6 試験
ちびた鉛筆の先で、終点を打つ。一段落ついたところで、僕は両手を上げて伸びをした。集中して提出しなければならないレポートをまとめていたから、身体の色んな所が凝り固まっていたみたいだ。
気分転換に周りを見回すと、寝ている奴や、鬼気迫る様子で資料をめくっている奴、ぼんやりと宙を見つめている奴と様々だ。人が沢山いるからか、皆静かにしているとはいえ、図書館の中も様々な音が聞こえてくる。
前期末の試験前一週間、この時期は勉強の為、図書館も教室も遅くまで人で一杯だ。厳しい訓練や実技が無いからといって遊び呆けてる奴なんか一人もいない。この試験に5科目落ちれば退学になる可能性があるから、どの生徒も必死で勉強する。しかもうんざりすることに同じ部屋の奴が赤点を一つでもとったりするとご丁寧にみんなで罰則を受けなきゃいけないんだから堪らない。僕は前期の中間試験で一度痛い目にあっていた。
ある程度目処がついたから、参考書を三冊程借りて、あとは自室で勉強することにする。窓から差す日差しはもう夕焼け色だ。そろそろ戻らないと夕食の点呼に間に合わなくなる。僕は図書館からは一番遠い場所にある一年生の寮を思い、心持ち足を速めた。
ここまでの準備は全て完璧だ。僕はニ週間前の事を思い出して満足げな笑みを浮かべた。
◇
前期の中間試験。僕はいつもの様に、教科書の隅から隅まで余すところなく頭に詰め込んでいた。試験勉強をするのは四角を塗り潰すのに似ている。まず真ん中を大雑把に塗った後は、丁寧に丁寧に角のところを細かく塗っていく。そうすれば、空白の余地は無くなり、完全に自分のモノにすることができる。僕の成績だけを見て天才と言う人もいるけれど、僕はどちらかというとコツコツ努力型だ。
僕にとって知らないことを知るということは、息を吸うのと同じくらい僕の人生に無くてはならないことだ。アナレイス騎官学校の授業は非常に高度な内容で、知的好奇心を大いに満足させてくれる刺激的な内容だった。僕はこの歴史ある学校に入ることが出来て本当に良かったと思うし、ここの生徒であることがとても誇らしかった。
もちろん訓練はとても厳しいけれど、その分身体は毎日新しく作り替えられていくように感じられる。成長痛を感じるくらい身長も伸びているし、身体の無駄な部分が削ぎ落とされ、筋肉がついていく。劣等感を感じていた華奢な肢体も、他生徒と比べても平均的な体つきにはなってきた。
そして僕はこのアナレイス騎官学校で優れた成績を残すことにも、なみなみならぬ執念を燃やしていた。首席で入学したからには首席で卒業をしたい。養子に迎え入れた子が優秀な人間だと評価を受けることは、ヴァージェンス様にとっても価値のあることに違いない。
そんな中、成績が貼り出された時の僕を想像してみてほしい。首位の欄に僕の名前が書かれてあったのは予定通りだ。まさか別欄にあるペナルティを受ける部屋番号に僕の部屋の番号が入っているだなんて。
通りがかった担当のイナル教官からは、「首席の部屋で、試験後のペナルティを受けるのは初めてだな。自分だけが結果を出すのではなく、まわりの底上げをするにはどうすればいいか、考えるのもまた勉強だ。励みなさい」と言われた。
僕は今までの自分の行いを振り返り、深く暗い後悔の海に溺れた。
毎日「アランー!宿題写させてくれよー!」と言うラナンとリックにほいほい見せてやっていたのは僕だ。宿題というのは、その日の授業の復習、そして次の日の授業の予習となるもの。自分でしなければ、ただの手の運動にしかならないのだ。そうして自分の頭を使わず、知識の定着がなされなかった結果が、この試験の結果ならば、僕がすべき事は明白だった。
「だぁぁぁぁぁぁぁ!座学って何の意味があんの?軍人なんだから取り敢えず目の前の敵ぶっ倒しゃそれでいーじゃん!」
ラナンは背をのけ反らせながら天を仰いだ。素早く僕は近くにあった消しゴムを握ると、ラナンの後頭部を狙って投げる。もちろん命中。
「阿呆。これだから脳筋は。戦争は個人競技じゃないからな。戦術を理解した上で、幾千の兵士を動かす立場になる僕たちはある程度の頭脳必要なんだよ。じゃないとこんな学校必要ないだろ」
「うげぇ〜正論過ぎてぐぅの音も出ねぇよぉ〜。外出てぇよぉ〜。剣持ちてぇよぉ〜」
「僕ラナンが隊長とか絶対嫌だなー。「突撃だー!撃破しろー!」て戦術も何もなく根性論で押し切りそー」
ギャハハと笑いながらラナンを揶揄うマルトは全ての科目大体平均点をとる。国内から選抜されたアナレイス校生の中で平均が取れるんだから、十分優秀だ。宿題もきちんと自分の力で解く事を大事にしているし、コツコツと実力を積み上げていくから、どんな時でも大きくミスをしないタイプだ。
僕は手をパンパンと叩いて、皆の視線を集めた。あらかじめ用意しておいた紙の束をドンと皆の机に置く。
「さぁ、ちゃんと準備してきたんだ。こっちはラナンの為の対策問題。今回のレーミラス戦術理論や、マラサフ戦術理論は絶対出るから、教科書のこの章は確実に丸覚えしなきゃいけないよ」
ラナンは抜群に実技は出来る。基礎的な身体能力が高くて、剣術体術、何をやらせても一年生の中では一番だ。ただ本人も分かってるように真っ直ぐな性格なのはいいけれど、あんまり深く考えずに本能だけで勉強もやっちゃおうとするからいけない。
僕はよりよい冬の休みを勝ち取る為に、前回の試験の後から、ラナンの勉強の進捗には目を光らせてきた。理解できてなさそうな時には解説をし、間違えがあった時にはどうして間違えてしまったのかを説明した。
「ぎゃっ!アランおまえ全然優しくないぞ。俺赤点さえ取らなきゃいんだけど!」
「僕が優しい訳ないじゃないか。基本的に私利私欲の塊だから。赤点で罰則とかもう絶対勘弁だからな。みんなから笑いものにされながら行軍1時間、腕立て千回とか死んでも嫌だし」
僕は屈辱的な罰則のひとときを思い出し、また密かにダメージを受けた。身に染みる木枯らしが吹き荒ぶ中、ぬくぬくと寮の窓にへばりついて僕たちを見ている生徒たち。僕は振り切る様に頭を振った。
ラナンはそんな僕の内心なんて毛ほども気にかけず、能天気な顔をしている。そんなラナンは実はやれば出来るのだ。僕はこの数ヶ月で確信している。今までは勉強のやり方が不味かっただけで、ラナンは今回かなりいい線いくと思う。
そろりとリックが椅子から立ち上がるのを、僕は横目で捉える。
「あぁぁ!お腹がキュルキュルしてるから僕ちょっとトイレ行ってくるね」
逃げようとするリックの首根っこを僕の右腕が捕まえる。今のタイミングでトイレとかあり得ないだろう。
「あ、リック逃げちゃいけないよ。前回の試験、君が算術と兵站論で赤点とっていたことを僕は1日たりとも忘れていないんだよ。これ出来るまで今日は寝ちゃいけないよ。試験は一週間前から準備するものじゃないんだ。日々の積み重ねが大事なんだよ。僕試験まで毎日復習する為の君専用の問題集まで作っちゃったんだ。これで赤点絶対回避だよ」
リックは語学が得意な癖に基礎科目の算術と選択科目の兵站論を落としていた。基本的に得意不得意がはっきり分かれているタイプだ。というか実は勉強をコツコツするのが苦手なんだと思う。好きな科目はすぐに覚えられるけど、毎日復習が必要な科目がからっきしだ。なので、僕は今回リックの為に着実に点数が積み上がる計画を立てていた。
「助けてマルトぉ〜」
リックはマルトに袖にしがみつくが、マルトはリックのまだ丸さの残る頬を指で引っ張った。
「もう大人しく勉強しときなよ。僕も罰則は嫌だからなぁ〜。それに学期末の試験を落とすと、学期末パーティに参加出来なくなるわけで、アランはそれが嫌なんだろ?」
マルトの目くばせに微笑みで返す。
学期末にアナレイス騎官学校では大規模なパーティが行われる。学校内にあるホールは、卒業生や在校生、王立の楽団や王都の有名シェフも呼んでそれはそれは盛大に開催される。
在校生は付き添いを2名まで呼ぶことが出来るけど、僕は今回サラを招待する予定だ。
ヴァージェンス様にも招待したかったけど、秋の終わりに足を悪くしたようで長距離の移動が難しくなっているらしい。ジョシュアには会いたかったけど、ヴァージェンス様の近くにいてもらいたいから、招待の手紙を出すのは我慢した。パーティ後に長期休暇があるから、そこで一度帰省しようと思う。
パーティは三日間に渡って開催されるけど、サラは最終日の昼の部に招待しようと思っている。夜の部の方が盛り上がるそうだけど、こんな飢えた獣の巣みたいな場所に夜まで出席させて、何かあっても困る。普段禁欲的な生活を余儀なくされている分、思春期の男を野に放ったら、あっという間に犠牲になるウサギが出てくるに違いない。できる限りサラの近くを離れないようにするにしても心配だ。
やっと問題に向き合い始めたはずのラナンは、またひょこりと机から立ち上がる。おいこら集中しろ。
「あ〜、リンドークの伯爵令嬢か!アランせっせと手紙書いてるもんなぁ〜」
「余計な事は考えずにやるべきことをしていこうか」
僕は不敵に笑うと、誰も逃がさないよう扉の前に仁王立ちになった。さぁ、楽しい楽しい勉強時間の始まりだ。
皆が手元に視線を落としたのを確認して、僕は彼らに背を向けて、便箋を取り出した。
サラとは相変わらず文通は続けている。
月に一回程度だけど、彼女からの手紙は、僕に南部の空気を感じさせてくれる。サラとの手紙のやりとりは面白いのだ。
彼女は独特の感性を持っていると思うけど、本人は至って大真面目に書いてあるもんだから、余計に面白い。
この前も、
「この世界で、絶対的に正しいものってあると思う?世の中は複雑だわ。ある人が正しいと思ったことでも、違う人にとっては正しくないことって往々にしてあるわよね。とはいえ自分なりの正しさを考えていくことって生きる上でとても大切だと思うの。
そして私は一つ正しい事を考えついたわ。私にとって、リンゴのタルトを一カ月に一回色々と頑張ったご褒美として食べることは正しいことだわ。毎日だと体に悪そうだから、体にとっては正しくないことになってしまうけど、一カ月に一回の頻度だとちょうどイイと思うの。そして何より私はリンゴのタルトを食べるととっても幸せになれるわ。
アルにとって正しい事って何かしら。また教えてね」なんて書いていた。
サラにとって正しい事が一カ月に一度リンゴのタルトを食べる事というのは―なんだかとても平和だ。誰しもが正しいと思える事というのは、案外身近な、とるにたらない些細な事なのかもしれない。
くるくると変わる表情に、花の様に咲き綻ぶ笑顔。生き生きとした若草色の瞳は、きらきらとまわりの光を集める。時々眩し過ぎて目を逸らしたくなる程だ。
感情を感じたままに表せるということは、自分を害するモノの無い安全な場所で育ったから出来る事だ。
そんなサラからは、持てる者特有の傲慢さを感じて、最初はとても苦手だった。当たり前のようににヴァージェンス様の腕にぶら下がり、ぽんぽんと軽やかに話をする姿を見る度に、自分との違いをまざまざと見せられるようで不快だった。
でもどうしてだろう。自分に欠けたモノを当たり前の顔をして持っているサラのことを、疎ましく思いながらも何故か目が離せなかった。
距離をとろうとしても、僕が羨む素敵なものを両手いっぱいに抱えて走ってくるんだ。そして絶対に僕が不快に思う線は越えて来ない。
そうやって、いつしか彼女の不在に寂しさを感じる程度には僕の日常に馴染んでしまった。
鉛筆をクルリと指で回しながら返事を考える。正しいもの…か。あまり考えたくない。僕がヴァージェンス様に引き取られる前にやっていた事は、きっと大多数の良識ある人々にとっては眉をひそめてしまうようなことだろう。
だが僕が生き延びる為には全て必要だったことだ。もっと真っ当な仕事で、少ないながらも金銭を地道に得ることが正しかったとしても、学もツテも無い自分が出来る事は限られていた。無知と言うのは怖いことだ。無知な人間には選択肢がそもそも見えないから。あの頃の自分はより強い流れに押し流されるようにしか生きてはいけなかった。後悔はしていないが、身近な人たちに、あんな事をしていた自分は知られたくない。
今ではあの頃の事は全然違う世界のように思える。むせ返る様な香水の匂いも、饐えた体臭も、頭が痺れる様な快楽も。腐臭漂うあの世界から抜け出すことが出来て本当に良かったと思うと同時に、自分がここにいていいのか酷く戸惑うこともある。
「うへぇ〜!アランー!ここわかんねー!」
情けない声に振り返ると、潰れたカエルみたいに机にへばりついているラナンが見えた。僕はやれやれと思いながら立ち上がった。
「どこ?これ基礎問題しか入れてなかったはずだけど?」
過去の事に思い悩むこともあるけれど、この賑やかな同室者達は深刻になる暇も作らせてくれない。
「アラン〜。俺に対してハードル上げすぎてないか?!」
「僕ラナンの可能性を信じてるからね!」
「僕もー!」
「僕もー!」
マルトとリックが、アランディルの言葉に乗っかってくる。
「お前ら他人事だと思って〜」
恨めしげに僕らを見るラナンが可笑しくて、笑ってしまう。その日も消灯まで勉強したり、ふざけたりと忙しい時間を過ごした。
こんな他愛の無い事で笑える毎日が、かけがえの無いないものだったと知るのは、いつだって失くしてしまった後だということをその当時の僕は考えもしていなかった。




