になったりすることもあるからね。これはお祖母様の受け売りなんだけど。」


 サラは何かを思い出したかのように「ふふふ」と、笑うとアルの方に近寄ってきた。



「髪はどうする?せっかくだからまた前みたいに編もうか?まだ少し髪が短めから、自分で編むのは難しいでしょ?」


 両手を広げてこちらを見るサラに嘆息すると、アルは部屋の中央に置かれている椅子に目を瞑って座った。


「じゃぁ、お願いする。」


「任されましょう!」


 サラはカラカラ笑いながら楽しそうに、手を胸に当てて、気取った口調でアルに答えた。そして背後に回って彼の髪紐を解いていく。

 アルはサラの手が触れる瞬間に少し具合が悪いように身動(みじろ)ぎしたが、閉じた目元にぎゅっと力を入れた後、力を抜いた。


 サラの明るい声がアルの耳元で響く。


「絡まれ絡まれ

愛や希望

アルの髪に編まれるように


伸びろよ伸びろ

健やかに

末永く幸せが続くように」


 またシュルリと光の帯がアルの髪に巻きついていく。髪はほんのりと熱を持っているのが感じられる。アルが眼を開くと、サラがくるりと前まで来た。


「じゃ、また朝ご飯の時に会いましょう。」


 そう言って、用は済んだとばかりにサラは小走りで自室へ帰って行った。アルは旋風(つむじかぜ)みたいにやってきて、出て行ったサラに呆気にとられながらも、胸に広がる暖かさは無視できなくて、困惑しながら立ち上がって開け放されたままの窓を閉めた。



 朝食後は、お祖父様とアルは字の練習を始めるというので、サラもその隣で学校の宿題をすることにした。

 朝日が気持ちよく入る部屋の、艶々とした飴色の大きなテーブルにアルとサラは横並びに座った。お祖父様は沢山書いて練習が出来るようにと持ってきた反故紙をテーブルに置いた。


 そこから一枚をアルの前に置いて、テーブルに置いてあった筆箱から一本の鉛筆を渡した。


「まずは名前から練習してみようか。これから何度も書くことになるから。」


 お祖父様はさらさらと鉛筆で、「アランディル•イグルートン」と書いた。お祖父様の字はちょっと角張っているが、大きく分かりやすい字だ。


 アルも真剣な目でその様子を見ている。


「何回か下に書いて練習してみなさい。」


「はい。」


 アルはその下に少したどたどしい字で、ゆっくりと書いていく。サラは自分の宿題は目の前に開きっぱなしで、アルの様子を心配そうに見ている。

 お祖父様は眼鏡のレンズが曇っていたのか、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、はぁーっと息を吹きかけて拭き始めた。


 そのレンズを透かして目元の皺をより深く刻んで二人の子どもに笑いかけながらヴァージェンスは口を開いた。


「アランドの古語はサランドと言うんだ。時代を経るごとに頭文字のS Sスーの音を発音しなくなったんだよ。サラの名前サランディナはその古語の方からとって、アルの名前のアランディルは逆に現代での呼び方からとったんだ。」



「お祖父様って本当にアランドの花がお好きね。2人の名付けに使うなんて。」


「サラの方はミレーヌが決めたんだ。君の母に伝えたのが私だ。厳密に言えばアルの名前もミレーヌが決めたようなものなんだ。」


「そうなの?それはどうして?」


「私はアルの瞳を見た時に、アランドの花を連想して、アランディルという名前を付けようと思っていたが、屋敷に帰ってきて、アルの部屋を作る為にミレーヌの物を片付けていると、戸棚の奥から見慣れぬ箱が出てきてな。その中にはアランディル・イグルートンと刺繍されたハンカチと「私たちの新しい息子へ」と書かれたメモが出てきたんだ。これならもう、アルの名前はアランディルに決まりだろう?ミレーヌは少し先見の力があったからな。この事が見えていたのかもしれない。」


 ヴァージェンスは部屋にかけられているミレーヌとの肖像画に優しく微笑みかけながら話した。その肖像画の中の彼女は若い頃のもので、桃色の頬に輝かんばかりの笑みを浮かべて嬉しそうにこちらを見ている。


「お祖母様ったら、私にもアルが来るのよって教えてくだされば良かったのに。」


「ミレーヌは先見の力に関しては慎重だったからな。大抵は朧げにしか分からないし、間違っていても困るからと言って私にもほとんど教えてはくれなかったよ。」


 ヴァージェンスはそう言って立ち上がると、ゆっくりと部屋のガラス窓付きの本棚から、少し表紙が傷んだ植物図鑑を取り出した。アランドの花の頁がよく見えるようにサラとアルの前に置いた。


「君たち二人の名前に使われているアランドの花は〝春の女神の足音〟だ。寒く厳しい冬が終わり、芽吹きの春の訪れを一斉に教えてくれる。それにこの花は地上に出ている部分よりも何倍も深く根を張っているから少々上から踏みつけられたところでびくともしないんだ。君たちはこれから長い人生楽しいことばかりではなく、悲しいことも辛いこともあるだろうが、決して諦めず幸せにおなり。」


 そう言ってヴァージェンスは二人の頭を撫でた。


「分かったわ。」

「分かりました。」


 サラはヴァージェンスにいつもと同じように少し微笑みながら返事をした。


 一方アルは唇を噛み締めて、大きな瞳を潤ませながらヴァージェンスを見上げた。



 ヴァージェンスは手を二回軽く打つと、こう言った。


「じゃあ、また少し集中してやってみようか。」


 


 その後、二人はしばしの間目の前のことに取り組んだ。


 サラはキリの良いところで、ふと隣を盗み見た。アルは脇目も振らずに何度も何度も自分の名前を書いていく。字を見ると、最初の一つ二つは少し歪んだり、崩れているが、それ以降はどんどん粒が揃って手本の字に近づいていっているのが分かる。やはり几帳面な性格なのだろう。書き始めはきっちり文字の頭が揃っている。


―初めて文字を習うにしては、年齢が2つも上だということを考えても飲み込みが早いのではないかしら。


 サラがよそ見をしているのを発見したヴァージェンスはサラのノートを覗き込んだ。


「サラはもう出来たのかな?アルはとっても字が綺麗に書けているね。君は上達が早いよ。他にもいくつか書いてみようか。」

 

 ヴァージェンスに褒められたアルは一瞬こちらがびっくりするほど嬉しそうに微笑んだ。しかしすぐに少し恥ずかしく思ったのかちょっと俯いて、口元に右手を当てた。その手を外す頃にはまたいつものアルの顔に戻っていた。


 

 サラは垣間見えたアルの感情が嬉しくて、こぼれた笑顔が可愛くて、自分もアルに何か伝えたくなった。


―私だってアルに笑って欲しい。


「あ、アル!私も、お祖父様と同じことを思ったの。すごく字が上手くなってるわ。」


 アルはこちらをチラリと横目で胡散臭げに見た後、ニッコリと笑って、「ありがとう。」と言った。


―ああ、お祖父様とのこの落差よ。でも、年下の子に上手くなったねと言われても嬉しくないか…。





 結局その日の午後には、サラと母は自宅に帰って行ったのだった。サラはこの後、少しでもこの新しく出来た家族と仲良くなる為に、毎週の休みにこのリンドークのお屋敷に馬車を走らせることとなるのだった。

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