1 出会い
昨晩まで降り続いた雨は止んだようだ。この時期特有の明るい水色の空に白い雲が点々と浮いているのが四角い車窓から見える。ぐんぐんと春めいてきて、少し開けた窓からは気持ちの良い風と森の匂いが入ってきた。
いつもならうんざりする馬車での移動も、今日ばかりは何もかもがサラの心を浮き立たせている。
大好きなサラのお祖父様であるヴァージェンス・イグルートンが一年ぶりに屋敷に帰ってきたのだ。
ヴァージェンスは少し変わり者で、昔から考古学や文学、はては人々の習俗や祭祀などを調べるのが好きで、長男に早々に爵位や領地経営を任せてからは、一年のほとんどを実地調査という名目で護衛騎士と共にフラフラとしているのである。
その成果は一応は認められていて、時折王都の学術院に研究成果をまとめたものを納めたりしているそうだ。
なので屋敷にいる間はカリカリと何かを書いているか、取り寄せた本や古くて薄汚れたガラクタをうっとりと眺めて過ごしている。
そんな姿に娘であるお母様は呆れ顔だが、胸がわくわくするようなお話や知らない土地のことを面白おかしく語ってくれるヴァージェンスと過ごすことをサラはことのほか好んでいた。
ヴァージェンス自身もコロコロと子犬のように纏わりついて話しをねだるサラのことを〝知りたがり屋の子猫ちゃん〝と言って可愛がっていたのだ。
ヴァージェンスの娘であるサラの母は隣の領地の伯爵の元に嫁いだので、半日も馬車を走らせたら里帰りができる。社交シーズンになり父母が王都の屋敷に向かうと、サラと兄は祖父の屋敷に預けられてそこで過ごした。
サラが5歳の時に祖母のミレーヌが亡くなってからは、長くても三月程しか屋敷を空けなかったのだが、今回は特別だった。予定では三月と伝えられていたにもかかわらず、予定は延びに延びて半年を超えた。さらには2ヶ月前から定期的にやりとりしていた便りが届かなくなり、音信不通となっていた。最後の便りが出された場所は、流行り病が出たとの噂もあり、楽観的な母でさえも祖父の安否を気遣っていた。
帰宅の一報が伝えられたのは2日前だ。とるものもとりあえず母と支度をして今朝ご飯を食べてすぐに馬車に飛び乗ったのだ。
「見て!お母様。もうすっかり春だわ!
お祖父様のお屋敷に着いたら、女神様の家で春の儀式もしないと!前に女神様の家をお掃除してから大分時間が経ってるし、どうなってるかしら。女神様もお祖父様がお帰りになってきっと喜んでくださるわね!」
「そうね。お屋敷の主人がいないとやっぱり活気がなくて寂しい雰囲気ですからね」
ヴァージェンスが留守の間も、サラ親子は時折訪れて、屋敷の様子を見に来るようにしている。特に〝女神様の家〟は祖母が亡くなってからは娘である母とサラとで世話をするようになった。
このあたりでは、女神ナディヴァーチェを祀る〝女神様の家〟が村や町の要所に点在している。ナディヴァーチェは別名春の女神と呼ばれることから、1年のうち春の訪れを祝う春訪祭が盛大に行われるのだ。
基本的に〝女神様の家〟の管理は女性たちの仕事で、成人女性の脛位の大きさの石造りの家に供物を捧げたり、儀式を執り行ったりする。
ただしイグルートン家の屋敷にあるものは少し特別だった。何代か前にこの国の王女がイグルートン家に降嫁した時に作られたもので、造りも重厚で、衣装箪笥程の大きさがある。
また細々とした決まり事があり、それをずっとその家に生まれた女性たちが口伝で伝えてきたのだ。
祖母の次は、長男マクスウェルの伴侶に伝えられる予定だったが、諸事情で娘であるサラの母に伝えられることになった。マクスウェルに嫁いで来た遠縁の子爵令嬢は新しいものが好きで、古くから伝わる因習なんてカビ臭いといって毛嫌いするし、儀式はすっぽかして街の祭りの方に参加するしで、昔ながらの伝統や慣習を大事にする祖父母との相性は最悪だったようだ。その為長男夫婦は同居せず、近くに新しく屋敷を構えてそこに住むことにしてしまった。爵位を継いでからは息子達の教育の為と言ってほぼ王都の別邸に住んでいるようだ。そのせいで用事がある時以外には交流がなくなってしまったのだ。
祖母もさすがに娘が嫁いでイグルートン家から籍が外れてしまったこともあり、もう自分の代でこの女神様の家の管理はお終いになるのだと考えていたようだ。しかしサラの力を知ってからは、出来る限りこの孫娘に口伝を伝えてきた。さらには冗談めかして「私たちが亡くなったらこの屋敷をあげるわ」とまで言っていたのだ。
◇◆◇
「お祖父様お帰りなさいっ!!」
玄関のドアを開けた途端、サラは萌黄色の裾をはためかせながら、久しぶりに会う祖父の胸に飛び込んだ。旅によく出るヴァージェンスの身体は学者と言えどどっしりとしており、サラの身体をしっかりと抱きとめた。
「おやおや、なんてお転婆な子猫ちゃんなんだ。そんなに走ったら、スカートの中身が見えてしまうよ。そろそろ小さなレディになってるかと思ったのになぁ」
ヴァージェンスは顔をくちゃくちゃにしながら笑って、サラの頭を撫でてくれる。
「大好きなお祖父様にせっかく会えたのに静かになんてしてられないわ。今日のワンピースは新調してもらったばかりなのよ」
そう言ってサラは祖父に見せるようにクルリとまわった。祖父は眩しそうにサラを見ている。そんな姿に母のユーラディアは少し眉をひそめる。
「もう、本当にサラってば騒々しいんだから。お父様お帰りなさい。2ヶ月も音信不通だったから、本当に心配したのよ。お父様が向かった北の方では流行り病が猛威を奮ってたそうじゃないですか」
「そうそう。ユーラよ、その話はこちらでゆっくり話そうじゃないか。サラにもお土産を沢山買ってきたし、珍しいお菓子もあるんだよ。そして、少し紹介したい子がいるんだ」
祖父と一緒に入った客間には一人の男の子がいた。
身長はサラより低いだろうか。その子はひどく緊張しているようで、口元は真一文字に結んでいる。意志の強そうな淡い青色の目は、目尻がやや垂れ気味で、棒のようにほっそりとした身体と抜けるような白い肌とも相まって、より大きく印象的に見えた。髪の色はこのあたりでは見たことがない程黒く、無造作に後ろで一つに束ねている。
「養子として引き取ろうと思っている、アランディルだ。アルと呼んでやってくれ。ユーラの弟ってことになるが歳はサラと近いからな。仲良くしてやってくれ」
アランディルは私たちに向かって、礼をした。少しぎこちなく思えるが、やはり緊張しているのだろう。
「えっ!?お父様どういうことですか?」
「わーい!アル!私はサランディナ!サラって呼んで!あっちで一緒に遊びましょう!」
訝しげに瞳を細めてユーラは声を上げた。対して、サラは早速アルの手を握って扉に向かって駆け出した。
「ユーラ、大丈夫、今から説明するから。
サラ、アルもここには2日前に着いたばかりだから、庭を案内してやっておくれ。
そして、二人で春の女神様の儀式を行っておいで」
二人の後ろ姿に向かってヴァージェンスは声をかけた。
サラは手を引きながら小走りで廊下を駆け抜けていく。
握ったアルの手は骨ばっていて、頼り無さげだった。サラは念願の弟が出来たみたいで、嬉しくてたまらず、どうしても顔がにやけてしまう。
庭に続く扉に手を掛けた所でアルの方を振り向いた所で、サラは目を見開いた。そこには真っ青な顔のアルが胸を押さえながら苦しげにハァハァと息をしていたからだ。
「アル!どうしたの?!ごめんなさい、私全然アルの方を見ないで走っちゃって!」
「ハァッ…、だ…だいじょうぶです。ちょっと座ってもいいですか」
息苦しいから、大きな青い目が潤んでしまっている。そして言葉にこの辺りでは聞かない訛りがあることにサラは気づいた。
「ここを出た所にベンチがあるの。そこまで歩ける?」
頷くアルをみて、サラは手を腕に絡ませて、アルを支えるように歩き始めた。扉を抜けたすぐ目の前に見えるベンチに二人で座る。
アルは座ると少し楽になったみたいで、息が調いはじめた。
「ごめんなさい。もしかして、身体のどこかが悪いの?病気でもあるの?」
「違う。この前まで、少し体調を崩してただけで、いつもこういうわけじゃない」
その言葉のどこかが引っかかったのか、瞳にちらりと激情が見えたと思うと、目を伏せ吐き捨てるように言った。しかし初っ端からこの対応は拙いと思ったからか、思わず波立った感情に戸惑ったからか、ちょっと気まずいような顔をしてこちらを見た。
サラはそれには気づかないフリをして、ベンチから立ち上がった。学校の同級生の男の子もよく分からないタイミングで機嫌を損ねたり暴言を吐いたりするものだからだ。
「そうなの。病み上がりなのね。別に私にも今みたいに喋っていいのよ。確かに貴族の子ども同士だと、敬語で喋り合ったりすることもあるけど、面倒じゃない?私も学校では平民の子たちと一緒に普通に喋ってるもの」
アルは視線を逸らしたまま、分かったと呟いた。
サラは片眉を上げて腰に両手を当てると、困った子ねぇというようにため息を一つついた。
「とりあえず女神様のお庭まで行くわよ。ゆっくり歩くからついてきて」
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