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花の標べ  作者: 一ノ関珠世
第一章
16/30

15 巣立ち2

 夢の世界から意識が浮上する。まだ日が昇る前だ。この時間に起きる事がすっかり身体に染みついている。

 

 アルはベッドの縁に身体を起こし、水差しから水を飲んだ。ややぬるい水が、胃の腑に沁み、乾いた身体を潤していく。


 普段なら軽く屋敷の周りを走り、準備運動を行った後、ジョシュアと剣術の稽古をする。今日は移動が多くなるので稽古は休みだが、少し身体を動かしておこうと思い、身支度を始めた。窓を開けると、夜の名残の冷えた空気が入ってくる。水差しの水を(たらい)に入れ顔を洗う。いつもの様に長くなった髪を編もうと思ったが、昨日サラと約束したことを思い出し、軽く縛るだけにする。


 稽古の時に着る服を手早く身に付け、外に出た。東の空が薄っすらと暁色に染まり、朝が始まった。深呼吸をすると毎朝の日課を頭に浮かべた。


 この2年程は目標が出来て、ただひたすらに精進した日々だった。一つ一つ課題を達成し、成長している手応えを感じた。


 ジョシュアからは剣や弓だけでなく、ムシュケート銃や狩の手ほどきも受けた。王都では最近使われ始めたからと銃も教えてもらったが、まだまだ高価なので、本格的に練習するのは学校ですることになっている。

 戦場で生き抜くには時として食糧も現地調達しなければならない事もあるからと、近くの森で食べられる木の実や草、簡単なウサギ捕り用の罠の作り方に捌き方、野営地の探し方まで教えてくれた。

 

 木々の間を歩きながらジョシュアは「これは全て生きることを諦めないようにする知恵だ。しっかり覚えておけよ。とりあえず知恵と森と豊かな大地さえあればどこでも生きていけるからな」と話してくれた。


 自分を導いてくれるジョシュアの背は広くて、剣や弓の扱い方を教えてくれる腕は逞しくて、深くて薄暗い森にいてもアルは安心して大人の男によって守られる子どもでいられた。


 ヴァージェンス様が教えてくれる地理も歴史も面白かった。今までの自分はびっくりするほど小さな世界で完結していたことが分かる。


 イグルートン家の所有する地図を眺めてみると、フィオレント王国だけでもとても広大で、名前も知らなかった国々やまだ名も知られていない大陸がある可能性すらあるという。


 風土も違えば文化も違い、そこに生きる人々の気性もまた違ってくる。遥か昔から続く人の営みの中で、より良き方向に変わっていこうとする人々の意志が感じられることもあれば、自分の欲を制御できず周りを食い散らかしながら堕ちてゆくこともある。


 そういった人々の悲喜交交(ひきこもごも)が息づく歴史も地方の小さな街育ちのアルにとって世界を更に広げてくれる学びであった。


 ヴァージェンス様は主に王都で繰り広げられる君主による歴史だけでなく、市井の民による意志も忘れてはならないと教えてくれた。君主が替わっても続いてゆく民の生活の中から時代を動かす大きなうねりが出てくることもあるからと。


この二人から貰ったものはどれほど大きいか。





そうして、僕は巣立ちの時を迎える。


 



 一頻り身体を動かして部屋に戻る。噴き出す汗で肌がベタベタだ。貼りついた布地が不快で、サラが来る前に上半身だけでも着替えようと、近くの椅子に脱いだ上着を無造作に放る。


 盥に浸した手巾で軽く身体を拭く。少し涼を感じて、一息ついた。小走りの忙しない足音が近づいてくるのが聞こえたので、手巾を盥に戻し上衣に手を伸ばす。


 案の定、ギッと小さく軋む音とともに扉が開かれた。

 


「わわわ。着替えてたのね。ごめんなさい」


 アルはすっとサラの視線を遮るように背を向け、半袖の上衣を羽織る。普段は見ることのできない日に焼けていない白い肌がちらりと見えてサラはどきりとした。浮き出た肩甲骨に薄っすらと纏った筋肉の様が美しくて(ほう)けたように見惚れてしまう。


「いいよ。どーせサラだし。でも僕以外にノック無しで扉を開けたら普通は怒られるんだからね。気をつけてよね」


「はーい。アル以外はこんなことしないわ。もう小さな淑女ですのよ」


 鈍い輝きを見せる貝釦(かいボタン)をとめていきながらアルは振り返った。ワンピースの裾をちょんと摘まみ、ちょっと気取った様子で小首を傾げるサラが見えた。自信満々なその姿が、子犬が獲物を見せびらかしに来ているようで(いとけな)い愛くるしさを覚える。


「ヒトの着替えを覗き見る淑女ですか。とっても奥ゆかしいことですね」


 アルはサラを揶揄いながら口元に手を当てて可笑しそうに笑う。対するサラは不服そうに唇を尖らせた。


「もう本当にすいませんでしたー。楽しそうで何よりですけど、アルってば笑いすぎよ」


 すぐに膨れっ面になるサラの頬をアルはつつく。くるくると変わるサラの顔を見ていると自然とアルもつられてしまう。


「さささ、冗談はいいからここに座ってくれます?チャチャっと編んであげるから」


 サラの言葉に素直に頷いてアルは座った。サラは何かに気づいたように目を大きく開くとアルの顔を両手で挟んだ。



「アルぅぅうう!昨日はちゃんと寝たの?貴方の目の下にうっすらクマが住んでるように見えるんだけど?」


「クマの引越しに付き合った覚えはないから、サラの気のせいだな、きっと」


「昨日は何時まで勉強してたのよ?いっぱい寝ないと大きくなれないわよ」


 身長の事を言われてちょっと気に触ったのか、アルは口をへの字に曲げてサラの鼻をつまんだ。

 

「五月蠅いー。ちゃんと大きくなってるし、ちゃんと寝てるよ。それに今日からずっと馬車に乗るんだから大丈夫だよ。サラは心配しすぎ」


 顔を後ろにのけぞらせてサラはアルの手から逃げる。


「鼻が潰れるー!もうっ図星だとすぐ私の鼻をつまむんだから!」


「こんな摘みやすいところにあるのが悪い」


「将来鼻ぺちゃになったら、アルを恨むからっ!」


「ふふ。じゃあ、そんなに心配しなけりゃいいのさ」


「………だってアルって頑張りすぎちゃうんだもの。はぁ……どーせ何度言っても無駄なんでしょうけど……。これ一度外すわね。」


 アルが軽く一つに結んでいた髪紐を解いて、汗で湿った髪を指で梳く。


 アルはここまで来るのに様々な苦難もあったし、努力をしている姿も近くで見てきた。だからこそサラはアルの前途が素晴らしいものになるようにと祈るような気持ちになる。


 大事な大事なアルがこれから何があっても挫けず、自分の道を自信を持って歩めるように。サラは出発前の最後に自分がアルに対して出来ることだと思って心を込めて唱えた。



「絡まれ絡まれ

愛や希望


アルの髪に編まれるように


伸びろよ伸びろ

健やかに


末永く幸せが続くように」



 いつもよりもふうわりと大きくうねるような光がアルの髪に巻きついていく。いつもが糸のような光だとすると、今回のは首巻きくらいの印象だ。


――ん?



 手を開いたり閉じたりしてみる。指先に感じる暖かさはポカポカと掌全体に広がっている。


「あれ?何だか今日はいつもよりもあったかい感じがしたけど」


「私も同じこと思った。後ろから見ると、今日は光り方もちょっと豪華だったよ。よく分からないけど、私がいっぱいアルの事を祈ったからかなぁ?」


 ふふふと笑うサラにアルはちょっと驚いたような顔をする。

アルはいつもそうだ。アルの事を思って皆はいろいろな事を心配したり、便宜を図ったりすると、何だか戸惑う様な素振りを見せる。その姿はまるで分相応の物ではないんじゃないかと思っているみたいにサラには見える。


 サラはそれを見るたびにもっと色んなことをしっかりと伝えないと、アルが風に拐われてしまいそうな気持ちになるのだ。アルはしっかりと繋ぎ止めないと、糸が千切れた凧みたいに空に舞い上がっちゃうんじゃないかと思える時がある。


「へぇ……。ありがとう、サラ。頑張れそうな気がする」


 アルはくしゃりと笑うと、腕を伸ばしてサラの頭を撫でた。サラも嬉しくなって満面の笑みになる。



「ふふ。アル、お友達も沢山作るのよ!お友達は人生の宝ってお父様も言ってたもの。私より仲のいい子が出来るのはちょっと面白くないけど……」


「ははは、そこは面白くないんだ。サラだって僕以外にも友達が沢山いるじゃないか」


「そうだけど……。男の子の世界って女の子からするとちょっと遠く感じることってあるのよ」


「そうなの?僕からしたら女の子もそうだけどね」


 アルはここに来てから、同じ年頃の少年たちと遊んでいる様子は無い。近辺の貴族の子どもが集まっての親睦会も何度かあったが、一度もアルは出席をしなかった。アルとの会話にものぼったことがないので、社交経験はかなり少ないのではないだろうかとサラは先ほど編んで束ねた髪の先からアルの(うなじ)の生え際を見ながら思った。



 アルは壁にかかる鏡で身嗜みを確認して、満足そうにすると、鏡に映るサラに声をかけた。


「さぁ、サラ。そろそろ朝食にしよう」





 出発前、皆で椅子に静かに座って道の神ボグダローギに道中の安全を祈る。道中で何か困ったことがあっても助けてくれるように、体調を崩すことなく目的地に着けるようにと。

 ボグダローギは筋骨隆々で世界の道を歩き続け、困った旅人には助言や加護を与えてくれる神だ。そしてこの祈りの時間は旅立つ者と残される者が最後の別れを惜しむ時間になる。


 今日から主要な街に立ち寄り宿をとりながら、一週間程かけて王都まで行くことになる。


 それぞれの胸に去来する思いは様々であれど、ヴァージェンスの音頭で最後の乾杯をして、大人は葡萄酒を、子どもは葡萄水を飲み干した。飲み干した杯を置くヴァージェンスの横顔には、我が子が巣立ちの時を迎えた親の誇らしさと寂しさが浮かんでいた。


 その後、馬車が横付けされている屋敷の門まで皆で連れ立って歩く。すっきりと晴れた青空が見えており、今日も暑くなりそうだ。


 馬車の前まで来ると、アルは手に持っていた騎官学校生の真新しい制帽を被って敬礼の姿勢をとる。二本の交差する剣に抱き冠桂樹の徽章が陽の光を反射してキラリと光った。


「行ってまいります」


 制帽の影からのぞくはにかんだ顔には照れが滲んでいる。制服はもう荷物と一緒に寮へ送っているので、アルが着ているのは飾り気のない半袖のシャツとズボンだ。


 そして、それぞれに抱擁を交わし合う。サラはアルにぎゅっと抱きつくと、明るい声で言った。



「頑張ってね、アル!手紙も書くから!」


 その声にサラの母のユーラディアも続く。彼女はサラと離れたアルの両手を握った。


「行ってらっしゃい、アル。身体に気をつけて」


 

 ユーラディアはヴァージェンスに向き直るといたわりを込めた声で告げた。


「お父様、お兄様やそのご家族にも宜しく伝えてね」


 アルは振り返り、朝陽に照らされたイグルートン邸を仰ぎ見た。使用人達も門の内側で整列しており、自分の門出を祝ってくれている。どの顔も自分に対する好意に溢れており、アルは感謝を込めて微笑んだ。

 

 3人が乗り込んだ馬車が刈り取られた麦畑の真ん中を通る太い一本道を走り始める。


 地平線に豆粒みたいに小さくなるまでサラは手を振り、見送った。

 

 

 

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