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花の標べ  作者: 一ノ関珠世
第一章
6/30

5 自室にて2

灰色の雲が厚く空を覆い、雨が霧のように降る朝だった。部屋が薄暗かったせいかアルはいつもより遅い時間に目が覚めた。ふと隣の寝台を見ると、口をぼんやりと開けたまま母はもう息をしていなかった。



 のろのろと起き上がり、女将さんにその事を告げ、かねてより確認していた手順で役所へ届け出をし後始末をつけた。墓石を誂えうる程の金は用意出来なかったし、手伝ってくれる男衆にも心当たりが無かったので、手押し車と大きなスコップを借り、その上に古い毛布をかけた母の遺体を乗せた。


 普通なら神館から神師に来てもらい、墓地に埋葬するが、相応のお金を包めない場合は、「死を(いた)む丘」と呼ばれるところに埋めることになる。


 アルは酒場の女将さんに挨拶をして、手押し車の持ち手を握り込み、街から少し離れた丘の上にある「死を悼む丘」へ向けて歩き始めた。少し進んだ所で、女将さんが母の使っていた我が家で唯一の陶製の皿を葬送の手向けとして割る音が聞こえた。



 

 死を悼む丘に着くと、マーリー風邪のせいか、新しい盛土が多く見える。今自分は死者達が多く眠る場所に立っていると思うと、生きている自分と死なざるをえなかった彼らにどんな違いがあったんだろうとどうせ答えなんて出ないことを考えてしまう。


 埋めるのに適当な場所を見つけるのも大変だった。登ってきた所から反対側まで来て、アルはスコップの刃を突き刺した。朝に降った雨のせいで土はしっとりと湿っている上に、痩せ細った子どもの腕ではなかなか思うように掘り進めることが出来ない。すぐに息が上がって苦しくて目がまわりそうになる。


 連日の看病と食料不足でアルの身体も限界だった。近くの大きな石に座り込んで、ポケットに入れていたパンを囓った。固くパサついたパンは乾いた口の中ではなかなか飲み込みにくく、水を持って来なかった事を悔いた。



―ああ、疲れた。



 そう思った途端、顔が割れそうなくらいの気持ちの塊が込み上げてきた。泣くつもりなんてなかったのにあとからあとから涙が出てきた。悲しいとか、辛いとかそんな単純な感情じゃなかった。そもそも母さんのことなんて好きじゃなかった。嫌なことも沢山されたし、他の家の子のように抱きしめられたことなんか無かった。どれほど女将さんの親子が羨ましかったことだろう。母さんはずっと誰かの愛ばかり欲していた。


 それでも。


 それでも、いなくなってほしい訳じゃなかったのに。


 アルは幼子のように母のドレスの裾を握って全身を震わせながら泣いた。口から漏れ出る嗚咽はどんどん大きくなり、最後は辺りに響き渡る程だった。




 日が傾き、熟れ爛れた果実のような色に空が染まりはじめた頃、風の冷たさに身がしみるようになってきてはっと我に返った。結局泣くばかりで、ほとんど掘れていない。吹きさらしの中母の遺体を置いておく訳にもいかないし、暗くなるまでに掘れるほどの体力は残っていない。もうどうしようかと途方に暮れた。


 そんな時だった。後ろからあったかい声が聞こえたのは。


「君一人で掘っているのかい?」


 振り返ると二人の男が見えた。突然で声が出なくて、急いで頷いた。


「手伝おう。君一人じゃ大変だろう」


 その声は激情が過ぎ去った後のひび割れた心にじんわりと染みてきた。久しぶりの他人からの優しさが、あったかくって切なくて枯れたと思っていた涙がまた零れた。





 初めて見たヴァージェンス様は夕陽に照らされて茶色の髪がより暖かな赤い色合いに見え、暗めの瞳はこちらをいたわるように細められた。何故か一目見た瞬間、この人は自分にとって害が無いと判断できるような、妙に警戒心を解かせるような人だった。もう一人の壮年ながら、分厚い岩の壁のような身体をしているのはカランギルス様というヴァージェンス様の従者だそうだ。どちらも見るからにしっかりとした縫製の使い込まれた外套を着ていたが、そんな高価なものを纏える位の人ならばこの死を悼む丘には用はない。ここに埋葬されるのは墓が用意出来ない程困窮した人々なのだから。


 訝しく思いながらも、泣き疲れた後の頭はどんよりと濁っていて、その二人に問われるままにぽつりぽつりと答えることしかできなかった。二人はこの辺りに伝わる昔話や習俗を調べているそうで、死を悼む丘にある碑を確認しにきたらしい。



 その間もヴァージェンス様はカランギルス様と時折交代しながら大の男が使うには少し小さめのスコップでどんどん掘っていった。少し暗くなって来た為、カランギルス様は近くの森から薪を拾ってきて火を熾してくれた。


 ヴァージェンス様はアルと目線を合わせる様に正面に座った。


「これから身を寄せる親戚はいるのかい」


 そんなものいなかった。父親は結局どこの誰かは分からなかったし、母さんも死んでしまったからこれからも分からないままだろう。母さんは幼い頃、農村の口減らしとして娼館に売られたので、親戚として付き合いのある人なんて誰一人いやしない。


 少しの逡巡の後、自嘲するように言った。


「親戚はいません。最悪自分の身を売ればどこかに寝ることはできるでしょうけど」


 自分の価値ぐらいは知ってる。華奢なこの腕は力仕事には向いてない。酒場の手伝いだけじゃ今の部屋を借りることすらできない。自分が人より秀でているのはこの容姿くらいだ。自分を買っていたあのお屋敷はどこにあるかは分からないままだが、この辺りの金持ちの屋敷をしらみつぶしに探せば行き当たる可能性は高いだろう。あそこでは他にも何人か飼っていたから、交渉次第では置いてもらえるかもしれない。



「そうか。では一緒に来るのはどうだい。ここで出会ったのも何かの縁だろう。家に帰っても、我が家には家族は誰もいないんだ。子どもはもう結婚して外に出てるし、妻には先立たれたしで独り身なんだよ。部屋は沢山空いてる。なんなら養子になってもいいしね」



 一瞬何を言っているか理解できなかった。

焦ったようにカランギルス様がヴァージェンス様を見る。


「え?!何言ってるんですか。今度は子どもまで拾うんですか?!」


「何を人聞きの悪いことをいうんだ。またお前は私がなんでもかんでも道に落ちてる物を拾ってるみたいに言う。私は深謀遠慮の末、これだと思うものを拾っているんだ」


「いやいや、いつも拾ってるモノと一緒に出来ないでしょう。人間の男の子ですよ」


 ヴァージェンス様はカランギルス様の言葉もどこ吹く風の様子で立ち上がった。


「自分で言っててとても良い案に思えてきたよ。これも女神様のお導きだ。ほら妻の最期の言葉はこのことだったんだよ。この子の瞳はアランドの花の色じゃないか。そしてこの黒髪。この場所で出会ったというのも神に仕組まれた運命みたいだ。しかも今は冥府の神が支配する黄昏時だよ」


 そう言うと、ヴァージェンス様は春の女神ナディヴァーチェと冥府の神の話をしてくれた。


「君は知ってるかな?今では春の女神として有名なナディヴァーチェ様は元々このあたりでは夫婦神として信仰されていたんだ。今でも近くの農村では春訪祭の日には細い枝を集めて作った二体の人形を朝日が一番始めに当たる部屋に飾るそうだよ。ナディヴァーチェ様は生命の始まりの神であり、暁を支配する神だ。それの対になる神は生命の終わり、黄昏時を支配する冥府の神だったんだよ」


「ナディヴァーチェ様は天神ヴィシュカルマンの妾妻の一人じゃないんですか?」


 アルはおずおずと問いかけた。

 アルは10歳だ。半年程前に洗礼式を行ったが、その際に神館で聞いた話を思い出したのだ。この世界を作った天神ヴィシュカルマンは正妻の地神であるヴァーチェンダ、季節を司る四人の妾妻がいる。その一人がナディヴァーチェだったはずだ。


「いい質問だ。実は時代の変遷とともに、帝国から流れてきた信仰と一緒になったり、変わってしまったりした部分があるんだよ。そこのところはまた詳しく教えてあげよう。

では、先ほどの話に戻るぞ。


 二人はとても仲の良い夫婦だったんだけど、どうしても子どもが無事に産まれてくることができなかったんだ。夫の力が強すぎたんだね。何度も子は出来ては産まれる前に流れてしまったんだ。


 そこで夫は妻に言った。「私たちの子が無事に産まれる為には私が近くにいてはいけない。私は地の深くに潜ろう。でも忘れないで、私の目の色と同じアランドの花を通して君たちを見守っているよ」そう言って、地の深くに潜った。二人の子どもは無事に産まれて神々はとても喜んだ。その喜びが春になったそうだよ。そして、その季節には地中深くまで根を張るアランドの花が咲き誇るようになったんだ。


 この辺りの農村に伝わる昔話だよ。君は聞いたことがあるかな?」


「いいえ。うちの母はこの辺りの生まれでは無かったので」


 少し俯きがちに話した。

 するとヴァージェンス様は「そうか」と短く答えてカランギルスさんの方に視線を戻して、大仰に両手を広げた。


「ほら、ジョシュア・カランギルス。考えれば考えるほどぴったりじゃないかね?」


「ぐ…確かにそうかもしれないですけど、養子にするのは行き過ぎじゃないですか?使用人として雇えばいいでしょう」



「いや、この子を養子にするよ。大きくなった時にまた平民に戻りたければ戻ればいいし、教育を与えるにも養子にした方がやりやすいだろう?その逆は難しいんだから、選択肢が増える方がいいに決まっている。爵位は息子にもう譲っているから、今さら後継者争いにもならないだろう」


 カランギルスさんは呆れたようにため息をついて、空を見上げた。


「まぁ、ヴァージェンス様がそれでいいならいいですけど。どうせ前イーグルトン伯は変わり者で有名ですからね。また一つ噂が増えたところで大したことはないでしょう」


「さぁ、ここまで聞いてどうかな。一緒に来ないかい」


 ヴァージェンス様は大きな手をアルの目の前に差し出してくれた。アルはこうして差し伸べられた手が夢かと思いながらも急いで握った。まるで、早く握らないと消えてしまうかのように思えたからだ。その時の自分が冷静な判断が出来たとは思えない。でもこの機会は逃しちゃいけないものだと、何故か確信していた。


「はい。お願いします」



 その後、掘った穴に母を埋葬し、カランギルス様がどこからか摘んできてくれたカランナの赤い花を供えた。




 ヴァージェンス様に出会えたことは神に感謝してもいいと思えた。

 出会えなかったら自分はどこかの路地でひっそりと息をひきとったか、自分の意思を封じて奴隷のように誰かに奉仕していたのだろうから。



 ただ、今は優しくしてくれるヴァージェンス様だって、もしかしたら自分の事を嫌になったり、飽きたりして、またあの生活に逆戻りすることだってあるかもしれない。もしくは、育てた上であの屋敷の夫妻のようなところに売られるかもしれない。この生活に慣れてしまうことは危険だ。と自分に何度も言い聞かせる。失望には慣れているつもりだ。




 ふと今日出会ったサラのことを思い出す。背筋がすぅーっと伸びていて、血色のいい頬に、薄いグリーンの瞳が楽しそうに輝いていた。たっぷりの肥料と水と陽の光を浴びて健やかに育った若木のような女の子。今まであんな女の子見たことなかった。

 周りからの愛情も疑いもせず呼吸をするように受け取って、爪の先まで濁りがないみたいだった。


 そして、儀式の様子はいま思い出しても不思議な光景だった。実は夢だったのではないかとも思える。キラキラとした光の粉がすうっと空気に溶ける様は美しく、まるで森に住んでいるという妖精のようだった。


 自分が人にそんな感想を抱くなんて。


 らしくないとは思う。今までさんざん作り物の笑顔で色々な事を誤魔化してきたのに。人間の薄汚れた面なんて吐く程見てきたし、そんなすぐ人を信じられる程警戒心が無いわけでもなかった。あの街では半人前とはいえ大人として扱われていたけど、ここでは完全に子供扱いされるからだろうか。ここにいるととたんに弱々しい幼子に戻ったような気になる。



 サラ本人にも好感が持てた。アルが不快に思わない、近過ぎもせず遠過ぎもしない丁度良いくらいの距離を、慎重に見極めてくれていた。その癖自分がギュッと奥に押し込んでた柔らかい感情を揺さぶられるような、そんな人だった。



 編んでくれた三つ編みに手を添える。まだほんのりと熱が残っている気がする。欲の混じらない触れ合いにほっとした。不快じゃない。



 目を閉じた。ゆるゆると意識が解けてゆく。ほんの少し、ほんの少しだけねむろう。

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