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花の標べ  作者: 一ノ関珠世
第一章
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4 自室にて

今回は表現はマイルドですが、児童虐待の描写があります。読みたくない人は読まないでください。アルは色々苦労があるんだなぁと思って貰えればいいです。

マーリー風邪のモデルは、書いた当初インフルエンザを考えていました。


この部分は実は11月の時点で書いたので、今流行りのコロナウイルスを意識して書いたものではありません。しかし、不快に思う可能性のある方は読むのをお控え下さい。

 アルはヴァージェンスに与えられた部屋に戻り、ベッドに横になった。肌に触れる布の質感は上等で、もちろんすえた臭いなどしない。シミや黴で黒ずんだ天井なんて、どこかからか聞こえてくる罵声や嬌声なんてどこにもない。この部屋は客室やヴァージェンス様の居室が並ぶ二階にあるので、使用人の足音が時折響くくらいで、とても静かだ。窓の外の風に揺すられる葉擦れの音や鳥の囀る音が聞こえてくるぐらいには。


 身体が少し怠く布団に沈み込んでいきそうなほど重くなってきた。ここ数ヶ月慣れ親しんだ熱がアルを呑み込み始めたようだ。

 しかし頭のどこかが妙に興奮してさえざえとしているのを感じる。目を閉じて、とりあえず慣れない景色を締め出した。



 ここ2ヶ月程でアルの状況はめまぐるしく変わってしまった。朝、昼、晩と暖かい食事を欠かさずとるようになったし、1日の終わりにはふかふかの布団に包まれて眠るようにもなった。小銭が落ちていないか石畳みの溝を舐めるように見ながら歩くこともなければ、空腹で夜中に目を醒ますこともない。身体は与えられるものを快く受け取り、充足することを覚えた。当初は気後れしながら使っていたこの部屋でもくつろげるようになってきた。

ただ無条件で甘いお菓子を与えられると困惑した。ここに来るまでは甘いおやつは苦い行為でしかもらえたことはなかったからだ。



―ああ、僕の身体は本当に意気地が無い。すぐに楽な方へ流される。




アルはぐっと奥歯を噛み締めた。



 アルの母は酒場で働いていた。金を払えば二階の部屋で男たちの相手をするような店だ。昔は名のある娼館で働いていたそうだが、アルの妊娠を機に暇を出されたらしい。



 ある金持ちの男に心底惚れ込んでおり、一緒になりたかったそうだが、妊娠を告げると逃げられたそうだ。語っていた身元は嘘八百だったようでその後の行方はようとして知れない。

 堕胎しその娼館で働き続ける道もあったが、結局大きくなっていく腹に(ほだ)されて産むことを決めたらしい。



 とはいえ10の歳に娼館に売られた娘が突然外の世界に出て伴侶もなく生きていくのは厳しすぎた。金の使い方も知らない18歳の娘はあっというまに貯金を使い果たし、借金を作り再び身を売っていくしかなかったのだ。借金取りの男に斡旋されたのがその酒場兼宿屋だった。



 近くの集合住宅に狭い一室を借り母子二人で住んだ。母は客がいない時はよく昼間から酒を飲んだりして時間を潰していた。酒を飲む度に「おまえなんか産まなきゃよかった。私の人生を狂わせやがって。」と頬を張られることもあったが、その酒場の手伝いをしてアルが稼ぐようになるとそれもピタッと止まった。代わりにおもねるような目で金をせびるようになった。



 アルが半人前ながら仕事をするようになり、生活が楽になるかと思いきや、ちっとも楽にならなかった。その金は母の衣服や男に貢ぐ金へと消え失せてしまった。アルの食事は大体後回しにされた。それを見かねた酒場の女将さんが手伝いの後に賄いを出してくれたが、それに加えて時々こっそりと客の残したパンの切れ端やスープを食べさせてくれた。

 それでもとても成長期の子どもの身体には足りなかった。


 いつも腹が空いていた。



 ある日母親に髪を切られ、どこからか持ってきた小綺麗な服を着せられ、初めて馬車に乗った。その年は小麦が不作で、価格が高騰し、なかなか食べ物を手に入れることが難しくなってきた頃だった。

 その時のことは今でも覚えている。母は一張羅のドレスに大ぶりのブローチを付けてとても上機嫌だった。馬車の座面は高級そうな布が張られており、汚さないか酷く不安になったし、ごとごと揺れる為に馬車から降りる頃には気分が悪くなってしまった。




 着いたのはどこかのお屋敷だった。

 母は近寄ってきた陰気な顔をした枯れ枝のような爺さんから(うやうや)しく金を受け取ると、「失礼な真似をするんじゃないよ。全て言うことを聞けば悪いことにはならないんだからね。」と変ににやけた顔をして言った。そうして入ってきた扉からまた外に出てしまった。


 その爺さんは、アルの前に立つと、

「甘いものは好きかね。飴をあげよう。ゆっくりと舐めなさい。ひひひひひ。」

(わら)って言った。

 不格好に飛び出た大きな歯の隙間から漏れ出るその笑いは不快だった。やけに骨ばった細長い指は黒いセロファンを剥き、中身を直接口に入れられた。初めての飴の味は舌にぴりりとした刺激と何かの香草のような複雑な香りと甘みが感じられた。



 その爺さんはアルが飴を口内で転がしているのを確認すると、階段を登り、主人のいる部屋に案内するとすぐにどこかへいってしまった。飴は徐々に口の中で小さくなり、それにつれぼんやりと思考がまとまらなくなってきた。馬車酔いの気分の悪さも尾を引いており、さらには風邪をひいた時のように身体が熱くなっていた。



 豪奢な部屋の中には身なりの良い夫婦が立っていた。男は髭が立派に生えており、鼻は鷲鼻で大きく身長は高かった。女は胸元のやたら開いたドレスを着ており、分厚めの唇が印象的だった。二人はお互いに目配せをすると似たような下卑た笑みを浮かべて近づいてきた。その後自分の身に起こったことは思い出したくもないことだ。自尊心は粉々になり、屈辱にまみれた苦い体験だった。結局母は自分を売るだけでなく、息子をも売ることにしたようだ。



 それから週末はその屋敷で過ごすようになった。不思議なもので、最初は嫌で嫌でしょうがなかった行為も、回数を重ねるうちに嫌悪感は薄れていった。流される方が楽であったし、その方が痛みは少なかった。とはいえ一つ自分にとって利益があるとするなら腹がくちくなるまで食べられることだった。甘いモノが好物だと分かるとことあるごとに褒美として用意された。成長することを求める幼い身体は絶えず栄養を欲しており、その「仕事」で腹が満ちるならいいじゃないかと、自分を無理やり納得させた。



 突然羽振りのよくなった母のおかげですぐに住んでる界隈には噂が広がった。その屋敷の夫人から服も贈られたために身につける服の質は格段に良くなったが、女将さんや街で会う人の目には憐れみと蔑みが混じり、余計に惨めな気持ちになった。女将さんの息子はそれまではよく二人で遊ぶことも多かったが、時折顔を合わせることがあると気まずげに視線を逸らし、逃げるように部屋に入るようになった。それまでは酒場の手伝いの合間にも手助けをしてくれたり、外の遊び場まで連れて行ってくれたりと兄の様な存在だっただけにアルにとってそれはかなり堪える出来事だった。


 それもアルが明らかにその年には似合わぬ艶を纏い始めたというのも一因だった。その屋敷に通うことによって栄養が身体に行き渡り、生来の美しさが際立ち始めた。陶器のように白い肌はしっとりと滑らかで、大きな目を濃く縁取る睫毛、すらりとのびた手足は未成熟な危うい色気を放っていた。また所作も洗練されてゆき、歩いているだけで、その街では目を惹くようになっていった。酒場では男女問わず絡まれることも多くなったが、適当に笑ってあしらうことを覚えた。屋敷での「仕事」以外はしないことで、アルとしても自分の矜持(きょうじ)を守っているつもりだった。



 それから半年後、あのマーリー風邪が流行った。



 街の人の噂だと、ヨゼット山脈の麓の村から広がったそうだ。アルが住んでいたヌースカから北にヨゼット山脈があり、その中にひときわ高く聳えるのがガラ山だ。ガラ山は聖なる山とされており、そこから吹き降ろされる風に乗ってマーリー風邪がやってきたとまことしやかに吹聴されていた。ガラ山の神は試練の神だ。我らを試し、選別しているのだろうと。



 では試練の神は我らの何を試したかったのだろうか。所持している財産か、病を寄せつけぬ健やかな身体か、それとも善良な魂か。善良な魂は無いだろうな。マーリー風邪は猛威をふるい、体力が無く栄養がろくにとれていない無垢な幼子から(ほふ)っていったのだから。


 生死の分かれ目は単純に金を持っているかどうか、病と闘える身体を持っているかどうかだった。医者を呼び、食べ物や薬を買える病人はマーリー風邪を克服し、生き残れる可能性が高かった。病の流行とともに誰もが外出を控え、街はどんどん陰鬱に荒んでいった。そこかしこで咳の音が響き、より大きく響く音を聞きつけて死神は舞い降りた。




 そんな中週末の馬車の訪れは突然止まった。

あの屋敷の人もマーリー風邪にかかってしまったか、それとも平民街から病を呼び込みたくなかったかのかもしれない。コツコツと貯蓄に励むことなどしていなかった母は半狂乱になった。そしていつの間にか母も病に侵されていった。

 女将さんに伝えると、母も自分も体調が元に戻るまでは来なくてもいいと言われた。その頃にはこの街の人々にはもう酒場にこれる様な余裕は消え失せており、来たとしても自棄をおこした客が数人で飲んでゆくばかりだった。酒場はそもそも給金が出せる状態でも無かった。人々はどんどんと内向きになり、自分の近くのものを守るだけで精一杯だった。あとは病が収まっていくのを粛々と耐え忍ぶしかなかった。




 アルは少しづつ貯えていた自分の金を切り崩し、酒場の女将さんに渡すと農村から伝手を使って仕入れた飼料用作物のバクスを分けてくれた。薬は高価すぎて手が届かなかった。

 結局アルには食事を食べさせ、額の上にのせたタオルを定期的に取り替えることしかできなかった。母はどんどん死に向かっていくのが分かった。じきに用意した食事も飲み込まず、唇の端からだらだらと溢れてしまうようになった。目はうつろになり、吐く息は熱く弱く感じられた。感染を防ぐ為に口元は大判の母のストールを巻いていたが、そこに染み付いた母の匂いと自分の息の混じった匂いが余計にアルを重苦しい気持ちにさせた。


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