9 静かな生活
ヴァージェンス様との生活は一言で言うと「静」だ。今まで住んでいた場所には沢山の音が溢れていたが、ここはとても静かで、穏やかで、ただただ優しい。
ここで生活しているうちにがりがりに痩せた枝のような腕にもどんどん肉が付いてきた。鏡で自分の顔を見る度に、頬はふっくらとしてきたように思う。そんな僕の変化を、この屋敷で関わる全ての人が喜んでくれる。
執事のドゥルーヴは眼鏡の奥の目を細めながら、「頬の血色がとても良くなりましたね。ここにいらっしゃった時と比べると本当に健やかなご様子になっております。アランディル様がいるだけで、この屋敷にも活気が戻ってくるような気持ちがいたします。何か足りないものがあれば、私にお言いつけください」と穏やかな声音で話してくれた。
ヴァージェンス様の護衛であるカランギルスさんは、僕の髪をくしゃっと撫でながら、
「背もちっとは伸びてきたんじゃないか?もう少ししたら、身体も鍛えるといいぞ。剣なら基本的なことは俺が教えてやるよ」
と言ってくれた。
庭師のマリックさんは、首に掛けた手拭いで顔を拭いながら、
「そこの木にブランコを作りましたよ。ここの屋敷に子どもがいなくなってからは、朽ちるばかりなので、外していたんです。アランディル様がいらっしゃったので遊んで下さるかと思ってまた作ってみました。是非乗ってみて下さいね」
と笑ってくれる。
厨房にいるナタリアおばさんは、大きな体を揺すりながら歩いてきて、
「今日の料理で嫌いな物はありませんでした?おやつは林檎の甘煮を入れたマフィンですよ。ヴァージェンス様と沢山食べて下さいね。ああ、やっと子どもらしい身体つきになってきましたねぇ。成長期なんですから食べたいものがあったら、このナタリアになんでも言って下さいよ」とどんと自分の胸を叩いている。
そんな時、僕はこんなふうに掛けてくれる言葉が嬉しくて、胸がいっぱいになってしまう。僕は心を込めて、一言「ありがとう」と言うことで精一杯だった。この屋敷では、僕は一番小さな子どもで、皆から庇護されるべき存在となっていた。
空っぽだった器に何かが一滴一滴と溜まっていく。ここにいれば、僕はその器を持ってその滴を受けているだけで良かった。
でも時々夜になると訳の分からない孤独や恐怖感が高まったり、嫌な夢を見たりして涙が止まらなくなる時がある。辛くて、辛くて、胸が締め付けられて消えてしまいたくなる。
ここに来てすぐの頃、怖い夢を見て夜中にふっと目が覚めた。黒い鱗に鈍く光を反射させる毒蛇が大きく身体をうねらせながら足から巻きついていく夢だ。その口に煌めく鋭い牙とこちらを射竦めるような目に僕は声も出すことが出来ずに怯えるしかない。首筋まで登ってきた蛇が鎌首を擡げたところで僕はやっと目が覚め、声を出すことができた。口内は渇き、股の所がじっとりと濡れていた。この歳でお漏らしをしてしまったことと、恐怖の余韻に混乱してしまって布団にかじりつきながら大泣きしてしまった。泣けば泣くほど仕舞い込んでいた嫌な記憶も、濁流のように渦を巻いて僕の頭をいっぱいにしていく。
ヴァージェンス様は壁一つ隔てた隣で寝ているから、僕の泣き声が聞こえたんだろう。二つの部屋を繋ぐ扉からやってきてくれて、灯りを一つ付けると、涙が止まらない僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
お漏らししたことが分かるとヴァージェンス様を怒らせちゃうんじゃないかとか、失望させちゃうんじゃないかとか、もう大きいのに粗相をしてしまって恥ずかしいという気持ちが溢れてきて、身体がキュっと縮こまった。背中にヒヤッとしたものを感じる。気づけば僕は泣きながら「ごめんなさい」をうわ言のように繰り返し口にしていた。
ヴァージェンス様はそんな僕の背中を優しく撫でながら、問いかけた。
「どうしたんだい?辛い夢を見たのかな?ああ、少し寝汗をかいてしまったようだから、着替えようか。手伝ってあげよう」
そう言って、ワードローブから着替えを持ってきてくれた。着替えを手伝ってもらうなんて小さな子どもみたいだと思いながら、ヴァージェンス様のなすがままに腕を服から引き抜いたり、下から留められていくボタンを見ていた。
ヴァージェンス様はお漏らしに気付いていたと思うけれど、寝汗のせいにしてくれた。たぶん僕の自尊心に配慮してくれたんだと思う。
「こちらの部屋においで。今日は私のベッドで一緒に寝ようか」
その言葉に身体が反射的にビクリとしたけど、ヴァージェンス様は大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせた。
ヴァージェンス様の少しカサカサした大きな手が僕の手を引いて隣の部屋まで連れていってくれた。
ベッドに横になってからは、何度も頭を撫でてくれた。そして、「少し気分を変える為に、私が小さな頃にお祖母様から聞いたとっておきの話をしてあげよう」と言って、妖精が子どもを助けてくれる話をしてくれた。
僕はその声を聞きながらヴァージェンス様の手を握り締めて、ズルズルと引き出された嫌な記憶は小さく折り畳んで心の中の小さな箱に入れた。もう思い出しませんように。僕は祈るような気持ちでその箱に封をする。
ヴァージェンス様にしがみつくように抱きついていると泣きたくなる程の安堵感を感じて、いつしか眠りについていた。
朝になると、ヴァージェンス様は「サラのように光は出ないんだけどね」とちょっと残念そうに言いながら、悪夢を払うおまじないもしてくれた。確かにヴァージェンス様がやっても光は出なかったけど、そうやって僕に対して心を砕いてくれることが嬉しかった。
◆
ヴァージェンス様の屋敷に住み始めて二週間ほど経った。
勉強はやればやる程面白くてしょうがなかった。知らないことを一つ知る度にどんどんと自分の世界が広がっていく。そして出来る事が増えればその分だけここに長く置いてもらえる気がして、さらに精が出た。
ヴァージェンス様に学校に通うか、家庭教師を呼ぶかどちらがいいかと聞かれ、僕は家庭教師を選んだ。僕は今まで学校に通っていなかったから、僕のペースで進めることができるところがいい。そして学校に行くなら寮に入らなければならない。僕はまだヴァージェンス様の近くにいたかった。
家庭教師のメアリ先生との授業は平日の午前中に行われる。メアリ先生は、近くに住んでいる未亡人でヴァージェンス様のお知り合いだそうだ。
髪の毛は元は金髪だっただろうけど、かなり白いモノが混じっていて、パッと見はすごく淡い色に見える。そして、枝の様に細くまっすぐな身体つきをしていて、銀のフレームの眼鏡をかけており、初対面ではきつい印象に感じた。しかし話してみるととても気さくでユーモアのある女性だった。
昼食は、メアリ先生とマナーの実習も兼ねて一緒にとる。それから、鐘一つ分だけマナーの授業だ。
その後は予習復習や宿題をしたり、図書室で本を読んで過ごしていた。ヴァージェンス様は夜寝る前に一つ物語を読んでくれるが、「文字の勉強にもなるから、自分でも簡単なものから読んでいくといい」と言われたので、時間の許す限り読んでいる。
3時になると、ヴァージェンス様とお茶をする。とても嬉しいけれど少し緊張する。メアリ先生とのマナー講座を思い返しながら、出来る限り慎重に、指先まで神経を巡らせ、目の前のマフィンを一口大に割って口に運ぶ。
「アル、君はとても筋がいいとメアリ先生も仰っていたよ。だから、少しは遊んでもいいんだよ。そんなにも根を詰めたらいずれ折れてしまいそうだ。あぁそうか……ここには遊び相手がいなくて退屈かな」
その後に、「他の子達がいる寮付きの学校に入ってみるかい?」と続くんじゃないかと僕は無性に不安になった。
「いいえ。僕はここの生活が好きです。このままここで勉強したいです」
僕はヴァージェンス様を遮るように言った。膝の上に揃えて置いた手に力が入る。
僕の剣幕に少し驚いたのかヴァージェンス様は少し目を見開いた。そしてゆっくりと諭すように言葉が続く。
「アルはちょっと真面目すぎるね。勉強ももちろん大事だが、子どもは遊ぶことも仕事だからしっかり遊びなさい。あまり焦って大人にならなくてもいいんだ。ちゃんと遊ぶべき時に遊んでおかないとつまらない大人になってしまうよ」
「はい」
言外に責められたように感じて、少し落ち込む。僕はヴァージェンス様の方を見ずに皿にこぼれているマフィンの粉を見ながら返事をした。
ここには僕がやらなくてはならない仕事が本当に少なく、本でも読まないと、時間を持て余してしまう。その本を読むことも楽しんで読むのではなく切羽詰まるような、義務的に読んでいることがヴァージェンス様には伝わっていたのかもしれない。
最初は今までと同じように厨房や洗濯等を手伝おうとしたが、少し困った顔でやんわりと断られてしまった。「せっかくの自由時間なんですから、遊んでもいいんですよ」と言われたが、僕は「何でも好きに使っていい時間」というものに慣れていなかった。
ヴァージェンス様は僕の反応に少し苦笑して、立ち上がり、手を差し出して来た。
「さあ、おいで。こんなに天気がいいんだ。散歩にでかけようじゃないか」
ヴァージェンス様に手を引かれ屋敷の外に出た。
屋敷の門から近くの森まで続く、真っ直ぐで太い道を歩く。道の両側には青い麦畑が緑の絨毯のように広がっている。
天気は確かに悪くはない。上空は風が強いのか、雲が空の高い所で流れるように動いていて、時折太陽の光を陰らせる。その光と陰が麦畑に複雑な模様を投げかけ、踊るように動いてゆく。
歩きながら、僕はヴァージェンス様の真意が掴めなくって、困ってしまった。眉間に力が入ったまま、半歩後ろを歩く。
僕は何かを間違えてしまったように感じて、でもそれが何かが考えても分からなかった。改めて外で話すということが、よけいに不安を掻き立てた。
対してヴァージェンス様は楽しげに鼻唄まで歌っている。少し低いそのメロディは僕の聞いたことのないものだったが、目の前に広がる長閑な風景にはぴったりだった。
一曲終えて、ヴァージェンス様はおもむろに口を開いた。
「アルは何が好きかな?」
ポンと投げかけられた漠然とした問いに僕はまた困ってしまった。何故ならこの状況での〝正解〟が分からなかったからだ。
今までは大人からの問いには〝正解〟を無意識に探りながら答えていたけど、ここの人たちには何を返すのが〝正解〟なのか、分からない。あの場所とここでは前提とされる常識が違いすぎて、途方に暮れてしまう。
僕はヴァージェンス様の視線を痛い程に感じながら黙っていた。
「うーん。ちょっと問いを変えようかな。今のところ、アルはどんな仕事に就きたいかな。今の君なら、このまま勉強を頑張って王都で官僚になる為に貴官学校に行ってもいいし、騎士を目指して騎官学校に行ってもいい。もしくは商人になりたければ伝手を紹介してもいい」
ヴァージェンス様は笑いながらこちらを向いておどけるようにウインクを一つした。
僕は困惑がさらに深くなって、すがるように握った手に力が入ってしまう。
「ヴァージェンス様はどうしたらいいと思いますか。養子にしていただけた事は本当に感謝していて、その恩は返したいと思ってます。ヴァージェンス様のお役に立てるようになりたいです」
「おやおや。私は財産もそれなりに持っているし、後継ぎにも恵まれているんだよ。だから、君には何も求めることは無いんだ」
「そうですか」
何も求めていない、が期待する価値はないと言われたように感じて、少し傷ついた。
近くにあった木のベンチにヴァージェンス様と並んで座る。ヴァージェンス様はまた僕の頭に手を乗せた。僕はぐっと面を上げた。
「アル。私は君を何かに役立てようと思って養子にしたわけじゃないんだよ。きっかけは妻の遺言だったけどね。そうだなぁ…、君はまず自分を大事にすることから始めようか。そして君が好きだと思ったものを集めていこう」
僕は曖昧に頷いたが、自分を大事にするということはいまいちよく分からなかった。今だってすごく恵まれた状況にいることは分かっている。そこが何故僕の好きなものの話になるのかも分からない。
「私のことは嫌いじゃないかい?」
「はい」
ヴァージェンス様のことはもう嫌いだとか好きだとかの範疇を超えていた。今ヴァージェンス様に遠ざけられたら心が壊れてしまいそうだ。
「私も君が好きだよ。最初に目が合った時に何かしっくりくるような気がしたんだ。色々と大変な思いをしてきたと思うけれど、ここで君が人生に役立つ事を学んで幸せに生きていってくれたら嬉しい。親と言うものは子どもの幸せが1番の願いなんだ」
そう言ってヴァージェンス様は僕を抱きしめてくれた。
僕はそのヴァージェンス様の言葉を聞くと、何だか胸が締めつけられて、涙をこらえるので精一杯になってしまった。どうにか返事はしたけれど、苦しいくらいに気持ちが昂ぶってしまって、ヴァージェンス様の胸に顔を押し付けながら目をギュッと瞑った。




