6 その夜
薄闇に包まれた窓の外からカランコロンと6つ目の鐘が鳴り、サラは読みかけの本に栞を挟んで脇机に置いた。
もう夕食の時間だ。
食堂に移動すると、サラ以外の面々はもうテーブルについていた。
「わぁっ!今日はご馳走ね!」
テーブルの上には大皿で今の季節にしか味わえない旬の野菜がふんだんに使われたサラダと前菜が彩り良く盛られている。冬は保存食が多くなる為、生のまま味わえるだけでご馳走だ。
席に着くと、給仕が私とアルのグラスに春苺のシロップを落とし、その上から炭酸水を注いでくれる。ヴァージェンスとユーラは麦酒だ。
ヴァージェンスは白く泡立つグラスを持つと、立ち上がった。
「今日は久々の再会とアルのイグルートン家への歓迎を込めて。さぁ、乾杯しよう」
「「「乾杯」」」
「アル、うちにはもう一人15歳の、パーヴェルがいるの。また会うこともあると思うけど、よろしくね」
ユーラはアルに向けて親しげに微笑んだ。ヴァージェンスから事情を聞いて家族として迎え入れることに納得したのだろう。アルは穏やかに笑みを浮かべて「はい」とユーラに返した。
食事が始まる。
そっと横目でアルの様子を伺うと、姿勢も良く、優雅な手つきでカトラリーを操っている。食事のやり方でもし分からないことがあれば、教えてあげようと思っていたのに、まるでずっとそうしてきたかのように自然だ。貴族の子どもたちと交流することもあったが、その子たちと比べてもなんら遜色がないだろう。
―アルは一体今までどんな風に生活していたのかしら。
元々の顔の造作もあるが、非常に整った顔をしているし、もしかしたらお祖父様がどこかの貴族の妾腹の子を連れてきたのかもしれない。そんなことを考える程度には、アルは違和感なくここの雰囲気に馴染んでいた。
サラの大好きなシチューともっちりとした白いパンが盛り付けられた皿が目の前に運ばれる。ひと匙すくって口に入れるとよく煮込まれた肉と野菜の旨みが咥内に広がる。
―ああ、幸せ。春の恵みだわ。女神様ありがとう。
しばし料理を堪能してると、アルが住んでいた地方の食事が気になり始めた。フィオレント王国の北と南ではとれる作物も違うので、食事内容も違うと聞いたことがある。交流を深めるべく聞いてみようと思った。アルの方を見て、食事の邪魔にならないタイミングを見計らって話しかける。
「そういえば、アルが住んでいた所ではどんなものを食べていたの?」
アルは少し戸惑い、助けを求めるようにヴァージェンスを見た。
ヴァージェンスはそれに頷きを返し、代わりに口を開いた。
「去年からの不作で飢饉まで起こっていただろう。かなり厳しいものだったよ北部の方は。穀物の値段は高騰していたよ。あの辺りの街は帝国からの輸入品も入るんだが、商人が揃って値段をつりあげていたね」
―あぁ、アルには酷な話題だった。
飢饉まで起こっていたならば、とても楽しむ為の食事など出来る筈がなかっただろう。それはアルの華奢な体躯と昼にした会話で容易に想像がついたはずだ。
―思いついた事をそのまま話すと誰かを傷つけることがあるから、ちゃんと自分の中で吟味してから話しなさいとこの前もお母様に言われたばかりなのにまたやっちゃったわ。
サラは内心で反省しつつ、話をずらして今回の旅のことを話し始めたヴァージェンスに密かに感謝した。
「お祖父様、私アルのこと自分の弟だと思ってしっかり守ってあげるわ」
とりあえず使命感に駆られて、宣言した。
「おやおや、アルはサラの2つ上なんだよ。サラは自分より下の子が欲しかったと思うけど、残念だったね」
ヴァージェンスはからかうような顔をしてサラを見る。
「え?!そうなの?!こんなに小さいのに?!」
―ガチャン
和やかな空気を裂くように音が大きく響いた。
サラはその皿とカトラリーの不協和音が誰かの悲鳴のように聞こえた。
アルの手からナイフが落ちて皿に当たり、コロリと転がったそれは、白いクロスの上に茶色いソースの染みを点々とつけた。
「あらアル、ナイフを落とすなんてお行儀が悪いわよ」
少しお姉さんぶってサラはアルに指摘すると、アルはキッとサラの方を凝視した。
「うるさい!お前になんか言われたくない!」
椅子が床と擦れてギィーーっと音が鳴る。アルは立ち上がって、顔を真っ赤にしてサラを睨みつけるが瞳からはポロポロと涙が零れた。
「どうしたの?いきなり」
サラはそっと手を伸ばしたが、アルはギュッと眉間に皺を寄せて怯えるようにその手を振り払った。
ヴァージェンスは立ち上がりアルの手をとって座らせようとしたが、何かに気づいたようにアルの顔を見ると、もう片方の手でサッとアルの額に手を当てた。
「熱があるんじゃないか?無理はしなくていい。今までの疲れが出たんだろう。部屋に戻ろうか」
アルは力無く頷いた。
ヴァージェンスはアルの小さな肩に手を添えて、侍女のラーラに指示を出すと、ゆっくりとアルに歩調を合わせて部屋に戻った。
二人が出て行った食堂はなんだかぽっかりといるべき人がいない寂しさと沈黙が落ちているみたいだった。
八の字眉になったサラはしょんぼりと皿に残る付け合わせの馬鈴薯をスプーンでつつく。
「ちょっとサラ、そのスプーンお行儀悪いわよ」
「分かってるわ」
皿の上にため息を一つこぼす。アルともっと仲良くなりたいのに、尽く上手くいかない。サラはアルが来てくれてとても嬉しいのだ。ヴァージェンスの屋敷に来るのはとても楽しみにしていたが、同じ年頃の子がいるとなると、できる遊びの幅がぐっと広がるだろう。明日からどんな遊びを一緒にしようかと楽しみに考えていたのだ。
「ああごめんなさい。なんだか上手くアルと話せなかったわ」
サラはぬくもりを求めるようにユーラの手に自分の手を重ねた。
ユーラはそれにもう片方の手を上から押さえて言った。
「しょうがないわ。体調が悪い時は誰しも余裕が無くなって、ちょっとしたことに気分が波立つものだから。私たちがアルの体調不良に全然気づけなかったのも悪かったわ。また落ち着いた頃に話してみましょう」
「そうしてみる。そういえばお母様。どうしてアランディルなのに愛称をアルにしたのかしら?普通はアランじゃない?」
ユーラはグラスの麦酒をまた一口飲んで、その問いに答えた。
「アルの元の名前はアルートというそうよ。お父様の養子にするということで貴族の名前に多いアランディルという名前に変えたんですって。だからアランではなく、私たちだけでも元の名前の愛称であるアルという呼名で呼んであげようと思ったそうよ。名前というものは子どもに対する最初の贈り物ですからね。改名してしまっても元の名前を尊重してあげたいと思ったんでしょう」
ユーラの瞳に微かに痛ましげな色が浮かぶ。同じ子どもを持つ親として、子を残して死んだアルの母に同情する気持ちもあるのだろう。
「そうなのね」
サラはそう言うと、皿の残りを黙々と食べた。
◆
寝る前にアルの様子を見に行くことにした。「私は多分行かない方がいいわ」とお母様は言って、自室に戻ったので一人だけだ。
アルはヴァージェンスと続き部屋になっている祖母のミレーヌが使っていた部屋にいるらしい。アルに会った時、どう謝るかを気持ちゆっくりと歩きながら考えた。
扉の前に来ると、何だか中から苦し気な声がする。心配になってそーっと開けると、部屋のベッドの脇にヴァージェンスが座っているのが見えた。明かりは少し落としており、薄暗い。
サラはヴァージェンスの側に近寄ってベッドを覗き込むと、アルはふうふうと息を吐きながら、うなされるように何か呟いている。
「嫌だ。嫌だ。サバッカンになんてなりたく無い。嫌だ。嫌だ。嫌だ」
サラはパッとすぐそばにいるヴァージェンスの方に振り向いた。
「ねぇ、お爺さまサバッカンってなぁに?」
「ああサバッカンか…。サラ、それは……」
ヴァージェンスは少し躊躇いながら目を伏せて、アルの顔にかかった髪を毛むくじゃらの指で撫で付けてあげた。そして嘆息した後、私の背中に腕をまわした。
「それは今その意味は君には伝えられない。賢い君ならその意味にいつか気付くかもしれないし、アルが自分で君に伝えるかもしれない。でも今は何も考えずに聞いたことを忘れておあげ。それはアルにとって確実に辛い思い出に直結した言葉だから」
ヴァージェンスは苦味を感じているような顔をしながら話してくれた。
「よく分からないわ、お祖父様。でもとりあえずアルが言っていたことは誰にも言わずに胸の奥にしまっていたらいいのよね」
「そうだよ。もしそんなアルが心配ならば、明日の朝に悪夢を払うおまじないをしてやってほしい。きっとアルには必要だからね」
サラはヴァージェンスにぎゅっと抱きついて、パイプの匂いと夏の楠の木みたいな匂いを吸い込んだ。
「分かったわ。明日起きたら、またここに来ておまじないをしてあげるわ」
ヴァージェンスは大きくてシワの寄った手で頭を撫ででくれる。サラはいつもヴァージェンスに撫でられると泣きたいくらい安心する。
「いい子だね。私のかわいいサラ。ではそろそろ寝支度をしてしまいなさい。私ももう部屋に帰るから部屋まで一緒に行こう」
「ええ」
ヴァージェンスと手を繋ぎながら、部屋を出る。扉を閉める時に、隙間から見えたアルはやっぱりすごく苦しそうだった。