10 王女殿下の視察
午後の昼下がり、校舎を結ぶ渡り廊下を歩きながら僕は左手に嵌めた腕環に目を落とした。細身で優美なこの腕環に、陽の光がきらりと反射する。萌え出たばかりの様な早緑色の石を見ると、サラの瞳を思い出した。数多ある色の中で、この色にして良かった。いつでもサラを感じられる。
サラが僕との婚約を受け入れてくれて、本当に良かった。彼女のほっそりとした腕に自分の色が入った腕環を嵌めた時、僕の胸を満たしたのは確かな安堵だった。
ただ一つ誤算はあった。僕は素直にサラに今現在の気持ちを告げて、婚約の了承を得ようと思っていたのに、間際になってその時の話の流れに変に乗っかってしまった。サラ以外にあの腕環を渡す人なんていないはずなのに、変に誤魔化すようなことを言ってしまった。
原因は自分でも良く分かっている。臆病な僕は直前になって怖気づいてしまったんだ。サラなら僕を拒否するような事は無いと分かっているけど、サラは人付き合いにおいて変に潔癖なところがある。
そして僕も今の気持ちが恋愛としての愛なのか、家族としての愛なのか判断がつかない中で、下手な事を言って不信感を持たれ、切り捨てられるのも嫌だった。だから自分の気持ちよりも、彼女にとってどれだけ僕との結婚が利益をもたらすか、そんなことばかり並べ立ててしまった。
あれでは唯の利害一致の契約的な婚約としか思われていないのでは無いだろうか。
幸いにして、まだ正式な婚約までも時間はある。サラが王都の学校に進学したら、もっと一緒に過ごすことが出来るだろう。そうして少しずつでもサラと同じ時間が過ごせたら、二人にとってより良い関係を築けるんじゃないだろうか。
僕は、横に並んでいるマルトを見た。雀斑の散る鼻梁に、真面目な顔をしていても口角が少し上がっていて、いつも少し人を食った様な表情をしている。マルトは生粋の王都暮らしの貴族の家に生まれたからか、社交のこと、政治のこと、一般常識についてとても詳しい。「こんなの王都に住んでたら誰でも知ってるよ」と何でも無いように言うけれども、細かな貴族の縁戚関係や派閥のことなど、一緒に学校生活を過ごしているはずなのに、どこからか最新の情報を仕入れてくる。
冬のパーティの時だって、彼は貴重な助言ももたらしてくれた上に、その後も一般的な婚約の手順についても懇切丁寧教えてくれた。
◇
冬のパーティーが終わった頃、長期休暇を目前に控えて荷物の整理をしていると、寮でマルトとたまたま2人になる時間があった。ラナンとリックは掃除当番で、「時間に遅れる〜!罰則は嫌だ〜!」と二人で騒々しく外に出たばかりのことだった。
マルトは、早々に小さな革張りのトランクに荷物は詰め終えて、パラパラと雑誌を眺めていた。なめらかに紙面を滑っていた視線が、なにかを見つけたように僕の方を向く。
「アラン、君さ、確認なんだけどサランディナ嬢に他の男が近づくのが嫌なんだよね?」
突然そんな事を言われたので、僕は息を呑んだ。パーティの時の自分の態度がそこまであからさまだったかと思い、恥じる気持ちでマルトの言葉に頷く。パーティ中にも貴重な助言をもらったし、色々とマルトにはお見通しらしい。
頷く様子が子どもっぽく見えたのか、マルトはそんな僕を見て小さく笑う。ただし、僕を見つめる目は揶揄うような色は無く、真剣だ。その様子にほんの少し苛立ちが見えるのは僕の気のせいだろうか。
「君のその感情に名前が付いているのかどうかは知らないけれど、自覚したならすぐに行動に起こすべきだ。誰かに掻っ攫われた後に気づくことくらい馬鹿みたいな事はないからね」
彼のほんの些細な苛立ちが僕に伝染したのか、僕もなんとなく落ち着かない気持ちになる。手元にあった紙をくしゃりと握りつぶした。彼の目を見ていられなくて、そっと視線をそらしついでに紙をゴミ箱に放り込んだ。
丸まった紙は、放物線を描いて真っ直ぐにゴミ箱の底に着地した。
「どんな感情かなんて分からない。サラは他の男と話すよりも僕と話をして欲しいし、サラと密着して踊ろうとする奴は殴りたくなる。ただそれだけ」
一息に吐き出す様に言うと、マルトは吹き出した。何だか物凄く小っ恥ずかしいことを言ったように思えて、耳が熱くなる。腹を抱えて大笑いするもんだから、ちょっとムッとした。
「あはははは。アランって結構短気だよね。先輩にだって喧嘩ふっかけそうになるし、頭に血が上りやすすぎでしょ。サランディナ嬢を大事に思ってるんだね」
「小さな頃から一緒に育ったし、妹の様な存在なんだ。……どちらかというと家族に向ける愛に近いと思う。だから恋だの愛だの浮ついた感情ではないし、そんな一過性の熱病みたいなものじゃないんだ。きっと僕はサラが病気になっても、年老いても大事に思えると確信ができるんだよ。」
マルトは手元の雑誌をポンとテーブルに置くと、僕の方に身体を向けた。
「いいじゃないか。それなら尚更彼女の伴侶の座を早めに予約しておきなよ。彼女の一番近くにいられるのは間違いなく配偶者だし、婚約の腕環を嵌めてるだけでも虫除けになるからさ」
確かに自分以外の男がサラに近づくのは、どんな時であっても許し難いのだ。マルトの言う通り、サラに婚約の腕環を嵌めてもらう事はとてもいい事だと思える。問題はサラと結婚をすると言うことはまだ全然想像がつかないってことだけど。
「この感情が好きってことなのか?」
「さあね。僕にはそう見えるけれど、それを判断するのはアランじゃない?」
マルトはパチリと器用にウインクをして、僕の方をニヤニヤしながら眺めている。
僕は腹を決めた。
「……マルト、婚約ってどうすればいい?」
マルトはまた笑って、僕の背中をバンバンと叩いた。
マルトはその後婚約の手順について説明してくれた。細々と気をつけることを教えてくれるマルトの横顔には、苦さを感じた。出来れば自分がこういった手順で進めたかった、というような。僕にとって彼はとっても要領がいいし、何でもそつなくこなしているように見えるけれど、後悔をするような事が過去にあったのかもしれないと後で思った。
マルトの話を要約すると、まず僕がしなきゃいけないのは、現イグルートン伯爵に婚約の許可を得ること。基本的に結婚というのは家と家との契約に他ならない。なので、血縁があろうと友好的な関係だと目に見えて分かっていたとしても一族の長には許可を得る必要があるのだそうだ。
そこの許可が貰えたところで次の段階だ。サラの父親であるリンドーク伯爵にも打診をする。そこで問題がなければ一番大事な本人の承諾を得る。
最後にマルトは、
「婚約の腕環の注文は僕んちの商会に任せてよね」
とちゃっかり営業もかけていった。
以上により、僕は帰省の前にイグルートン伯爵に挨拶に伺うことに1日を使い、リンドーク伯爵やヴァージェンス様への手紙を書くのに一日使い、腕環の注文で1日を使ったのだった。
◇
今日は1限目が終わると、アナレイス校生が全員中央グラウンドに集合することになっている。部屋に勉強道具を置いた後、僕たちは早歩きで向かっていた。
「今日は珍しく全員集合なんだよね〜」
足はさかさかと動かしているが、妙に気怠い雰囲気を漂わせながらリックが呟く。ふわふわとしたミルクティー色の前髪が額に踊る。
アナレイス騎官学校には、時折スカウト目的で貴族や地方の騎士団から視察に来ることがある。学生の時から将来有望な生徒を確認しておいて、声をかけておくのだ。
ただ今回の視察では最終学年だけだったり希望者を募るわけでは無く、全生徒が集合させられているというところは珍しかった。
「第一王女の視察だなんて、おっどろきだよね。先輩に聞いたけど、王族が直接見に来るなんて前代未聞だってさ。人形みたいに整ったお顔をされてるけど、仮面の様に表情がかわらない傲慢なお姫様だっけ?どうせなら第二王女殿下が良かったなー」
マルトが言う第一王女と言うのは、この国の第二妃を母に持つ第一王女殿下ジェスティアーナ様の事だ。
現在のフィオレント王国の国王には子どもが3人いる。第一王子のカルミアス様、第一王女殿下のジェスティアーナ様、第二王女殿下のアンジェリーナ様だ。第一王子と第二王女の母親は王妃様の子だ。国王は王妃とのおしどり夫婦で有名だが、第二妃とは政略結婚のイメージが強い。
「でもさでもさ、そんな高級な美人をタダで拝めるなんてラッキーだな!ヒューー!楽しみー!」
ラナンは足どり軽やかにリックの肩に太い腕を回した。リックはそのままで、「暑苦しー」とぼやいてる。
「ラナンて本当に毎日幸せそー。第一王女殿下は確かオーアジェント帝国の皇帝と婚約してるんだろ?」
リックの言う通りだ。第一王女殿下であるジェスティアーナ様は、隣国のオーアジェント帝国の皇帝と婚約を交わしている。
8年前の北部の大飢饉の際に、我が国の王は食糧援助をオーアジェント帝国に求めた。その見返りにオーアジェント帝国の皇帝は、フィアレント王国の王女の一人を側室に迎えることを要求したのだ。北部の大飢饉は僕がまだヴァージェンス様に出会う前、ヌースカで経験したものだ。
オーアジェント帝国の皇帝は50を超えたところだが、まだまだ胆力は衰えを見せず、精力的に版図を拡大している。フィオレント王国はオーアジェント帝国とは友好関係を維持しているが、国と国との関係はいつどうなるかはわからない。数十年前までは、フィオレント王国はオーアジェント帝国の属国だったのだ。再独立した後も、虎視眈々とこちらの領土を狙っている。
「そのせいか酷く高慢だって話だよ。でも王女殿下がオーアジェント帝国に嫁ぐまでだから、選ばれたとしてもお勤めは長くて四年くらいだろうなぁ。期限が決まってるならいい経験になるし、箔がつくかもね」
そう話すマルトの声は、周りの音から際立つように耳に残った。
広々としたグラウンドに教官から名前を呼ばれた順番で並ぶ。僕は2年の列の一番前だ。
校舎から校長先生を先頭に、枯葉色のお仕着せを着た侍女を伴って第一王女がこちらに向かってくるのが見えた。脇には成人している近衛騎士が4人を従えている。
集団の真ん中にいる第一王女は、大きく波打つ豪奢な金髪で、日傘の陰でも光っている様に見える。やや細めの鼻梁と、抜き身の刃の様な鋭さを内包した菫色の瞳が少し尖った印象を受けた。そして顔は凍った湖面のように張り詰めていて、緊張しているようだった。
僕には彼女が高慢というよりは酷く孤独で、必死に虚勢を張っている湖の中の一羽の白鳥みたいだった。
まわりには茶色い鴨が何羽も寄ったり離れていったり自由に泳いでいる中で、一羽しかいない孤独な白鳥はゆっくりと音を立てずに湖面を滑っていく。
たっぷりとした袖から伸びる彼女の華奢な腕は陶器の様に真っ白で、陽の光とは縁遠い色をしていた。
第二王女殿下は慎重に一人一人を確認しながら、僕の近くに歩いてきた。さすがに王族の方を不躾に見るような事は出来ないので、振り向く事なく視線は前にいるイナス教官に固定している。
上空では雲が流れているのだろう。まだらな光が僕たちを染める。僕はじっと見ていたイナス教官の制帽についた徽章が交差する双剣と二つ野薔薇、抱き冠桂樹ということに今さらながらに気づいた。
コツ、コツ、コツ―――
足音が僕の真横で止まる。僕はこの一瞬が酷く長く感じた。静寂がより濃くなり、空気の密度が増しているように思えて僕は息をするのも躊躇いそうになる。
「貴方にするわ。名前を言いなさい」
決して声を張り上げているわけではないのに、彼女の控えめな声は頭に突き刺さるように響いた。
息が止まる。ひぅっと息を吸い込んで腹に力を入れた。
「2年アランディル・イグルートンです」
周りからの静かな注目を受ける間、僕は内心声が裏返らなかったことにほっとしていた。
今回の視察は異例尽くしだった。本来であれば、学生一人一人の希望は最大限考慮されるはずだった。卒業後の進路志望で地方騎士団を出していた僕は、間違えても第一王女殿下の護衛騎士の候補にすら上がらないはずだった。
王族の護衛騎士は出身や貴族同士の利害関係、様々なことを考慮され、決定される。こんな事前準備もなく、彼女が直接見て決定するなんてことはありえないのだ。
しかし後から聞き知ったことによると、第一王女殿下は非常に気難しく、今まで何人も護衛騎士が任命される度に数ヶ月で罷免してきたそうだ。「それならば、自分で選べ」と陛下から半ば呆れられながら言われたので、今回の視察となったそうだ。
僕は第一王女殿下から声をかけられた後、返事は保留にさせてもらった。正直僕にとっては第一王女殿下の護衛見習いに選ばれるなんて青天の霹靂だったし、養子であったとしてもイグルートン家に連なる者としてまずはイグルートン伯爵に相談すべきだと思ったからだ。
急ぎイグルートン伯爵とヴァージェンス様に手紙を送った。イグルートン伯爵からは、「王族に直接指名を受けるというのは大変に光栄なことである。出来る限り王女殿下の期待を裏切らぬように」と返事が来た。ヴァージェンス様からは「君が望むようにしなさい。どういう選択をしても君が考えて出した答えならば、きっといい選択になる」と。
この後、僕はアナレイス騎官学校に籍を置きながら、恐れ多くも国王陛下からの任命書をいただき、正式に第一王女殿下の護衛騎士見習いになることとなった。
後で思い返した時に、僕の人生の多くの分岐点の中でも、この日はかなり重要な一点となった。僕は何度もこの日のことを繰り返し思い出した。沢山の後悔とともに。
それでも所詮一枚の葉っぱのような僕は、突風で大河に落ちてしまえば、ただ沈まないように浮かぶことで精一杯になるしかないのだ。その間に握りしめていた大事な物を落っことしたとしても。




